「悪魔のパス 天使のゴール」

- 村上龍 Ryu Murakami -

<サッカー・ファンのための小説>
 この小説は多作な村上龍の作品中あまり知られていない部類にはいるでしょう。なぜか?それはこの小説がサッカー・ファンのための小説だからです。特にラスト近く、278ページから374ページまで100ページにわたって描かれているサッカーの試合は、まるでセリエAのサッカー中継をそのまま文字に起こしたかのように詳細に描写されていて、それを頭の中で映像化してゆかなければなりません。それも実際の試合のスピード感を再現するためには、どんどん読み進まめないと面白さが半減してしまうかもしれません。例えば、こんな感じの描写が続きます。

「冬次が中央からゴール前に飛び込んできて、ユリアーノとモンテーロの隙間を駆け抜けた。モンテーロがあとを追ったが、ファン・デル・サールがそのモンテーロに何か叫んだ。おそらく、ファールするなと言ったのだろう。冬次はすでにペナルティーエリアの中にいてファールは許されなかった。それにたとえオウンデのミスキックを冬次が押さえても、そのあとで動きを封じればいい。ファン・デル・サールはそう判断したのだ。すると突然、冬次が宙に飛んだ。オウンデからのボールをからだの正面で受けるかのように、左足で高くジャンプした。そしてボールの落下に合わせて、後ろ向きに一回転した。まるでスローモーションを見ているような優雅な動きだった。・・・・・」

 もちろん、ファン・デル・サールとは、あのオランダの守護神のゴールキーパーです。無駄なく動きをスムーズにかつ緊張感たっぷりに描き出す描写力はさすがです。しかし、この描写を頭の中で誰もがスムーズに映像として描き出せるわけではありません。そのうえ、著者はあえて選手たちの心の内を描くことをしていません。それは実際に試合が始まってしまえば、どの選手もマークする相手とボールの行先だけに集中してプライベートな悩みなど考えている暇などないという思いがあるからだそうです。だからこそ、ここで描かれている選手たちは、ボールを蹴る前に今日までの苦労や両親の姿を思い描いたりしないのです。まして「巨人の星」のように延々と過去の思い出をさかのぼって、その思いをボールにこめるなんてことなどするわけがありません。当然、そうなるとそこで描かれているのは、余計な飾りや「思い」などを切り捨てた純粋なサッカーそのものの姿ということになるわけです。

 そうなると読者はなおのこと本の中で文字によって展開されている試合をありのままに頭の中で再現することが求められます。そして、試合のスピード感や疲労感や緊張感を感じとらなければ、作品の世界に入り込むことはできないでしょう。これはまさに「読むサッカー」です。

 もともとこの小説はサッカー・ファンの著者が、セリエAで当時活躍していた中田英寿の取材を行う中でセリエAの試合を見続けたことでその魅力にはまり、イタリアの現場で見た熱狂的な試合の雰囲気からそのアイデアを思いついた作品とのことです。 「サッカーは戦争である」といいますが、それは比喩でもなんでもなく、ボールを介在し、ルールによって仕切られた武器のない戦争と考えるものであると、僕も思います。
 かつて、サッカーの試合結果から実際に戦争が始まったこともありましたが、もともとサッカーはイングランドで村と村との全員参加の代理戦争として始まったものです。ボールを村と村の間で奪い合い、それをゴールまで運んだ方が勝つというのが基本的なルールでした。そして、当初はボールを奪うためには暴力行為なんでもありという単なるボールをめぐるケンカのようなものでした。

<セリエAの国、イタリア>
 イタリアの場合は、イタリア王国として統一された1861年までイタリアという統一国家は存在せず様々な都市国家の集合体だったという歴史があります。そのため、古い街になるほど、街にはかつて都市国家だった頃の歴史が残されていて、街と街との戦いの記憶もまたそう古いものではありません。
 だからこそ、イタリア各地の街のチームが対戦するセリエAの試合は、かつて実際に行われた街同士の代理戦争の記憶と結びつくことで、単なるサッカーの試合を越えるものになりうるのです。

