- ダニー・ハサウェイ Donny Hathaway -

<ダニーの死>
 1979年1月、ダニー・ハサウェイは、滞在中のホテルの15階の窓から身を投げ、わずか34年という短い生涯を終えました。精神的にまいっていた彼は、いつ自殺してもおかしくない状態だったようです。彼の人生は、アメリカの黒人たちにとって重要な一時代とともにあり、、彼の死はその時代の終わりでもありました。

<ダニーの生きた時代>
 60年代末にピークをむかえたアメリカの公民権運動。人種差別の撤廃を求める黒人たちの運動は、泥沼化したベトナム戦争に対する反戦運動の盛り上がりとともにアメリカ全土を巨大な混乱の渦に巻き込みました。しかし、その後70年代に入っても、かつて多くの若者たちが目指した社会の根本的な変革は、現実のものとはならず、キング牧師やケネディー大統領の暗殺が示すように、時代はけっして明るい方向へは向かっていませんでした。それでも黒人社会においては、ついこの間までは、公然と行われていた公共の場所での差別、電車やバスの座席、大学や高校への入学、職場での待遇などの差別は、少しずつ解消され、黒人たちの社会進出は着実に進んではいました。黒人たちにとっては、キング牧師が夢みた平等な社会が一歩づつ実現に向かっている希望に満ちた時代。それが60年代末から70年代前半にかけてだったと言えるでしょう。

<ダニーの登場>
 ダニーは、そんな時代の流れを象徴する存在となるかのように、1970年さっそうとソウル・シーンに登場した。有名なゴスペル・シンガーを祖母にもち、名門のハワード大学でクラシックなど音楽を学び、主席で卒業した黒人中産階級出のエリート。彼は、牧師の道、音楽教師の道を選ぶこともできたが、あえてミュージシャンになる道を選んだ。そして、音楽業界でのいくつかのステップを踏んだ後、ソウル・ミュージックの名門レーベル、アトランティックから鳴り物入りのデビューを果たす。デビュー・アルバムの邦題は「ソウルの新しき光と道」

<ダニーのサウンドの特徴(1)>
 ダニーのサウンドには、それまでのソウル系ミュージシャンにはない、いくつかの特徴がありました。先ず、彼は音楽的な専門教育を受けていたせいか、他人の曲を編曲し直し、自分独自の新しい曲に仕上げるのが得意でした。そして、その時彼が取り上げる曲の中に白人ロック系アーティストの曲が多いこともまた大きな特徴でした。
 例えば、同質のテイストをもつ女性アーティスト、ロバータ・フラックとのデュエットにより大ヒットしたジェームス・テイラー「君の友達」があります。この曲は、シンガー・ソングライター・ブームの火付け役となった代表的な作品ですが、もしこれをオーティス・レディングジェームス・ブラウンが歌ったらどうでしょう?彼らのようにソウルフルなアーテイストが「君にはいつだって友達がいるのさ〜」なんて歌うなんて、考えただけで違和感があります。しかし、ダニーなら、そんな違和感は感じられませんでした。それだけ、彼の存在は新しかったのです。ジョン・レノン「ジェラス・ガイ」レオン・ラッセル「ア・ソング・フォー・ユー」アル・クーパー「溢れ出る愛を」などの選曲にも、彼の個性が良く現れています。そして、このあたりのセンスが、彼のサウンド・スタイルをニュー・ソウルと呼び、後のブラック・コンテンポラリーの先駆けであったと評価する最大の理由です。

<ダニーのサウンドの特徴(2)>
 
しかし、彼はただ単にソウルのポピュラー・ミュージック化を進めただけのアーティストではありませんでした。
 例えば、ソウルというよりは、黒人プロテスト・ソング・アーテイストと言うべき女性ヴォーカリスト、ニーナ・シモンの名曲"To Be Young Gifted And Black"があります。この曲は、まさに黒人たちの思いが込められた人種差別に対するプロテスト・ソングであり、公民権運動の歴史において最も有名な曲のひとつです。それ以外にも、"Thank You Master",
"Ghetto","Little Ghetto Boy","The Slam"
そして彼のオリジナル曲の中の最高傑作「いつか自由に」など、アメリカにおける黒人社会の問題をしっかりととらえたソウル・フルな作品群がいくつもあり、それが、多くの黒人たちの指示を得た最大の理由ともなっていました。

