自由と栄光を勝ち取った牢獄のライター

「ジョニーは戦場へ行った」
「トランボ ハリウッドが最も嫌った男」

- ジェームス・ダルトン・トランボ James Dalton Trunbo -

<赤狩りを生き抜いた男>
 人生、思い通りにならないのは仕方のないこと、どんなに目標を持って努力しても、運命のいたずらに人生を狂わされることは多々あることです。とはいえ、なぜ自分だけがこんな目にあわなければならないのか?そんな悲劇的な状況に追い込まれた人にはなんの慰めにもならないかもしれません。
 「赤狩り」という一時的な集団ヒステリーともいえる社会状況によって人生を狂わされたハリウッドの10人(実際にはブラック・リストに入れられた悲劇の映画人はもっと多いのですが・・・)は仕事も名誉も失い悲劇的な人生を歩まされることになりました。しかし、その「ハリウッド・テン」の中でただ一人、その努力と才能、友人たちの力によって、危機を乗り越えただけでなく映画人にとって最高の名誉ともいえるアカデミー脚本賞を2度も受賞した人物がいます。ダルトン・トランボです。
 アカデミー脚本賞を受賞した「ローマの休日」の脚本家がイアン・マクレラン・ハンターではなくダルトン・トランボだったことは、1993年初めて公式に明らかにされました。その後、やっと彼が関わった過去の作品の全貌が明らかになり、彼の作品リストはほぼ完成しました。1930年代から1970年代まで、彼が脚本を書いた作品を追いながら、その人生振り返ります。

<苦学生としての生い立ち>
 ジェームス・ダルトン・トランボ James Dalton Trunbo は、1905年12月9日コロラド州のモントローズに生まれています。父親は成功には恵まれなかったものの教師、養蜂家、農夫そして靴屋の店員などをしながらトランボを育てました。父母ともに読書好きだったことは彼の将来に大きな影響を与えることになりました。
 1908年、トランボ一家は同じコロラド州のグランド・ジャンクションという田舎町に引っ越します。その町での生活は、彼の心に深く刻み込まれ、後に彼が書くことになる西部劇などの作品に大きな影響を与えることになります。その町で高校生になった彼は、早くもその才能を発揮し始め、学業優秀なだけでなくアルバイトで地元の日刊紙「グランド・ジャンクション・センチネル」の記者として働いていました。
 1924年、彼はコロラド州立大学のボルダ―校に入学します。ところが、その後すぐに父親が職を失っただけでなく病気で働けなくなったため、学費を払えなくなった彼は大学を辞め、家族と共にカリフォルニアに移住。父母と二人の妹を養うためパン屋で働き始めることになります。
 1925年、クリスチャン・サイエンスの信者だった父親が病院での治療を拒んで命を落としてしまったため、彼はパン屋での仕事をしながら南カリフォルニア大学での勉強を再開します。そして、この頃すでに彼は作家として食べてゆく決意を定めていました。この時期のパン屋での厳しい生活は、それまでエリ―ト学生でしかなかった彼にブルーカラーとしての暮らしを体験させ、彼を共産党に入党させるきっかけとなりました。そして、彼が後にハリウッドから締め出された時期に、安い執筆料で仕事を自転車操業で続ける体力と精神力を身に着けることになりました。

<脚本家デビュー>
 彼はハリウッド・スペクテーター誌の編集者、記者、批評家として働いた後、ワーナー・ブラザース社で脚本家の仕事を得ることになりました。ただし、当時彼は映画の脚本書きを本業にする気はなく小説家を目指していて、最初の処女小説「エクリプス」の執事に集中。この作品はイギリスで出版されると、その後アメリカでも出版され、彼は作家として評価されることになります。とはいえ作家として食べてゆくのはまだ無理だったため、ある程度の定収を得るために彼はワーナー・ブラザースと7年間のライター契約を結びました。
 契約ライターとなった彼が所属したのはB級映画専門の製作グループで、そこで彼はヒット作のパクリ的な作品を次々に書く仕事に追われることになります。最初に彼の名前がクレジットされたのは、「ロード・ギャング Road Gang」(1936年)。この映画は、政界の不正を暴こうとした主人公が無実の罪で刑務所に入れられ、そこから大逆転に至るまでの物語。後の彼の人生を考えると象徴的な作品だったともいえます。そして、彼の人生を予見させる出来事がすぐに起きます。7年契約でワーナー入りした彼は、わずか1年で退社してしまうのです。それは労働組合に関する問題でした。
 1933年に創設された脚本家たちによる組合、映画脚本家ギルドに参加した彼は、団体のメンバーとして映画の脚本家にも小説家同様に著作権を認めるよう訴えていました。しかし、団体はこの時期に右派、左派に分裂。ワーナーはその右派グループの組合「映画脚本家連盟」しか認めず、それに反発した彼は自らワーナーを退社。コロンビアに移籍します。同じ時期、彼は同じ脚本家の女性クレオ・フィンチャーと恋におち1938年に結婚。すぐに彼はカリフォルニアの田舎に農場を購入し、そこで農場暮らしをしながら仕事をするようになります。彼はその時期からすでにハリウッドとは距離を置いた生活を始めていたといえます。とはいえ、まさか自分がハリウッドから完全に締め出されることになろうとは、彼はまだ思ってもいなかったはずです。

