「灰とダイヤモンド Popio I Diamont」 1958年

- アンジェイ・ワイダ Andrzej Wajda -

<第二次世界大戦を描いた映画>
 第二次世界大戦とその前後を描いた映画は数多くあり、世界各地でそれぞれの国を舞台に多くの作品が作られました。オーストリアでは「第三の男」、イタリアなら「戦火のかなた」や「無防備都市」、ドイツでは「地獄に堕ちた勇者ども」、イギリスでは「戦場の小さな天使たち」、アメリカなら「父親たちの星条旗」「史上最大の作戦」など、数え上げるときりがないでしょうし、これからも作られ続けることでしょう。最近になってかつては描けなかった戦争の悲惨さや残虐さ、裏側の真実が、技術的、精神的に描けるようになったことも多いのでしょう。「戦場のピアニスト」、「硫黄島からの手紙」、「ヒトラー 最後の12日間」、「シンドラーのリスト」、「プライベート・ライアン」など数々の傑作が生まれています。しかし、かつて戦後まもなくにも同じぐらい傑作が生まれていました。それらは当時まだそのまま残されていた戦争の傷跡を使用することで撮られた究極のリアリズム映画でした。前述の「無防備都市」「戦火のかなた」はまさにそんな中で作られた作品でした。それらの映画は、背景だけでなく俳優たちもまた戦争の傷跡を背負っており、それが戦争映画に必要なリアリズムを生み出す最大の理由になっていました。その後の映画に大きな影響を与えるイタリアン・レアリズモ(リアリズム)が、こうした戦争の傷跡から生み出されたのは偶然ではないのです。
 こうした状況の中で生まれた傑作の中でも、未だに輝きを失わない作品として、ポーランドが生んだ「灰とダイヤモンド」を忘れるわけにはゆかないでしょう。

<アンジェイ・ワイダ>
 この映画の監督、アンジェイ・ワイダ は1926年3月6日ポーランドのスワルキという街で生まれました。父親は職業軍人で母親は教師という厳格な家庭で育てられた彼は、第二次世界大戦が始ると対独レジスタンス運動に参加。戦後はクラクフ美術アカデミーで絵画を学ぶが、国立映画大学が新説されてそちらに編入。卒業後は助監督として映画製作に関わった後、「世代」(1954年)で監督デビューを飾りました。次いで発表された「地下水道」によって、彼の存在は一躍世界的なものとなりました。
 1957年、それまで厚い「鉄のカーテン」に隠されてほとんど西側世界に紹介されることがなかったポーランドからカンヌ映画祭に出品された「地下水道」は、映画祭に来ていた世界中の映画関係者に大きな衝撃を与えました。この当時、共産圏の国々では自由な映画製作は不可能で、ポーランド国内では年に10本程度しか映画は作られていなかったといいます。そんな中から現れた傑作に人々は大きな拍手を送り、彼はいきなりカンヌで審査員特別賞を受賞しました。

<ポーランドの状況>
 実は、こうしてアンジェイ・ワイダが華々しくデビューを飾ることができたのは時代の変化によるものでした。1953年、ヒトラーのナチス・ドイツに匹敵する独裁政治を行っていたソ連のスターリンがついにこの世を去りました。当然、それまでの行き過ぎた政治に不満をもっていた人々からはスターリンに対する不満が噴出。ソ連の共産主義はその反動で一時的に、より民主的な方向へと舵を切ることになったのでした。こうして始った共産圏全体における民主化の流れは、1968年にソ連軍がチェコに侵攻するまで続くことになります。幸いにして、彼はこの民主化の流れの中で映画監督としてのスタートを切ることができたというわけなのです。共産圏の映画監督たちにとって、こうした時代の変化は常に彼らの作家活動を左右する大きな問題であり続けます。しかし、そんな恵まれた状況下ではあっても、「地下水道」は、思い通りの映画を作れていたわけではありませんでした。特に重要なのは実質的な支配者だったソ連の描き方でした。「地下水道」は、ポーランドの首都ワルシャワの市民がナチス・ドイツに抵抗するために市民レベルでの戦闘を開始、ワルシャワ蜂起と呼ばれるこのゲリラ戦は悲劇的な結末を迎えることになります。ただし、この戦闘の際、すぐそばにまで来ていたソ連軍はわざとワルシャワへの侵攻を遅れさせ、その集結を待ちました。そのため、多くのポーランド人が犠牲になったといわれています。ただし、その事実は当時描くことが許されなかったため、彼は川にたどり着いた恋人たちの背景にソ連軍がいた向こう岸を描くことで観客にその事実を暗示してみせたのでした。
 アンジェイ・ワイダは続く作品である「灰とダイヤモンド」ではベネチア映画祭の国際批評家連盟賞を受賞。彼を含めたイエジー・カワレロヴィッチ、アンジェイ・ムンクらポーランドの監督たちは、「ポーランド派」と呼ばれて、世界中の注目を集めることになりました。

