アメリカの夢を世界に広めたエンタメ帝国の祖 |
<ウォルト・ディズニー>
「赤狩り」に加担した右派の実業家であり、エンターテイメントによって世界支配を企む巨大企業のトップ。
ウォルト・ディズニーに対するイメージは昔からあまり良くありませんでした。
そのせいか、ディズニーの数々の名作もなんだか胡散臭く思えていました。
今や、ディズニーは世界の映画ビジネスにおける最強の存在であり、宗教、民族、国境の壁を越えたエンタメ帝国です。
ジョージ・オーウェルの「1984」のビッグブラザーよりも、ミッキー・マウスの方が世界支配の象徴に近い気すらしてしまいます。
そんな複雑な思いを抱きつつ、ウォルト・ディズニーのページを作ってみました。
そこでわかったのは、ウォルト・ディズニー自身は、アニメ―ションという新しい技術によって、誰も見たことのない作品を作ることが夢だったということ。
そのために何度も会社を倒産させたものの、優れた協力者に恵まれた人生だったということ。
帝国を築いたのは彼の意志を継いだ彼の後継者たちだということです。
<チャップリンとディズニー>
チャールズ・チャップリンに憧れ、チャップリンのモノマネが大好きな少年ウォルト・ディズニーはアニメーションによってサイレント喜劇の動画化に挑戦。
そのチャップリンの助言を受けながら映画界に進出したディズニーは、チャップリンに並ぶ存在にまで上り詰めます。
しかし、第二次世界大戦を機に二人の運命は大きく別れて行くことになります。
チャップリンはナチスにとっての最大の敵となり、ディズニーは友好的なドイツ出身者として扱われました。
そして「赤狩り」が二人を決定的に引き離します。
チャップリンがアメリカから追放された後、ディズニーはその先を実現し、この世を去りました。
大野裕之さんの「ディズニーとチャップリン」はそんな二人の関係を分析した本。
ここではその本を参考にディズニーについてまとめました。
チャップリンについては、彼のページをご覧ください。
<ウォルト・ディズニー>
ディズニーの創設者ウォルト・ディズニー Walt Disney は、1901年12月5日イリノイ州のシカゴに生まれています。
彼が4歳の時、大工だった父親の仕事が上手くゆかなくなり、家族は3000ドルで購入した土地で農園を始めるため、ミズーリ州のマーセリーンという田舎町に引っ越します。
そこからのしばしの田舎暮らしは、彼にとっての原風景となるような幸福な日々でした。
「わたしの人生に影響を残すような出来事は、すべてマーセリーンで起きた」
ウォルト・ディズニー
後に彼が建設することになるディズニーランドのイメージは、その故郷マーセリーンだったと言われます。
ところが父親は農園でも失敗し、1910年今度はカンザスシティに引っ越し、そこで新聞販売の権利を買って、新聞配達の仕事を始めます。そこで父親は急に社会主義に傾倒し始め、仕事そっちのけで政治活動を始めます。当然、仕事も上手くゆかなくなり、そのうっぷんを家族にぶつける暴力的な父親になってしまいます。
それでも彼の8歳年上の兄ロイが銀行員になり、なんとか家計を支えて行きます。後にロイは、ディズニー社を資金面、経済面で支える番頭役として、社長となったウォルトを支えることになります。
<アイワークスとの出会い>
経済的にも精神的にも苦しかったディズニーの少年時代に彼の心の支えだったのが、当時、大スターになっていたチャップリンでした。ウォルト少年は、チャップリンの映画を観るだけでなく、彼のモノマネにも熱中。ついには当時盛んに行われていたチャップリンのモノマネコンテストに出演し、見事に優勝しています。
1917年9月、彼は両親の住むシカゴでウィリアム・マッキンリー・ハイスクールに入学。卒業後は、シカゴ美術学院の夜間部に通いました。ちょうどその頃、ヨーロッパでは第一次世界大戦が始まっていて、アメリカ軍の参戦が決まります。彼は多くの若者と同じように兵士になることを志願しますが、兵士にはなれませんでした。
1918年9月、彼は兵士ではなく戦後処理のための部隊に入り、ヨーロッパに向かい、翌年の10月まで一年間を過ごしました。
帰国後、広告業界で働き始めた彼は、同僚となったアブ・アイワークスとデザイン会社「アイワークス=ディズニー・コマーシャルアーツ社」を立ち上げますが、会社は長続きせずに倒産してしまいます。しかし、ワークスとのコンビはここからも続くことになり、二人はカンザスシティ・スライド社で一緒に働くことになります。