<B級映画のプロフェッショナル>
 彼はその後、RKOに移籍、そこでB級映画の脚本を次々に書き上げてゆきます。

「夜の逃亡者 Fugitive for a Night」(1938年)
(監)レスリー・グッドウィンズ(原)リチャード・ウォームサー(出)フランク・アルバートソン、エイドリアン・エイムス
 ハリウッドで付き人をしていた主人公が殺人事件に巻き込まれ、無実の罪を着せられてしまい恋人と逃走。事件を解決するというドラマ。
 この時期の彼の代表作とも言われます。主人公はハリウッドに幻滅し、ラストには映画の世界を去るという展開もまた暗示的です。

「A Man to Remember」(1938年)
(監)ガルソン・カニン(原)キャサリン・ハヴィランド=テイラー(出)グラヴィン・ベーツ、リー・ボーマン、ハーラン・ブリッグス
 ヨーロッパでの研究をのぞみながらもアメリカの田舎町で土地の医療を背負い込んでしまった医師の苦悩の人生を描いた人間ドラマ。政治家からの嫌がらせや町民との対立などを越えて、最後には人々に認められるという主人公の闘いもまた後の彼の人生をイメージさせます。
 この時期彼は仕事を順調にこなし、その合間に小説も執筆。そして書き上げられた一冊が後に彼が自ら監督して映画化することになる「ジョニーは銃を取った」です。

「帰還者5名 Five Came Back」(1939年)
(監)ジョン・ファロー(脚)DT、ナサニエル・ウエスト(名著「イナゴの日」の著者)(原)リチャード・キャロル(出)ルシール・ボウル、ウェンディ・バリー、ジョン・キャラダイン
 南米の首狩り族の住むジャングルに不時着してしまった飛行機の乗員たちのサバイバル・ストーリー。B級作品ではあっても、生き残りをかけた人々の間に生まれた小さな社会における民主主義について深く追求した評価の高い作品です。作家ナサニエル・ウエストによる大筋脚本をダルトン・トランボが構成して仕上げた作品。ナサニエル・ウエストもまたアルバイト的に映画の脚本を書いていたようです。(彼だけでなくスコット・フィッツジェラルドもレイモンド・チャンドラーも映画の脚本を書いてお金を稼ぐ時期がありました)

「Curtain Call」(1940年)
(監)フランク・ウッドラフ(原)ハワード・J・グリーン(出)フランク・フェイレン、ラルフ・フォーブス、トミー・ケリー
 RKO作品で初めて彼の名前がクレジットされた作品。一人の新米劇作家を中心にニューヨーク演劇界の内幕を描いたドタバタ喜劇。

<共産主義とDT>
 この時期、すでにアメリカでは共産主義思想が広がりをみせており、トランボもその影響を作品にのぞかせていました。しかし、当時、映画における脚本家の力は今よりずっと弱く、製作者たちは簡単に映画の内容を変えることが可能でした。トランボ自身、脚本家にできることは、左翼思想の普及とは考えていなかったようで、「左翼作家たちができる最良のことは、大衆映画の浸透で無関心を防ぐこと」と語っていました。

「恋愛手帖 Kitty Foyle : The Natural History of a Woman」(1940年)
(監)サム・ウッド(脚)ドナルド・オグデン、DT(原)クリストファー・モーリー(出)ジェームス・クレイブ、ジンジャー・ロジャース、デニス・モーガン
 主人公(ジンジャー・ロジャース)が秘書として働きながら恋愛経験を積み、未婚のまま妊娠したり、仕事に打ち込んだりしながら成長し、最後に良き男性と結ばれるという物語。当時としては進歩的な女性映画として高く評価された。ミュージカルスターだったジンジャー・ロジャースの一般映画デビュー作でもあり、この作品で彼女はいきなりアカデミー主演女優賞を受賞。トランボもアカデミー脚本賞に初めてノミネートされ、B級映画からA級への進出を約束されることになった。RKOでの作品はこれが最後となり、彼はフリーのライターとしてさらに実績を積むことになりました。

「Remarkable Andrew」(1942年)
(監)スチュアート・ホールデン(原)(脚)ダルトン・トランボ(出)ウィリアム・ホールデン、ブランドン・ハースト、エレン・ドリュー
 政治家の横領を発見した簿記係の青年がその事実を指摘したために仕事を追われ、その罪を着せられて逆に投獄されてしまいます。ところが留置場の中の彼の前にアンドリュー・ジャクソン大統領、ジョージ・ワシントン大統領、西部劇で有名なジェシー・ジェームスらの亡霊が現れ、彼を救い、事件を解決する助けをし始めます。自分自身の原作をもとに彼が脚本を書いた作品ということで、少々説教臭く、出来は今一つという意見もあります。当時の彼の考えがかなり描かれている作品といえます。