<「灰とダイヤモンド」の秘密>
 「灰とダイヤモンド」は1948年出版の小説を原作として作られました。ところが、この小説の主人公は反政府組織によって暗殺された統一労働党の書記長シチュクで、映画の主人公である暗殺者マチェクではありませんでした。その小説は社会主義の模範として、学校で教科書として使われるほどよく知られていた作品でした。ワイダ監督はそのことを知った上で、この小説を映画化します。なぜなら、この小説を映画化することに対しては、誰も文句をいうはずがなかったからです。そして、彼は言葉に対する検閲は可能でも、映像に対する検閲は困難であることを知っていたのでした。彼はこの映画を脚本に忠実に作り、暗殺者のマチェクはゴミ捨て場で惨めに死んで行きます。しかし、その暗殺者のマチェクは当時の流行のヘアー・スタイルとサングラス姿で、多くの若者の支持を得ます。そして、彼が死ぬシーンも、見る人によってはそれが共産党支配に対する批判を煽ることにもなったのでした。ワイダは観客を信じることで素晴らしい映画を完成することになったのです。彼はこの映画についてこう語っています。
「私がこの映画を作ったのではなく、この映画が私を作ったのだ」

<その後の活躍>
 この後も彼は常にポーランドの歴史や社会情勢を描き続けます。「灰」(1965年)、「戦いのあとの風景」(1970年)、「約束の地」(1974年)そして、1970年代後半、ポーランドでレフ・ワレサ(正確にはレフ・ヴァウェンサだそうです)によって率いられた民主化運動が高まりをみせる中、今度は彼もまた民主化運動において自らの役割を果たすことになります。その作品が1977年の「大理石の男」、1980年の「鉄の男」(カンヌ映画祭でパルムドール受賞)の二作品です。どちらも、彼にとって最高傑作と呼べる作品ですが、そこには政治的な主張と娯楽としての映画の魅力が見事に共存しています。
 「大理石の男」は脚本が1963年に完成していたものの、政府の撮影許可が得られずに1975年になってやっとその許可を得て撮られた作品でした。それは、1950年代の共産党によるプロパガンダ政策から1970年12月にグダニスクで起きた労働者に対する軍隊の弾圧事件までを描こうとしたものでしたが、ラストにその12月事件を暗示させることは検閲によってカットされてしまいました。しかし、「鉄の男」では「大理石の男」の息子が登場し、再び民主化運動のために活躍。この映画もまた、検閲によって大幅カットを命じられますが、各種労働団体からの支持を獲得することで見事公開を実現しました。

