- フランシス・グラッソからサルソウル・オーケストラへ -

<ディスコ・フィーバー>
 多くのブラック・ミュージックのファンにとって、「ディスコ・サウンド」といえば、「ソウルを殺したサウンド」であり、「ファンク・ミュージックをダメにしたまがい物」であり、「70年代後半の享楽主義の象徴」と、否定的なイメージばかりが浮かぶのではないでしょうか?
 おまけに、若者がダンスを踊る場所も、今では「クラブ」と呼ばれる場所になり、「ディスコ」はもうノスタルジックなオジサン、オバサンが集まる同窓会会場的な存在になってしまいました。しかし、誰でも知っている「ディスコ」という言葉が、実はフランス生まれの文化だったり、その文化がゲイの人々によって育てられたことなどは、意外に知られていないかもしれません。
 「ディスコ」とはいかなる文化なのでしょうか?「ディスコ」を生み出した時代と「ディスコ」が変えたポピュラー音楽の歴史。1970年代後半のアメリカを中心に「ディスコ・フィーバーの時代」を今一度振り返ってみたいと思います。

<「ディスコ」とは?>
 「ディスコ Disco」という言葉は、フランス語の「ディスコティーク Discotheque」が縮まったものです。かつて、第二次世界大戦のさなか、ドイツに占領されたフランス国内のナイトクラブでは生バンドの演奏が禁じられていました。そのため、ナイトクラブでは生バンドの代わりにレコードをかけるようになりました。ところが、戦争が終っても厳しい経済状況のため多くのナイトクラブが生バンドを雇えないため、それまでどおりレコードをかけてゆくことになりました。こうして、レコードにあわせてダンスを踊るクラブ「ディスコティーク」が誕生することになりました。

<ディスコの歴史>
 ニューヨークに最初のディスコができたのは1960年「ル・クラブ」というやはりフランス風のナイトクラブでした。当時のアメリカのナイトクラブはまだ生バンドの演奏が基本でしたが、「ツイスト」や「ロックン・ロール」のように踊れる音楽が登場してくると、ダンス・フロアーを売りにするクラブも増えるようになり、そうした店の中にはジューク・ボックスではなく、ヒット・レコードをプロのDJがかけることでダンサーたちの要望に応える店も増えてきました。1960年代当時の客層は白人の中産階級が中心でかけられる曲は、ロック系のものだったようですが、60年代も後半になると、ヒッピー・カルチャーの影響から店内では麻薬の使用や密売が急速に広がりだします。当然、麻薬取締局や警察による厳しい取締りが始まることになり、厳しい締め付けにより多くの店が閉店に追い込まれてゆくことになりました。さらに1960年代が終ると、ヒッピー・ムーブメント自体も急速に終焉に向かうことになり、ディスコは一気にその客を失ってしまうことになりました。
 そんな状況下、ディスコの経営者たちは経営戦略の方向転換を迫られることになり、客層のターゲットを白人から黒人、ヒスパニックへと変えてゆくことになります。そして、それまでは入店すら認めていなかったゲイの人々も客層として重要な位置を占めるようになります。しかし、それは相変わらずディスコが麻薬の使用、売買の中心であり、そのターゲットが黒人、ヒスパニックへと拡大していったための変化だったともいえました。(1970年代前半の黒人層への麻薬蔓延の元凶の一人だった黒人ギャング、フランク・ルーカスの伝記映画「アメリカン・ギャングスター」にはそんな時代がリアルに再現されています)
 ディスコとは、ダンスの場であると同時に麻薬によって「ハイ」になり、現実から逃避する場でもありました。そのため、そこには必然的に社会的に抑圧された人々が集まることになりました。だからこそ、ディスコの主役となった優れたDJたちの多くはそこに集まっていた人々、黒人、ヒスパニックそしてゲイの中から現れることになったのです。ゲイの人々の活躍は、その存在を認めない西欧社会の中で表にあまりでることはありませんでしたが、ファッション業界、映画界、音楽界などでは昔から多くのゲイの人々が活躍していました。
 DJプレイの元祖とも言われるフランシス・グラッソがデビューしたニューヨークのディスコ「サンクチュアリー」は、そうしたゲイの人々が集まることができる数少ない店でした。そこはある意味、「閉鎖空間」であり周りからの影響を受けずに異なる進化が生まれる場所になりえたのです。だからこそ、その店はまったく新しいダンス・カルチャーが生まれる場所になったのです。(ちなみに、グラッソ自身はゲイではありませんでした)
 おりしも時代は社会全体が快楽至上主義へと大きく舵を切りつつありました。それは1960年代という熱い時代の終わりが生み出した必然的な流れだったのかもしれません。1970年代初め、若者たちは権力との闘いをやめ、自らを見つめ直し始めます。そして、1970年代も半ばになると、反戦運動も学生運動も、どれも過去のものとなり、そうした運動につかっていたエネルギーを若者たちは快楽を求める方向へと向かわせるようになります。「ミーイズム」と呼ばれた自分至上主義は、必然的に今その瞬間の快楽を求めることこそが「善」であるという発想を生み、そうした思想がコカインなど薬物の蔓延やディスコでのダンス熱を生むことになっていったのです。
 1970年代初め、アメリカのディスコではオージェイズやハロルド・メルヴィン&ブルーノーツなど、フィリー・ソウルが大人気でしたが、その中心人物だったギャンブル&ハフは、歌詞にも人種問題を盛り込むなど、けっして単純なダンス・ミュージックをつくろうとはしていませんでした。しかし、フィリー・ソウルの音楽的要となっていたシグマ・サウンド・スタジオのミュージシャン集団MFSBの音は、ダンス至上主義の人々にとって非常に魅力的な存在でした。彼らの生み出す美しくドラマチックなオーケストラ・サウンドとシンプルかつ切れの良いラテン・リズムの融合は後のディスコ・サウンドの基本となります。実際、ディスコ・サウンドの元祖とも言われる1975年の「ハッスル」は、フィリー・サウンドの本場で活動していたヴァン・マッコイがそれを踊りやすく単純化させたものでした。