「ジョーという名の男 A Guy Named Joe」(1943年)
(監)ヴィクター・フレミング(脚)ダルトン・トランボ、フレデリック・ブレナン(原)デヴィッド・ボエム、チャンドラー・スプラーグ(出)スペンサー・トレイシー、ライオネル・バリモア、ワード・ボンド
 1989年スティーブン・スピルバーグが「オールウェイズ」としてリメイクした作品です。
「空では、ほら、みんな独りぼっちなんだ、わかるかい?自分自身と機体と空だけさ。・・・僕はその中を海で泳ぎ回るイルカのように顔を出したり入れたりするんだ。それから自分にこう言うのさ。『うわあ、これこそ、人間が生きているのを唯一感じられる瞬間だ。人間が自由でいれれる唯一の時間だ』ってね。」

 第二次世界大戦で活躍した戦闘機のパイロットが戦闘中に死亡し、その夜、幽霊となって妻の前に現れ、彼女を見守りながら、同じパイロットを愛するようになった彼女の恋を認めるまでを描いたファンタジー作品。
 後の「ジョニーは戦場へ行った」が、反戦映画の傑作だったことを考えると、この作品で彼がみせた強い愛国心と戦争を応援するスタンスは意外かもしれません。しかし、ナチス・ドイツと真珠湾を奇襲した日本人は米国にとって、当時「絶対的な悪」とみられており、米国の参戦は自由を守るために、その責任を果たすために必要なことだった。たぶん彼はそう考えていたのでしょう。映画の中、天国の将軍は主人公のピートにこう語ります。
「これこそが僕らが戦っているものだ。僕らが呼吸する自由の翼で未来を迎えたがる人間の自由・・・未来への目標を諦めない限り、誰も死んでいない。そしてまた、未来への責任を受け入れない限り、人間は本当の意味で生きてはいない。・・・」

「テンダー・コムレード Tender Comrade」(1943年)
(監)エドワード・ドミトリク(脚)(原)ダルトン・トランボ(出)ジンジャー・ロジャース、ロバート・ライアン、キム・ハンター、リチャード・マーティン
 戦場に行った夫たちを待つ妻たちが、お互いに助け合うために共同生活を始めるという物語。当時、数多く作られた戦意高揚映画のひとつといえますが、女性たちの共同体が共産主義を宣伝するためのものであると後に批判の対象となりました。原作、脚本ともにトランボということで、彼の考え方が全面的に盛り込まれたが、監督のエドワード・ドミトリク、主演の一人キム・ハンターもその後、「赤狩り」の犠牲となるメンバーなだけに、そうした流れは当時のアメリカにおいて当たり前になったいたともいえます。(だからこそ、「赤狩り」を求める右派の動きが起きたのでしょうが・・・)

「うまくいくかもしれないわ。でも、私たちは一人一人違う人間であって、時には個性の衝突があるかもしれないことははっきりさせておくべきね。予め問題の調整方法を見つけておかないとね・・・集団的民主主義を実践できるわ。何かあったら、話し合いを持つの。・・・」

「東京上空三十秒 Thirty Second Over Tokyo」(1944年)
(監)マーヴィン・ルロイ(原)キャプテン・テッド・ローリン、ロバート・コンシダイン(出)スペンサー・トレイシー、ヴァン・ジョンソン、ロバート・ミッチャム
「緑のそよ風 Our Vines Have Tender Grapes」(1945年)
(監)ロイ・ローランド(原)ジョージ・マーチン(出)マーガレット・オブライエン、エドワード・G・ロビンソン
「ジェラシー Jealosy」(1946年)
(監)(脚)グスタヴ・マカティ(脚)アーノルド・フィリップス(原)ダルトン・トランボ

「素晴らしき哉、人生!It's a Wonderful Life」(1946年)
(監)(製)(脚)フランク・キャプラ(脚)フランシス・グッドリッチ、アルバート・ハケット、以下はクレジットなし、ダルトン・トランボ、クリフォード・オデッツ、マーク・コネリー、マイケル・ウィルソン、ドロシー・パーカー、ジョー・スウェリング(原)フィリップ・ヴァン・スターン
(出)ジェームス・スチュアート、ライオネル・バリモア、トーマス・ミッチェル、ドナ・リード
 最初の脚本を書いたのはダルトン・トランボでしたが、キャプラは内容が政治的過ぎると書き直させたため、クレジットにトランボの名前はありません。しかし、キャプラはけっして右派ではなく、その後「赤狩り」の時期、彼に「ローマの休日」に参加する機会を与えることになります。(「ローマの休日」の監督は当初、キャプラの予定でした!)

