「恥辱 Disgrace」

- J・M・クッツェー John Maxwell Coetzee -

<セクハラ男のダメダメ物語>
 52歳の大学教授が教え子に手を出し、セクハラで訴えられ、辞任に追い込まれてしまう。そのおかげで彼は仕事も、友人も、名声も、そして生活の場を失ってしまいます。そのうえ、彼は逃げ込んだ娘のもとでさらなる災難に巻き込まれてゆきます。そんなあらすじを知ると、正直読みたいとは思えませんでした。僕は人の不幸話しを聞くのが好きな人ではないので・・・。それでも、著者の「敵あるいはフォー」(1986年)を読んでいて面白かったことと、この作品の知名度の高さから一度は読まなければ、という義務感もあって読みました。(何せ、この作品で著者のクッツェーは、二度目のブッカー賞受賞という快挙を成し遂げています)
 きっと「どん底まで落ちた男の苦悩と再生の物語」なのだろうと思いながら読み進むと、実はそんな甘い展開ではありませんでした。その男の悲劇は、そこからさらに厳しさを増してゆくのです。ただし、重い話のわりにクッツェーの文章は乾いていて、淡々とした進行はなんとなく村上春樹の小説を思わせます。特に娼婦との付き合い方やセックスの扱い方は実にクールで都会的です。そこまでは、ウディ・アレンの都会派コメディーに思えなくもありません。ところが、手を出した女子大生に訴えられ、大学、マスコミ、学生たちによって裁かれることになるあたりから、いっきに彼は情けない駄目男になって行き、坂道を転げ落ちるような展開が始まります。
 50過ぎのオヤジが、よくもまあ情けないとイライラしながらも、それを読む自分自身ももうすぐ50歳になるとこに気づき、人事ではないと思いはじめました。人生のピークをすぎた男が、そこで、もしすべてを失ってしまった時、どうなってしまうのか?これは僕のことかもしれないのか・・・。やれやれ、そうでなくても読みたくなかったのに・・・。

<南アフリカという舞台>
 主人公は、南アフリカの首都ケープタウンから遠く離れた田舎の街で、一人暮らしをしている娘のもとを訪れ、そこでしばしの田舎暮らしを味わいます。ところが、そこは彼がゆっくりと老後を過ごせるような幸福の地ではありませんでした。ここで初めて、この小説の舞台が南アフリカであることの特殊性が明らかになります。それは著者がたまたま南アフリカ出身だったために書かれたわけではなく、アメリカや日本では起こりえないドラマだからこそ書かれた小説なのです。そこには、南アフリカという国が抱える人種問題が大きく関っています。
 主人公がそれまで住んでい都会と娘が住む田舎の町は、同じ国とは思えないような異なる世界です。しかし、それは自然環境だけの違いではありません。それ以上に大きな違いは白人社会である都会に対し、そこは完全に黒人主体の社会だといことです。そのため、都会と違い田舎に住む娘にとって、白人であることはよそ者として弱者の立場に回ることでもありました。白人たちが人種差別的な体制を変えたくなかった理由は、そうした物理的、人工的に白人が少数派に回ることを恐れていたからだったということも理解できてきます。しかし、そうした不穏な人間関係を作ったのもまた、そうした白人たちの長年に渡る政治姿勢だったのも確かです。
 その土地においては、のんびり生活するどころか、彼は娘を守ることすらできないことを思い知らされ衝撃を受けます。そして、彼はそんな状況を認めることができず、さらに状況を悪化させてしまいます。普通なら田舎の生活は傷ついた主人公の人間性を回復させる役目を果たすのですが、・・・この物語はそうはなりません。
 この物語は、何度もそうした人間性の回復、再生の兆しを匂わせながら、再びどん底へと主人公を戻らせてしまいます。
 例えば、主人公は自分を訴えた女子学生のもとを訪れ謝罪しようとします。しかし、そこでも彼は変に誤解されるだけで結局は受け入れられずに終わります。
 田舎の町で築きつつあった人間関係も、父と娘が巻き込まれた暴力事件によってあっという間に崩壊してしまいます。
 動物病院での犬たちとの関係に癒されるものの、彼らが主な仕事としている捨てられた動物たちを安楽死させる作業から心の救いなど得られるわけもありません。
 そして、そうした苦悩の生活を続ける中、彼は着実に老いてゆき、彼が処分した用済みの犬たちと同じ運命をたどるのです。

