ドイツから来た日本サッカー界の救世主


- デットマール・クラマー Dettmar Cramer -
<奇跡のメダルをもたらした男>
 日本男子サッカーが20世紀中に唯一獲得したメダルは、1968年メキシコ・オリンピックでの銅メダルです。その後、日本のサッカー界は長い低迷期に入り、メダルどころか、オリンピックに出場することすらできなくなります。その意味で、オリンピックでの銅メダルは奇跡的な快挙だったといえます。なぜ、そんな快挙が実現したのか?釜本という天才ストライカーと彼に素晴らしいパスを供給した杉山の存在は確かに大きかったでしょう。しかし、彼らも含め、チーム全体に勝つための準備をさせたドイツ人コーチ、デットマール・クラマーの存在を忘れることはできません。彼がチームに与えた戦うためのスピリットとサッカーをプレーするためのしっかりとした基礎なくして、メキシコでの活躍はなかったはずだからです。なにせ彼らはメキシコに勝っただけでなく、予選リーグではブラジル、スペインと引き分けてもいます。それは運や偶然のなせる技ではなかったはずです。
 オリンピック史上最も高い土地で行われた大会で、どのチームにも走り負けない体力と強い精神力をもたらしたドイツから来たコーチ、デットマール・クラマーとはどんな人物だったのでしょうか?有名チームの監督でもなく、ほぼ無名の存在だったコーチが日本の救世主となり、「日本サッカー界の父」とまで言われるようになったのはなぜなのか?に迫ろうと思います。

<デットマール・クラマー>
 デットマール・クラマー Dettmar Cramerは、1925年4月4日にドイツのドルトムントで生まれています。父親は造園業の職人でドイツ各地を転々とまわる仕事だったようです。彼がサッカーを始めたのは、8歳から9歳の頃と遅かったようですが、上達は早く、16歳の時にはプロのユース・チームからスカウトされました。ところが、チームの練習場までが家から遠く父親が不在では送り迎えも無理で、入団を断ろうとしました。幸いなことに、そんな彼のためにチームは自転車をプレゼントし、それで通うよう説得。こうして、彼はチームの一員となり、そこで恩師となる人物、ゼップ・ヘルベルガーと出会います。
 彼は元々、サッカー選手になることよりも医師、それもスポーツ医学の専門医になるつもりで、医学の勉強に熱心に取り組んでいたようです。彼は日本人よりも背が低く、プロのサッカー選手には向かないと思っていたのかもしれません。しかし、そうした彼の勉強が後に彼のコーチとしての仕事に大いに役立つことになります。

<戦争体験>
 彼のサッカーにかける情熱は、戦争によって中断させられます。当時、ドイツはヒトラーによる支配のもと、第二次世界大戦に向かいつつあり、彼も17歳で徴兵され、落下傘部隊に配属されます。多くの兵士の命が失われる中、兵員不足も深刻になり、彼は19歳にして少尉になり、部隊長に抜擢されます。この頃からすでに彼の統率力は優れていたのかもしれません。しかし、彼はそうして部隊長に昇進していたことから、終戦後、将校として扱われて捕虜となり、厳しい尋問を受けることになりました。
 一年後、やっと釈放された彼は、小さなサッカークラブのコーチの職を得ました。彼のサッカーにおける分析能力はチームでも高く評価され、その後、体力が戻ってからは選手兼コーチとして活躍し始めます。
 ちょうどその頃、かつての恩師ゼップ・ヘルベルガーは西ドイツ代表の監督に就任しており、ケルン体育大学の講座主任にもなっていました。忙しい彼は、クラマーを助手に呼び寄せてくれました。こうして彼は本格的にサッカーのコーチとして働き始めます。