赤狩りのはじまり
 1947年、終戦後米ソの対立が深まる中、アメリカ国内の共産主義者を反米思想の持ち主として取り締まろうという運動「赤狩り」が始まります。その中心となったのが、反共主義者J・パーネル・トーマス上院議員が議長を務める下院非米活動委員会(HUAC)。彼らは、国内にその活動を広めるため、第一の見せしめとして映画関係者に目を付けました。もともとユダヤ系が多い映画界では、ユダヤ人差別と共産主義者への差別が一緒になり、格好の標的になったといえます。最初にその犠牲となったのが、後に「ハリウッド・テン」と呼ばれることになる映画人でした。
 その中の一人として10月28日、委員会に召喚された彼は、声明文を読み上げるとともに、自らの手になる映画の脚本20冊を資料として持ち込み、それらの作品が共産主義のプロパガンダではなくあくまで愛国主義的な作品であることを主張しました。ほかに共産主義者の友人をあげるように言われた彼はそれを拒否しました。その後も様々な反論を駆使する彼に委員会が「イエスかノー」で答えるようにと指示したのに対して、こう返答したといいます。
「非常にたくさんの質問にイエスやノーで答えられるのは間抜けか奴隷だけだ」
 さらに彼はこう締めくくりました。
「これは米国の強制収容所の始まりである」

 後に彼はこの時のHUACのねらいについて、こう語っています。
「私はHUACには三つの目的があったと思う。労働組合をつぶすこと、反ファッショ的な政治活動を麻痺させること、映画から進歩的な内容を取り除くことだ。」

 彼はこの時の証言拒否などにより議会侮辱罪を犯したとされました。当時、彼が所属していたMGMも彼を停職処分としました。彼はもちろんその処分に対し、法廷での闘いを挑もうとします。ところが、彼へのバッシングはきつく、脅迫事件もあり、彼は法廷闘争をあきらめると、1950年夏から1年近くケンタッキー州アシュランドの連邦刑務所で刑期を務めることになりました。
 1951年に出所した彼ですが、それですぐに現場復帰できるわけではなく、ここからが彼にとって本当の闘いの始まりでした。一時は命の危険もあったことからメキシコに移住したものの、それでは食べて行けないため、彼はカリフォルニアに戻り、そこで本名を隠して仕事を行う道を選択しました。当時、赤狩りの犠牲者は、ヨーロッパへの移住や映画界からの引退など様々な苦難の道を選択しており、脚本家である彼は偽名を使用することで仕事が可能だったため、まだ恵まれた方だったといえます。

<偽名での闘いからアカデミー賞受賞へ>

「拳銃魔 Gun Crazy」(1949年)
(製)フランク・キング・モーリス・キング(監)ジョセフ・H・ルイス(脚)(原)マッキンレー・カンター(脚)ミラード・カウフマン(ドルトン・トランボの偽名)(出)ジョン・ダル、ペギー・カミンズ
 銃の魔力に引き寄せられるようにカーニヴァルの銃のショーを演じていたカップルが犯罪に手を染めて、銀行強盗を行い殺人を行い、ついに警察に追いつめられる、という青春アウトローもの。

 赤狩りで干されていた彼は大手の映画会社では働けず、しかたなく新興のインデペンデントで偽名を用いて働くことになります。当然、脚本料は以前の10分の1にまで落ちてしまいます。そのため、彼に仕事を選ぶ余裕はなく、与えられた仕事を次々と仕上げてゆくしかありませんでした。「拳銃魔」はそんな厳しい条件の中で書かれた作品の中でも名作と呼ばれる作品のひとつです。

「火星探検」(1950年)
(監)カート・ニューマン(脚)カート・ニューマン(実際はダルトン・トランボが脚本家だった)

「その男を逃がすな He Ran All the Way」(1951年)
(監)(脚)ジョン・ベリー(脚)ヒューゴ・バトラー、ジャック・モス、ガイ・アンドール(ダルトン・トランボの偽名)(原)サム・ロス(出)ジョン・ガーフィールド、ノーマン・ロイド、シェリー・ウィンタース
 強盗犯が行きずりの女性の家に逃げ込み、そこでその女性と愛し合うようになります。しかし、警察がついにその家を包囲。犯人は女性に逃走用の車を手配させますが、・・・。
 「赤狩り」の犠牲となったジョン・ガーフィールドは、この映画の約1年後に心臓麻痺でこの世を去ることになります。

ローマの休日 Roman Holiday」(1953年)(アカデミー脚本賞受賞!)
(監)(製)ウィリアム・ワイラー(脚)(原)イアン・マクレラン・ハンター(実在だが、ダルトン・トランボの身代わり)、(脚)ジョン・ディントン、ベン・ヘクト(出)オードリー・ヘップバーン、グレゴリー・ペック
 この映画で、脚本家としてトランボの身代わりとなったイアン・マクレラン・ハンターは非常に複雑な気分でアカデミー賞を授与することになりました。そのうえ、すぐに誰か別の作家の身代わりだということが明らかになったため、彼自身がゴーストライターを必要とする立場に追い込まれるという悲劇にも見舞われました。脚本家がダルトン・トランボだったと公式に訂正されたのは1993年のことでした。
 後にこの映画と「黒い牝牛」の二本だけが、ダルトン・トランボが映画のために原作から脚本までを書いた作品だったと彼の息子クリストファーは語っていたそうです。監督のワイラーはトランボの脚本をローマ・ロケの際、現場に合わせて手直ししましたが、ほぼオリジナルのストーリーはそのまま生かしたといいます。

