- ディック・リー Dick Lee -

<ミスター・シンガポール>
 「ミスター・シンガポール」と呼んでも良いほど、シンガポールらしさいっぱいのの人物です。そして、シンガポールという国自体がアジアの縮図のような国であることを考えるなら、彼を「ミスター・アジア」と呼んでも良いのかもしれません。
 そして、彼は自分のことを「バナナ」であるとも例えています。それは黄色いアジア人の皮をかぶっているが、心の中は真っ白な欧米人という意味です。ならば、彼こそ「ミスター・ワールド・ミュージック」と呼ぶに相応しい人物であるとも言えるかもしれません。そのことは、彼の音楽を聴くと良くわかるでしょう。ロックやラテン、ラップ、R&Bはもちろん、中国歌謡からインドネシアのクロンチョンやガムラン、日本の歌謡曲、インド歌謡・・・まるで万華鏡のように繰り広げられる世界中のポップスは、歌われている言語までもが何カ国にもわたっています。しかし、彼の最も優れている点は、それらの要素を見事に昇華しきり、まったく違和感のないひとつの曲に仕上げていることです。そして、このことこそがシンガポールという多国籍国家のアイデンティティーであり、ディック・リーというアーティストの存在価値でもあるのです。

<シンガポールの誕生とディック・リーの誕生
 1964年にマレーシアから独立したばかりの小国シンガポールは、人口わずか200万人でありながら四つの公用語をもっています。(中国語、マレイ語、ヒンディー語、そして英語、1990年時点)ディック・リーは、1956年にその国の中国系の家庭に生まれました。中国名はリー・ベンブン。俗に言う華僑の裕福な家庭だったため、彼は小さな頃からクラシックを学び、ロンドンにも留学するなど西洋音楽中心の環境で育ちました。そのせいで、彼は学生時代すでに友人たちとロック・バンドを結成し、ディープ・パープルなどハード・ロック中心の演奏を行うようになります。ところが彼らのようなハード・ロック・バンドは、風紀上、教育上よろしくないということで、政府はハード・ロックの演奏を禁止してしまいます。そのため、彼は方向転換を余儀なくされ、次にニール・ヤングを目指して、英語で歌うシンガー・ソングライターとして活動し始めました。そして、1974年にデビュー・アルバム「ライフ・ストリート」を発表、当時、彼は弱冠17歳でした。しかし、この頃ロックを聴いていた多くのファンは、ほとんどがお金に余裕のある富裕層であったため、アメリカやイギリスから来る本物のロックに敏感である反面、本国のロックにはほとんど興味を示しませんでした。おかげで、彼のアルバムはそれほど注目を集めることなく、そのうち彼には2年間の兵役義務が課せられることになりました。

<ファッション・デザイナー兼ミュージシャン>
 兵役の後、彼はロンドンでファッション・デザインの勉強をし、シンガポールでファッション・デザイナーとしての活動を開始します。おかげで、しっかりとした生活基盤を得た彼は自由に音楽活動ができるようになり、次々に作品を発表して行きます。それは、彼ならではの創作活動であると同時に「シンガポール」という特殊な国のアイデンティティーを探す試みでもありました。
 "Life In The Lion City"(1984年)、"Return To Beauty World"(1985年)、"Fried Life Paradise"(1986年)、"Connections"(1987年)、そして1989年、日本以外でも韓国、タイ、マレーシア、インドネシアなどでも発売され、アジア初の多国籍ヒットとなったアルバム"The Mad Chinaman"が登場します。