アブ・アイワークス Ub Iwerks は、ドイツ系移民の子供でカンザス生まれ。ディズニーと一緒に働き始めた頃、彼はまだ17歳。この後も、二人の関係は続き、ディズニーの有名キャラクターの多くはディズニーではなく彼が描くことになります。(ミッキー・マウスも含め)
1922年5月23日、彼とアイワークスは「ラフォグラム社」を立ち上げ、アニメーションの製作を始めます。当時、映画館では長編映画のオマケとして短編映画が上映されていて、そこにアニメーション映画は使われるようになっていました。
彼らは「ラフレット」(1921年)、「ブレーメンの音楽隊」(1922年)を製作しますがビジネスとしては成立せず、「アリスの不思議な冒険」を完成させたものの配給、公開のめどが立たず再び会社を倒産させてしまいました。
失意のディズニーは一人ハリウッドへ向かい、アニメーションではなく俳優として仕事を得ようと考えます。しかし、そう簡単に俳優になれるわけもなく、再び彼はアニメーションの製作を始めます。すると「アリスの不思議な冒険」を見た映画プロデューサーのマーガレット・ウィンクリーから連絡があり、不足し始めていたアニメーション映画の製作を依頼されます。
1923年12月、ディズニー・ブラザースが設立されます。兄のロイも経営陣に参加し、経営をバックアップすることになりました。
<ウォルト・ディズニー・スタジオ誕生>
1925年7月13日、会社が軌道に乗ったことから彼はスタジオの助手だったリリアンと結婚します。
1926年、スタジオを新築し社名を「ウォルト・ディズニー・スタジオ社」に変更。ところが、共同経営者だったマーガレット・ウィンクリーがこの頃に結婚し、その相手となったチャールズ・ミンツという人物が経営に口を出し始め、大きなトラブルが起きます。
1927年9月5日は「しあわせうさぎのオズワルド」の第一作「トロリー・トラブルズ」がユニバーサルから公開されてヒットします。これがディズニー最初の人気キャラクターとなりました。ところが、ミンツはディズニーから優秀なスタッフを引き抜いて自分の会社を作り、オズワルドを自分のものにしてしまいます。
オズワルドだけでなく優秀なスタッフまでも奪われたディズニーは大きなショック受け、キャラクターについての権利所有の重要性を思い知りました。この後、彼は次なるキャラクターをミンツに秘密にした状態で生み出すことにします。こうして誕生したのが、「ミッキー・マウス」でした。
<ミッキー・マウス誕生秘話>
アニメーションにおける最初のヒット作は、1919年11月9日公開の「フェリックス・ザ・キャット」だと言われています。
プロデューサーはパット・サリヴァン。アニメーション製作はオットー・メスマーでした。猫のアニメ・キャラクター「フェリックス」はアニメ初の人気オリジナル・キャラクターとして今もなお知られています。実は、このフェリックスは、オットー・メスマーが製作したチャップリンのアニメ映画に出てきたキャラクターでした。
チャップリンが主役のアニメ作品は、1915年から1923年に書けて30作品ほど製作されています。いかにチャップリンが人気者だったかがわかりますが、どれもチャップリンの承諾なしに作られた作品でした。しかし、当時、チャップリンは自分のアニメ化作品に関しては寛容で、逆にメスマーのために自分の写真を30枚から40枚参考にと送っていたと言われます。メスマーはその写真を参考にチャップリンをつくり、さらに彼の動きをフェリックスの動きにも使いました。フェリックスの歩き方は、チャップリンそのものなのです。
フェリックスが登場した1919年は、チャップリンがドタバタ短編映画から撤退し、本格的な長編映画に挑み出した時期でした。大人気だったチャップリンの映画が不在となった映画館で、その代わりを務めることになったのがアニメーションによる短編ドタバタ映画だったのです。そして、ミッキーもまたその正当な継承者だったと言えます。
ミッキー・マウスのデザインがアイワークスによるものであることは事実のようです。頭とお尻の二つの丸の組み合わせからなるキュートな造型は、丸みにこだわり続けたアイワークス特有のデザインです。
ただし、ミッキーの内面を作ったのは間違いなくディズニーのようです。そして、そのもとになったのはフェリックスと同じくチャップリンでした。
ミッキーのアイデアについては、私たちはチャーリー・チャップリンにかなりの借りがあると思っている。私たちは、訴えかける何かが欲しかった。それで、チャップリンの切なさのようなものを持つ、小さくてつつましやかなネズミを思いついたんだ。できる限りがんばろうとする、あの小さなチャーリーのような・・・
ウォルト・ディズニー
「蒸気船ウィリー」 1928年