「They Were So Young」(1954年)
 マイケル・ウィルソンとの共同脚本作品。マイケル・ウィルソンもまた「赤狩り」の犠牲者でした。
「カーニヴァルの女 Carnival Story」(1954年)
 「They Were So Young」の続編で、こちらはダルトン・トランボのみによる脚本。
「ザ・ボス The Boss」(1956年)
 脚本・原作はベン・L・ペリーとなっているが、実際はダルトン・トランボが原作で脚本も主に彼が書きました。

「黒い牝牛 The Brave One」(1956年)
(監)アーヴィング・ラッパー(脚)(原)ロバート・リッチ(ダルトン・トランボの偽名)(脚)ハリー・フランクリン、メリル・G・ホワイト(出)マイケル・レイ、ロドルホ・オヨス
 メキシコの貧しい農家の少年と彼の黒い牝牛との交流を描いた少年少女向けの動物と子供の映画。この映画はアカデミー脚本賞を受賞し、その受賞者ロバート・リッチとはダルトン・トランボの偽名だったらしいことが業界での常識となってゆきます。そのおかげで彼の評価が上がり、脚本の手直しや仕上げなど急ぎの仕事のオファーも増えることになります。年間6本という年もありました。

<トランボが関わった作品>
1957年
「白い砂 Heaven Knows,Mr.Allison」
(監)ジョン・ヒューストン(出)ロバート・ミッチャム、デボラ・カー
「No Down Payment」
(監)マーティン・リット(出)キャメロン・ミッチェル、ジョアン・ウッドワード、シェリー・ノース
「The Green-Eyed Blonde」
(監)バーナード・ジラルド(出)スーザン・オリヴァー、リンダ・プラウマン、レイモンド・フォスター
「野生の息吹 Wild is the Wind」
(監)ジョージ・キューカー(出)アンソニー・フランシオサ、ジョセフ・キャレア
1958年
「Ten Days to Tulara」
(監)ジョージ・シャーマン(出)ラファエル・アルカイド、スターリング・ヘイドン
「The Two-Headed Spy」
(監)アンドレ・デ・トス(脚)ジェームス・オドネル、ダルトン・トランボ(クレジットなし)マイケル・ウィルソン(クレジットなし)(出)ジャック・ホーキンス、ケネス・グリフィス
「カウボーイ Cowboy」
(監)デルマー・デイヴス(脚)エドムンド・H・ノース(クレジットのみで、実際はダルトン・トランボ)(原)フランク・ハリス(出)グレン・フォード、ジャック・レモン
 この映画の脚本は、トランボが10年前に完成させていたものだったこともあり、この時期の彼の作品の中では質の高い冒険西部劇映画として評価が高い
「恐怖の島 Enchanted Island」
(監)アラン・デュアン(原)ハーマン・メルヴィル(脚)トランボは脚本を完成させるための途中参加(出)ダナ・アンドリュース、アーサー・シールズ
「From the Earth to the Moon」
(監)バイロン・ヘイスキン(原)ジェームズ・ベーン(出)メルビル・クーパー、モリス・アンクラム
「Terror in a Texas Town」
(監)ジョセフ・H・ルイス(脚)トランボは脚本の校正として参加(出)スターリング・ヘイドン、キャロル・ケリー
1959年
「ガンヒルの決斗」
(監)ジョン・スタージェス(脚)トランボは脚本構成で参加(原)レス・クラッチフィールド(出)カーク・ダグラス、アール・ホリマン、ブラッド・デクスター
 この映画からカーク・ダグラスとの関係が始まります。
「都会のジャングル The Young Philadelphians」
(監)ヴィンセント・シャーマン(原)リチャード・パウエル(出)ポール・ニューマン、ブライアン・キース、アレクシス・スミス
1960年
「戦塵まだ消えず Conspiracy of Hearts」
(監)ラルフ・トーマス(原)エイドリアン・スコット(脚)ロバート・プレスネルと共作

<クレジットに再登場!>
「スパルタカス Spartacus」(1960年/ノーカット版が1991年に公開)
(監)スタンリー・キューブリック(当初はアンソニー・マンだった)(脚)ダルトン・トランボ、カルダー・ウィリンガー(製)カーク・ダグラス(原)ハワード・スタイン(撮)ラッセル・メティ
(出)カーク・ダグラス、トニー・カーティス、チャールズ・ロートン、ローレンス・オリヴィエ、ジーン・シモンズ、ピーター・ユスチノフ、ウディ・ストロード
 主演で製作者も兼ねているカーク・ダグラスは当時、映画界トップクラスの人気俳優であると同時に進歩的な人物だったことから、積極的に才能のあるトランボの脚本参加を求めました。積極的に製作にも関わった彼は、監督の交代にも関わり、まだ若手だったキューブリックを撮影途中ながら監督に抜擢します。そして様々なトラブルを抱えながらもなんとか完成にこぎつけました。(残念ながら、映画会社から長すぎるとクレームが入り、映画は大幅なカットとなりました。1991年まで完全版の公開はできませんでした)
 撮影中から問題になっていた脚本家のクレジットについても、カーク・ダグラスはあえてトランボの名をクレジットすることにこだわります。一部にはまだ反発はあったものの、この映画の評価が高く、「赤狩り」の流れが曲がり角に来ていたところでのこの英断は、映画界に大きな影響を与え、トランボら「ハリウッド・テン」を囲む環境が変化するきっかけとなりました。これ以後、トランボは自らの名前で脚本作りに参加できるようになります。

