「人間失格」

- 太宰治 Osam Dazai -

<死を覚悟していた時代>
 最近になって知ったことですが、松本清張と太宰治は同じ年、1909年の生まれなのだそうです。これは結構意外な発見でした。松本清張といえば、ついこの間まで現役で活躍していた現代推理小説の大御所というイメージがあります。(1992年没)それに比べて、太宰治は遥か昔、太平洋戦争時代の作家であり、まったく異なる時代の作家というイメージがありました。
 実際、彼らが活躍した時代は、まったく異なります。太宰は、この小説「人間失格」を発表する直前の1948年に自ら命を絶っていますが、清張は1953年に「或る『小倉日記』伝」で芥川賞を受賞するまでまったく無名の存在でした。したがって、二人の活動期間はまったく重なっていないのです。ということは、もし、太宰が自殺せずにそのまま作家活動を続けていたとしたら、彼は「徹子の部屋」に出演して黒柳さんと「人間失格」について語り合っていたかもしれず、NHKが彼と大江健三郎の対談番組を企画していたかもしれません。2010年にこの世を去ったアメリカの作家J・D・サリンジャーのように自殺しなくても、自ら俗世間から消え、その後作品を発表しないという選択もあったはずだし、日本を代表する名女優、原節子のように完全にマスコミの前から消えてしまうことも可能だったはずです。それは十分にありえることでした。しかし、現実的にそんなことが起こるとは到底思えません。それはなぜか?
 それは作者が「死」を覚悟していたからこそ、「人間失格」という究極の破滅小説が書けたと思えるからです。さらには、彼が作家になった時点で「死」の覚悟があったからこそ、彼は「人間失格」で描くことになる「破滅への道のり」を自ら歩み、その遺書として書き残すことができたのだと思えるからです。
 彼が、ここまで自らの「死」を覚悟して仕事ができたのは、やはり時代のなせる業だったのでしょうか?
 戦中、戦後、日本中の人々は命がけでそれぞれの人生を生きていました。それを考えれば、兵士だけでなく作家もまた命をかけることは、それほど異常なことではなかった。そう考えられる気もします。時代は確かに違ったのです。しかし、今「人間失格」を読むと、そこに書かれているテーマが今に通じているだけでなく、読者に語りかけるような文体や(カッコ)を用いた内面の吐露など、意外に現代的な書き方であることに驚かされます。確かに彼は松本清張と同期の作家だったのです。

<この小説が現代的な理由>
 この小説が今読んでも古さを感じさせない理由のひとつとして、主人公、葉蔵が1948年当時の庶民感覚とは異なる経済的に恵まれた幼少時代を送った人物だったことがあげられます。
「自分だって、それは勿論、大いにものを食べますが、しかし、空腹感から、、ものを食べた記憶は、ほとんどありません。・・・・・子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした」
 なんだか、松田優作主演の映画「家族ゲーム」の有名な食事のシーンを思い出してしまう文章です。彼のこうした感覚は戦後日本の飢餓感とは異なり、よほど現代的といえます。

「人間は、どうして一日に三度々々ごはんを食べるのだろう、実にみな厳粛な顔をして食べている、これも一種の儀式のようなもので、家族が日に三度々々、時刻を決めて薄暗い一部屋に集まり、お膳を順序正しく並べ、食べたくなくても無言でごはんを髪ながら、うつむき、家中にうごめいている霊たちに祈るためのものかもしれない、・・・・・」
 主人公のこの感覚は「食事」についてだけではありませんでした。

「自分の幸福の観念と、世の中すべての人たちの幸福の観念とが、まるで食い違っているような不安、自分はその不安のために夜々、てん転し、呻吟し、発狂しかけたことさえあります。・・・」
「つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度がまるで見当つかないのです。・・・・・」
 これぞ、典型的「KY」です。ただし、彼はそのことを自覚しているがゆえに、そのことをごまかす術を身につけようと悪戦苦闘し続けます、自分が「人間」として認められるためにどうしたらよいのか?そこで彼が選んだのは「笑い」でした。

「そこで考え出したのは、道化でした。
 それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。・・・・・」

 やはりこの時代も「笑い」は有効な心の救いだったのですが、その「笑い」を生み出した偽善性が見破られた時、主人公にはもう自らの「空虚感」を隠す術はありませんでした。こうして、主人公の葉蔵は、自らが人間としての失格者であることを忘れるため、酒と女とクスリという現代社会でも定番として存在する危険な罠にはまってゆくことになります。そして、その葉蔵の人生は、ほとんどそのまま作者、太宰の人生といっしょなのです。

