- ドクター・ジョン Dr.John -

<ニューオーリンズ文化の生き証人>
 ほとんどギャングまがいの生活を送り、だからこそニューオーリンズの街の裏も表も知ることになった男。ニューオーリンズが生んだ「白い呪術師」ドクター・ジョンほど、ニューオーリンズの街を愛し続けてきた男は他にいないかもしれません。この街の魅力のひとつ独特のファンク・サウンドは、彼のように街を愛し続ける多くの人々によって、歴史と共に積み上げられてきたものです。その伝統が今でも続いているからこそ、ニューオーリンズの街は未だに新しい音楽の発信地として活気を保っているのです。

<マック・レベナック>
 ドクター・ジョンことマック・レベナックは、1940年ニューオーリンズに生まれました。アイルランド系の移民だった彼の祖父は南部を旅してまわるミンストレル・ショーの芸人で、父親は職を転々とした後、レコード店を経営するようになりました。その店で売られていたのは、父親が大好きだったレイス・レコードやゴスペル、ジャズ、それにポップスでした。(人種差別が当たり前だった1950年代、R&Bというジャンルはなく「レイス(人種)・レコード」と呼ばれていました)おかげで彼は、一日中、当時ニューオーリンズで流行っていたホットなナンバーを聞くことがでしたわけです。

<R&Bギタリストとしてのスタート>
 そんな彼が楽器と出会ったのは7歳の時のことでした。マラリアにかかってしまい、何ヶ月もの間、家から出られなくなった彼に両親がギターを習わせてくれたのです。彼の先生となったのは、パプース・ネルソンというプロの黒人ギタリストでしたが、なんと彼はロックン・ロール界の大御所ファッツ・ドミノのバック・バンドのメンバーでもありました。さすがは、ブラック・ミュージックの聖地ニュー・オーリンズ、大変な層の厚さです。(逆にいうと、それだけの有名ギタリストでも、バイトをしないと食えなかったということかもしれませんが・・・)

<ロックン・ロール草創期の目撃者>
 当時、ニューオーリンズはR&Bやジャズだけでなく、ロックン・ロール黄金時代の発信源のひとつでもあり、ロイド・プライスやリトル・リチャードなどを輩出していました。ギターを弾き始めたマックは、すぐに仲間たちとバンドを組んで活動するようになり、近所にあったレコーディング・スタジオに入り浸るようになります。コズモ・マタッサという人物のこのスタジオは、この頃ニューオーリンズではナンバー1のレコーディング・スタジオで、R&Bの古典的名作の数々がここで録音されていました。
 マックと仲間たちはこのスタジオで、リトル・リチャードが「トウッティ・フルッティ」を録音するのを目にし、他にもレイ・チャールズ、ファッツ・ドミノ、プロフェッサー・ロングヘアーなどの演奏を目にしながら成長してゆきました。

<カッティング・コンテストの目撃者>
 南部最大の歓楽街として繁栄していたニューオーリンズの街には、数多くのクラブが立ち並び、あらゆるジャンルの音楽を聞くことができたのです。当然、そこで働くバンドの数も多く、全米から腕自慢が集まり、夜が更けたころにはカッティング・コンテストと呼ばれるミュージシャン同志の決闘が繰り広げられていました。
 カッティング・コンテストにおいて、その挑戦者となるミュージシャンは、その店のバンドで同じ楽器を演奏しているミュージシャンとアドリブ演奏によるソロ・パートの応酬を行い、観客にその判定をしてもらいます。もし、挑戦者が勝てば彼がそのバンドの職を得ることができるのです。
 マックは、10代前半の頃からクラブに忍び込んではバンドの演奏を聴くようになり、カッティング・コンテストのような真剣勝負の世界にどんどん魅せられてゆきました。
 ジャズ、カントリー、R&B、ロックン・ロール、ブルース、・・・それぞれのジャンルのミュージシャンたちは、真剣勝負を行いながら常に新しい音楽を生み、かつテクニックを向上させ続けていたわけです。それは、「音楽の街」ニューオーリンズにとって、まさに黄金時代とも言える時期でした。

<犯罪社会の目撃者>
 南部最大のプレイ・スポットはまた、キューバなど中南米やアジアからの麻薬が大量に密輸される犯罪の街でもありました。そのうえ、マリファナは多くの家庭に伝統的に入り込んでおり、ミュージシャンともなれば、ごく当たり前に阿片やヘロインにまで手を出していた時代でした。マックもまたご多分にもれず10代の頃から麻薬にはまってしまい、彼の仲間たちの多くが薬によって命を落としたり、逮捕されたりする場面を目撃することになります。
 マック自身も麻薬中毒以外に犯罪や喧嘩などで何度も危険な目にあっています。なかでも1961年のクリスマス・イブに起きた事件は、その後の彼の運命を大きく左右することになりました。

