- ディープ・パープル Deep Purple -

<追記>2005年9月8日

<ロック界の超定番>
 僕が高校生の頃、学園祭の花形と言えば、文句なしに体育館のステージで演奏するバンドのメンバーと決まっていたような気がします。もしかすると、それは今も変わらないのかもしれません。しかし、あの頃(1970年代の中頃)小樽の高校生が演奏していた音楽は、フォークかロックのどちらかしかなく、さらにフォークなら拓郎、揚水、かぐや姫、ロックならキャロルかディープ・パープルと相場が決まっていたような気がします。(たまにツェッペリンに挑むバンドもありましたが、それは聴けなかった・・・)
 ディープ・パープルほど、日本のアマチュア・バンドに演奏されてきたバンドはいないのではないでしょうか?かつては、ビートルズよりも、ツェッペリンよりも、ストーンズよりも・・・「スモーク・オン・ザ・ウォーター」だったのです。
 逆に言うと、ディープ・パープルほど、音楽的に固定したイメージをもたれてしまったバンドも珍しいでしょう。そのおかげで、未だに缶コーヒーのCMには「ブラック・ナイト」が使われ、スポーツ・タイプの車のCMには「ハイウェイ・スター」が使われるているのです。当然これはバンドのメンバーにとって大きな重荷ともなっていました。だからこそ、途中から参加したメンバーがプレッシャーでつぶれてしまうこともあったのです。それでもなお、彼らが40年にわたって、バンド活動を続けられたのは、やはりファンあってのことであり、それこそが最も幸せなことなのかもしれません。

<着火点>
 ディープ・パープルの歴史は古く、ロックの進化史における記念すべき発火点「1967年」にまでさかのぼることができます。この年、クリス・カーティス(Vo,Ds)とトニー・エドワーズ(後にバンドマネージャー)という二人のミュージシャンがバンドを結成するため、リッチー・ブラックモア(1945年4月14日生まれ、Gui)とジョン・ロード(1941年6月9日生まれ、KeyB)、それにニック・シンパー(Bass)、ボビー・ウッドマン(Ds)の四人に声をかけました。しかし、こうして誕生したバンド、ラウンドアバウトは、すぐにメンバーの入れ替えを行います。
 こうして、ヴォーカルにロッド・エヴァンス、ドラムスにイアン・ペイス(1948年6月29日生まれ)を迎えて、バンドはその名をディープ・パープルと改めました。

<アメリカからの出発>
 こうして、ディープ・パープルはイギリスで結成されたのですが、なぜか彼らはアメリカのマイナー・レーベル「テトラ・グラマトン」と契約します。(イギリスで認められなかったのか、アメリカで成功したかったからか?どちらにしても、ビートルズらが起こしたブリティッシュ・インベイジョンによって、イギリスのミュージシャンたちがいきなりアメリカに進出することが可能な状況になっていたことは確かです)
 1968年、彼らはアメリカでデビュー・アルバム「ハッシュ Shade of Deep Purple」を発表。このアルバムからのシングル「ハッシュ」は、いきなり全米4位の大ヒットとなりました。

<ハードロック・バンドへの転換>
 当時、ロック界では、「キープ・ミー・ハンギング・オン」で有名なヴァニラ・ファッジに代表されるアート・ロックというキーボードを中心とするポップなロックが人気になっていました。ディープ・パープルもまた、ジョン・ロードのキーボードを中心とするポップなアート・ロック・バンドとして人気を得ていました。しかし、中心メンバーのリッチー。イアン、ジョンは、よりハードなスタイルのロック・バンドへと方向転換をするためメンバーを入れ替えます。
 こうして、イアン・ギラン(Vo 1945年8月19日生まれ)とロジャー・グローバー(Bass  1945年11月30日生まれ)の二人が入り、ついにディープ・パープル黄金時代のメンバーがそろいました。

<プログレの先駆者>
 ところが、せっかくバンドのメンバーが固まったにもかかわらず、彼らの所属するレコード会社が経営不振に陥ったため、新アルバムの録音ができなくなってしまいます。ライブ活動しかできなくなってしまった彼らは、ジョン・ロードのアイデアによって、ロイヤル・フィル・ハーモニック・オーケストラとの共演ライブを実現させます。
 この企画は大きな話題となり、ライブ・アルバムも発売されることになりました。イエスが初めてアルバムにクラシックの要素を持ち込んだのが、同じ年の1月のことでした。したがっって、彼らはイエスと並ぶプログレッシブ・ロックの先駆けのひとつだったわけです。(ちなみに、フランク・ザッパ率いるマザーズも、この年5月にズービン・メータ指揮のロスアンゼルス交響楽団と共演しています。さすがはザッパ!)

<燃え上がる炎>
 同じ年、彼らは当時R&B界最強のレーベルからロック界最強のレーベルへと変身をとげつつあったアトランティックと契約、「ハードロック宣言」とも言えるアルバム「Deep Purple In Rock」(1970年)を発表。ここから彼らの代表曲「ブラック・ナイト Black Night」が大ヒットします。続くアルバム「ファイヤー・ボール Fire Ball」(1971年)「マシンヘッド Machine Head」(1972年)で、彼らはいよいよ絶頂期を迎えます。さらに、この時期の最高のライブ・パフォーマンスを収めた「ライブ・イン・ジャパン Made In Japan」は彼らにとって代表作となっただけでなく、70年代ブリティッシュ・ロック史を代表するライブ・アルバムと言われることになります。(この作品は多くのミュージシャンがその後、発表することになる「ライブ・イン・ジャパン」ものの先駆けとなり、「ブドーカン」の名を世界中に知らせました)