<「マッド・チャイナマン」>
 このアルバムでは、お隣の国インドネシアの民謡をシングリッシュ(シンガポールなまりの英語)のラップにしてみたり、古い中国の歌を自分の家族と一緒に歌ったり、レバノンの歌をインド人の歌手とデュエットしたり、インドネシアのクロンチョンの名曲「ブンガワン・ソロ」をカバーしたりと、まさに「狂った中国人」ぶりを発揮、一気にアジア中の注目を集めることになりました。
 ファッション・デザイナーを本業とするだけあって、彼のビジュアル的センスはアルバム・ジャケットやステージ衣装に見事にいかされ、「マッド・チャイナマン」というイメージ戦略は大成功をおさめました。特に、京劇の衣装を着た自分と裸の自分をジャケットの表と裏に配置することで、シンガポールという特殊な国の不思議なアイデンティティーを強烈なインパクトで表現して見せたのは実に見事でした。
 こうして「マッド・チャイナマン」は彼にとって代表作となっただけでなく、ワールド・ミュージックの世界的なブームの中でアジアン・ポップという西欧からは、あまり注目されていなかったジャンルの音楽が一気にメジャーとなるきっかけともなりました。

<久保田麻琴と「エイジア・メイジア」>
 そんな彼の活躍に感動し、すぐに協力関係を結んだのが、アジアン・ポップの世界ではディックの先輩格とも言える人物、久保田麻琴でした。
 日本が生んだアジアン・ポップの仕掛け人、久保田はディック・リーの次作「エイジア・メイジア Asiamajor」(1990年)に共同製作者として参加、久保田の分身とも言える「アジアン・ポップの女神」サンディーもゲスト・ヴォーカルとして加わり前作以上の傑作を生みだします。とにかく、アルバムに登場する言語だけでも「アジアの混沌」そのものでした。英語、日本語、北京語、マレー語、タイ語、タガログ語、韓国語そしてシングリッシュなどなど。曲に関しても、タイ、インドネシア、インド、日本、中国など各国の歌謡曲にガムランまで登場し、各国の古典楽器にタブラ、チャルメラ風管楽器、クロンチョン・ギターなどを交えて、一ひねりも二ひねりも効いた複雑な多重構造をもつポップスに仕上げられていました。

<ディック・リーのサウンド>
 彼の曲はどれも複雑で、歌詞も皮肉たっぷりのものが多いにも関わらず、誰が聴いても楽しめるポップさを兼ね備えています。それは、やはりディックの非凡な才能の成せる技でしょう。
「彼の曲の作り方は、ちょっと大げさすぎるんじゃない?」という意見もあるかもしれません。しかし、その演出の過剰さこそ彼が中国系であることの証明なのかもしれません。
 ジョン・ウー監督の映画「フェイス・オフ」での過激でありながら美しい暴力シーンの数々やアン・リー監督の映画「グリーン・デスティニー」に見られる美しいけれど現実を超越したアクション・シーン、それに京劇のド派手なメイクと言葉がいらないほどの大げさな演技などを見れば、彼のアルバムの過剰なまでの演出も、なるほどと思える気がします。
 もちろん、彼はド派手なだけのアーティストではありません。2000年末に発売されたアルバム「エブリシング Everything」では、彼がこれまで多くのアーティストたちに提供してきた美しいラブ・ソングの数々を自ら歌って見せているが、それはメロディーと歌唱力で勝負するシンプルな作品集になっています。

<シンガポールに革命を起こした男>
 彼の最初のヒット曲「ラサ・サヤン」は、シングリッシュによるラップ・ナンバーで、シンガポールという特殊な国の現状を見事に表現していました。だからといって、シンガポールのことをけっして批判していたわけではないのですが、政府はこの曲を放送禁止処分にしました。それだけ植民地文化の遺産であるシングリッシュという言語の存在を認めたくなかったということなのでしょう。しかし、彼の曲のヒットのおかげで、「シングリッシュの存在こそシンガポールの重要な文化である」という機運が逆に高まります。そのため「ラサ・サヤン」の放送は解禁され、それどころか彼を司会とする「シングリッシュ講座」というテレビ番組までできてしまったというのです。こういう話しは、日本人には理解しがたいことかもしれませんが、シンガポールという国の歴史にとっては、革命的な出来事であったと言えるのでしょう。これもまたポピュラー音楽が世界を変えた好例です。

<締めのお言葉>
「もし、あなたがデザイナーになろうとするなら、そこに意義を見出そうとするのか、金もうけをしようとするのか、はっきりと決心しなければならない」
R.バックミンスター・フラー

ジャンル別索引へ   アーティスト名索引へ   トップページへ