世界の心の穴を埋めた村上文学映画


映画&小説「ドライブ・マイ・カー Drive My Car」

- 濱口竜介 Ryusuke Hamaguchi
村上春樹 Haruki Murakami -


<小説の映画化>
 映画の歴史において、小説の映画化でアカデミー賞を獲得するだけの成功を収めるためには2つのパターンがあると思います。
 1つは、名作文学をリアリズムに徹して忠実に映像化した作品で、その多くは巨費を投じた大作です。
 「風と共に去りぬ」「ゴッドファーザー」「戦場にかける橋」「ロード・オブ・ザ・リング」「DUNE 砂の惑星」などの作品は、巨額の予算もしくは進化したCG技術によって実現した大作映画ばかりです。最新の映画では、ジェーン・カンピオンの「パワー・オブ・ザ・ドッグ」も原作に忠実な傑作です。
 2つ目のパターンは、短編もしくは中編小説を、物語的映像的に膨らませることで、原作とは異なる映画に仕上げて成功した作品です。
 アーサー・C・クラークの「前哨」を映画化した「2001年宇宙の旅」、スティーブン・キングの「刑務所のリタ・ヘイワース」を映画化した「ショーシャンクの空に」、スコット・フィッツジェラルドの同名タイトルの短編を映画化した「ベンジャミン・バトン」、テッド・チャンの「あなたの人生の物語」を映画化した「メッセージ」などはその成功例です。
 前述のタイプを成功させるには職人的な技量と巨額の予算を動かす製作者目線も必要です。それに対し、後者の場合には原作を膨らませるための芸術性、作家性が求められることになります。ヒットさせて当然の文芸大作に比べるとプレッシャーは少ないかもしれませんが、作品の成否は監督の手腕にかかることにもなります。
 「ドライブ・マイ・カー」は、後者のタイプの傑作として歴史に刻まれることになるはずです。

<村上春樹作品の映画化>
 村上春樹の小説を映画化することは作者の了解を得ること自体が困難なこともあり、数はそう多くありません。そのせいか長編小説の映画化は、唯一、ベトナムの巨匠トラン・アン・ユンの「ノルウェイの森」だけです。
 村上春樹のデビュー作を映画化した大森一樹監督の「風の歌を聴け」(1981年)はほぼ中編の映画化。市川準監督の「トニー滝谷」(2004年)。カナダの監督ロバート・ログヴァルの「神の子どもたちはみな踊る」(2008年)。韓国の監督イ・チャンドンの「バーニング 劇場版」(2018年)。松永大司監督の「ハナレイ・ベイ」(2018年)。そして今回の「ドライブ・マイ・カー」いずれも中編・短編小説の映画化です。
 そこには作者である村上春樹の映画に対する思いがこめられているように思います。
 今回、映画版の「ドライブ・マイ・カー」を見た後、改めて小説を読み直してみました。すると映画版の魅力は、原作小説を複数の物語へと拡張させ、それぞれを魅力的にしただけでなく、最終的には原作が描きたかったテーマへと見事に収束させた構造にあることがわかりました。だからこそ、カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞できたのだと思います。
 ということで、映画「ドライブ・マイ・カー」と小説「ドライブ・マイ・カー」を比べながら、海外で映画版が高い評価を得た理由に迫ろうと思います。

<広島と瀬戸内の島々>
 原作の舞台はすべて東京都内でしたが、映画版では中盤以降の舞台を広島と瀬戸内の島へと移し、さらに後半には北海道への旅のシーンが加わります。
 広島を舞台にしたと言っても、原爆ドームのような世界的に有名な場所ではなく瀬戸内の島と海を背景にしたことで自然あふれる風景が加えられ、都会的イメージが先行する村上作品から抜け出し映画全体に「癒し」の力が加わった感じがあります。
 さらに広島市内の平和公園と原爆ドームを結んだ延長戦上に建てられた廃棄物処理場の吹き抜けを訪れる場面も印象的です。その場所の空っぽの吹き抜けは、村上作品の特徴であり、この作品でも描かれる心にぽっかりと空いた穴を思わせます。
 木々の緑と海の青という「癒し」とドライブでの何度も通るトンネルや吹き抜けが表現する「虚しさ」が共存する背景。この作品では、映画だからこそ有効な印象的な背景を選ぶことに成功しているのです。

