- デイブ・ブルーベック Dave Brubeck -

<デイヴ・ブルーベック>
 デイヴ・ブルーベックといえば、なんといってもジャズ史に残る大ヒット曲「テイク・ファイヴ」でしょう。
4/5拍子というジャズでは珍しい変拍子のリズムを用いたこの曲は、幼い頃からピアノを習い、クラシックを大学で学んだ彼ならではの挑戦が生み出した作品でした。ジャズとは無縁の土地カリフォルニアの田舎育ちでクラシックを学んだ異色の存在ということもあり、ジャズ界においては異端派とされていた彼も、この曲の大ヒットでモダン・ジャズを代表する存在となり、その後はオーケストラとの共演作やバレエ曲を発表するなど多方面で自由な活躍を続けます。
 1950年代末から1967年までほぼ10年にわたり活躍を続けた盟友ポール・デスモンド(サックス)を含む彼のカルテットは、その「テイク・ファイヴ」を生み出した最強のバンドでした。

<生い立ち>
 デイヴ・ブルーベックは、1920年12月6日にカリフォルニア州コンコードで生まれています。
 サンフランシスコから30キロほど内陸に入った田舎町で牧畜業を営んでいた彼の家には、4台ものピアノがあったといいます。母親が音楽好きだったことから音楽ファミリーの一員として早くからピアノを習った彼は、子供の頃からピアノを人前で演奏して小遣い稼ぎをしていたといいます。彼の家では、音楽もまた自給自足の娯楽でした。
 しかし、彼の家にはラジオもなく、彼は数少ないレコードでテディ・ウィルソン、ファッツ・ウォーラー、デューク・エリントン、ベニー・グッドマンらの曲を聴いていたといいます。もちろん、クラシックやカントリーも聞いていた彼にとっては、ジャズは好きな音楽の一部だったようです。そのため、彼は子供時代ジャズではなくヒルビリーのバンドなどでダンス音楽を演奏していました。こうした彼の音楽との出会いは、彼の音楽性の重要な部分を形成することになります。

<大学にて>
 大学に入学後、彼は本格的に作曲法などクラシック音楽を学びます。ユダヤ人であるためにフランスから亡命してきたクラシック界の大物作曲家ダリウス・ミヨーからは4年間作曲法などを学び、大きな影響を受けることになります。そこで彼は、それまでのクラシックから一歩進んだ新しい音楽理論も学んでいます。その後、現代音楽の先駆者シェーンベルクからも学んだ彼は、当時最高の教師から最新の音楽理論を学んだわけです。そして、その最新の理論を彼はジャズに生かそうとしますが、残念ながらその努力は周りから認めてはもらえませんでした。
 そのことを思い悩んでいた頃、彼は軍隊から召集されます。

<ヨーロッパにて>
 1942年、彼は軍隊に召集されます。ロサンゼルス近郊のキャンプ・ハーンで、彼は部隊のメンバーとバンドを結成しますが、1944年ついにヨーロッパへ向かうことになりました。幸い彼があの有名な激戦地ノルマンディーに上陸したのは、Dデイ(1944年6月6日)から三ヶ月後のことでしたが、彼には歩兵として前線へ向かう命令が出されていました。ところが、彼の所属する部隊がバンドを作ることになり、指揮官が彼をそのバンドのリーダーに指名したため、彼は前線行きを免れ、無事に終戦を迎えることになりました。彼はまさに「音楽に命を救われた」アーティストだったといえます。

<ジャズ界への復帰>
 終戦によりアメリカに帰還した彼は再び大学に戻りますが、ジャズを続けるべきか迷っていたといいます。それは彼の目指す新しいジャズが誰にも認められなかったからでした。そんな彼に助言を与えてくれたのは、やはり彼の恩師だったダリウス・ミヨーでした。ミヨーはジャズを続けるべきか迷うブルーベックにこんなことを言ったそうです。
「ジャズこそはアメリカを代表する大衆音楽であり、アメリカで作曲家を目指すなら、もっとジャズについて学ぶべきで、そのことを君自身望んでいるはずだ」