(監)(製)ウォルト・ディズニー(作画)アブ・アイワークス、レス・クラーク他
「蒸気船ウィリー」でミッキーにしゃべらせたのはディズニーのアイデアでした。当時、トーキーで人間がしゃべるのはいいとして、動物がしゃべるのは観客に受け入れられないという思い込みがありました。それをあえて実行したのは、子供のように新しいことに挑戦したがるディズニーだからこその判断でした。
ディズニーの偉大さは、初のトーキー・アニメーションを作ったかどうかにあるのではない。(実際、この作品以前にもトーキー・アニメは製作されています)
音をアニメーションのギャグやストーリーと完全に同期させて、音と映像がドラマを紡ぎ出す新しいメディア・ジャンルを拓いた点にある。そのために、資金難の中で作った『蒸気船ウィリー』でさえ、完全な同期のために一度録音した演奏をすべてやり直したほどだった。
「チャップリンがサイレントにこだわり、ディズニーはトーキーに邁進した」と言ってしまうと、彼らの本質を見失う。二人がこだわったのは、映像と音の同期、すなわち(誰もが見てわかる)ことだった。
<チャップリンとの関り>
1930年、コロンビアの厳しい契約から離れたかったディズニーは、ユナイテッド・アーチスツUAのジョゼフ・スケンク社長と出会い、1本あたり5万ドルの報酬で契約します。UAは、ダグラス・フェアバンクスやメアリー・ピックフォードらのスターたちが立ち上げた新しい会社でチャップリンもそのメンバーでした。
ついに彼はチャップリンと直接関わることが可能になり、ディズニー作品を認めていたチャップリンも、彼の代表作となる映画「街の灯」の同時上映作品に「ミッキーのバースデー・パーティー」を選んでくれることになりました。ここから二人の素晴らしい共闘時代が始まることになります。
彼(ディズニー)は、映画がトーキーになった時に失ってしまった映画の面白さの本質とも言える<スピードを変幻自在に操る映像演出>、<(生身の人間よりももっと自在な)身体芸>、<キャラクターの面白さ>を、サイレント映画からごっそり引き継ぎ、そこに音楽を付加した。そのことで、ミッキーマウスはチャップリンのサイレント喜劇の正当な後継者であり続けることができたのだ。・・・
ウォルトは、チャップリンの熱烈な信奉者だった。彼はいつも、チャップリンがどんな風にギャグをしていたかを演じてみせるのだった。私たちは、ウォルトの演技はチャップリンと同じくらい上手だと思った。
ウォード・キンボール
「花と木」 1932年
(監)バート・ジレット(製)ウォルト・ディズニー(作画)トム・パーマー、レス・クラーク他
世界初のカラー映画となった短編アニメ作品(アカデミー短編アニメ賞)
当時完璧なカラー化を実現するためには、多額の費用が必要でした。そのための融資はチャップリンの助言もあり、ユナイテッド・アーティスツから受けることができました。
「これで虹が描ける!」ディズニーは、赤字も覚悟で単純素朴にこの映画の製作にのめりこみました。
「白雪姫」 1937年
(監)デヴィッド・ハンド(なんとノンクレジット!)(製)ウォルト・ディズニー(原)グリム兄弟(これもノンクレジット!)
(脚)テッド・シアーズ、オットー・イングランダー(音)フランク・チャーチル、リー・ハーライン、ポール・J・スミス
(声)ハリー・ストックウェル、(以下はノンクレジット!)エイドリアーナ・カセロッティ、ビリー・ギルバート、ルシル・ラ・ヴァーン
1933年、ディズニーは「白雪姫」を長編アニメ作品として映画化することを決意。しかし、スタッフも経営陣もUAもその計画に反対します。
アニメ映画はまだ当時、映画の添え物となる短編しかなく、それで収益をあげられるとは思えなかったからです。製作費も膨大で回収するには大ヒットさせる必要がありました。
1934年のある日、ディズニーはスタッフ50人をスタジオに集め3時間に渡り「白雪姫」のすべての役を最初から最後まで演じてみせました。そして3年がかりでの製作が始められました。ところが完成した「白雪姫」の公開をUAが認めなかったため、映画の公開は暗礁に乗り上げます。
そこでディズニーはRKOとの交渉を始めます。その際、UA内部で唯一ディズニーの味方だったチャップリンは、RKOとの交渉に役立つようにと自作「モダンタイムス」公開の際に配給会社とやり取りした記録をディズニーに渡し、買い叩かれることがないように助言を与えてくれました。
長編第2作となる「ピノキオ」で、ディズニーは監督・作画だけでなく製作も部下に任せ、コストカット、アウトソーシングを徹底させます。しかし、その結果、作品の質は落ちたと言われました。