「栄光への脱出 Exodus」(1960年)
(監)オットー・プレミンジャー(原)レオン・ユリス(出)ポール・ニューマン、リー・J・コップ、ピーター・ローフォード、サル・ミネオ、エヴァ・マリー・セイント、ラルフ・リチャードソン
 ナチス・ドイツによる迫害の後、住むべき土地を求めて、パレスチナの地に向かったユダヤ人たちによる現代版エクソダス。当時、テレビでこの映画を見た僕は素晴らしい映画だと思いましたが、その後のパレスチナの悲劇の歴史を振り返る時、この映画はイスラエルによるパレスチナの迫害史の序章だったとしか思えず、複雑です。家庭内暴力を受けた子供たちの多くが、その後大人になって子供たちに暴力を加えるといいますが、暴力の連鎖は、国単位でもあるといえます。残念な映画です。

1961年
「ガン・ファイター The Last Sunset」
(監)ロバート・アルドリッチ(原)ハワード・リグズビー(出)カーク・ダグラス、ジョセフ・コットン、ネヴィル・ブランド、ロック・ハドソン
 「スパルタカス」の成功により、カーク・ダグラスはトランボとの仕事を再び望み、彼が得意な娯楽アクション西部劇を製作。監督は、このジャンルでの最高峰ロバート・アルドリッチを起用しました。
「非情の町 Town Without Pity」
(監)ゴットフリード・ラインハルト(脚)シルヴィア・ラインハルト、ダルトン・トランボ(脚本の構成で参加)(原)マンフレッド・グレゴール(出)カーク・ダグラス、E・G・マーシャル、ロバート・ブレイク
1962年
「脱獄 Lonely are the Brave」
(監)デヴィッド・ミラー(原)エドワード・アビイ(出)カーク・ダグラス、マイケル・ケイン、ジョージ・ケネディ、ウォルター・マッソー、ジナ・ローランズ
 カーク・ダグラス自身が代表作と気に入っていた作品。トランボによる犯罪アクション映画の傑作。脱獄ものに傑作は多いが、その中でも名作と言われる作品。
1965年
「いそしぎ The Sandpiper」
(監)ヴィンセント・ミネリ(脚)ダルトン・トランボ、マイケル・ウィルソン(原)マーティン・ランソホフ(出)リチャード・バートン、エリザベス・テイラー、エヴァ・マリー・セイント、チャールズ・ブロンソン
 超大物女優エリザベス・テイラー主演の女性ドラマ。監督はミュージカル界の大物ヴィンセント・ミネリ。
1966年
「ハワイ Hawaii」
(監)ジョージ・ロイ・ヒル(脚)ダニエル・タラダシュ、ダルトン・トランボ(原)ジェームス・ミッチナー
(出)マックス・フォン・シドー、ジュリー・アンドリュース、デヴィッド・マッカラム、リチャード・ハリス、ジーン・ハックマン
 この後、アメリカ映画を代表する監督となるジョージ・ロイ・ヒル作品。3時間を越えるハワイを舞台にした歴史大河ドラマ。アメリカ人宣教師とハワイ人の文化対立を描いた「アラビアのロレンス」のハワイ版的な内容の大作映画。
1968年
「フィクサー The Fixer」
(監)ジョン・フランケンハイマー(脚)ダルトン・トランボ(原)バーナード・マラマッド(出)アラン・ベイツ、ダーク・ボガート、エリザベス・ハートマン、デヴィッド・ワーナー、ヒュー・グリフィス
ロシアで、ユダヤ人だったがゆえに無実の罪を着せられた靴修理人の闘争を描いた社会派ドラマ。
「ロシアにユダヤ人問題など存在しない。それについては、ほかのどこも同じだ。あるのは人間性の問題だけだ」
映画の中の判事のセリフ

<初監督、そして最後の時へ>

「ジョニーは戦場へ行った Johnny Got His Gun」(1971年)
(監)(脚)(原)ダルトン・トランボ(撮)ジュールス・ブレナー(編)ウィリアム・P・ドーニッチ、ミラー・ムーア(美)ハロルド・マイケルソン(音)ジェリー・フィールディング
(出)ティモシー・ボトムズ、キャシー・フィ-ルズ、ジェーソン・ロバーツ、ドナルド・サザーランド、マージ・レドモンド、ダルトン・トランボ(医師役で出演)

「戦争は人によって様々な意味を持つ。科学者にとっては自らの最も輝かしく最も想像力に富んだ企画を実現する場である。例えば、かつての戦争では負傷者が出るたびに納税者にとっては大変深刻な損失を意味した。今風に彼らを呼ぶなら『戦闘単位』だ。だが次の戦争では我々はそれと同じ戦闘単位を修復し、三週間もしくはもっと短期間で前線の塹壕に送り届けられるようになるはずだ。そして全てはこの若者が我々に教えてくれる過激な新技術のおかげである。」
ダルトン・トランボ演じる医師の言葉

