「ダーティー・ハリー Dirty Harry」

- ドン・シーゲル Don Siegel -

<イーストウッド、ペキンパーの師匠>
 アメリカのアクション映画だけでなく20世紀の映画を代表する偉大な二人の監督、クリント・イーストウッドサム・ペキンパー。その二人の監督を育てたのがドン・シーゲルというB級アクション映画の監督だということはあまり知られていないかもしれません。二人の知名度の高さに比べれば彼の名を知る人が少ないのは仕方がないかもしれません。しかし、彼が「ダーティー・ハリー」の監督だとなれば話はかなり違ってくるはずです。アクション映画の歴史において、ハリー・キャラハンというキャラクターは歴史を変えた重要な存在として避けて通れないのですから。
 映画の歴史を変えた二人の監督とハリー・キャラハンを育てたドン・シーゲルという監督は、どんな人物だったのか?先ずは、彼が「ダーティー・ハリー」を監督するに至るまでの道のりからたどってみましょう。

<ドン・シーゲル>
 ドン・シーゲル Don Siegel は、1912年10月26日イリノイ州シカゴの生まれです。父親はマンドリンなどを演奏する一流の音楽家で楽団を移籍するたびに引っ越すことになり、ロンドンの楽団に音楽監督として就任。彼も家族とともにイギリスに移住し、そこで名門のケンブリッジ大学に入学し、卒業後はロンドン王立舞台芸術アカデミーで学んだ芸術家の卵でした。しかし、彼はフランスのパリにしばらく滞在した後、アメリカへと戻り映画の道へと踏み出すことになります。
 19歳でアメリカに帰国した彼はロサンゼルスに向かい、そこで叔父の紹介でワーナーブラザースに入社。そこでフィルムの管理や編集作業を担当。さらに彼は本編とは別に撮影し映画に挿入するインサート・フィルムと呼ばれる映像を撮影する仕事をまかされるようになりました。当時、第二班監督として彼が撮影したインサート・フィルムは、ラオール・ウォルシュ監督の「鉄腕ジム」やマイケル・カーティス監督の「カサブランカ」、ハワード・ホークス監督の「ヨーク軍曹」などに使用されています。そうした撮影を担当しながら彼は本編を撮るための学習を積み、自ら社長のジャック・ワーナーに願い出て短編映画「Star in the Night」(1945年)を監督させてもらいます。、イエス・キリストの生誕の物語を映像化したこの作品で彼は見事アカデミー短編賞を獲得します。
 こうして彼は、翌1946年長編映画「The Verdict」で監督デビューを果たしました。その後彼はワーナーから他社へと移籍。RKOやユニヴァーサル、コロンビアなどを渡り歩きますが、なかなか作品に恵まれずテレビの仕事などでなんとか食べてゆく状態が続きました。

「第十一号監房の暴動」 1954年
(監)ドン・シーゲル
(製)ウォルター・ウェンジャー
(脚)リチャード・コリンズ
(撮)ラッセル・ハーラン
(出)ネビル・ブランド、エミール・メイヤー、フランク・メイレン
 そんな彼にとって最初のヒット作となったのは、B級映画専門の映画会社アライド・アーティスツでの作品「第十一号監房の暴動」(1954年)です。この映画は、劣悪な環境と看守たちの暴力に苦しむ囚人たちが暴動を起こし、閉じられた空間で囚人対看守の戦いがスリリングに展開されるという作品です。この映画のアイデアを出し、製作も担当したウォルター・ウェンジャーはかつて大物プロデューサーとしてハリウッドのメジャーで活躍していました。そして、ドイツの巨匠フリッツ・ラングの名作「飾り窓の女」でハードボイルドと結婚。ところがこの「運命の女(ファム・ファタール)」の魅力に心を狂わされた彼は、彼女のマネージャーを銃で撃ち、監獄入りしてしまいました。それでも、ただでは起きない彼は、その監獄の中でこの映画の構想を得たといわれています。ウォルター・ウェンジャーが女に惑わされ、事件を起こしたからこそ、ドン・シーゲルという監督が第一歩を歩み出すことができたのでした。
 ドン・シーゲルと「飾り窓の女」との関わりは、もうひとつあります。この映画の主役エドワード・G・ロビンソンには息子がいて後に彼は俳優となって、ドン・シーゲルの最高傑作となる「ダーティー・ハリー」でハリー・キャラハンと戦うことになる無差別ライフル殺人犯サソリを演じることになるのです。

