- ドーナル・ラニー Donal Lunny -

<アイルランド音楽の偉大さ>
 20世紀後半のポピュラー音楽シーンにおいて、次々に登場した第三世界の新しいサウンドに唯一対抗できた白人世界のポピュラー音楽は、アイルランドの音楽だけだったのではないでしょうか?(ロックは白人音楽というより白黒混血サウンドというべきでしょう)
 なぜ、たかだか人口300万人ほどの小国が、ここまで影響力を持つ音楽を生み出し得たのでしょうか?
 先ず、アイルランドという国が、白人国家でありながら、第三世界並みに厳しい搾取を強要されたイギリスの植民地であったことが非常に重要でしょう。この国は、「新しい音楽成立の条件は異文化の衝突する辺境の地である」という説にぴったりの位置にあると言えるのです。
 しかし、それ以上に重要なのは、この国が他のヨーロッパ諸国以上に古い伝統をもつケルト文化の中心地であったということです。そこにはゲール語という独自の言語があり、独自の文化圏が成立していました。(沖縄におけるウチナーグチも非常によく似ています)
 そして、アイルランド音楽はアイリッシュ・トラッドという伝統的な音楽を元にしながらも、けっして日本の民謡のように保存運動にとどまるのではなく、常に新しいアイルランド音楽の創造に向けて変化し続けているのです。
 そんなアイルランド音楽の保存と革新の両面を支えた、まさに「英雄」と呼ぶに相応しい人物が、ドーナル・ラニーです。

<アイリッシュ・トラッドとの出会い>
 ドーナル・ラニーは、1947年ダブリンの西、キルデア州ニューブリッジという街に生まれました。彼の母親の出身地はアイリッシュ・トラッドの中心地、ドニゴールでしたが、彼自身はあまりトラッドには興味がなく、アメリカでブームになっていたフォーク・リヴァイバルの方に感心が向いていたようです。しかし、1956年にニューヨークでデビューしたアイルランドからの移民バンド、クランシー・ブラザースのアメリカでの大活躍は、アイルランドの若者たちの関心を一気にアイリッシュ・トラッドへ向けさせ、彼も仲間たちとクランシー・ブラザースのコピー・バンドを結成します。
 ところが、彼がプロの道として最初に選んだエメット・スパイスランドというバンドは当時流行のフォーク・ロック系のバンドであったため、彼は夜遅くパブに行き、そこでアイリッシュ・トラッドのミュージシャンたちとのセッションを行いながら、そのテクニックを学んで行きました。

<ブズーキの導入>
 そしてこの頃、彼が使い始めた楽器が、後に彼のトレード・マークともなるブズーキでした。この楽器は、元々中近東で生まれたギターに似た弦楽器ですが、それがギリシャの民族楽器として有名になり、アイルランドでもトラッド系のミュージシャンたちが使い始めていた物でした。
 彼はこの楽器をギターの代わりに使用することによって、新しいアイリッシュ・トラッド・サウンドのスタイルを生み出してゆくことになったのです。

<プランクシティ Planxty誕生>
 そしていよいよアイルランドにおける「はっぴいえんど」とも言える存在、プランクシティの誕生です。彼らの活躍によって、アイリッシュ・トラッドは現代音楽としての新しいスタイルを確立した、と言われるほど、このバンドはその後の世界的大発展にとって重要な存在となります。
 そして、「はっぴいえんど」同様4人のメンバーは、その後もアイルランド音楽界における中心的存在として活躍することになります。その結成のきっかけは、ドーナル・ラニーの幼なじみだったクリステイー・ムーアのソロ・アルバム「プロスペラス Prosperous」(1972年)の録音にドーナルとアンディー・アーバイン、リーアム・オ・フリンの3人が参加し、意気投合したことでした。

<プランクシティの4人>
 バンドのヴォーカルとバウロン担当のクリスティー・ムーア Chiristy Mooreは、元々フォーク系のアーテイストで、そのメッセージ性の高さと力強い歌声から、今やアイルランド音楽界の大御所的存在となっている人物です。
 マンドリン担当のアンディー・アーバイン Andy Irvineは、アイリッシュ・フォーク・ロックの先駆けといわれるバンド、スウィニーズ・メン Sweeney's Menのメンバーでしたが、その後東欧各地を旅しながらケルト系音楽と東欧音楽との関連に着目、その影響をアイルランドに持ち帰った人物(ブズーキを最初に取り上げた人物のひとり)です。
 リーアム・オ・フリン Liam O'Flynnは、アイリッシュ・トラッドになくてはならない楽器、イーリアン・パイプの名手。彼が奏でるメロディーがあって初めてアイリッシュ・トラッドの魅力が生まれると言えるほどの重要な楽器です。
 そして、この3人にドーナル・ラニーのブズーキが加わることによって、アイリッシュ・トラッドの新しいスタイルが生まれ、その結晶が1973年のデビュー・アルバム「プランクシティー」として発表されたのです。