<ダニーのカリスマ的人気>
 彼の最高傑作とも言えるライブ・アルバム「ダニー・ハサウェイ・ライブ」における聴衆たちの反応の凄さは、いつ聴いても鳥肌が立つほどです。時代の寵児とは、まさにこのことを言うのでしょう。黒人たちの社会進出が進んだ70年代初め、テレビ・プログラム「ソウル・トレイン」の大ヒットや世界的なディスコ・ブームなどもあり、黒人文化の華やかさは、ピークを迎えようとしていました。しかし、この頃すでに状況は曲がり角にさしかかり、時代の寵児は、それゆえに逃れられない精神状況に追い込まれることになってしまいます。

<ダニーを囲む社会の変化>
 確かに、黒人社会における中産階級の社会進出は、大きく前進しました。しかし、低所得者層については、今までと状況に変化はなく、中産階級の所得アップとアメリカ全土に広まりつつあった不況の波の影響で、かえって不公平感が広まり始めていました。あまりにも早すぎた時代の変化の揺れ戻しが訪れようとしていたのです。国民の意識改革よりも先に進んだ制度先行の平等政策、その限界が、70年代半ばには明らかになってきたのです。

<ダニーのまわりの音楽の変化>
 社会状況の変化に対応するように、黒人音楽の世界にも新しい波が押し寄せてきた。それは、前述のディスコ・ブームが、大きなきっかけとなり、黒人音楽の流れを大きく変えようとしていたのです。今や黒人音楽は、二つの大きな流れに別れようとしていました。ひとつは、ポップ・チャートでのヒットが可能なディスコ・サウンドかブラック・コンテンポラリーと呼ばれる白人向けポップスの流れ。もうひとつは、黒人社会の中で受け入れられることを目指すより黒っぽいサウンド「ファンク」を中心とする流れでした。(その代表格は、もちろんJ.ブラウンやPファンク軍団)
 60年代末のように、白人黒人両方の聴衆に受け入れられる黒人音楽の居場所は、ラジオにもビルボードのヒット・チャートにも存在しなくなっていました。もはや、彼の存在自体が、否定されようとしていたのです。

<ダニーの音楽の先進性>
 ダニーの生みだした素晴らしい曲の数々は、今聴いてもまったく古さを感じさせません。20世紀の黒人音楽が到達したひとつの完成品といえる存在かもしれません。彼のバックで活躍していたミュージシャンたちは、その後スタッフを結成し、フュージョンの一大ブームの中心となっていったエリック・ゲイルなど、テクニシャンぞろいでした。彼らは、黒人音楽だけでなくポピュラー音楽全体の裏方として活躍を続けて行くことになります。
 そして、それぞれの時代ごとに黒人の意識向上を訴えるアーティストたちは、必ずダニーとカーティス・メイフィールドに対するリスペクト(尊敬)の念を忘れることはありません。
「君がどんなに落ち込んでいても、トラブルに巻き込まれても、…君には友達がいるじゃないか」
それにしても、ダニーが落ち込んでいたとき、彼を助ける友人はいなかったのでしょうか?人生とは皮肉なものです。

<締めのお言葉>
「開け放たれた窓の前に立つな」 ジョン・アービング著「ホテル・ニューハンプシャー」より

<参考資料>
「遺作 -ミュージシャンの死とラスト・アルバム-」浅野純編集(ミュージック・マガジン社)
「リズム&ブルースの死」ネルソン・ジョージ著(早川書房)
ダニー・ハサウェイの各アルバム・ライナーなど

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