<サム・ペキンパー>
 「第十一号監房の暴動」は、低予算の映画ということもあり、有名なアメリカ南部テキサスのフォルサム刑務所で本物の囚人たちが生み出したともいえます。しかし、内容的に刑務所に批判的な部分が多かったことから当初、刑務所側は撮影に対し非協力的な対応をとっていました。ある時、この映画に関わっていた一人の若者が自分の父と兄が弁護士をいぇっているのですが、と自己紹介し刑務所長と話し始めたとたん刑務所側の対応がガラっと変わりました。どうやらその青年の親はテキサスでは有名な弁護士だったのです。そして、その弁護士事務所の名前は「ペキンパー&ペキンパー法律事務所」といいました。その青年こそ、若かりしサム・ペキンパーだったのです。
 この後、ドン・シーゲルはアライド・アーティスツで4本の映画を撮りますが、その4本でペキンパーは助手を務めたり、俳優をやったり、脚本の手直しを任されるなどしながら多くのことを学びました。その後、彼はテレビの西部劇の脚本や演出を担当するようになり、1961年「荒野のガンマン」で映画監督としてデビューを果たすことになります。こうして、いかに映画を効率よく撮るかを学んだ彼は、それを「ワイルドバンチ」での大殺戮シーンなどで生かすことになります。(それがなければ、あの大量の死体をそろえることはできなかったかもしれません)

<メジャー・デビュー>
 ドン・シーゲルは、この後SF映画の名作のひとつ「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」をヒットさせその評価を高め、いよいよ本格的にメジャー系の映画を撮ることになります。1957年には、ミッキー・ルーニーを主演に迎えた「殺し屋ネルソン」。1960年には、あのエルヴィス・プレスリーの主演で西部劇「燃える平原児」を撮り、その後は次々と犯罪アクションもののヒット作を連発してゆきます。

「殺人者たち The Killers」 1964年
(監)ドン・シーゲル
(脚)シーン・L・クーン
(原)アーネスト・ヘミングウェイ
(撮)リチャード・L・ロウリング
(音)スタンリー・ウィルソン
(出)リー・マーヴィン、ジョン・カサベテス、ロナルド・レーガン、アンジー・ディッキンソン
 クールな殺し屋チャーリー(リー・マーヴィン)が主人公のバイオレンス・アクション映画。ハードボイルド小説の元祖とも言われるアーネスト・ヘミングウェイの作品を映画化。

「刑事マディガン Madigan」 1968年
(監)ドン・シーゲル
(脚)ヘンリー・シムン、エイブラハム・ポロンスキー
(撮)ラッセル・メッティ
(音)ドン・コスタ
(出)リチャード・ウィドマーク、インガ・スティーブンス、ヘンリー・フォンダ
 拳銃を奪われた刑事マディガン(リチャード・ウィドマーク)がその拳銃によって起きた殺人事件を解決するためにニューヨークのハーレムを奔走するハードボイルド・アクション。悪役を演じることが多いリチャード・ウィドマークの魅力が引き出され、魅力的な作品に仕上がりました。

「マンハッタン無宿」 1968年
(監)(製)ドン・シーゲル
(原)(脚)ハーマン・ミラー
(脚)ハワード・ロッドマン、ディーン・リーズナー
(撮)バッド・サッカリー
(音)ラロ・シフリン
(出)クリント・イーストウッド、リー・J・コッブ、スーザン・クラーク、ドン・ストラウド
 クリント・イーストウッドとドン・シーゲルが初めてコンビを組んだこの作品の監督は、当初アレックス・シーガルのはずでした。ところが、この監督がキャンセルになったため、その役が「ローズ」や「シンデレラ・リバティー」を後に撮ることになる監督マーク・ライデルにまわりました。ところが、アクション映画が得意ではなかったからか、彼もこの仕事を断り、代わりにドン・シーゲルを推薦。こうして、運命は二人を引き合わせることになったのでした。
 この映画は、アメリカ南部アリゾナの田舎からやってきたカウボーイ風の刑事(イーストウッド)が大都会ニューヨークで犯人の引き取りに失敗。責任を感じた彼は自力で犯人を捕まえようとマンハッタンで追跡劇を繰り広げるというものです。馬がない代わりにバイクを使ったイーストウッドが同じバイクに乗った犯人を追いかける展開は、西部劇のスターでもあったイーストウッドがダーティー・ハリーへと変身する進化過程を描いていたともいえそうです。

