
「イヴァーン・デニーソヴィチの一日」
- アレクサンドル・ソルジェニーツィン Alexander
Solzhenitsyn -
<20世紀を代表する作家>
この作品は、1970年にノーベル文学賞を受賞した20世紀のロシア文学を代表する作家ソルジェニーツィンの出世作となった中編小説です。タイトルにもあるように、イヴァーン・デニーソヴィッチという普通の人物の一日を起床から就寝まで丹念に描いた実録小説です。ただし、その一日は彼にとってけっして特別な一日ではありません。これといった事件が起きるわけでもなく、喜びに満ちた瞬間が訪れるわけでもなく、読者の涙をさそう出来事があるわけでもありません。それは主人公が体験することになった10年に渡る収容所での長い長い生活の中のいつもの一日にすぎません。(正確には3653日)
ただし、その収容所は、ヒトラーに匹敵する恐るべき独裁者スターリンが支配するソ連において、数多くの政治犯たちが死ぬまで閉じ込められた悪名高い場所です。そのため、そこではちょっとした判断ミスや怪我や病いが、そのまま命の危機に結びつくことになりました。平凡ではあっても、常にそこには危機が存在していたのです。多くの人々は、いつの間にか命の危険に対し鈍感になっていたといえるかもしれません。しかし、そうでなければ、誰もが精神的におかしくなっていたはずです。そうした危険な状況をこの小説は実にリアルに描き出しています。もちろん、それは著者であるソルジェニーツィンがかつてその収容所で、長きに渡る収監生活を続けたからこそ生み出しうるものでした。
それにしても、スターリンの時代が終わっていたとはいえ、ソ連共産主義がまだまだその力を持っていた時代に、なぜここまで体制を批判することが可能だったのか?もちろん、そのためにはいくつもの要因が重なったのでしょう。先ずは、ソルジェニーツィンという作家が歩んだ苦難の人生と、当時のソ連国内政治体制の変化を追ってみたいと思います。
<ソルジェニーツィン>
20世紀後半のソ連を代表する作家アレクサンドル・ソルジェニーツィン
Alexander Solzhenitsynは、ロシア革命の翌年1918年12月11日ロシア共和国のキスロヴォーツク市で生まれました。彼の家はごく普通の勤め人の家庭で、幼くして父親を失った彼は、母親によって育てられました。学業優秀だった彼は、ロストーフ大学の物理数学科に入学します。しかし、彼は数学者になる道へ進もうとは思わず、文学者になることを夢見る少年でした。そのため、彼は文学について学ぶため、モスクワの歴史、哲学、文学高等専門学校の文学科に入学します。しかし、第二次世界大戦が始まったため、彼は兵士として対独戦線に向かうことになりました。
1942年、砲兵中隊の隊長として活躍した彼は二度にわたり勲章を授与され、その後、大尉に昇進します。ところが、1945年終戦を目前にして、突然、師団長に呼び出された彼は、逮捕、拘禁されてしまいます。具体的な逮捕理由は明らかにされませんでしたが、彼が戦場から友人に送った手紙にスターリンに対する批判が書かれていたためと思われます。戦争の終わりは、スターリンにとって、敵国ではなく国内反体制派との新たな闘いの始まりでもあったのです。
こうして、彼は裁判もないまま、8年の禁固刑を言い渡されます。1年間モスクワ近郊の建設現場で働かされた彼は、その後4年間囚人として数学研究所で働き、残る3年は北カザフスタンの炭鉱地帯で石工などの作業にあたりました。この最後の3年間の体験が本書に描かれているといえます。ただし、彼は8年の刑期を終えてもなお、追放状態におかれ、故郷のモスクワに戻ることは許されませんでした。もしかすると、彼は生涯島流しにされたままにだったかもしれず、作家になることもなかったかもしれません。
1953年突然、彼の運命が変わり始めます。それはその年の3月5日、ソ連を指揮していた独裁者スターリンがこの世を去ったことがきっかけでした。当初の理想とは程遠い異常な政治体制が続いていたソ連は、独裁者の死によりやっと目覚めることになります。