<日本サッカー界の危機>
 1956年のメルボルン・オリンピック。日本のサッカー代表チームは、アジア予選で韓国との出場決定戦で一勝一敗となり、抽選によりかろうじて出場権を獲得しましたが、一回戦でオーストラリアに0-2で敗れ、一回戦敗退をなりました。
 1958年に東京で開催されたアジア大会では、フィリピンに0-1、香港にも0-2で敗れるという、屈辱的ともいえる一次リーグでの敗退となりました。
 1959年のローマ・オリンピックも韓国に敗れ、本大会にすら出場できませんでした。
 4年後の1964年に東京で、開催される予定の東京オリンピックに日本代表は開催国枠で出場権を得ていましたが、このままでは開催国としての面目が守れないことは明らかでした。そこで日本サッカー協会は、代表チーム強化策として3つの基本方針を打ち出します。
1.外国からプロのコーチを招く
2.日本代表チームを海外に派遣して試合経験を積ませる
3.若いコーチを外国に留学させる
 たまたま当時のサッカー協会会長の野津謙(ゆずる)が医師でドイツ語に堪能だったこと、ドイツに知人が多かったことなどから、元の同盟国として親日でもあるドイツに指導者の派遣を要請することになります。そして、その要請を受けたドイツ側のサッカー協会技術部長がヘルベルガーだったことから、日本代表の新コーチとして、クラマーの名前が挙がることになったのでした。
 野津はさっそくドイツのケルン大学に留学する予定だった成田十次郎を呼び寄せると、彼にドイツ側から推薦されたクラマーという人物についての調査を行わせ、自らも彼に会うためドイツに向かいました。
 彼との初対面の日、彼の部屋の壁に貼ってあったギリシャの哲学者の言葉を読んで、すぐに彼との契約を決断したといいます。
「目、それ自体は見ることができない。耳、それ自体は聞くことができない。ものを見るのは精神であり、音を聞くのは精神である」

<日本代表のコーチとして>
 1960年、日本代表チームの海外遠征が実現します。竹腹団長、高橋英辰監督以下19名がヨーロッパ遠征に出発。40日間に10カ国で10試合が予定されていました。もちろん、クラマーも彼らを迎えに向かい、さっそくドイツで彼らの指導を開始します。すると、彼らのプレーを見て、すぐに彼は日本代表の弱点に気づいたといいます。それは、彼らはサッカーの基本ともいえるキックやヘディングの基礎をそもそも身に着けていなかったということです。そこで彼は、選手を集めると2時間、びっちりとボールを蹴らせ続け、その精度をチェックさせました。当然、彼らは繰り返しボールを蹴らされることに疑問を持ち、ドイツまでわざわざ来たのにこんな単純な練習か?と文句を言い始めました。
 翌日、クラマーはそんな選手の不満に気づきながらも、今度はヘディング練習を繰り返し行わせます。天井からぶら下げたボールを頭で正確にヒットすることの繰り返しでしたが、選手たちは意外に苦戦。それに比べるクラマーのヘディングは、明らかに選手たちよりも正確にヒットしていました。
 首の固定の仕方、上半身の使い方、バックスウィングの姿勢など、クラマーは個々の選手のフォームをチェックしながら直して行くと、それは明らかに修正されて行きました。同じようにサイドキックでのセンタリングの練習でも、クラマーの正確さは明らかで、20m先の目標に彼だけが正確に当てることができました。
 こうして、クラマーは選手たちにサッカーの基礎から練習し直させると同時に、スポーツ医学の専門家として学んだ身体と精神のケア、さらにシューズや用具の手入れ、食事の重要性など、様々なことを教えました。
 遠征の終了後、クラマーは来日しますが、すぐに選手たちの合宿する宿に合流し、自分も共に生活し始めます。選手たちと同じ日本食を食べ、箸の使い方を練習し、選手名を覚えただけでなく、日本の文化についての勉強にも熱心でした。来日前から、サッカー以外の日本の文化についても様々な分野について勉強していたようです。
 日本庭園、禅、茶道、黒澤明の映画だけでなく、カミカゼ特攻隊や大和魂など、日本の精神文化についても学んできたといいます。ここまで選手たちのことを知ろうと努力してきたことで、選手たちの彼に対する信頼感が生まれるのは当然でした。