<黄金コンビ誕生>
 それまでお互いのことをまったく知らなかった二人は、「マンハッタン無宿」で意気投合。この頃すでに監督になることを意識し始めていたイーストウッドはシーゲルの無駄のない撮影と演出にほれ込み彼から多くを学びながらコンビで作品を作り続けることになります。
 1970年の「真昼の死闘」は、シャーリー・マクレーンとの共演による西部劇スタイルのロード・ムービー。人気スターの共演作となりましたが、バリバリ左派のシャーリー・マクレーンと右派のイーストウッドは、撮影中プライベートで対立してしまいます。その影響が作品に出たのか、興行的には失敗に終わりました。
 1971年の「白い肌の異常な夜」は、足を怪我して動けなくなった男(クリント・イーストウッド)が女だけの修道院で看病されることになるものの、そこで恐ろしい悲劇が起こるというホラーサスペンス。この作品では、アクション・スターであるはずのイーストウッドが歩けない役を演じたことで、ファンの期待を裏切ることになり、やはり興行的に失敗となりました。作品的には、シーゲル自身この作品は大いに気に入っており、最高傑作と考えていたようです。この後、いよいよ彼は「ダーティー・ハリー」を撮ることになりますが、その前に二人は逆の立場で一本の作品を撮っています。それはイーストウッドの記念すべき初監督作品「恐怖のメロディー」(1971年)です。実は、その作品にドン・シーゲルは俳優として参加。バーテンダー役で出演しているのです。

「ダーティー・ハリー Dirty Harry」 1971年
(監)(製)ドン・シーゲル
(原案)(脚)ハリー・ジュリアン・フィンク、R・M・フィンク
(脚)ディーン・リーズナー、ジョン・ミリアス(ノンクレジット)
(撮)ブルース・サーティース
(音)ラロ・シフリン
(出)クリント・イーストウッド、ハリー・ガーディノ、アンディ・ロビンソン、ジョン・バーノン、ジョン・ラーチ、レニ・サントーニ、ジョン・ミッチャム

 クリント・イーストウッドについて徹底的に研究、評論した中条省平の「クリント・イーストウッド - アメリカ映画史を再生する男-」にこう書かれています。
「さて、『ダーティー・ハリー』である。この映画は、ギャング映画、フィルム・ノワールに次いで、アメリカの犯罪映画に新しいサブ・ジャンルを開始した記念碑である。
 いま流行の『リーサル・ウェポン』も、『ダイ・ハード』も、ことごとく『ダーティー・ハリー』が切り開いた地平を追随するものにすぎない。・・・・・」


 ただし、「リーサル・ウェポン」も「ダイ・ハード」も典型的なハリウッド式娯楽映画であるのに対し、「ダーティー・ハリー」はそうではない。そこが重要です。暴力には暴力で対抗すべきと宣言したかのようなハリー・キャラハン刑事の行動は、映画の公開当初、多くの良識派から批判されたといいます。この映画が公開された1971年といえば、ベトナム反戦運動が最も盛り上がりを見せていた時代です。当然、戦争だけでなく暴力そのものをを否定するのが当時の風潮でした。この映画は、あえてそうしたピース・ジェネレーションに「ノー!」を突きつけた作品だったともいえるのです。
 この映画の無差別殺人犯サソリ(アンディ・ロビンソン)のモデルとなったは、現在にいたるまで多くのサイコ殺人犯のモデルとなっている実在の存在ゾディアック・キラー(星座殺人鬼)です。ゾディアック・キラーが犯行を行ったのは、この映画の舞台となったサンフランシスコの街でした。それだけに当時のアメリカの観客たちは誰もがこの映画のサソリを映画の中だけの存在とは考えませんでした。だからこそ、「ダーティー・ハリー」の存在は社会に受け入れられたのかもしれません。
 もちろんイーストウッドは、権力機構を擁護する単なるタカ派の暴力主義者だったわけではありません。警察内部の官僚主義的な捜査方法には痛烈な皮肉を飛ばし、「ダーティー・ハリー2」では、警察内部に生まれたよりタカ派的な凶悪犯暗殺グループの存在を否定してもいます。「ハリー・キャラハン」というキャラクターが新しかったのは、彼が正義派の熱血刑事であると同時にブラックなユーモアとクールな判断力をもつハードボイルド小説の主人公的な人間的広がりをもった存在だったからといえるでしょう。彼が犯人を追い詰めた時に発する決めセリフは、そんなキャラクターを象徴するものです。
「Do You Feel Lucky ? お前はついているかな?」
それに
「Go Ahead ! Make My Day やってみな!楽しませてくれよ」