<太宰治の青春>
 太宰治は本名を津島修治といい、1909年6月19日青森県北津軽郡の金木村に生まれています。東北の田舎育ちといっても、彼の父親は地元の大地主であり、後に高額納税者から選ばれる貴族院議員にもなった青森を代表する名士でした。そのため、彼は何不自由ない少年時代を過ごしましたが、11人兄妹の6番目ということで、生まれた時から家の中に居場所はなかったともいえました。古い仕来りのの残る名家にとって重要なのは、跡継ぎとなる長男だけでした。
 14歳の時、県立青森中学に入学するために彼は家を出て親戚の家に下宿することになり、家を出ます。1925年、16歳の頃、彼は作家になることを目標とするようになり友人と同人誌の発行を始めます。
 1927年、18歳の時、弘前高等学校に入学。この年の夏、後に東京で同棲生活をすることになる芸妓、小山初代と出会っています。(さすがはお金持ちのボンボンです!)
 1929年、20歳になった彼は友人に誘われて共産主義思想と出会います。貧しい労働者を救うための社会改革運動に共感するものの、自分がまさにその敵であるブルジョア階級に属していることに悩み、薬物による自殺を図りました。ただし、彼は共産主義を本当に信じていたわけではありませんでした。
「非合法、自分には、それが幽かに楽しかったのです。むしろ、居心地がよかったのです。世の中の合法というもののほうが、かえっておそろしく、そのからくりが不可解で、とてもその窓のない、底冷えのする部屋には坐っておられず、外は非合法の海であっても、それに飛び込んで泳いで、やがて死に到るほうが、自分には、いっそ気楽でしたのようでした。」

 1930年、高等学校を卒業した彼は東京帝国大学の仏文科に入学。作家の井伏鱒二に師事することになります。しかし、すぐに彼は共産主義者たちの非合法活動に参加。そのため、彼は文学からも学問からも離れることになりますが、しだいにそんな生き方にウンザリしてゆきます。仲間たちが信頼できず、運動の未来にも明るさが感じられなくなった彼は、そんな生活に自らピリオドをうつため、カフェの女給、岡部あつみと江ノ島で投身自殺を図ります。ところが、女性は亡くなったにも関らず彼一人だけが生き残り、警察に逮捕されてしまいます。
 この時、彼は起訴猶予処分で釈放されますが、その後も愛人との心中を繰り返すことになります。彼にとっての「女性」は、「酒」や「薬物」のようにひと時だけでも「苦しみ」を忘れさせてくれる「救い」でした。そして、「酒」や「薬物」が使用者に中毒症状を起こさせ、最後に彼を死へと導くように、「女性」もまた彼の死への入り口となります。
「女は、男よりも更に、道化には、くつろぐようでした。自分がお道化を演じ、男はさすがにいつまでもゲラゲラ笑ってもいませんし、それに自分も男のひとに対し、調子に乗ってあまりにお道化を演じすぎると失敗するという事を知っていましたので、必ず適当のところで切り上げるように心掛けていましたが、女は適度という事を知らず、いつまでもいつまでも、自分にお道化を要求し、自分はその限りないアルコールに応じて、へとへとになるのでした。実に、よく笑うのです。いったいに、女は、男よりも快楽をよけいにほおばる事ができるようです。・・・」

 1932年、非合法活動に関り続けていた彼はいつしか重要な仕事を頼まれるようになり、警察の追跡を逃れるために住所も転々と変えざるを得なくなります。しかし、彼はそうした生活についに耐え切れなくなり、青森の警察署に自首します。その後、一ヶ月にわたり留置された彼ですが、父親が名士だったこともあり、その後釈放。それまでの生活に区切りをつけた彼は、初めて本格的に文学活動に入ります。