1937年の夏、ディズニーはあるレストランで偶然同席した指揮者レオポルド・ストコフスキーと意気投合。アニメの背景にクラシック音楽を流すのではなく、「ファンタジーがクラシック音楽のかたちをとる」そんなアニメーションを作ろうと考えます。
二人は曲の選定や編曲を行いながらクラシックの名曲8曲からなる映画「ファンタジア」の製作に入ります。
「ファンタジア」 Fantasia(アニメ)
(監)ベン・シャープスティーン(製)ウォルト・ディズニー(脚)ジョー・グラント、ディック・ヒューマー
(ナ)ディームズ・テイラー(出)レオポルド・ストコフスキー、フィラデルフィア管弦楽団
ステレオ録音で製作・公開された初の映画だったため、公開する映画館が当初は少ししかなく大赤字となりました。
しかし、戦後、世界中で再公開されると時を越えた不滅の作品としてヒットし、ディズニーの代表作となりました。
子供の頃、見ましたが子供には眠かったはず。「魔法使いの弟子」が怖かったことだけは覚えています。
アカデミー特別賞受賞(1)「トッカータとフーガニ短調」J・S・バッハ(2)組曲「くるみ割り人形」チャイコフスキー(3)「魔法使いの弟子」デュカス
(4)「春の祭典」ストラヴィンスキー(5)「田園交響曲」ベートーヴェン(6)「時の踊り」ポンキエッリ
(7)「はげ山の一夜」ムソルグスキー(8)「アヴェ・マリア」シューベルト
<チャップリンの助言>
チャップリンはディズニーに様々な助言を与えてくれました。
「君はもっと伸びる。君の分野を完全に征服する時がかならず来る。だけど、君が自立を守っていくには、僕がやったようにしなきゃ。つまり、自分の作品の著作権は他人の手に渡しちゃだめだ。」
1930年代の初めにチャップリンがディズニーに言った言葉
彼はキャラクター・ビジネスについてもディズニーに助言を与え、1933年にはキャラクターグッズを専門的に扱う会社としてウォルト・ディズニー・エンタープライズを設立。ブランド・イメージの重要性をわかっていたディズニーは、各ジャンルの優良大手企業とだけ契約する方針をとりました。そのおかげで、翌1934年にはそうしたキャラクターの権利収入だけで20万ドルを稼ぎ出し、映画の興行収入を上回りました。
ディズニーは、チャップリンと違って、「できる限りすべて自分でやる」タイプではなく、自分のやりたいことをすべて演じて、スタッフたちに完全に理解させ、その通りにやらせた。
そんな分業制を構築するには、多くの優秀なスタッフが必要だった。そのために、アニメーターの教育システムを確立したことは、ディズニーが行った重要な業績の一つだ。そして、その延長として、彼はディズニーに様々な分野の優れた人材を集めるだけでなく優秀な企業の買収も行うことになります。
1932年にはアーサー・バビットの提案をもとにディズニー美術学校が設立されました。
<第二次世界大戦以後>
第二次世界大戦に突入し、チャップリンとディズニーは大きな分かれ道を迎えることになります。
チャップリンは反ナチスの急先鋒となり、映画「独裁者」を発表、ドイツでチャップリンの映画は見られなくなりました。
それに対し、ディズニーはナチスに対し敵対的な内容の作品を作ることはなく、ディズニー映画は米国が参戦してからも軍内部で見ることが可能だったそうです。ウォルト・ディズニーは、ドイツからの移民だというのが定説にもなっていました。(実際は違います)
1941年ディズニー社内で組合活動が激化。経営者としてのウォルトは、社員を大切にする人物で他者に比べれば、その扱いは悪くはなかったはずです。しかし、それだけに組合活動の活発化は彼に衝撃を与えました。かつて父親が社会主義にはまっていたことも、彼が組合活動を認めない理由の一つでした。さらには古き良きアメリカ社会を破壊しつつあるソ連主導の共産主義への怒りもありました。
彼は理解あるリベラルな経営者から組合つぶしに積極的な右派の経営者へと変身。社内から共産主義者を排除始めます。それは戦後の米ソ冷戦時代にアメリカ国内で展開することになる「赤狩り」の先駆となるものでした。
1947年には従業員の中の共産党員と思われる者のリストをFBIに提出。社内だけでなく映画界における共産主義者に関する情報を密告し続けることになります。ただし、こうした活動は戦後ディズニー社を危機に追い込むことになります。
戦意昂揚のための国策映画ばかりを製作し、「赤狩り」により優秀なアニメーターの多くを解雇したことで社内の創作意欲は低下したまま戻りませんでした。ウォルトも映画の製作を社員にまかせっきりにして現場から離れてしまいます。
