永遠のポップスを探求し続けるメロディーメイカー


- デヴィッド・フォスター David Foster -
<シカゴの破壊者>
 このサイトでは、基本的に僕自身が知りたいアーティストや作品を取り上げているので、有名だからと言って必ず取り上げているわけではありません。その意味では、ここで取り上げるデヴィッド・フォスターは正直好きなアーティストとは言えないかもしれません。なぜなら、彼は大好きだったブラスロックの雄、シカゴを軟弱なAORの代表的存在にしてしまった戦犯だからです。これは古くからのシカゴファンにとっては有名な話です。
 改めて、彼がブレイクさせたアーテイストの顔ぶれを見ると、セリーヌ・ディオン、ホイットニー・ヒューストン、ナタリー・コールなど、いずれも大人のポップ・アーティストであって、ロック的なアーティストではありません。
 今時古すぎる考えですが、ロックファンにとって彼はヒーローでないことは確かです。今回、彼の人生を振り返ったドキュメンタリーを見ましたが、彼は妻と子供にとっても良い家庭人とはほど遠かったようです。(なんと4度の離婚!)しかし、彼の音楽へのこだわりが半端なかったのは間違いなく、多くの名曲を生み出してきたことも間違いないし、その中には永遠に歌い継がれる曲もあるでしょう。彼が偉大なソングライターであり、偉大な音楽プロデューサーであることも間違いありません。
 しゃあない、デヴィッド・フォスターについて書いてみます。

<青春時代>
 デヴィッド・フォスター David Foster は、1949年11月1日カナダのブリティッシュ・コロンビア州ビクトリアに生まれています。幼少期、彼が絶対音感の持ち主であるとわかったことで、公務員だった父親は彼をクラシック音楽の道に進ませようと考えました。しかし、ある日、ビートルズの曲をラジオで聴いてしまったことで、彼の人生は変わってしまいました。
 1960年代半ば、彼は親の反対を押切りロックン・ロールのバンドを結成し、英国へと渡りました。バンドはすぐに解散してしまいますが、彼は優秀なキーボード奏者として、英国ツアーをしていたチャック・ベリーボ・ディドリーらのバック・バンドで活躍し始めました。クラシック音楽出身の彼は当初、それとは全く異なるチャク・ベリーのブラックな音楽に悪戦苦闘しました。残念ながら、彼自身は英国で成功することはなく、母国カナダに舞い戻ることになりました。

<下積み時代>
 英国からの帰国直後、父親が心臓麻痺で倒れ、54歳の若さでこの世を去ってしまいました。彼は18歳にして、一家の長となりましたが、固い仕事に就く気にはなれず、再びミュージシャンとして活動しようと家を出てしまいます。
 こうして彼はロニー・ホーキンスのバック・バンドに入り演奏し始めます。後にあのザ・バンドをバックに従えることになるカナダのミュージシャンです。しかし、お前には才能があるから、自分でバンドを作れといわれ追い出され、1971年自分らのバンド、スカイラークスを結成。1973年にはシングル「Wild Flower」をヒットさせます。しかし、彼はバンドを率いるというより、一匹狼的人間だったようで、すぐにバンドを解散。セッション・ミュージシャンとして、ロサンゼルスで活動する道を選択します。
 セッション・ミュージシャンとして様々な録音にかかわるようになった彼は、大ヒット、カルト・ロック・ミュージカル「ロッキー・ホラー・ショー」のピアノを担当し、その後音楽監督も任されることになりました。

<売れっ子プロデューサーへ>
 彼は、バーブラ・ストライサンドの録音でピアノを演奏し、そこで彼女にその実力を認められ、アルバムのプロデュースを任されます。これがきっかけとなり、彼のもとにはプロデュース以来が次々に来るようになります。
 ソウル・コーラス・グループのフィフスディメンション、カントリー界の大御所ドリー・パートンのプロデュースの後、1979年モータウン・レコードのベリー・ゴーディーの前でアース・ウィンド&ファイヤーのための曲を演奏し、それが「After The Love Has Gone」を誕生させます。この後、彼はアース・ウィンド&ファイヤーのアルバムを3枚担当。
 いよいよプロデューサーとして高い評価を受けはじめた彼に、シカゴからプロデュース以来が来ます。当時のシカゴは、60年代からのハードなブラス・ロック・バンドとしての人気が陰りをみせ、鳴かず飛ばずの状態にいました。そこで彼がプロデュースすることになったアルバム「シカゴ16」からは、ヴォーカルに新たにビル・チャンプリンが参加。新たなスタートを切る予定でした。先ず初めに、シカゴのメンバーが提示した録音用の曲を聞かされたデヴィッドは、すべてを不採用としました。このままでは、何も変わらないとして、それまでのブラス・ロックのスタイルを捨てさせます。
 1982年、こうして誕生したシングル「Hard To Say I'm Sorry」は、全米ナンバー1ヒットとなり、シカゴの人気は復活しました。ただし、それまでのシカゴのファンだけでなく、シカゴのメンバー内でもこの変化に納得ゆかない反対派が多かったのも事実です。結局、デヴィッドと共に新しいシカゴのスタイルを生み出したピーター・セテラはシカゴを脱退し、ソロ・シンガーとして活躍することになります。
 その後も、彼のプロデューサーとしての活躍は続きます。
 1985年、ディオンヌ・ワーウィック&フレンズによるエイズのチャリティー曲「愛のハーモニー」をプロデュースし大ヒットさせました。
 1991年、偉大なジャズ・シンガー、ナット・キング・コールとその娘ナタリー・コールによる夢のデュエットを実現させたのも彼の功績です。デジタル技術の応用によって実現した二人のデュエット曲「Unforgettable」は、大ヒットとなっただけでなくグラミー賞も受賞しています。
 次に彼が挑んだのは、映画音楽、それも当時すでに大スターだったホイットニー・ヒューストンの初主演作「ボディー・ガード」の音楽でした。当初の予定では、映画は本格的なサスペンス映画になりホイットニーが歌うシーンは少しだけでした。しかし、デヴィッドはソニーレコードのクライブ・ディヴィスにホイットニーの歌う場面をもっと増やすよう進言。彼は映画のためにドリー・パートンの曲だった「Allways Love You」を見つけ、オープニングのアカペラから弦楽器による伴奏へと進む編曲により歴史的名曲を生み出したのでした。