<あらすじ>
 第一次世界大戦の戦場で大けがを負い手足だけでなく顔も失い、生きているだけの存在となったジョニーの物語。ほとんどの感覚を失った彼は研究材料として生かされていましたが、彼には、まだ意識があり、自分の過去を振り返ったり、夢の中でイエス・キリストや父親、彼女と対話することができました。少しずつ自分の状況が理解できるようになった彼は、頭を枕に打ち付けることで意思表示をし始めます。そして、ついに自分を殺してほしいと繰り返すようになります。彼を哀れに思った看護師が彼を殺そうとしますが・・・ 

 内容的に重く映像表現も難しいことから、映画会社は映画化に二の足を踏んだため、原作者のトランボが自ら監督に志願。低予算での映画化となった。数多くの脚本を手掛けてきたとはいえ、初監督だった彼にとってはいきなりの難しい題材だったといえます。その分、映画の完成度はいまひとつと言われますが、それでもこの映画はカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞するなど各国で高い評価を受けています。僕も、この作品は映画館でリアルタイムで見て衝撃を受けて記憶があります。難解な部分もあるし、暗くて悲劇的な終わりでしたが、観客に戦争の悲惨さだけではなく「生きる意味」を考えさせる素晴らしい作品だったと思います。
 こうして彼は自らの小説を映画化し、無事に完成させたことで、過去の呪縛から解放されたともいえます。ジョニーを自分の身代わりに、永遠の煉獄に閉じ込めたことで、それは可能になったのかもしれません。

「ダラスの熱い日 Executive Action」(1973年)
(監)デヴィッド・ミラー(脚)ダルトン・トランボ、アルバ・ベッシー(原)マーク・レイン、ドラルド・フリード(撮)ロバート・ステッドマン(編)ジョージ・ブレンビル、アーヴィン・ラーナー
(出)ウィル・ギア、バート・ランカスター、エド・ローター、ロバート・ライアン
 「ジョニーは戦場へ行った」でイエス・キリストを演じたドナルド・サザーランドが自ら企画したジョン・F・ケネディ暗殺事件の真実に迫った限りなくドキュメンタリー・タッチの映画。実際のニュース映像を多用し、JFK暗殺実行に至るまでの計画、準備、実行までの過程を実写ドラマで再現した異色の作品。後のオリバー・ストーン作品「JFK」とは異なり、この映画にはヒーローはいません。それだけに娯楽的要素はまったくなかったといえます。僕がこの映画を見たのは中学生の頃、ちょっと難しかったのですが、当時は中学生も政治問題に興味がある時代であり、そんな興業的要素が少ない作品でも映画化できる時代だったのかもしれません。今思うと、この映画の結末は「ジョニーは戦場へ行った」と同様に救いのない悲劇的なもので、70年代に迎えることになる厭世的な気分を深める作品だったといえます。アメリカの映画人が当時は非常に非情に骨太な姿勢をもっていたことも確かですが、時代は冷めた時代へと確実に変わりつつありました。

「パピヨン Papillon」(1973年)
(監)フランクリン・J・シャフナー(脚)ロレンツォ・センプル、ダルトン・トランボ(原)アンリ・シャリエール(撮)フレッド・キーネカンプ(音)ジェリー・フィールディング
(出)スティーブ・マックィーン、ダスティン・ホフマン、ドン・ゴードン、ダルトン・トランボ(フランス人司令官役で出演)
 仏領ギアナにある悪魔島(実在の南米沖の島)の監獄に収監され、そこで非人道的な扱いを受け続けた囚人(パピヨン)が何度もの脱獄を行い、ついに成功するまでを描いた実録脱獄映画。この映画の公開時、この映画の原作者アンリ・シャリエールはまだ生きていて、ついこの間のことだったと知り驚かされました。
 パピヨン役のスティーブ・マックィーンとその仲間となるドガを演じたダスティン・ホフマンの演技は本当に味があります。ラストの別れのシーンには涙・・・。
 七番目の波に乗って、沖合へと向かうという脱出方法は実に印象深く、後にスティングが発表した「Love is the Seventh Wave」はこの映画の影響なのかもしれません。
 この映画の撮影時、すでにトランボの癌はかなり悪化していたため、後半部の脚本は息子で脚本家となったクリストファー・トランボが書いたとも言われています。