<「ハッスル」の大ヒット>
 1975年に世界的大ヒットとなったヴァン・マッコイ Van McCoy & the Soul City Symphonyの「ハッスル」は、それまでアンダーグラウンドで積み上げられてきた「ディスコのための音楽」を当時流行のダンス「ハッスル」、それにMFSB流のストリングスを組み合わせることで生まれました。大衆化されたディスコ・サウンドの決定版ともいえるでしょう。この曲の大ヒットにより、いよいよディスコのブームが訪れることになりました。
 しかし、「ハッスル」のお手本となったMFSBは、この後フィラデルフィアを離れ、ディスコ・ブームをリードすることになるサルソウル・オーケストラへと変身し、よりダンスに特化した演奏を繰り広げながらサルソウル・レーベルを中心に生み出されることになるハウス・ブームの基準となってゆきます。(それはまた別のお話になります)
 では、このディスコのブームは音楽界にいかなる影響を与えることになったのでしょうか?

<ディスコ・ブームがもたらしたこと>
 ディスコ・ブームは、かつて黒人音楽において伝統となっていた重要な文化のいくつかを失わせてしまうことになります。そのひとつは、ブルースやR&Bの歌詞でよく使われているダブル・ミーニングを用いた歌詞による表現方法です。ブルース、R&Bの多くの曲では、セックスに関する表現を別の言葉に置き換えた間接表現を用いることで直接セックスについて歌わずによりセクシュアルな雰囲気を生み出したり茶化したりという複雑なイメージを生み出しています。これは黒人文化・娯楽全般における重要な言語学的伝統でした。
 しかし、この伝統的な文化がドナ・サマーの大ヒット曲「Love to Love You Baby」によって、あっという間に吹き飛ばされていました。1975年にポップチャート2位の大ヒットとなったこの曲は、それまでタブーとされてきたセックスを音と言葉によって直接的に表現してしまったことで、その後の音楽の方向性が大きく変えられることになりました。人々は、もう歪曲した表現に満足せず、直接的に表現することを望むようになってしまったのです。その流れは、当時のヒット曲のタイトルにも表れてきます。(例えば、「That's The Way ( I Like It )」なども、セックスの行為、そのままのタイトルです)
「ディスコ・ブームの本質は、このまったく生産性のない快楽主義にある。それは思想ではない。ただひたすら快楽を貪るという行為そのものだ」
A・ヘイデン・ゲスト著「ザ・ラスト・パーティー」より