<ピアニストへの転向>
 その日、仲間たちとクラブで演奏を行っていると、クラブのオーナーとメンバーのひとりが女性の取り合いで喧嘩を始め、オーナーが銃を持ち出してきました。マックはその仲裁に入ったのですが、逆に手を撃たれてしまいます。この時、彼の左手の薬指はほとんどとれかかっていたそうです。その後、何度かの手術で機能はある程度快復したものの、ギタリストとしての演奏は困難になってしまいました。音楽以外に食べて行く方法を知らない彼を見るに見かねて、友人のジェイムス・ブッカーはマックに、当時ジャズ界を中心にブレイクしていたオルガンを教え始めます。これがきっかけで、彼はピアノにも向かうようになり、プロフェッサー・ロングヘアーやヒューイ・ピアノ・スミス、ファッツ・ドミノ、それにアラン・トゥーサンなど地元出身の優れたニューヨーク・ファンクのピアニストたちの伝統を受け継ぐことになったのです。

<ニューオーリンズ崩壊の目撃者>
 1960年代前半、ニューオーリンズの街にジム・ギャリソンというやり手の地方検事が現れ、街の風紀の乱れを正そうと大がかりな風俗業界の取締を行いました。(このジム・ギャリソンは、後にケネディー大統領の暗殺事件を担当することになります。映画「JFK」の主役です)
 この影響で、南部一の歓楽街だったニューオーリンズの街はいっきにその活気を失ってしまいます。さらにその影響でクラブでの演奏という重要な仕事を失ってしまったミュージシャンたちは、生きて行くために街を去らざるを得なくなりました。
 おまけにこの頃、ミュージシャンたちの所属する白人系音楽家協会と黒人系音楽家協会は、縄張り争いを繰り返し、スタジオでの録音作業がまともに出来ない状態になっていました。そのため、オーティス・レディング、アイク・ターナー、ボビー・ブランドなど大物のアーティストたちは、ニューオーリンズでの録音を避けるようになり、スタックスのあるメンフィスなどの街へと活動拠点を移してしまったのです。

<ニューオーリンズ・ファンク、LAへの脱出>
 そんな状況の中、ニューオーリンズの音楽界において異色の存在であり、そのファンク・サウンドの中心ともなっていたAFOというレコード会社が、ニューオーリンズに見切りをつけロスアンゼルスへと旅立ちました。
 AFO(All For One)は、レコード会社ではあっても、実際は優れた黒人ミュージシャンたちが生み出した黒人による黒人のための共同体のようなものでした。彼らはロスに移り住んでからも、コミュニティーを形成し、ロスのミュージック・シーンの「ファンクネス」を支える裏方となって行きます。(正確には、そうならざるを得なかったと言うべきなのですが・・・)
 古くはサム・クックの「シェイク」、その後はフィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドの一部となり、バッファロー・スプリングフィールド、ソニー&シェール、オージェイズ、ボビー・ウーマック、ジョニー・ギター・ワトソンなどのバックを務めて行きました。残念ながら、その多くは彼らにとって不本意な演奏でしたが、生きて行くためには仕方のない仕事でした。しかし、そのおかげでロスには、ニューオーリンズ直輸入のセカンドライン・ファンクが根付くことになったのです。

<マック、LAへの追放>
 そして、そんなニューオーリンズからの移住者たちの中にマックもいました。しかし、彼の場合、その移住の直接の理由は経済的な問題ではありませんでした。彼は麻薬の不法所持の罪でニューオーリンズへ戻ることを禁止されていたのです。しかたなく、彼は家族をおいたままロスに向かい昔の仲間たちとともにスタジオ・ミュージシャンとして演奏活動を続けることになりました。
 しかし、こうして彼がある種閉鎖的なニューオーリンズの街を出ざるを得なくなったことは、この後彼がロック・ミュージシャンとして活躍するためのチャンスをもたらすことにつながります。

<番外編 / フランク・ザッパとマックそして、リトル・フィート>
 当時、どうしようもない薬物中毒だった彼は、同じようにぶっ飛んでいる仲間たちと、あるアーティストのバックを務めるためスタジオに呼ばれました。しかし、グルーブの欠片もない馬鹿げた演奏を繰り返させられることに嫌気がさした彼は、たった一日でこのバンドを去ってしまいました。
 なんとそのバンドがフランク・ザッパのマザーズ・オブ・インヴェンションでした。ということは、リトル・フィートのローウェル・ジョージとエミリオ・エストラダもまたドクター・ジョンのぶっ飛び仲間であり落ちこぼれ仲間だったのかもしれません。ドクター・ジョンに言わせれば「リトル・フィートのニューオーリンズ風グルーブなど子供だましにすぎないぜ!」となるかもしれませんが。