<闘い続けた人生>
 改めて彼の仕事を振り返ると、その作品のほとんどに原作があり、彼は脚色や校正を担当するなど、ストーリーに直接関わることは少なかったことがわかります。まして、彼は「赤狩り」によって仕事を選ぶ余裕などない状況でどんな仕事も受けていました。にも関わらず、彼が関わった映画は、なぜかある一定の傾向がみられます。
 「犯罪映画」が多いのですが、さらにその中でも「逃亡」、「脱獄」ものの名作が明らかに多いといえます。
デビュー作の「ロード・ギャング」、「夜の逃亡者」、「拳銃魔」、「その男を逃がすな」、「脱獄」、「パピヨン」、「Five Came Back」、さらに大掛かりな脱獄ものでは、「栄光への脱出」、「フィクサー」、「スパルタカス」があります。よく考えてみると、「ジョニーは戦場へ行った」も自らの肉体から脱走しようとする悲劇の物語だし、「ローマの休日」もまた女王の座からの脱走を企てたお姫様の物語です。「素晴らしき哉、人生!」も、自らの命を絶ち人生からの逃亡を試みた男が、再び人生を生き直す物語でした。偶然にしては、多すぎます。
 彼が好んでそれらの作品を選んでいたのでしょうか?彼が得意なジャンルだからオファーが来たのでしょうか?少なくとも、彼の人生経験が影響を与えていたのではないでしょうか。

 彼が執筆している姿を写した有名な写真があります。その写真で彼はバスタブにつかり、体の前にタイプライターとノートを乗せた板を置き、ペンを右手に煙草を左手に持っています。彼はそのスタイルで執筆するのが大好きでした。バスタブの中が彼にとって、最高に自由な空間だったのでしょう。きつい状況の中でも、彼はそうして楽しみながら仕事をこなせたということです。多くの監督や俳優がハリウッドから去って行ったことを考えれば、彼はまだ恵まれた立場だったかもしれません。そのせいか、彼は「赤狩り」終結後、仲間たちを裏切った映画人たちのことを批判することはまったくなかったといいます。
 1970年に脚本家組合から功労賞を授与された時、彼はこう語ったそうです。
「ブラック・リスト時代は英雄も悪役もなく、『犠牲者』がいただけだ」

 1976年9月10日、他人の倍の仕事をこなし、人の倍の煙草を吸い続けた男は、71歳でこの世を去りました。
もしかすると彼は天国でイエス・キリストと語り合いながら、天国から脱出する映画の脚本を考えているかもしれません。天国には彼が大好きだった煙草はなさそうだし・・・。 

<追記>2017年
映画「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」 2015年
(監)ジェイ・ローチ
(原)ブルース・クック
(脚)ジョン・マクナマラ
(撮)ジム・デノールト
(Pデ)マーク・リッカー
(衣)ダニエル・オーランディ
(編)アラン・ボームガーテン
(音)セオドア・シャピロ
(出)ブライアン・クランストン、ダイアン・レイン、ヘレン・ミレン、ジョン・グッドマン

 実は、ここで書いたようにかなり詳細にダルトン・トランボについて調べていたため、今更知らないこともないだろうと思っていました。おまけに暗い話だし・・・と思ってなかなか見ないでいました。でも、さすがはハリウッド映画です。暗い話のはずが実に面白い娯楽映画に仕上がっているじゃないですか。特に、カーク・ダグラスとオットー・プレミンジャーが出たあたりからは、痛快娯楽コメディーとして充分に楽しめました。
 オマケに「ローマの休日」「黒い牡牛」「スパルタカス」「栄光への脱出」の製作裏話もたっぷりなので、映画ファンなら本当に楽しい映画のはずです!ジョン・ウェイン、カーク・ダグラス、オットー・プレミンジャー、エドワード・G・ロビンソンなど、実在の映画関係者も登場するので、そちらも楽しめます。正直あまり似ていませんが・・・

 1960年というまだ米ソが対立していた時期になぜ、トランボの名前がクレジット可能になったのか?
 ベルリンの壁が誕生した年とはいえ、時代は確実に変化していました。「赤狩り」が大きく盛り上がった1950年代が終わる頃、アメリカ国内では黒人への差別問題が大きな問題としてクローズアップされ、反ソ活動どころではなくなっていました。そのうえ、散々騒ぎまくってスパイ探しを行っていた政府が、誰一人スパイを見つけられず、革命が起きる気配もないことが明らかになりつつありました。そして、よりリベラルな大統領J・F・ケネディの登場が、人種差別問題を大きく動かしただけでなく、ブレジネフとの直接会談を実現させソ連との関係も落ち着きをみせつつありました。その間、赤狩りの旗振り人だったマッカーシーも失脚し、運動の意義が疑問視されることで、ブラック・リストそのものに疑問が持たれるようになっていたのです。そうした歴史の変化が彼に味方したのです。
「猿の惑星」
 映画の中でキング兄弟がゴリラの着ぐるみを使った映画の脚本を求め、イアン・マクレラン・ハンターがその脚本を書き上げてくるシーンがあります。これって、「猿の惑星」へのオマージュでは?と思いましたが・・・違うかなあ?
 映画「猿の惑星」の原作はフランスの作家ピエール・ブールなのですが、脚本を書いたのはブラック・リストに入れられて仕事を干されていた時期があるマイケル・ウィルソンです。残念ながら、イアン・マクレラン・ハンターではありませんが・・・マイケル・ウィルソンとは、その時期にトランボは協力して脚本を書いているのは確かです。その他にも、ジーラを演じた女優キム・ハンターもまたブラック・リストに乗せられていた時期がありました。

<参考>
「レッドパージ・ハリウッド 赤狩り体制に挑んだブラックリスト映画人列伝」
上島春彦著
作品社

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