<「連帯」への協力>
 独立自主管理労組「連帯」は、ポーランドの政府が組織した労働組合中央評議会に対抗する組織として1980年に設立されました。レフ・ワレサをリーダーとする彼らは、政府に対抗する組織として、独自の労働運動を展開し、ポーランドの民主化を推し進めます。しかし、ソ連でゴルバチョフによる改革が始まるのが1985年、ベルリンの壁崩壊は1989年のことですから、共産圏における民主化はまだまだ先のことでした。そのため、ポーランドに対する圧力は急激に強まり、連帯のメンバーは次々に拘束されレフ・ワレサもまた逮捕されてしまいます。アンジェイ・ワイダもまたレフ・ワレサの依頼により連帯の協力者となっており、その成果が1980年の「鉄の男」を生んでいました。しかし、1981年に政府による戒厳令がひかれると、彼はポーランドを追われ、海外に活動拠点を移さざるをえなくなりました。
 しかし、こうした彼の活動は国境を越えて高い評価をえることになり、逆にソ連の崩壊後、彼は肩の力をぬいた「コルチャック先生」(1990年)のような作品も撮っています。そして、2000年に彼はアカデミー特別名誉賞を受賞。2007年には、彼の父親が殺されたソ連の秘密警察によるポーランド兵士の大虐殺事件「カティンの森事件」を映画化。ついに彼は自身の最終目標ともいえる作品を完成させました。

<ワイダ作品の魅力>
 彼の作品全体に共通しているのは、歴史的な事実を物語りに散りばめるだけでなく、それをドラマチックに展開させて観客をひきつけ、飽きさせない高い技術をもっているということです。それは質の高いドキュメンタリー映画のもつ魅力とも共通していますが、それともうひとつ彼には、かつて絵画を学んでいた頃に培われた独特の美的センスという武器があることも見逃せません。
 「灰とダイヤモンド」がモノクロ映画にも関わらず、まるでカラー作品だったかのような印象を観客に与えるのは、彼が作り上げる映像が「血の赤」など、そこに映し出されてはいないはずの色を喚起させる力をもっているからです。こうした映像の美学は、「カサブランカ」や「市民ケーン」など、時代を越えたモノクロ映画の傑作ほとんどに共通することのように思います。
 どの場面を見ても、画面構成が隅々まできっちりと計算されているとしか思えない美しさは、まるで名作絵画を思わせます。それは、21世紀になってもなお、多くの人々がレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザの微笑み」を見て傑作と感じる心理と共通するところがあるのでしょう。
 物語や人物設定が多少古くても、ファッションや言葉使いが今と全然違っても、画面すべてに行き渡る確固とした美学がありさえすれば、そこには時代を越える魂が宿ることになるのだと思います。
 「灰とダイヤモンド」は、そうした時代を越えた映画の中でも、「市民ケーン」、「カサブランカ」、「欲望という名の電車」、「第三の男」と肩を並べる数少ない映画のひとつとして永遠に輝きを放ち続けるでしょう。

<ズビグニェフ・チブルスキー>
 隣国に支配され続ける悲劇の国ポーランドに生まれ、闘うことで青春を燃やさざるを得なかった若者を演じたズビグニェフ・チブルスキー Zbigniew Cybulski は、この作品で一躍大スターとなります。
 彼は1927年5月6日ウクライナのクニアズに生まれました。第二次世界大戦中、まだ子供だったにも関わらず、レジスタンス活動に参加。終戦後は演劇学校で学んだ後、1954年にグダニスクで劇団ゼム・ボムを結成。そこで演出、脚本、俳優として活躍。同年ワイダ監督のレジスタンス映画「Pokolenie」に出演。その後、この映画で世界的な人気を獲得しますが、1967年1月8日ウロツワフ駅で走り出した列車に飛び乗ろうとして死亡。39歳の若さでこの世を去った彼は、「ポーランドのジェームス・ディーン」として永遠の存在となりました。

<ロマン・ポランスキー>
 後に「チャイナタウン」、「戦場のピアニスト」などの名作を撮ることになるポーランドを代表する監督、ロマン・ポランスキーは、アンジェイ・ワイダのデビュー作「世代」(1954年)に俳優として出演していました。ポーランドの悲劇、瓦礫となった街での悲惨な戦いは、無駄ではなかったということを証明した男。彼によってポーランドの歴史はしっかりと受け継がれることになりました。
彼は映画を撮るという行為について、こう述べています。
「あの時、何があったのか?それを見させるのが映画の役割だ。それを見せるために映画を撮り続けてきたのだ」