<ブルース・サーティーズ>
 この映画が今見てもなお古さを感じさせないのは、キャラクター、ストーリー以外にも、撮影担当のブルース・サーティーズの功績も忘れられません。「暗闇の王子 Prince of Darkness」という異名をもつ彼は、この映画の夜の場面では特にその才能を発揮しています。
 教会屋上の銃撃戦では、ネオンサインと暗闇を見事に対比させ、公園内の巨大な十字架の下でのサソリとの闘いでは天国への入り口のような不気味な世界を作り上げています。

<ラロ・シフリン>
 この映画は音楽もまた忘れることができません。この映画の音楽を担当したのは、ドン・シーゲルとのコンビが多いラロ・シフリン Lalo Schfrin です。彼は1932年6月21日アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで生まれています。父親がオーケストラの指揮者だったこともあり、早くからピアノを中心に音楽を学び、ブエノスアイレス大学を卒業した後はフランスに渡り、パリ音楽院に進学しています。そこで彼は、前衛音楽界の巨匠オリビエ・メシアンから学びながら、ナイトクラブではジャズを演奏。アルゼンチンに帰国後は元々大好きだった映画のための音楽を作曲するようになりますが、1957年アルゼンチンに演奏旅行にやって来たジャズ界の大御所ディジー・ガレスピーにその才能を認められアメリカに渡ります。こうして、彼はあのディジー・ガレスピーのピアニスト兼アレンジャーとしてアメリカで活動するようになたのでした。
 1962年、彼はMGMから映画音楽の仕事を依頼されるようになり、ハリウッドに仕事場を移します。急激に仕事が増えつつあったテレビの音楽と映画、その両方で彼は忙しく活躍することになりました。
 人気テレビシリーズ「011ナポレオン・ソロ」(1964年〜)、スティーブ・マックウィーンの出世作でもある映画「シンシナティ・キッド」(1965年)、これまた有名なテレビシリーズ「スパイ大作戦」(1966年)、ポール・ニューマンの出世作となった映画「暴力脱獄」(1967年)、元祖カー・チェイス映画「ブリット」(1968年)、前述の「マンハッタン無宿」、「ダーティー・ハリー」に続いて、あのブルース・リーの「燃えよドラゴン」(1973年)、「さすらいの航海」(1976年)、サム・ペキンパーの遺作「バイオレント・サタデー」(1983年)・・・アクション映画の名作、アクション映画のスターや監督たちの作品に数多く関わった実績は、1970年代を代表する存在だったといえるでしょう。特に彼が得意としていたジャズ・ファンク的な曲を用いた「ブリット」「燃えよドラゴン」「ダーティー・ハリー」あたりは、映画史に残る名作といえます。

<その後の活躍>
 その後も彼はB級アクション映画の世界で活躍を続けます。「突破口!」(1973年)、ジョン・ウェインの遺作となった最後の名作「ラスト・シューティスト」(1976年)、チャールズ・ブロンソン後期の代表作「テレフォン」(1977年)、イーストウッドとのコンビ作「アルカトラズからの脱出」(1979年)・・・。それも今見ても絶対に損のない作品ばかりです。なかでも僕がお勧めしたいのは、当時、「サブウェイ・パニック」でもいい味を出していた渋い俳優ウォルター・マッソー主演の「突破口!」です。

「突破口! Kill Charley Varrick」 1973年
(監)(製)ドン・シーゲル
(原)ジョン・リース
(脚)ハワード・ロッドマン、ディーン・リーズナー
(撮)マイケル・バトラー
(音)ラロ・シフリン
(出)ウォルター・マッソー、ジョー・ドン・ベイカー、アンディ・ロビンソン、フェリシア・ファー、ジョン・バーノン、シェリー・ノース
<あらすじ>
 田舎町の小さな銀行を専門に襲う銀行強盗のリーダー、チャーリー(ウォルター・マッソー)は、普段は農薬散布の飛行機乗りとして働くごく普通の男です。ある日、彼はニューメキシコ州の小さな銀行を襲いますが、警官との撃ち合いになり、仲間の一人を失ってしまいます。もうひとりの仲間ハーマン(アンディ・ロビンソン)となんとか逃げ切った後、奪った金を見て驚いてしまいます。普段は1万ドルか2万ドル程度しかないはずの現金が75万ドルもあったのです。
 すぐにチャーリーはその金がマフィアの裏金であると気づきます。このまま持ち逃げしては、警察だけでなくマフィアにも追われることになり、命を確実に失うことになる。そう考えた彼は、その金をマフィアに返そうと考えます。しかし、ハーマンはメキシコに逃げ込めば逃げ切れるし、こちらには飛行機もあると主張。彼も75万ドルの魅力には勝てず、先ずは逃げる方法を考えることにします。
 その頃、その地区の銀行協会会長でありマフィアのメンバーでもあるボイル(ジョン・バーノン)は、あわてて殺し屋のモリー(ジョー・ドン・ベイカー)を呼び寄せ、犯人を捕まえて金を取り返すよう指示していました。マフィアの仲間たちは、お互い疑心暗鬼になっており、いつ自分が疑われるかもしれない、そう考えたボイルは必死で金を取り戻そうとしていたのです。
 モリーは、少しずつチャーリーの足跡をたどり、ついにハーマンを捕らえ、彼を拷問にかけます。追い詰められたチャーリーは、ボイルに連絡をとり、金を返すから取りに来いと彼を飛行場へと呼び出します。しかし、モリーもまた飛行場へと向かっていました。