<作家デビューに向けて>
1955年、腫瘍が見つかった彼はウズベキスタンのタシケントにある病院に入院し治療を受けます。無事、治療に成功した彼は、後にこの時の体験を「ガン病棟」として発表することになります。
1956年、党大会においてフルシチョフによるスターリン批判が行なわれます。そして、ここから過去の過ちについての反省が始まり、多くの政治犯が社会復帰するチャンスを得ることになります。当時、カザフスタンの小さな村で数学教師として働いていた彼に対する処分も緩和され、彼はついにモスクワに戻ることを許可されました。なお、この時の彼の教師体験が元になっているのが、後に小説として発表される「マトリョーナの家」です。
こうして、スターリンによって芸術家としての活動の場を奪われていた多くの作家は、少しずつ作家活動に復帰し始め、彼もまた中学で数学と物理を教えながら執筆活動を開始します。
1962年、彼はソ連作家同盟の機関誌「新世界」に編集長アー・トヴァルドーフスキーの序文つきで本書が掲載されます。スターリンによって収容所生活を余儀なくされていた人物による実録小説という話題性もあり、本書はすぐに話題になり、海外からも注目されることになりました。そのおかげで執筆に専念することが可能になった彼は、教師をやめます。しかし、この時すでに彼の作品に対しては批判的な意見も出始めており、1959年に発表されていた彼の長編小説「第一の環のなかで」は、その後国家保安委員会によって没収されることになりました。
<「イヴァーン・デニーソヴィチの一日」>
本書は、彼が石工技術者として働かされていた3年間の収容所生活がもとになっています。朝5時の起床から、朝食、作業、昼食、作業、そして、夕食から就寝まで、その過程を追った実録小説。その主人公は、けっして英雄的な人物ではありません。もちろん、彼は英雄的な行動をするわけでもなく、実に冷静に日常を見つめ、収容所で生き残ってゆくために必要な行動を淡々とこなしてゆきます。その当たり前の行動に読者は自然に感情移入することができ、彼の危険回避能力に感心するでしょう。中編小説とはいえ、読んでいてまったくあきないのは、常に彼の日常には「危険」が潜んでいるからです。たまたまその日は何もなかったけれど、ちょっとした不運や偶然によっては、その一日が最悪のものとなり、15日間の営倉入りや病気や怪我による死の可能性すらありえたのです。その意味で、この小説は緊張感にあふれた命がけのサスペンス小説でもあるのです。
もうひとつ、この小説の大きな魅力は、厳しい収容所の生活を描いていながら、皮肉や笑いもあり、囚人たちの個性も実に魅力的に描かれた素晴らしい人間讃歌でもあることです。どんなに厳しく苦しい生活でも、人間はそこに順応しながら、どこかに喜びや生きがいと言うものを見いだして生き抜くものであると、力強く宣言してもいるのです。
いつ釈放されるかも分からず、いつ営倉に入れられるかも分からず、いつそこで死を向かえるかもしれない、そんな悲劇的状況で生きる人々が、何不自由なく生きる人々を元気づける。
これぞ、小説が生み出す奇跡の偉業です。
「シェーホフはすっかり満足しきって、眠りについた。彼はきょう一日、いろいろと運がよかった。営倉にはぶちこまれなかった。自分の班は、社会主義団地には駆り出されなかった。昼飯のときには、おかゆをうまくちょろまかした。班長が、作業量見積もりをうまく取り決めてくれた。シェーホフはブロック壁を楽しく積んだ。手鋸の刃が、身体検査で見つからずにすんだ。晩にはツェーザリから稼がしてもらったし、たばこも買えた。病気にもならずに、なんとかやりとおせた。なんにも気がめいるようなこともなく、ほとんど幸福だといえる一日が過ぎたのだ。・・・・・」
ソルジェニーツィン同様主人公は共産主義思想において重要な唯物論、神の否定については党と同一の見解のようです。なぜ、お祈りをしないのかと仲間のひとりに質問された彼はこう答えたそうです。
