- ダイアー・ストレイツ Dire Straits -

<ダイアー・ストレイツ>
 彼らのバンド名「ダイアー・ストレイツ Dire Straits」は、「恐怖の海峡」と訳すこともできますが、「恐るべき困難」もしくは「絶体絶命」と訳すべきなのでしょう。何故この名が選ばれたのかというと、彼らがなけなしのお金をかき集めてデモ・テープを作った時、すでにメンバーは20代の後半にさしかかっており、ミュージシャンとしてデビューするにはもう後がない状況にあったからのようです。
 そんな状況からスタートしたダイアー・ストレイツですが、デビュー以後の彼らは、そんな苦労が嘘のように順風満帆の活躍を続けます。バンド以外でも、リーダーのマーク・ノップラーは、史上最強のゲスト・ミュージシャン&プロデューサーとして、引っ張りだことなり、最終的にはそれがバンド活動の終わりにつながることにもなります。
 ただ彼らの人気が本国イギリスやアメリカで高かった割には、日本での知名度は何故か低いままでした。確かにこのバンドは、地味な玄人受けするバンドだったのかもしれません。しかし、一度聞いたら忘れられない独特のストラトキャスターの音色とボブ・ディランをよりクールにしたようなヴォーカルの存在感は、まさにワン&オンリーでした。だからこそ、多くのミュージシャンたちから、ゲスト参加の依頼が絶えなかったのでしょう。

<絶体絶命からの出発>
 ダイアー・ストレイツのリーダー、マーク・ノップラーは、1949年8月12日生まれでのイギリス人です。彼と弟のデヴィッド(Gui.)、ジョン・イルズリー(Bass)、ピック・ウィザース(Dr.)の4人は、1977年にバンドを結成します。新聞記者や音楽ライター、教師などの職を転々としたきたマークはすでにこの時28歳。彼らは、ミュージシャンとして成功するためのラスト・チャンスに賭けて、デモ・テープを配り歩きました。すると、その中の一本がたまたまフォノグラム・レコード社員のひとりに気に入られ、見事契約が成立したのです。

<遅咲きのヒット>
 デビュー・アルバム「悲しきサルタン Dire Straits」は、こうして1978年にイギリスで発売されましたが、当初その売れ行きはさっぱりでした。しかし、彼らはデビュー・アルバムの発売から5ヶ月後、早くもアメリカに渡り、ナッソーのスタジオでセカンド・アルバム「コミュニケ Communique」の録音に入っています。マスコミの評価などから、絶対行けると踏んでいたのでしょうか?確かに、その間にも彼らの人気はマスコミやロック通の間で、じわじわと拡がりをみせていました。
 そして、最初に火がついたのは、オーストラリア、ニュージーランド、カナダなど海外の英国圏の国々でした。その勢いが、盛り上がりを見せ始めた頃、彼らは1979年アメリカ全土でコンサート・ツアーを実施。一気にアメリカでの人気を確立します。
 おかげで、発売後一年近くたってから、アルバム「悲しきサルタン」は全米2位、遅ればせながら全英でも8位まで上昇。こうして、遅咲きのヒットで、遅咲きのロック・スターが誕生しました。

<1970年代末の状況>
 彼らが登場してきた1970年代末と言えば、ロック界はまさにパンク・ブームのまっただ中でした。しかし、保守的なアメリカのポピュラー音楽界では、結局パンク旋風が巻き起こることはなく、60年代から活躍を続ける大物ミュージシャンたちによるAOR的ロックがその主流を占めていました。そんな中、イギリスから現れたダイアー・ストレイツはそれまでのロックとは明らかに違っていたし、だからと言ってパンクでもなく、それどころかルーツ・ロック的な雰囲気はアメリカのバンドを思わせていました。それが、パンクを拒否し、60年代のロックにも飽きていたアメリカのロック・ファンに受けた原因だったのかもしれません。時代は、遅咲きのバンドに実にタイミング良く微笑みかけてくれたのです。