 この作品でも、ドン・シーゲルの低予算撮影は相変わらずです。オールロケでネバダやリノでの撮影を行っただけでなく、殺し屋モリーが根城にする売春宿は実際に州公認で営業する本物のリノの売春宿を使用しているといいます。低予算だからこそできたそのリアリティーは、最近の豪華なハリウッド映画とは一線を画するものです。主人公もコメディー俳優としてアカデミー賞を受賞しているウォルター・マッソーがうらぶれた中年ギャングを好演。「サブウェイ・パニック」での刑事役といい実にクールでカッコいい役どころです。中年ギャングと若造コンビに対する凄腕の殺し屋にジョー・ドン・ベイカー。それにマフィアのボス役にジョン・バーノンという配役も憎いです。そして、ラストのどんでん返しが、きっとあなたを満足させるはす!

<ウォルター・マッソー>
 ウォルター・マッソー Walter Matthau は、1923年10月11日ニューヨーク生まれです。14才で「ハムレット」の舞台に立つなど、演劇に親しむもののプロにはならず、高校卒業後は工場で働いたり、店員をしたり職を転々としました。しかし、太平洋戦争が始まったため、彼は空軍に入隊。空軍のパイロットとしてヨーロッパ戦線え4年間過ごしました。終戦後、彼は大学入学し、そこで再び演劇と出会います。地方巡業の劇団に入った彼は、俳優になる決意固め舞台やテレビで活躍し始めます。
 1955年「ケンタッキー人」で映画デビュー。舞台では、後に映画化もされる「暗闇でドッキリ」、「おかしな二人」でトニー賞を受賞。映画界でも活躍が続いた彼は1966年の「恋人よ帰れ!わが胸に」で見事アカデミー助演男優賞を受賞。ほとんどがコメディー作品という彼にとって、「突破口!」は例外的な役だっただけにこの配役は成功したともいえるでしょう。

<監督クリント・イーストウッド誕生>
 「ダーティー・ハリー」の中でビルの屋上から飛び降り自殺しようとする男をハリーが止める場面があります。実は、この場面ともう一箇所、この映画の中でクリント・イーストウッドが演出をした場面があります。師匠でもあるシーゲルのもとでイーストウッドは、こうしてじっくりと修行を積みながら監督としての手腕を磨いていたのでした。
 シーゲルが、それぞれの場面の撮影を行うと、現像しなくても頭の中には編集された映像が出来上がっていたといいます。そのため、予備的な撮影や使うかどうかわからない方向からの撮影などを行うことはほとんどありませんでした。当然、彼の映画において使用されるフィルムの長さは常に少なくてすんだといいます。こうした「ノウハウ」を伝授されたからこそ、イーストウッドは最もお金を稼げるスターとして、常にランキングのトップに立ち続けることになります。(もちろん映画の本質的なできが良いからこそヒットするのですが・・・)
 同じシーゲルの弟子でも早くに独立し監督デビューしたペキンパーが、常に予算をオーバーし、フィルムを湯水のように使って映画会社から総スカンを食ったのに対し、イーストウッドはまさにシーゲルの正当な後継者だったといえそうです。
 ロジャー・コーマンとドン・シーゲル、二人の監督兼教育者がいなければ、アメリカ映画は今ごろどれほど寂しいものになっていたか?そのことをハリウッドはもっと認識すべきだと思うのですが、・・・。あまりに二人の知名度は低すぎます。

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