 日本でも黒木和雄、今村昌平、大島渚、熊井啓など数多くの監督が日本がかつて経験した悲劇を映像化することで成長していったように、世界各地で戦争の悲劇は優れた映画監督を生み出しました。そして、同じ過ちを繰り返さないようにと新しい作品を生み出し続けています。
 それらの作品がより多くの人々に見られることは、戦争の悲惨さを知るきっかけになると同時に、それぞれの国に対する理解を深めることにもつながります。
 輝きを失うことのないダイヤモンドのように、この映画は光と影によって戦争と政治により犠牲となった青春の傷跡を浮かび上がらせ続けることでしょう。
すべての映画ファンに一度は見ていただきたい作品です。

「灰とダイヤモンド Popio I Diamont」 1958年公開
(監)(原)(脚)アンジェイ・ワイダ
(原)(脚)イエジー・アンジェウスキー(小説は1946年発表)
(撮)イエジー・ヴォイチェク
(音)フィリッパ・ビエンクスキー
(出)スビグニェフ・チブルスキー、エヴァ・クジジェフスカ、バクラフ・ザストルジンスキー

<あらすじ>
 第二次世界大戦が終わり、ドイツの支配からロシアの支配へと変わったばかりのポーランドの地方都市。そこで大戦中、ドイツの支配に抵抗するレジスタンスとして活動していた青年マチェク(スビグニェフ・チブルスキー)は、戦争が終わり今度は新たな支配者となった共産党幹部シチュクの暗殺命令を受けます。地下での暮らしをしながら暗殺計画を準備したものの、彼は違う人間を殺してしまいます。追われる身になった彼は地下水道を逃げ回りますが、ついには惨めな死を迎えることになります。いったい彼はなんのために死ななければならなかったのか?



「大いなる西部 The Big Country」(監)(製)ウイリアム・ワイラー(原)ドナルド・ハミルトン(主)グレゴリー・ペック、チャールトン・ヘストン、ジーン・シモンズ
(バール・アイブズがアカデミー助演男優賞
「女はそれを待っている」(監)イングマール・ベルイマン(カンヌ映画祭監督賞
「鍵」(監)キャロル・リード(脚)カール・フォアマン(撮)オズワルド・モリス(出)ウィリアム・ホールデン、トレバー・ハワード、ソフィア・ローレン
「くたばれ!ヤンキース Damn Yankees! What Lola Wants」(監)スタンリー・ドーネン、ジョージ・アボット
「恋人たち」(監)(脚)ルイ・マル(撮)アンリ・ドカエ(音)ポール・ミスラキ(出)ジャンヌ・モロー、ルイ・ド・ビラロンガ
「恋の手ほどき Gigi 」(監)ヴィンセント・ミネリ(アカデミー作品賞、監督賞
「女優志願 Stage Struck」(監)シドニー・ルメット(原)ゾオ・エイキンズ(脚)ルス・ゲーツ、オーガスタス・ゲーツ(出)スーザン・ストラスバーグ、ヘンリー・フォンダ
「旅路 Separate Tables」(監)デルバート・マン(出)デヴィッド・ニーブン
アカデミー主演男優賞、助演女優賞(ウエンディー・ヒラー)受賞)
「鶴は飛んで行く」(監)ミハイル・カラトーゾフ(カンヌ映画祭パルムドール
「手錠のままの脱獄 The Defiant Ones」(監)スタンリー・ドーネン
「長く熱い夜」(監)マーティン・リット(ポール・ニューマンがカンヌ映画祭主演男優賞
「ぼくの伯父さん Mon Oncle」(監)(脚)(台詞)(出)ジャック・タチカンヌ映画祭審査員特別賞
(未だに新鮮な映画の秘密はどこに?未見の方は見てみましょう!)
「南太平洋 South Pacific」 (監)ジョシュア・ローガン
「老人と海 The Old Man and the Sea」(監)ジョン・スタージェス(原)アーネスト・ヘミングウェイ(主)スペンサー・トレーシー
「私は死にたくない I Want To Live !」(監)ロバート・ワイズ(スーザン・ヘイワードがアカデミー主演女優賞
「私は黒人」(監)ジャン・ルーシュ(シネマ・ヴァリテを代表するドキュメンタリー映画)
真夏の夜のジャズ」(監)バート・スターン(ジャズ・ライブ映画の金字塔)