<衝撃の交通事故>
 マイケル・ボルトンのアルバム録音を終え、真夜中に車で帰宅する途中、彼は道に飛び出してきた男性を撥ねてしまいます。その男性は黒人のミュージカル俳優ベン・ヴェリーン。まともに撥ねられた彼は、奇跡的に死なずに済みました。それどころか、ベンはその時、硬膜下血腫による異常行動によって道路に飛び出してしまっていたことが明らかになります。その事故に責任を感じていたデヴィッドはその診断に驚き、救われました。それどころか、彼がもしベンを撥ねていなければ、そのまま硬膜下血腫によって彼は死んだいたとも言われたのです。彼はまさかの命の恩人となったわけです。

<セリーヌ・ディオン、マイケル・ブーブレ>
 彼はプロデューサーとして、大物アーティストを扱うだけではありませんでした。
 地元カナダ、ケベック州の歌姫の噂が伝わってきました。それがまだアメリカでは無名の存在だったセリーヌ・ディオンでした。
 早速、その歌声を聞いた彼は衝撃を受け、すぐに彼女をスカウトし、ロサンゼルスに呼び寄せ、自らのプロデュースによってメジャー・デビューさせました。
 知人だったカナダの元首相マルルーニー夫妻から紹介された青年の歌声にも彼は衝撃を受け、すぐに彼も自分でプロデュースしデビューさせます。それが21世紀版フランク・シナトラとも呼ばれるイケメン・ボイスのシンガー、マイケル・ブーブレです。

<録音スタジオから出て>
 21世紀に入り、彼は録音スタジオを出て、自らのオーケストラを率いたライブ活動を始めます。
 さらには、唯一手を出していなかったミュージカルの分野にも進出し、トニー賞の獲得に意欲を燃やしています。
 彼はオリンピックの音楽にも積極的に挑戦し続けています。
 1988年カルガリー・オリンピックのテーマ曲「Winter Games」
 1996年アトランタ・オリンピックの「The Power of the Dream」をベビー・フェイスと共作。
 2002年ソルトレイク・オリンピックでも「Light the Fire Within」を作曲しました。

 若かりし頃は、エゴの塊で、トラブルや家族から逃げ、思い通りに仕事を進めることしか頭になかったというデヴィッド。
 そんな中、完璧な編曲で生み出された完璧なポップソングによって、グラミー賞16個を獲得。
 彼の願いは永遠に仕事を続けることとのことですが、それは無理なこと。それでも彼が残した歌の数々は永遠に 歌い続けられる可能性があります。
 彼の作曲家・編曲家としての仕事を認めざるを得ません。大したものです。

ドキュメンタリー「デイヴィッド・フォスター:名曲の裏にのぞく素顔」 David Foster: Off The Record 2020年
(監)(製)(脚)バリー・アブリッチ(カナダ)
(製)ランディ・レノックス(編)ユージン・ヴェイス(撮)ケンNG
(出)デイヴィッド・フォスター、バーブラ・ストライサンド、クインシー・ジョーンズ、セリーヌ・ディオン、キャロル・ベイヤー・セイガー、ポール・アンカ
ビル・クリントン、ピーター・セテラ、ロバート・ラム、クライヴ・デイヴィス、マイケル・ブーブレ、アンドレア・ボッティチェリ、デイヴィッドの娘たち 
「「素直になれなくて」シカゴ「アフター・ザ・ラブ・ハズ・ゴーン」E,W&F「アンフォアゲッタブル」ナタリー&ナット・キング・コールなどの生みの親
作曲家、ピアニスト、製作者デヴィッド・フォスターの名曲たちの制作秘話と彼の人生に迫ったドキュメンタリー

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