彼が再びやる気になったのは、テレビの登場とディズニーランドの建設というまったく新しい目標のおかげでした。
<テレビとディズニー>
ディズニーがテレビに見出した可能性は三つ。
一つ目は、劇場公開が終わった旧作を放送することで収益をあげられること。
二つ目は、新作映画のPRに使えること。
最後、テレビ局が映画製作のスポンサーになってくれることで、大規模な作品製作を可能にすること。
つまり、テレビ局と共同で資金を集めて映画製作し、テレビで新作映画の宣伝をして、劇場公開後はテレビ放送するという、今では普通に行われている映画とテレビのメディア・ミックスのビジネス・モデルを、テレビの登場直後にすでに考えていたわけです。
1954年10月27日、大手のABC放送でレギュラーテレビ番組「ディズニーランド」の放送が始まりました。
当初「ディズニーランド」の視聴率は50%を越える圧倒的な高さでしたが、製作費はスポンサー収入をはるかに上回り、巨額の赤字を出していました。それでもディズニーは、番組の製作を続けます。そして、その見返りとして番組の放送局ABCからディズニーランド建設のための投資を受けることに成功します。
<ディズニーランド>
ディズニーランドは、自身が幼少期に見ていた若き日のアメリカ合衆国の姿、そして世界の未来からなる、理想の過去の再現と未来の表現でした。
「いったんディズニーランドに入ると、そこは昨日と明日とファンタジーの世界です。ディズニーランドには現在まではまったく存在しないのです」
ディズニーランドのパンフレットより
1955年7月17日、ディズニーランドは完成し、マスコミに公開されました。翌18日に一般客向けにオープンし、最初の1年で入場者360万人を達成しました。
1966年12月15日、やりたいことをやり遂げたウォルトは肺がんによってこの世を去りました。
<その後のディズニー>
その後、ディズニーはディズニーランドを世界各地に建設することで世界へその文化を輸出。さらにディズニー映画だけでなく大手の映画会社の吸収も進め、世界最大の映画会社へと拡大して行きました。
2013年時点でディズニー社の収益を事業ごとに見てみると下記のようになります。
映画製作・配給収入は6%。(これがそもそものディズニーの収益でした)
キャラクター・グッズ事業は9%。
パークとリゾート事業は21%
メディア・ネットワーク事業は64%(映像配信やテレビなど)と圧倒的に収益の中心になっています。
20世紀フォックスも傘下に収めたディズニーは世界最大のメディア・コンテンツ企業となりました。
そもそも自分で絵を描くよりも、アイデアを提案し、プロデューサーとして製作を後押しすることが本業だったウォルト・ディズニーのことを思うと、自社で映画を製作するよりも、優れた映画会社を買収することで収益を増大させる方向性は彼の意志を継いだようにも思えます。
革新的な思想を持ちつつも、映画だけにこだわりテクノロジーについては頑迷なまでに保守的だったチャップリンに比べて、ディズニーは保守的な思想を持ちつつも、メディアについては過激なほど革新的で、次々と新しい機軸で理想を描いた。
ディズニーはチャップリンからのバトンを引き継いで先へと走り、新たなメディアであるテレビも手なずけた。チャップリンにならってアニメーションにテーマをもたせたように、遊園地を革新して「テーマパーク」を発明した。強力なプロデューサーシップを発揮し、個人のクリエイターだったチャップリンでは成し遂げられなかった娯楽の帝国を築いた。
まさに、今日のエンターテイメントのフォーマットのほとんどは、チャップリンとディズニーが二人三脚で創り上げたと言っても過言ではない。
チャップリンは自由な創造のために自作の権利を守ったのですが、それを世界に拡大したり、帝国を築くなどという願いは持ってはいませんでした。それは彼がそもそもイギリス人だったからかもしれません。
それに対し、ディズニーはそこから先の国境をも越える成功を目指しました。それは彼がアメリカ人だったからであり「アメリカン・ドリーム」の申し子だったからなのではないでしょうか。
こうした二人の考え方の違いは、放浪と定住、闘争と建設、理想と現実、保守と革新、外見と内面、ナショナリズムとグローバリズムなど様々な現在も続く問題とつながって見えます。
二人の違いは、エンターテイメントの世界における永遠の問題とも言える方向性を象徴しているとも言えます。
<参考>
「ディズニーとチャップリン」エンタメビジネスを生んだ巨人 2021年
(著)大野裕之
光文社新書