 ディスコ・サウンドが長くなり踊りやすくなり、なおかつ大衆化したことによって、当時最高レベルに達しつつあったハイテク・ファンク・バンドたちの活躍の場は急激に失われて行くことになります。シンセサイザーやドラムマシンの登場による曲作りへのハイテクの導入は、高度なテクニックをもつミュージシャンたちを不要の存在にしてゆくことになります。当時の優れたミュ−ジシャンたちが生み出していた複雑なグルーヴが再現不能のバンド・サウンドだったことは、その後サンプリングによって当時の音が多用されていることからも明らかでしょう。
 当時のアーティストたちがこだわっていたブラック・コミュニティーの現状や問題を歌うこともまた時代遅れになってしまったのがこの時代でした。セックスの直接描写を喜ぶ時代の到来によって、人々が政治批判や社会問題の歌を喜ぶ時代は終わりを迎えようとしていたのです。
「アメリカでは、理想主義の夢想家がヴェトナムとウォーターゲートで失望し、非政治的になった。”解放”は”享楽”という形の主流になった」
野田努著「ブラック・マシン・ミュージック」より

 さらにこうして「黒さ」が薄められたディスコ・サウンドのブームに白人、特にロック畑からの参入が増え、R&Bチャートにまで白人の曲が入ってくるという、それまでは考えられなかった事態が生じます。白人リーダーを中心とするK・C&ザ・サンシャインバンドを筆頭に始まったその流れに乗ったのは、ビージーズの「サタデイナイト・フィーバー」(1977年)、ローリング・ストーンズの「ミス・ユー」(1978年)、アバ「ダンシング・クイーン」(1977年)、バリー・マニロウ「コパカバーナ」(1978年)、ロッド・スチュアート「Do Ya Think I'm Sexy」(1979年)、キャプテン&テニール「Do That to Me One More Time」(1980年)など、世界中のアーティストたちがディスコ・ヒットを飛ばしました。
 こうした状況は、よくとれば黒人音楽のクロス・オーバー化が進んだ結果とみることもできますが、実際は「白いファンク」によって「黒いファンク」が駆逐されたと考えるべきでしょう。
 1970年代前半に花開いたハイテク・ファンク・バンドの黄金時代は急速に終りを迎え、コモドアーズクール&ザ・ギャングのようにブラック・コンテンポラリーのバンドへと変身するか、オハイオ・プレイヤーズのようにその勢いを失って解散してしまうかして、1980年代にはそのほとんどが姿を消してしまうことになります。(唯一、生き残ったのはP−ファンク軍団でしたが彼らもまたバンドを大幅に縮小せざるをえませんでした)
 こうした傾向は、レコードの売り上げを左右するだけでなく、ラジオ放送における選曲の変化、そして番組自体の変化にも影響を与えることになります。元々アメリカではラジオの影響は大きく、特に黒人向けのラジオ局はヒット曲を生み出す発信源ともいえる存在でした。しかし、こうした黒人向けのラジオ局もディスコ・ヒットから始まったクロス・オーバー・ヒットをかけるようになると、しだいに黒っぽい曲をかけなくなり、それまでR&Bチャートの常連だった曲がラジオでかかりずらくなってゆきます。
 こうして「黒いファンク」の代表的存在ジェームス・ブラウンは、ヒット・チャートから消えてゆき、「白いファンク」もしくは「白塗りファンク」の代表的存在、マイケル・ジャクソンはあらゆる人種に受け入れられることで、レコード業界の歴史を変えるメガヒットを生み出すことになるのです。
 この傾向は、ディスコのブームが終わった後も、延々と続くことになり黒人向けのラジオ番組自体が消えてしまうことになります。そして、「R&Bチャート」のヒット曲のほとんどはポップ・チャートに食い込めずに消えてゆくという厳しい時代が訪れることになるのです。

<締めのお言葉>
「70年代のディスコ・カルチャーの発端はすべてゲイ・クラブにあり、ゲイの快楽主義にある。しかもこの文化の発展に大いに力を貸したのは黒人ともヒスパニックのゲイだった。社会から強く差別され抑圧されていた種族の蒔いた種が、あれよあれよという間に商業化され、ブームとなっていたのだ。男らしさを指標とする白人社会は、まさにそのディスコ・ブームの背後にあるゲイの快楽主義を嫌悪した」

野田努著「ブラック・マシン・ミュージック」

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