この年、日本の映画観客動員数が11億2745万人(国民一人あたり年12.3回)これがピークとなりこの後、観客動員数は減り続けることになります。

「炎上」(監)市川昆(原)三島由紀夫(音)黛敏郎(製)永田雅一(出)市川雷蔵、仲代達也
「隠し砦の三悪人」(監)(脚)(製)黒澤明(脚)菊島隆三、小国英雄、橋本忍(出)三船敏郎、上原美佐、千秋実、藤原鎌足(ベルリン映画祭作品、監督、国際批評家賞
「巨人と玩具」(監)増村保造(脚)白坂依志夫(原)開高健(出)川口浩、野添ひとみ、高松英郎
「純愛物語」(監)今井正(撮)中尾駿一郎(ベルリン国際映画祭監督賞
「楢山節考」(監)(脚)木下恵介(原)深沢七郎(出)田中絹代、高橋貞二、望月優子、宮口精二
「裸の大将」(監)堀川弘通(脚)水木洋子(出)小林桂樹、三益愛子、青山京子
「裸の太陽」(監)家城巳代治(脚)新藤兼人(原)氷室和敏(出)江原真二郎、丘さとみ、中原ひとみ
「張り込み」(監)野村芳太郎(原)松本清張(脚)橋本忍(出)高峰秀子、田村高広、宮口精二
「彼岸花」(監)(脚)小津安二郎(脚)野田高梧(製)山内静夫(出)佐分利信、田中絹代、山本富士子、有馬稲子
無法松の一生(監)稲垣浩(出)三船敏郎、高峰秀子(ヴェネチア映画祭金獅子賞
「白蛇伝」(監)藪下泰司(日本初の長編カラー・アニメ映画)



ワシントンで公民権運動のための大規模デモ開催
中東危機
欧州通貨協定(西欧の通貨交換性の回復)
アラスカ、49番目の州となる
人工衛星エクスプローラー1号打ち上げ成功
フランス連合をフランス共同体に改編、ド=ゴールが首相に就任
教皇ヨハネス23世就任
ソ連の最高指導者にフルシチョフが就任
タイ、ビルマ、パキスタンでクーデター勃発
セイロン、インドネシアで内戦始まる
中国で人民公社の活動が始まる
物理学者ウォルフ・ガング・パウリ死去
特急「こだま」運転開始
NHKのテレビ契約台数が100万台突破

<芸術、文化、商品関連>
トルーマン・カポーティーが「ティファニーで朝食を」発表
日清食品「チキンラーメン」発売(インスタント・ラーメンの元祖)
<音楽関連(海外)>
エルヴィス・プレスリー兵役のため音楽活動休止
ニューポート・ジャズ・フェスティバルでの熱唱でマヘリア・ジャクソンの評価高まる
ジェリー・リー・ルイス、13歳の従兄弟と結婚が発覚
ステレオ・レコード登場!
ミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」のアルバムが大ヒット
<音楽関連(日本)>
第一回日劇ウエスタン・カーニバル開催
出演者は、山下敬二郎、ミッキー・カーチス、水谷良重、平尾昌晃、朝比奈愛子、寺本圭一
すでに行われていたカントリー音楽のイベントから、ロカビリーの祭典へと進化した内容で行われ、一躍日本にロカビリー・ブームを巻き起こすことになった。ある意味日本のロック元年でもある。
 ちなみにプロモーターは渡辺晋。渡辺プロを日本一の芸能プロダクションにす
この年の音楽については、ここから!

1958年のページへ   20世紀名画劇場へ   トップページへ