<作家、太宰治>
 1933年、彼は初めて太宰治のペンネームを用いて「列車」という作品を雑誌「サンデー東奥」に発表します。翌年には、檀一雄、中原中也、津村信夫らと同人誌「青い花」を創刊します。ところが、1935年彼は都新聞社の入社試験に落ちた後、再び彼は人生に別れを告げ、今度は鎌倉で首吊り自殺を試み失敗します。人生とは不思議なものです。この後、彼がこの年に発表していた小説「逆行」が第一回芥川賞の候補作として最終選考に残ったことで、彼は突然注目の新進作家となり、次々と新作発表のチャンスが巡ってくるようになります。精神的に不安定な彼の人生はこうして、常にアップダウンが激しいものとなりますが、それにさらに加わったのが、薬物の影響です。
 1936年、盲腸炎の手術がきっかけで鎮痛剤バビナールの中毒になっていた彼を立ち直らせるため、井伏鱒二らが彼を江古田にある武蔵野病院に入院させます。そのおかげで、彼は薬物中毒から脱することができました。しかし、それは根本的な治療とはいえず一時的な回復に過ぎませんでした。そのうえ、彼は入院の際、自分が周りから精神的に異常だと思われていたことに衝撃を受け、その心の傷は死ぬまで彼を苦しめることになります。そのため、彼は退院後再び心中しようと、青森から彼を追って出てきていた初代と水上温泉で薬物自殺を図ります。心中に失敗した後、彼は初代と別れ、それから一年半、何もせずに空しく過ごします。
 1939年、どん底から這い上がった彼は井伏鱒二の世話によって石原美知子という女性と結婚。しばし、平穏な日々を送り、作家として「走れメロス」(1940年)「キリギリス」(1940年)「新ハムレット」(1941年)などの小説を次々に発表してゆきます。
 太平洋戦争が始まると、彼にも召集令状が届きます。しかし、彼には胸部疾患があったため兵役は免除となりました。国民の誰もが爆撃により命の危険を感じる中、彼は意外に充実した作家生活を過ごしています。多くの作家が戦争中、沈黙を守っていた中、これはちょっと皮肉なことかもしれません。
 彼は戦況が悪化してきた頃、空襲で家を失い、実家の青森に疎開しそこでも作品を書き続けています。この頃、発表されているのが故郷への思いを綴った「津軽」(1944年)や「お伽草子」(1945年)「惜別」(1945年)などの作品です。
 戦争が終わり、東京に戻ると彼はさらにペースを上げて作品を発表します。「パンドラの匣」(1946年)(2009年に映画化)「ヴィヨンの妻」(1947年)(2009年に映画化)「斜陽」(1947年)など、彼の作品群の中でも傑作といわれるものを次々に発表。そして、1948年3月から5月にかけて「人間失格」を執筆します。この時、すでに彼は不眠症がひどく、血を吐きながら執筆していたといいます。「死」を覚悟し続けて生きてきた彼は、心だけでなく身体もボロボロになっていました。皮肉なことに、戦争が終わり世の中が平和を取り戻した時、彼は再びその世の中から去ろうとしていたのです。
 6月13日、彼は、彼を慕っていた女性、山崎富栄と玉川上水でついに入水自殺を遂げてしまいます。その時、彼は遺書と「グッド・バイ」の草稿を残し、本書「人間失格」は彼の死後一ヶ月して発表されました。
 彼の人生を追うと明らかなように、「人間失格」は彼の生涯をそのまま回想録として書き起こしたといえる作品です。

<人生はトラ?コメ?>
 この小説の中で、主人公と悪友、堀木が単語を悲劇的なもの「トラ」(トラジディーの略)と喜劇的なもの「コメ」(コメディーの略)に分類する遊びをする場面があります。そして、「死」は「コメ」だが「生」はその反対「トラ」か、それともやはり「コメ」なのか?と言い争います。
 太宰そして葉蔵は道化として生きることで人生を喜劇にしようと試みました。繰り返し試みては失敗した彼の自殺は、初めから失敗するように仕組まれた命がけの「笑いのネタ」にも思えます。次々に登場した彼の愛人たちも、元はといえば彼のサービス精神が呼び寄せた存在なだけに彼の愛人関係もまた「コメ」だったように思えます。
 こうして、彼は人間として「失格」の烙印を押されるために、できることをやりつくした感のある彼の生き方は、究極のコメディーだったと言えるのかもしれません。しかし、この「コメディー」は、40歳を一週間前に控えた作者の死によって、「永遠の青春悲劇」として歴史の中に「不滅」の存在として残されることになりました。自らの悲劇によって、不滅の存在となった太宰は、自らのお墓の中で、「これぞ、永久不滅のブラック・コメディーだ!」とニヤついているかもしれません。
 彼が何のために「人間失格」を書いたのか?それは芸術家にとっての最高目的である「不滅」を目指したものだったのでしょうか?真実は永遠に謎のままですが、少なくてもひとつは、わかることがあります。
 それは間違いなく彼が命がけでこの小説を書いたということです。そして、その思いが小説から読み取ることができるからこそ、「人間失格」というど真ん中のストレートが、今でも人の心をぶち抜くパワーを持ちえているのだと思います。

「人間失格」 1948年
太宰治(著)
新潮文庫 

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