<どん底と南アフリカ>
 この小説は、父と娘がどん底まで落ちたまま終わりをむかえるようにみえます。それでもまだ娘はお腹の中の子供とともにどん底から這い上がるのかもしれませんが、父親に未来はあるのでしょうか?
 この小説をアパルトヘイトが廃止され、急激に社会体制が変わりつつある南アフリカにおける白人たちの未来を暗示するものと考えることもできるのでしょう。当然、父親は滅び行く古き良き白人支配階級の象徴ということになるのでしょう。だとすれば、父と娘に降りかかった災難は、それまで白人たちが行なってきた非道に対するちょっとした天罰に過ぎない。そう考えることもできるかもしれません。作者は「ノー」というかもしれませんが・・・。
 カート・ヴォネガットは、彼の遺作「国のない男」の中で「優れた小説とは何か?」ということについて書いています。一般的に面白い小説とは、「主人公が試練に巻き込まれ、そこでどん底まで落ち込んだ後、見事に復活をとげる物語」と考えられる傾向にあります。ハリウッド映画のほとんどはそれがストーリーの基本になっています。しかし、ヴォネガットは歴史的傑作と呼ばれる作品は、そんな構造とはまったく無縁だといいます。
 シェークスピアの「ハムレット」や「ロミオとジュリエット」は、どちらも不幸と誤解がついには主人公に死をもたらします。
 フランツ・カフカの「変身」は、悲劇とすらいえないようなありえない運命に翻弄される男の意味不明の物語です。
 スコット・フィッツジェラルドの「偉大なるギャツビー」、太宰治の「人間失格」、アーネスト・ヘミングウェイの「老人と海」なども、ただただ悲劇的な人生の物語であり、そこにはハッピー・エンドなどまったくありません。その傾向は時代と共に強くなっているのかもしれません。今や「幸福な物語」は文学の世界ではある意味異端であり、子供たちのためのファンタジー文学の世界だけにしか存在しなくなりつつあります。(ハリウッド映画も大人になれない子供向けファンタジーの一分野ってことでしょう)
「人生とは、死を受け入れるための準備期間にすぎない」
そう言ったのは誰でしたっけ?
 人生において必要とされるのは、ある時点を越えたところから、死もしくはそこに至るまでの「恥辱の人生」を受け入れる心の準備の役に立つものになるのかもしれません。悲しいけれども、それが現実であり、誰もが付き合わなければならないおきてなのかもしれません。
 それにしても、こういうお話が身にしみる年になったとは、・・・ヤレヤレ。

<映画版「恥辱」>
 この小説の映画化は早くからあったようですが、原作者のクッツェーがハリウッドからの映画化話を断り続けていたようです。それが原作にかなり忠実なアンナ=マリア・モンティセリの脚本を気に入りオーケーを出したとのことです。監督は、彼女の夫スティーブ・ジェイコブズ(オーストラリア)で、主演はジョン・マルコビッチ!これがまた原作のイメージに近いのです。(予告編も公開されていて、確かに小説のイメージとおりに映画化されているように見えました)
 スティーブン・キングによる2009年公開映画ベスト10の4位に入っていましたから、けっこう期待できそうです。

<あらすじ>
 ケープタウン大学の教授デヴィッド・ラウリーは52歳。二度離婚していて、教授という仕事にもうんざりしているが、作家としての才能にも恵まれない中途半端な人生をおくっていました。セックスは娼婦との関係で処理していたが、ある日、教え子でもある学生のメラニーを自宅に連れ込み関係をもちます。二人の関係はその後も続きますが、彼女とその家族が突然、彼をセクハラで訴えます。ところが彼はそこで、謝罪どころか開き直って仕事を辞めてしまいます。
 仕事も友人も名声も何もかも失った彼は都会を離れ、田舎で犬をあずかる仕事をしながら農家を営む娘ルーシーのもとを訪ねます。のんびりとした田舎の暮らしは、彼にとってうんざりするものでしたが、それに馴染むまもなく彼の生活をぶち壊す事件が起きます。突然、見知らぬ黒人が家に侵入。彼を閉じ込め、娘をレイプしたうえ、車やテレビなど家のものをすべて盗み出して言ったのです。
 彼は娘にその土地を離れるよう言いますが、なぜか彼女はその土地を離れようとしません。そのうえ彼女を襲った黒人たちの一人は彼女を手伝っている黒人青年の身内だとわかりますが、それでもなお彼女はそこに残りレイプによってできた子供も生むと言い出します。いったいなぜ彼女はその土地にこだわり続けるのか?

「恥辱 Disgrace」 1999年
J・M・クッツェー John Maxwell Coetzee(著)
鴻巣友季子(訳)
早川書房

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