 この言葉に再びジャズへの興味を取り戻した彼は、学生として学びながらサンフランシスコ周辺のナイトクラブで音楽活動を再開します。

<学生バンドからスターに>
 学生バンドでありながら、プロとして活躍していた彼のバンドはしだいに注目を集めるようになります。ラジオ局KNBCからは、当時の人気番組「The Lyon's Busy」への出演オファーがあり、そこに彼らはレギュラー出演。一躍ウエスト・コーストの人気バンドとなってゆきます。1950年代の半ばは、ジャズがいよいよアメリカにおいて大ブームとなる時期でした。そのため、レコード会社はスターになりうる存在を捜し求めていました。マイナー・レーベルからすでにヒットを飛ばしていた彼は、白人だったこともあり、最高の逸材でした。
 多くのレコード会社が競合する中、結局彼はコロンビアと契約し、「ジャズ・ゴーズ・トゥー・カレッジ」、「ブルーベック・アット・ストーリーヴィル」を発表。いずれも大ヒットとなります。そして、この年、彼はあの有名な雑誌「タイム」の表紙を飾ることになりました。彼はジャズ界を代表するだけでなく時代を象徴する存在にまでなっていたのです。

<「テイク・ファイヴ」誕生>
 ジャズ界を代表するアイドルになっていた彼ですが、それは彼がジャズ界に完全に認められたということではありませんでした。そのうえ、彼はまだやっと食べてゆける程度の稼ぎしかまだ得られていませんでした。しかし、そんな彼の人生を変える事件が起きます。それが1959年録音のアルバム「タイム・アウト」に収められた曲「テイク・ファイヴ」の大ヒットでした。
「テイク・ファイヴ」とは「五拍子で」を意味しています。ジャズの歴史において、この曲のような変拍子のヒット曲は他にありません。逆にいうと、不思議なワン・アンド・オンリーの魅力をもつからこそ、この曲は国境も音楽ジャンルをも超える大ヒットになったのかもしれません。
 実はこの曲の作曲者は、彼のカルテットでサックスを担当していたポール・デスモンドでした。しかし、彼が身につけていた高度な音楽理論と大衆音楽としてのジャズが融合したからこそ、誰もが忘れられない素晴らしい曲が世に出たことは間違いありません。このアルバムに収められている「トルコ風ブルーロンド」もまた、そんな彼が生み出した変拍子の名曲です。
 時代を越える名曲は、異なるジャンルが絶妙の配合で出会い、絶妙のタイミングで発表されて初めて誕生する。そんな名曲の法則はこの曲にもピタリと当てはまるといえます。

<自由な音楽活動へ>
 「テイク・ファイブ」の大ヒットによって、世界的な人気を獲得した彼は、その後はより自由な音楽活動へと踏み出すことができるようになりました。こうして、クラシックのオーケストラとの共演盤やバレエ曲を発表するなど、彼の活躍はジャズの枠をも超えるものとなります。
 ウエスト・コーストの田舎で育ち、ジャズ音楽と出会うチャンスが少なかった彼は、黒人のジャズ・ミュージシャンたちの影響を直接受けたピアニストではありませんでした。ジャズ・ミュージシャンとしては決して恵まれていなかった彼ですが、それだけに彼は自由に他の音楽を受け入れることのできる存在になりえたのでしょう。

<その他の代表作>
「ブランデンブルク門再訪」(1961年)
 彼が兵役時代に駐屯していたことのあるベルリンに立つブランデンブルク門。彼は戦後久しぶりにその地を訪れ、フル・オーケストラとの共演アルバムを制作しました。ご当地の作曲家バッハの曲を演奏しているわけではありませんが、クラシックとジャズを融合させた数多い作品の中でも傑作といわれる作品です。彼のクラシックの素養がなければ生み出しえなかった作品でもあります。

「ニューポート 1858」(1958年)
 1958年のニューポートといえば、ジャズ史、映画史に残る映画「真夏の夜のジャズ」で有名です。しかし、この時に行なわれたブルーベック・カルテットのライブ・アルバムもまた彼らの傑作のひとつに数えられています。「ザ・デューク」など、ジャズ・ファンを意識したデューク・エリントンゆかりのナンバーなどを演奏するジャズ・フェスティバルらしい選曲もまたうれしい作品です。

「ザ・デイヴ・ブルーベック・カルテット・アット・カーネギー・ホール」(1963年)
 音楽界の殿堂、ニューヨークのカーネギー・ホールでのスイング感にあふれたアルバム。ベースのユージン・ライトとドラムのジョー・モレロのリズム・コンビの乗りも絶好調。1964年のベルギーでのライブでもオープニングで聴けるジャズの歴史的スタンダード曲「セントルイス・ブルース」はいきなりの聴き所です。

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