<音楽ビジネス業界に裏切られ続けた男>
 1950年代にはいるとマックは、バンドとしての活動やレコーディングにおける演奏以外にも楽曲提供やプロデュースの仕事を少しずつこなすようになります。しかし、現在のように著作権が守られていなかったこの時代に彼が作った曲は、彼にほとんど利益をもたらしませんでした。たまにヒット曲が出たかと思えば、その曲の権利はいつの間にか歌っているアーティストの手に渡っていたりして、彼にその恩恵が回ってくることはほとんどありませんでした。(そうやって曲を盗んだロックン・ロール・スター、ロイド・プライスを彼は本気で射殺しようと待ち伏せしたこともあったといいます)
 音楽ビジネス界のインチキぶりに、彼はその後も悩まされ続けます。特に後に友人となるザ・バンドのメンバーたちに紹介されてやとった業界ナンバー1のやり手マネージャー、アルバート・グロスマン事務所のベネット・グロッツァーとは、長きに渡り契約問題で争うことになります。(それでも、彼は自分が白人だっただけまだましだったと思っていたようです。同じように活躍していた黒人ピアニストのヒューイ・ピアノ・スミスは、彼以上に才能を搾取され続けたのですから)

<ドクター・ジョンの誕生>
 1967年ソニーとシェールの口利きによって、マックとAFOのメンバーたちは、アトランティック・レコードと契約することができました。さっそくレコーディングのチャンスも得た彼らは、以前から構想を練っていたニューオーリンズ独特の宗教「グリグリ」(ヴードゥー教の一種)における有名な祈祷師、ドクター・ジョンをテーマにした作品を作り上げます。
 その録音当日、ヴォーカルを担当することになっていたロニー・バロンがマネージャーの反対で参加できず、急遽マックがヴォーカルを担当することになりました。こうして、運命はマック・レベナックに伝統の呪術師ドクター・ジョンに変身する機会をもたらしたのです。
 こうして生まれた彼らのデビュー・アルバム「グリ・グリ」は、その怪しげな雰囲気がヒッピー・ムーブメントの波にピタリとはまり、カルト的存在として静かなヒットとなりました。(ジャケットからして、かなり怪しげでした)さらに、彼らのサイケデリックで宗教的なライブ・パフォーマンスも話題を呼び、初めはアルバムの出来に否定的だったアトランティックも彼らをプッシュするようになりました。

<名作「ガンボ」誕生>
 こうして、ゲテモノ的なアーティストとしてデビューを飾ったドクター・ジョンでしたが、彼は「グリ・グリ」で表現したニューオーリンズの伝統をより正確に再現する作品としてサード・アルバム「ガンボ」(1972年)発表します。このアルバムは、1940〜1950年代にかけてニューオーリンズが生んだ名曲の数々を愛情を込めて現代に甦らせた作品集で、彼にとっての代表作であると同時にニューオーリンズ・ファンクをアメリカの音楽史に永遠に刻み込む歴史的な作品となりました。

<アラン・トゥーサンとの共演>
 
1973年、彼はニューオーリンズ・ファンクの伝統を継承するもうひとりの重要人物、アラン・トゥーサン、そしてミーターズと共演、アルバム「In The Right Place」を制作。そこからは、彼にとっての初シングル・ヒット、「Right Place,Long Time」、「Such A Night」が生まれました。

<トラブルからの脱出>
 しかし、彼はまだその頃、麻薬との縁を切れずにおり、契約上のトラブルも多かったため、レコード会社との契約が困難な状況に追い込まれていました。彼が麻薬と完全に縁を切ったのは、1989年ごろのことです。したがって、30年以上にわたり彼は麻薬の深みから抜けられなかったことになります。やっと、そんな状況から抜け出した頃に作られたのが、彼にとってもうひとつのルーツ作品集「In A Sentimental Mood」でした。このアルバムは、彼が小さな頃に父親の店で聞いていたルイ・ジョーダン、コール・ポーター、デューク・エリントンらジャズの巨人たちが残したスタンダード・ナンバーを現代に甦らせた作品集で、彼にとっては新たな方向性の発見につながりました。

<ニューオーリンズの復活へ>
 その後も彼は「Going Back To New Orleans」など、故郷ニューオーリンズに捧げるアルバムを作り続け、街の復興のために働き続けています。こうした彼の努力やネヴィル・ブラザースらの活躍により1980年代以降少しずつニューオーリンズは、ファンク・ミュージックの聖地としての魅力を取り戻しつつあるようです。そんな動きを代表するニューオーリンズ・ジャズ・ヘリテッジ・フェスティバルの成功とその拡大は今や世界的に有名になりました。
 彼が自らの自伝「フードゥー・ムーンの下で」を出版したことで、失われようとしていたニューオーリンズの歴史は少しだけ後世に語り継がれることになりました。語り継ぐに値する歴史をもつということは、それだけで幸せなことですが、街のはみ出し者だった彼が、その歴史を歌い継ぎ、語り継ぐことになるとは、・・・運命とはずいぶん不思議なものです。

<締めのお言葉>
「すべてのヤクザ者たち、放浪者たち、モージョの魔力を秘めた盗人たちよ、そしてすべての人生の演技者たち、個性あふれる街の生き物たちよ・・・おまえたちは、墓場へと向かっているのかもしれない。だが、それでも、あの街のあの香りを消すことだけは、誰にも出来やしない」

「フードゥー・ムーンの下で」ドクター・ジョン、ジャック・ルメル共著

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