<残された遺産>
 こうして基礎から鍛え直された日本代表は、本番の東京オリンピックではグループ・リーグで強豪アルゼンチンに勝利し、ベスト8に進出。チェコスロバキアに破れてベスト4こそ逃したものの、一躍、世界のサッカー界を驚かせる存在となりました。
 ここでクラマーの役割は終わり、ドイツに帰国しましたが、彼は帰国を前にして5つに提言を残しました。
(1)強いチーム同士が戦うリーグ戦の創設
(2)コーチ制度の確立
(3)芝生のグラウンドを数多く造り、維持すること
(4)国際試合の経験を多く積むこと。代表チームは一年に一回は欧州遠征をおこない、強豪と対戦すること
(5)高校から日本代表チームまで、それぞれ2名のコーチを置くこと
 この提言に基づいて、1965年、日本サッカーリーグ(JSL)が発足し、釜本はドイツに留学。さらにクラマーは来日中、全国各地を巡って、サッカー講習会を行い多くの若手にも指導を行いました。そして、その中にはメキシコ・オリンピックで代表メンバー入りをすることになる森孝慈などもいました。

<メキシコ・オリンピックにて>
 1968年のメキシコ・オリンピックで、クラマーは監督、コーチとして参加はしませんでした。しかし、彼の残した遺産(レガシー!)は、日本代表チームにしっかりと残されていました。そして、アジア予選を勝ち上がって出場した本大会でも、前回以上の活躍を見せます。
 一次リーグでは、アフリカ代表のナイジェリアに3-1で勝利し、残る二試合もブラジルとは1-1、スペインとは0-0でいずれも引き分け持ち込んで見事に準々決勝に進出します。準決勝では、東欧の強豪ハンガリーに0-5で敗れ、3位決定戦にまわることになりました。
 3位決定戦の相手は開催国のメキシコ。完全アウェーの中、日本は前半はじくりと守り、メキシコの攻撃を跳ね返し続けます。逆に少ないチャンスを生かして先制すると、地元メキシコの歯がゆい攻めにイライラした観衆は日本を応援し始めました。まさかの「ハポン!ハポン!」の合唱が起きます。
 クラマーの指導により正確無比なセンタリングを身に着けた杉山からのパスにドイツ留学で身に着けた身体能力と勝負強さで反応した釜本のシュートで勝負は2-0で日本の勝利となりました。
 会場にかけつけて教え子たちの見事な勝利を目にしたクラマーは、試合後、選手村に駆け付けますが、選手たちのほとんどは脱水症状や疲労、怪我でベッドに倒れ込んでいたといいます。この時のことを後に、クラマーはこう語っています。
「まさに空前絶後、スポーツにおける至福の瞬間だった。ジャーナリストやカメラマンは選手棟に入れないことになっていたが、わたしはカメラマンを招き入れて、あの時の日本選手たちを写しておけば良かったと、何度思ったことか。それほど感動的なシーンだった」
 試合後の記者会見の席ではこう語っていました。
「私は初めて日本に来た時に、大和魂に出会いたいと言いました。皆さん、覚えていますか?そして先ほどまで、その大和魂が目の前にあったのです。・・・私が求めていたのは、まさにこれでした。全力を出し切った選手たちの答でした。・・・」

<追悼>
 2005年に創設された日本サッカー殿堂にクラマーは、「日本サッカーの父」として最初に選出された一人になりました。その後、2015年9月17日に彼はこの世を去りましたが、最後まで彼は日本を愛し、第二の母国と語っていたそうです。
 日本サッカーにとっての技術、組織両面の基礎を築き、最初の栄冠をもたらしてくれたデットマール・クラマーさんのご冥福を改めてお祈りしたいと思います。

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