<消えかかる炎>
 こうして、世界的な人気を確立した彼らでしたが、すでにこの頃ディープ・パープル・サウンドは完成の域に達しており、バンド内ではその後の方向性についての対立や厳しいスケジュールへの不満が増していました。そして、1973年アルバム「紫の肖像 Who Do We Think Are」発表後、ついにイアン・ギランとロジャー・グローバーが脱退してしまいます。
 後任のベーシストはすぐにグレン・ヒューズに決まったものの、ヴォーカリストがなかなか決まらず、すったもんだのあげく、ほとんど無名に近い存在だったデヴィッド・カバーデイルを起用します。それでもこの起用は当たり、復活アルバム「紫の炎 Burn」は世界中でヒットします。僕がリアル・タイムでディープ・パープルを聞くようになったのは、ちょうどこの頃からでしたが、北海道での彼らの人気は異常なほどで、シングル「紫の炎」はラジオのヒット・チャート番組のベスト・テンに半年以上入っていたものです。

<雨のちレインボウ>
 新しいメンバー構成のディープ・パープルは、勢いを取り戻したかに見えましたが、新メンバー同士が主導権争いで対立。リッチー・ブラックモアもその影響で思うような活躍ができなくなり、彼もまた独立を決意。レインボウの結成へと向かうことになります。(デビュー・アルバム「銀嶺の覇者 Ritchie Blackmore's Rainbow」は1975年に発表されました)
 この時点で、多くの人々がディープ・パープルの終わりを確信しました。それは、メンバーのジョンやイアンもそう思っていたようです。

<最後の賭け>
 しかし、レコード会社は、バンドとしての契約がまだ残っていたこともあり、残りのメンバーたちに活動継続を求めます。さらに、途中加入のデヴィッドとグレンがやる気をみせたこともあり、新たなギタリストを探すことになります。しかし、リッチー・ブラックモアというあまりにビッグな存在の後を継ぐギタリストはそう簡単に見つかりませんでした。大物ギタリストたちは、ディープ・パープルのイメージの枠に捕らわれることを嫌い、若手もまたファンやマスコミからのプレッシャーに潰されることを怖れました。
 そんな中選ばれたのは、バンド初のアメリカ人で、泥臭いファンク・ロック・バンド、ジェイムス・ギャングなどでギターを担当していたトミー・ボーリンでした。

<プレッシャーによる崩壊>
 当時弱冠24才だった新メンバーを加えたバンドは、さっそくアルバム「Come Taste The Band」(1975年)を発表し、すぐにお披露目ツアーを開始しました。しかし、予想以上にリッチーの穴は大きく、ファンの多くは新人ギタリストを認めようとしませんでした。そのため、トミーはしだいに精神的に追いつめられ、ヘロインと酒にどっぷりと浸かるようになります。ついには、ステージにあがれないほどの状態になり、1976年ついにバンドは解散へと追い込まれてしまいました。
 トミーはその後ソロ・アルバムを発表しますが、麻薬から抜けきることができず、同じ年の12月4日、ヘロインの過剰摂取により、25才という若さでこの世を去りました。ある意味、ディープ・パープルの偉大さが、彼の命を奪ったのかもしれません。

<炎の不死鳥甦る>
 1984年、突然ディープ・パープルは再結成されます。それはまさに最強メンバーによる復活でした。リッチー・ブラックモア、イアン・ギラン、ロジャー・グローバー、イアン・ペイス、ジョン・ロードの五人は、再結成後初のアルバム「Perfect Strangers」(1984年)を発表、見事に世界中で大ヒットさせます。その後この豪華メンバーの体制は1993年まで続きますが、再びリッチーが脱退。それでも彼らはディープ・パープルという偉大なる看板を背負って活動を続けています。それはまるで、ベンチャーズやプラターズがメンバーがどんなに変わろうと活動を続けているのに近いのかもしれません。(その意味ではハード・ロックというジャンルもまたエンターテイメントの一ジャンルになりつつあるのかもしれません)
 「ハイウェイ・スター」「スモーク・オン・ザ・ウォーター」「ブラック・ナイト」、これらの曲は未だにカバーでもなくリミックスでもなく、あくまでオリジナルでかかり続けています。70年代ロックの古典は、今や完全に時代を超越したと言えるでしょう。
 僕自身、「ハード・ロックなんてプロレスと同じ予定調和のショー・ビジネスさ」と思いつつも、「ハイウェイ・スター」のイントロを聞くだけで、未だに背筋がゾクゾクしてしまいます。やっぱり、ディープ・パープル大好きです!
「燃えるロック魂、ディープ・パープルよ永遠なれ!」

<追記>2005年9月8日
 先日友人たちと臨時でバンドを結成しました。自分たちだけでなく家族(奥さん、子供達)にも聞かせるための企画でした。我が家からは長男がドラムで参加。演奏曲目は彼が最近やったディープ・パープルの「ハイウェイ・スター」と、できそうだということで「スモーク・オン・ザ・ウォーター」それとキーボードの女性からのリクエストでビートルズの「レット・イット・ビー」でした。イアン・ギランのヴォーカルを誰がやる?ということになり父親(わたし)が責任をもって担当しました。やっぱ、あの高音はたいへんだ。それでも練習を4,5回やり、本番ではなかなか良いできになりました。(完全に自己満足かもしれませんが)うちの奥さんは、長男のドラムは良かったけどヴォーカルはね・・という厳しい反応。でも、ロック・バンドのヴォーカルは気持ちイイ!なんだかんだ言っても、主役だものね。みんながやりたがるのもわかるわ。
 ディープ・パープルさん、幸福なひとときをありがとうございます。

<締めのお言葉>
「あなたは愛していると言ってくれたことがないのね」
「そんなこと知ってると思ってた」
「女はそれを聞きたいものなのよ」

映画「グレン・ミラー物語」より

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