「だって、アリョーシカ、そのお祈りってのは、申請書みたいなもんで、届かなかったり、<請願却下>になったりするからさ」
しかし、作者のソルジェニーツィン自身は、神の不在を軽視しているわけではなく、それだけ芸術には責任がともなうという認識をもっていたようで、あるインタビューではこう語っていたそうです。
「世界中の人々に対する宗教の影響が弱まっている現代では作家の任務は極めて重いものになってきています」
そして、第4回ソ連作家大会あての公開状の中でこう書いています。
「文学が同時代の社会の呼吸する空気とならず、文学が自らの苦悩と不安を社会に伝えることもできず、せまりくる道徳的、社会的な危機に対して時を逸せず警告を発することもできないならば、それはもう文学の名に値せず、化粧品となんら変わりもなくなってしまう」
なぜ、収容所(懲役ラーゲル)での生活がいつまで続くかわからないつらい毎日ではあっても、なお耐えられたのか?その理由の一つは、次の文章にあるのかもしれません。
「懲役ラーゲル(収容所)でいいのは - ここでは、何をしゃべろうと自由だということだ。ウースチ・イージマでは、民間にはマッチがないなどとささやこうものなら、投獄されて、さらに刑期が十年つぎたされた。だが、ここでは、上段の寝床から好きかってにどなっても
- それを密告しようなんて者もいないし、保安部の連中も、手を振って、取りあおうとはしなかった。ただ、ここでは、たくさんしゃべる暇がないだけだ・・・・・」
作家にとって最も重要なことは、「表現の自由」かもしれませんが、ごく普通の労働者デニーソヴィチにとっても、自由に話ができる空間であることは、正気で生きるために必要なことのひとつなのです。
もしかすると、この本はタイトルとストーリー概略では読む気になれないかもしれません。しかし、小説とはどんなに面白くなさそうな状況を描いたとしても、なお人を感動させたり、笑わせたりすることが可能な言葉の魔法なのです。ドストエフスキーやトルストイ、チェーホフなど、世界の文学史に残る作家を輩出して来たロシア文学の伝統は自由が失われた異常な社会体制の下でもなお、素晴らしい文学を生み続けた。その証明が、この小説です。
<亡命、そして帰郷>
1966年、彼は「ガン病棟」の第一部を完成させますが、ロシア国内の出版社に発表を断られます。1967年、彼と同じように出版の自由を奪われた作家たちが、検閲制度の廃止を求める活動を始めますが、彼らはソ連の作家大会で完全に無視されてしまいます。それどころか、彼の公開質問状が国外での反ソ活動で利用されているという批判を受けることになります。
1969年に彼はソ連作家同盟から除名されますが、逆に世界的な評価は高まり、翌1970年ついに彼はノーベル文学賞を受賞します。しかし、そのことは逆にソ連国内での彼に対する反発の原因となり、1974年、ついに彼は国家反逆罪により逮捕され国外追放処分を受けることになります。これは、トロツキー以来45年ぶりの処置でした。
その後、彼はいくつかの土地を経てアメリカに住み、ソ連の民主化に向けた活動を続けました。彼のそうした活動が報われ、再びその帰郷が認められることになるのは、1990年に始まったゴルバチョフによるペレストロイカ以降のことになります。
彼にとって本当の自由の獲得は、アメリカへの亡命よりも、ロシアへの帰郷だったはずです。多くの反体制活動家が、故郷の地を二度と踏むことなくこの世を去っていったことを考えれば、彼の人生は報われるものだったといえるでしょう。
1994年、彼は再び故国の地に帰り、そこで静かな余生を送った後、2008年8月3日、モスクワの自宅で家族に見とられながら静かに息を引き取りました。享年89歳でした。
「イヴァーン・デニーソヴィチの一日」 1962年
(著)アレクサンドル・ソルジェニーツィン
(訳)稲田定雄
角川文庫
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