- ドナ・サマー Donna Summer & ヴァン・マッコイ Van McCoy -

<ドナ・サマー Donna Summer>
 一時代を築いたディスコ・クイーン、ドナ・サマー Donna Summer。ディスコのブームに乗って登場したアーティストのほとんどがブームの終焉とともに去っていった中、彼女は意外なことにディスコ・ブームが去った後も、1989年に「It's For Real」をポップ・チャートの7位に送り込むなど、長く活躍を続けています。「Love To Love You Baby」でのあまりにスキャンダラスかつセンセーショナルなデビューは、一発屋で終る可能性の高さを十分に感じさせていましたが、彼女は単なる「ディスコ・クイーン」ではなかったのでした。
 後にヨーロッパで活躍することになるドナ・サマー(本名ラドナ・アンドレア・ゲインズ)は、1948年12月31日にアメリカで生まれています。父親は肉屋で母親は教師という家庭で七人兄弟の末っ子として育った彼女は小さな頃から聖歌隊で活躍。ボストンを中心にゴスペル・グループや聖歌隊で活動していました。しかし、その後、黒人音楽ではなくジャニス・ジョップリンやルー・リードなどロックの影響を受けるようになりロック・バンドのヴォーカルを担当。18歳でニューヨークに出ると当時大活躍していたロック・コーラス・グループ、スリー・ドッグ・ナイトのバック・ヴォーカルをつとめました。
 その後、後にダイアナ・ロス主演で映画化もされる黒人版の「オズの魔法使い」ミュージカル「ウィズ」の主役オーディションに挑戦します。結局、この役には選ばれませんでしたが、当時すでにブームになっていたロック・ミュージカル「へアー」のドイツ公演に出演するチャンスをつかみます。そして、このドイツ行きこそが彼女の運命を大きく変えることになります。ドイツ公演のためミュンヘンに渡った彼女は、そこでオーストリア人俳優ヘルムート・サマーと結婚。そのまま、ミュンヘンに残った彼女はドイツを中心に「ポーギーとベス」、「ショー・ボート」などのミュージカルに出演したり、コマーシャル・ソングを歌ってりしていました。そんな彼女に目をつけたのが新進気鋭の作曲家チーム、ジョルジオ・モロダーとピート・ベロッテでした。彼女の才能を高く評価した二人は、自分たちのレーベル、オアシスから彼女をデビューさせ「ホステージ」、「レディース・オブ・ザ・ナイト」の2曲をヨーロッパでヒットさせます。そして、3曲目のシングルとして作られたのが、全米ポップ・チャートの2位になっただけでなく全世界的な大ヒットとなる「Love to Love You Baby」(1976年)でした。

<「Love to Love You Baby」>
 ポピュラー音楽の歴史を変えたといえるこの曲を作ったのは、モロダーとベロッテに加えて、ドナ・サマー自身でもありました。彼女はソングライターとして曲作りにも参加しており、単なる作られたアイドルではなかったということかもしれません。(作曲といえるような曲なのか?という問題もありますが・・・)16分を越えるこの曲は、リズム・トラックに乗せたSEXの実況中継ともいえるスキャンダラスなもので、発売当初から大きな話題となり、賛否両論を巻き起こしながら大ヒットとなりました。
 この曲の世界的ブレイクを仕掛けた人物として、カサブランカ・レコードの社長ニール・ボガートの名前も忘れられません。なぜなら、彼はこの曲をアメリカで発売して世界的なヒットに結びつけただけでなく、当初3分しかなかった普通のポップ・ソングを延々と続くセクシャルな声の繰り返しにミックスし直すよう指示した仕掛け人でもあったのです。この曲のもつ麻薬的な繰り返しは、ブラック・ミュージックの原点ともいえるアフリカの民族音楽を思い起こさせると同時に、最新のミニマルな現代音楽との類似も感じられます。この曲のもつ魅力は、新しいようでいて古い人間の本能に訴えかける構造だったことにつきるのかもしれません。(思うにSEXという行為は、究極のダンスであるともいえますから)
 ディスコ・サウンドからハウスへのつながりも感じられるこの曲が、社会的な批判を浴びつつも大ヒットしたのは当然の結果だったのかもしれません。「人間の欲望」を知り尽くしたニール・ボガートという人物、恐るべしです。ディスコ・ブーム初期の代表曲を、フィリー・ソウルの流れをディスコ化した「ハッスル」とディスコからのニーズによって生み出された「Love to Love You Baby」、この2曲で決まりなのはそれなりの理由があるからなのです。どちらの曲もダンスという行為を止められなくするために必要な工夫をそれぞれしっかりと組み込んだマスター・ピースだったのです。