<黄金メンバー>
 この小説の終盤に登場するユベントスのメンバーは本当に凄い!サッカー・ファンならウィニング11ではなく、その顔ぶれを実際に指揮して戦うなんてまさに夢のようなことです。きっと著者も、ユベントスの豪華メンバーに自分の思い通りの試合をさせることで至福の時を過ごしたに違いありません。この部分が100ページにも及ぶ長さになったのもうなずけます。映画ファンが、ショーン・ペン、ロバート・デニーロ、ジャック・ニコルソンにメリル・ストリープ、スーザン・サランドン、ニコール・キッドマンを使って映画を撮れといわれれば、一時間半の映画では当然不満なはずです。
「永遠にカメラを回し続けたい」そう思うのが当然でしょう。長くなるのは当然です。

<サッカーというスポーツ>
 この小説では、サッカーというスポーツとイタリアという国の関係についても実に詳しく描かれています。

「サッカーはなかなかゴールが入らない。ディフェンスは必死で守っているので、ゴールというのは基本的に奇跡だ。イタリア人は奇跡を見に行くわけで、一度でもその興奮を体験すると、それを期待する空気がスタジアムに充満する。それはいつ爆発してもおかしくない爆弾のようなもので、意識は、完全に日常から解放される。いつ爆発してもいいように、神経が準備を整えるのだ。人々の意識が日常から離れてしまうこと、大爆発を待つこと、それが危険な雰囲気を生む。そしてその危険な雰囲気は、蒸し暑い夏に吹く風のように心地よいものだ。イタリア人はそういう心地よいスリルが人生に必要なものだということを知っている。」

 さらに重要なサッカー・ファンという存在が「フーリガン」で代表されるテロリストと紙一重の危険な存在であることです。

「通路に座っている男たちは、おそらくほとんどブルーカラーだ。彼らはアルマーニやグッチやヴェルサーチとは無縁で、薬品工場やガスステ−ションや操車場で働きながら、バールで仲間たちとサッカーの話をすることで生きる力を得ている。ユベントスは彼らのプライドであり、人生そのもので、決して趣味ではない。ユベントスというチーム、そしてサッカーというスポーツがイタリアから消えたら、彼らは次の日からテロリストか犯罪者になるかも知れない。・・・・・」

 代理戦争としてのサッカーという本質からすれば、サッカーという競技が続く限り、そこには影の部分が存在し続けるのでしょう。サッカーは本当に奥深いスポーツです。これ以上ないシンプルなスポーツだからこそ、それは世界中に広がり、経済と結びつき、政治と結びつき、友情と結びつき、夢と結びつき、・・・・・。
 あらゆるものと結びつきながら、なお勢力範囲を広げ続けているサッカー、恐るべきスポーツです。

<あらすじ>
 矢崎剣介は、テレビ番組の台本を書いたり、ドキュメンタリー映画やCFを撮ったり、中米音楽を輸入したり、小説を書いたりするフリーの何でも屋です。彼は仕事で訪れたフランスでセリエAで活躍する日本人サッカー選手、夜羽冬次と知り合い、その後も交流を続けていました。ある日、剣介は冬次からヨーロッパ・サッカー界で広がりつつある怪しい噂についてのメールを受け取ります。
 ここ数ヶ月の間に試合中に大活躍した選手が試合終了後に突然、倒れ心臓麻痺で命を落とすという謎の事件が何度か起きていて、そこには何かの原因がありそうだと言われているというのです。さらに彼は、あるパーティーで見知らぬ女性に声をかけられ、もし何か怪しげな薬やドリンクを飲まされそうになったら、連絡してほしいと告げられました。しかし、ジャック・モノー記念分子細胞生物研究所に勤めるその女性はその後行方不明になってしまいます。そして、事件には彼女が開発に関わっていた薬品が関係していたことがわかってきます。
 冬次から依頼された剣介は、その事件について調べ始め、謎の女性を探し出し、彼女との接触を試みます。すると少しずつ、その薬品の存在が明らかになり同時にそれを用いることで、ヨーロッパ・リーグに進出する他の地域の選手を狙う組織の存在も明らかになってきました。
 もしかすると、次のターゲットは日本からやってきたよそ者の冬次かもしれない。そんな不安を感じる中、冬次が所属するセリエAのチームがセリエAへの残留をかけてシーズン最終戦にのぞむことになりました。しかし、彼らの相手は最終戦に優勝をかけてのぞむ名門チーム、ユベントスです。デル・ピエーロ、ジダン、ダーヴィッツ、インザーギ、ザンブロッタ、ファン・デル・サールなど、キラ星のごとき選手からなるチーム相手に勝機はあるのか?いよいよ試合開始の時刻が近づいてきました。

「悪魔のパス 天使のゴール」 2002年
(著)村上龍 Ryu Murakami
幻冬社

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