<ボシー・バンド Bothy Bandへの参加>
 プランクシティーのセカンド・アルバム発表後、彼は母親の出身地でもあるドニゴールのミュージシャンたちが結成したボシー・バンドに移籍します。このバンドには、後にチーフタンズのフルート奏者として活躍することになるマット・モロイ Matt Molloyも参加しており、プランクシティーよりもパワフルなダンス・バンドとして海外でも活動するようになっていました。1978年にパリで録音されたライブ・アルバム「アフター・アワーズ After Hours」は、その代表作です。
 さらにこの頃、彼は自らマリガン・レコードを興し、ミュージシャンとしての活動と平行してプロデューサーとしての活動も開始しました。

<ムーヴィング・ハーツ Moving Hearts結成>
 彼は1980年代に入り、再び友人のクリスティー・ムーアとともにムーヴィング・ハーツというバンドを結成します。このバンドでは、それまで以上にロック、ジャズ色の強い現代的なサウンドを追求しました。1981年のデビュー・アルバム「ムーヴィング・ハーツ」など素晴らしいアルバムを発表しますが、1985年に解散。その後彼はバンドに属することなく、ミュージシャンとしてよりは、プロデューサーとして、アイルランドの音楽界に貢献し続けます。

<プロデューサーとしての活躍>
 彼のプロデューサーとしての活動として重要な作品としては、先ず「コモン・グラウンド Common Ground 魂の大地」(1996年)があげられるでしょう。U2ボノシンニード・オコーナーエルヴィス・コステロケイト・ブッシュらのロック系から、シャロン・シャノンポール・ブレイディクリスティー・ムーアなど正調アイリッシュ・サウンドのミュージシャンまでを網羅したオムニバス・アルバムはアイリッシュ・ミュージックの入門用に最適のアルバムです。
 さらに奥深くアイルランドの魂を追求したい方にお薦めなのが、イギリスのBBCが制作した「ブリング・イット・オール・バック・ホーム」(1991年)です。これは本、ビデオ、CDとして発売されている大作です。この企画にもドーナル・ラニーは参加しており、録音現場におけるプロデューサーをつとめているだけでなく、テーマ曲も作曲し、演奏しています。
 そして、アイルランドで1996年に設立されたゲール語の放送局TNaGの特別企画番組「Sult Spirit of the Music」のプロデュースもまた重要な仕事でした。この番組は、ヴァン・モリソンメアリー・ブラックなど豪華なアーティストたちが生で出演し、ドーナル・ラニーのバンドをバックにスタジオ・ライブを行うというもので、CD化もされています。これもまたゲール語を中心とするケルト文化圏の音楽をとらえ直す素晴らしい企画でした。
 とにかく偉い人です。これだけ働き、世界的に評価されているにも関わらず、何と彼はソロ・アルバムを一度も出していませんでした。プロデューサーとして、やりたいことが多すぎて自分の方に目が向かなかったのでしょうか。
 しかし、1998年になり、やっと彼の初ソロ・アルバムが発表されました。アルバム・タイトルは、バンド名と同じ「ドーナル・ラニー・クール・フィン Donal Lunny Coolfin」。やっと彼は自分が積み上げてきた実績を自らの手でアルバムにすることができたのです。このバンドには、ロイ・ドッズとグラハム・ヘンダーソンという元フェアグラウンド・アトラクションのメンバーが加入していて、そのためかゲスト・ヴォーカルとして同じ元フェアグラウンド・アトラクションのエディ・リーダーも参加しています。進化を続けるアイルランドの音楽を象徴する、より現代的になったアイリッシュ・トラッドの世界、それがドーナル・ラニーのサウンドです。

<締めのお言葉>
「いつまでも話しを伝えて行くためには、何度となくその話しは話される必要がある。もし仮に、その話しを自分たちのものにしてしまったら、15年から20年くらいで消えてしまうに違いない。話しがなくなるということは、すべてがなくなるということなのだ。その時には、祈りも、歌も、一切がなくなっていることだろう」
ダグ・ボイド著「ローリング・サンダー」より

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