<脱ディスコ・クイーン>
 ヴァン・マッコイがディスコ・ブームを抜け出す前に若くしてこの世を去ったのに対し、ドナ・サマーは一発屋どころか、それからの活躍こそが本番になりました。1977年発売のシングル「I Feel Love」もまた「Love to Love You Baby」の延長でカルトな雰囲気をもつミニマルな曲で大ヒットそなりました。(ポップ・チャート6位)
 1978年、ディスコ・ブームまっただ中に作られた映画「 It's Friday 」には彼女自身も出演。サントラ盤からは彼女が歌う「ラスト・ダンス Last Dance」が大ヒット。(ポップ・チャート3位)同じ年、ジミー・ウェッブ作品のディスコ向けカバー「マッカーサー・パーク MacArthur Park」も大ヒットし、ついに全米ナンバー1を獲得します。その後も「ホット・スタッフ Hot Stuff」(1979年)、「バッド・ガール Bad Girl」(1979年)、バーブラ・ストライサンドとのデュエット曲「No More Tears」、「「On The Radio」(1980年)と大ヒットを連発。ここまではディスコ・ブームの勢いで乗り切った感もありましたが、その後、ディスコ・ブームが去ってもなお彼女は活躍を続けます。1980年カサブランカからゲフィンに移籍した彼女は、1983年にはモロダー&ベロッテのもとを離れ、クインシー・ジョーンズのもとで録音を行いアルバム「恋の魔法使い」を発表。同名タイトルのシングルは全米ポップ・チャートのトップ10に入りました。その後も、1987年には「ディナー・ウィズ・ガーシュイン」をR&Bチャートの10位に、1989年には「It's For Real」をポップ・チャート7位にと活躍を続けました。元々ミュージカルのスターを目指していた彼女には文句なしの歌唱力があり、その能力をいかすことでロックでもソウルでもこなせる力を身につけていました。その才能が彼女の息の長い活躍を支えたのでしょう。素晴らしい歌声を持っていることは、どんな時代にも生き残れる最高の賜物かもしれません。

<ヴァン・マッコイ Van McCoy>
 ヴァン・マッコイといえばやはり「ハッスル The Hustle」でしょう。ただし、お尻とお尻をぶつけ合うセクシーなダンス「ハッスル」を生み出したのは彼ではありません。このダンスはニューヨークに住むヒスパニック系の人々の間から生まれた久々のニューダンスでした。ヴァン・マッコイは、ある友人からマンハッタンのディスコで流行っているニューダンス「ハッスル」の話を聞きました。彼自身はそのダンスを見たこともありませんでしたが、ヒットの予感を感じた彼は、さっそく「ハッスル」という曲を書き上げ自分のバンドに演奏させたのでした。なんという安易な発想!しかし、この安易な発想から生まれた誰もが踊れる曲がディスコ・ブームに火をつけ、その後の音楽シーンを大きく変えてしまうことになるのです。
 ヴァン・マッコイという人物は、けっして天才アーティストではありませんでしたが、とにかくどんな仕事でもこなすオール・マイティーな働き者でした。作曲家、プロデューサー、アレンジャー、ピアニスト、そしてたまにヴォーカリスト。35歳という若さで彼が心臓麻痺でこの世を去ったのも働きすぎからきた過労によるものだったと言われています。
 1944年1月6日(1940年説もあります)にワシントンD・Cで生まれた彼は、黒人の名門学ハワード大学で心理学を学んだ後、兄が所属していたドゥーワップ・グループ、スターライターズのメンバーとなりました。その後、1960年、彼はソロ・シンガーとしてデビューし、シングル「Hey , Mr.D」を発表。この曲が東海岸を中心にそこそこのヒットとなったことから、ニューヨークのセプター・レコードが彼に声をかけ、ショービズの中心地ニューヨークに進出するチャンスをつかみました。ただし、セプター・レコードは彼のヴォーカリストとしての活動に期待していたわけではなく、アレンジャー、プロデューサーとしての才能に目をつけていたようです。そのため、彼は1960年代を大物プロデューサー、ルーサー・ディクソンのアシスタントとして働くことになり、ジェリー・リーバーやマイク・ストーラー、バート・バーンズらから多くのことを学ぶことになりました。
 しかし、ソロ・アーティストとして活躍するチャンスをあきらめ切れなかった彼は、1960年代半ば今度はコロンビア・レコードから再デビューするチャンスをつかみましたが、結局上手く行きませんでした。その後は、フィラデルフィアで作曲家、プロデューサーとしての活動に専念することになります。
 その後、彼が曲を提供したのは、ボビー・ヴィー、ボビー・ヴィントン、シレルズ、ナンシー・ウィルソン、ドリフターズ、グラディス・ナイト&ザ・ピップス、バーバラ・ルイスなど、アトランティスのアーティストが中心でした。バーバラ・ルイスの「Baby I'm Yours」はR&Bチャート5位のヒットとなり、作曲家として初めてトップ10入りを果たしました。(ポップ・チャートでも11位)
 1971年、彼は再びブッダ・レーベルからシンガーとしてアルバム「ソウル・インプロヴィゼーションズ」を発表しますが、これまたヒットせず・・・。再び裏方に戻った彼は、アブコ・レーベルで当時大人気だったスタイリスティックスのアレンジなどを担当するようになります。この時、彼が用いたフィリー・サウンドならではのオーケストラ・サウンドがヒットしていたことから、彼はそれを生かしたディスコ向けのインストロメンタル・アルバムを出すことになりました。時代はディスコ・ブームに火がつくのを待っていました。
 そして、生まれたのが、ヴァン・マッコイとソウル・シティー・シンフォニーのアルバム「ディスコ・ベイビー」とシングル「ハッスル」でした。このヒットの後も、彼はフェイス・ホープ&チャリティーの「To Each His Own」(作曲&プロデュース)、デヴィッド・ラフィンの「愛いからのがれて」(プロデュース)をR&B1位にしたのを初め、映画やテレビの音楽にも進出しました。そんな中、MCAから再び自らのヴォーカル・アルバム「マイ・フェバリット・ファンタジー」を発表。タイトル曲はついに小ヒットとなりました。(1978年)こりずに挑み続けた彼の目標は、ここにきてついに叶ったのでした。しかし、その実現を待っていたかのように、彼の人生は終わりを迎えることになります。多くの仕事に休まず関わり続けたワーカホリックの彼は、なんと35歳という若さで心臓麻痺のためこの世を去ってしまったのです。
 ディスコ・ブームのきっかけをつくった男は、意外なことにそのブームが終るよりも早くこの世を去ってしまっていました。

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