<助っ人としての活躍開始>
 セカンド・アルバム「コミュニケ」もヒットすると、いよいよマークの元には客演の依頼が着始めます。特に、ボブ・ディランは彼のことを非常に気に入り、アルバム「スロートレイン・カミング」でのゲスト参加の後、1983年のアルバム「インフィデル」ではプロデューサーを任せるほどでした。そして、この「ディランに認められた男」という彼の評価は、さらに彼に数多くの仕事をもたらすことになります。
 ブライアン・フェリーの代表作とも言えるアルバム「ボーイズ&ガールズ」やアイルランドの至宝チーフタンズのアルバム「ロング・ブラック・ベール The Long Black Veil」にも参加。ジョージ・ガーシュインバディ・ホリーのトリビュート・アルバムに参加するなど、トリビュート作品やロック・フェスティバルでは常連のひとりになりました。プロデューサーとしても、ランディー・ニューマンの傑作「ランド・オブ・ドリームス」は彼がプロデュースした作品です。

<映画音楽作家としての活躍>
 そしてもうひとつ、映画界においても彼は活躍を始めます。1983年静かなブームを巻き起こした小さな傑作「ローカル・ヒーロー 夢を生きた男」の音楽を担当したマークは、その作品集を自らのソロ・アルバムとして発表しました。その後も、「プリンセス・ブライド」、「ブルックリン最終出口」、「デスペラード」など、数多く手がけており、映画は彼にとって重要な仕事の場になってゆきました。

<バンドとしての活動>
 「悲しきサルタン」の大ヒットだけの一発屋に終わるのではないかという回りの観測を吹き飛ばすべく、彼らは着実にアルバムを発表して行きます。1980年には、3rdアルバム「メイキング・ムービーズ」、1981年には「ラブ・オーバー・ゴールド」、そして彼らの優れたライブ・パフォーマンスを収めたアルバム「アルケミー」(1984年)を発表し、どれも上々の評価と売上を記録。彼らはこの時点でピークを迎えたかと思われました。

<さらなるブレイク>
 1985年彼らは、それまでのヒットを上回る大ヒットを放ちました。それが、シングル「マネー・フォー・ナッシング」とそのビデオ・クリップの大ヒットによって、彼らにとって最大のヒット作となったアルバム「Brothers In Arms」です。(時代は丁度MTVブームのまっただ中で、「マネー・フォー・ナッシング」のCG映像のビデオ・クリップは見事その波に乗りました)このアルバムは、世界中で2000万枚以上を売上げ、再び彼らは世界的な人気アーティストになります。

<バンド活動の終焉>
 ダイアー・ストレイツの評価が上がれば上がるほど、その中心人物マークのソロ活動も活発になって行きました。1990年には、ガイ・フレッチャーらとノッティング・ヒルビリーズを結成し、アルバム「ミッシング」を発表。チェット・アトキンスとも共演し、アルバム「ネック・アンド・ネック」を発表するなど、バンド外バンド活動がしだいに活発化して行きます。
 1991年には、6年ぶりのダイアー・ストレイツのオリジナル・アルバム「オン・エブリ・ストリート」を発表し、そのワールド・ツアーを収めたライブ・アルバム「オン・ザ・ナイト」を発表しましたが、この時点で、彼らのバンドとしての活動は、ほぼ終了してしまったようです。
 1995年に未発表の録音からなる「ライブ・アット・ザ・BBC」を発表した翌年、マークはソロ・アルバム「ゴールデン・ハート」を発表し、本格的なソロ活動に入りました。しかし、バンドとしての活動は終わっても、他のメンバーもそれぞれが活躍をし続けているようです。
 夢に終わるところから始まった彼らのバンド活動は、まだまだ続きがありそうです。まさに彼らこそ、「ローカル・ヒーロー 夢を生きた男たち」なのかもしれません。

<締めのお言葉>
「なぜ、人の心は夢を追い続けろと言わないのですか?」
「それが心を最も苦しませることだからだ。そして心は苦しみたくないんだ」

パウル・コエーリョ著「アルケミスト」より

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