<オープニング:音の物語>
 原作では女優としてしか描かれていない家福の妻には、音という名前が与えられ、脚本家としてのキャリアも与えられました。そして、そんな創作者としての彼女が語る物語がこの映画のオープニングとして大きな役割を果たしています。(ここは「ドライブ・マイ・カー」とは別の短編小説が使われています)
 密かに憧れる同級生の部屋に、何度も忍び込む女子高生。そのたびに侵入したことの証を残す彼女は、人生を壊しかねない危険な行為をやめられません。川底にへばりつくヤツメウナギのようにボロボロになってもなおやめられない彼女でしたがついにある日・・・
 家福の妻、音もまた夫のいない間の男性俳優たちとの不倫行為をやめられず、自らの死まで繰り返されることになりました。そして、家福もまた薄々彼女の不倫に気づきながら、その事実を問いただす機会を彼女の死によって永遠に失ってしまいました。もしかすると、音は家福にとめてもらいたかったのかもしれませんが・・・。
 この部分だけでも、十分に一本の映画として作れそうな濃い内容のオープニングになっています。

<展開と練習:俳優たちの物語>
 映画版が世界各地の映画祭で大絶賛された最大の理由は、中盤に展開する家福と俳優たちによる「ワーニャ伯父さん」の練習部分にあると思います。
 広東語、韓国語、タガログ語、英語、手話、日本語という多言語で行われる現代演劇を代表するチェーホフの代表作。言葉の壁、年齢の壁、性別の壁、障害者と健常者の壁、国家の壁、すべてを越えて相互理解をはかろうとする芝居による挑戦に世界中の映画人、演劇人が共感したのは間違いありません。
 さらにこの演劇の題材に「ワーニャ伯父さん」を選んだこともまた見事です。といっても、この作品を選んだのは、原作者の村上春樹で、原作にもちゃんとタイトルだけは出てきています。実は、その作品の内容について知っていれば、そこからこの小説のテーマもまた示されていたことがわかります。
 それは・・・「どんなに現実が厳しくても、人は生き続けなければならない」ということです。映画のラストにそのテーマは舞台上で手話によって見事に演じられることになります。原作小説がヒントとして出していた作品をこの映画は見事に映像化したわけです。
 「ワーニャ伯父さん」から生まれた有名なエピソードに「もし、芝居の中に銃を出したなら、それは使われなければならない」があります。実際、映画の中でも銃は使われますが、原作に登場させた「ワーニャ伯父さん」はやはり演じられなければならなかったのです!
<「ワーニャ伯父さん」とアントン・チェーホフについて>

<クライマックス1:高槻と家福の物語>
 この映画の中で唯一、ほぼ完ぺきに原作どおりのセリフが続くシーンがあります。それは、渡利が運転する車中で家福に高槻が自分の思いを語る部分です。いかに監督がこの部分のセリフを重要視していたかがわかります。この映画最大の見どころがここにあるということです。様々な要素を原作小説に加えることで、映画としての魅力を生み出しながらも、監督が原作へのリスペクトを忘れていなかったことがここで示されます。世界中にいる村上春樹の熱烈なファンにとっても、この映画は納得の作品になっているわけです。

 僕の知る限り、家福さんの奥さんは本当に素敵な女性でした。もちろん僕が知っていることなんて、家福さんが彼女について知っていることの百分の一にも及ばないと思いますが、それでも僕は確信をもってそう思います。そんな素敵な人と20年も一緒に暮らせたことを、家福さんは何はともあれ感謝しなくちゃいけない。僕は心からそう考えます。でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、結局は自分がつらくなるだけです。しかし、それが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことは可能なはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います。
「ドライブ・マイ・カー」村上春樹より

 さらに原作にはこんな文章もありました。

 もしそれが盲点だとしたら、僕らはみんな同じような盲点を抱えているんです。その言葉が家福の耳に長い間残っていた。
 緑内障にかかったことで視界に盲点ができてしまった家福の設定と見事にリンクしています!

<クライマックス2:渡利と家福の物語>
 原作に忠実といえば、三浦透子が演じる渡利のキャラクターとその設定です。彼女を渡利役に選んだ時点で、そのキャラクター設定が完成しました。
 母親の死因については、交通事故死から豪雨災害による被災に変更しています。とはいえ、基本はそのままですが、最後に彼女の故郷への旅という原作にはない部分を追加しました。この部分は、家福と渡利が高槻と同じように、2人がより深く理解し合うために必要なシーンでした。
 この部分が重要なのは、ここでこの作品が「ロード・ムービー」の要素も取り込んだことです。アメリカ人が特に大好きなジャンルといえば、なんといっても「ロード・ムービー」。多くの名作を生み出した「ロード・ムービー」というジャンルの作品には、古くは「或る夜の出来事」「オズの魔法使い」から「ノマドランド」「グリーン・ブック」「ドラビング・ミス・デイジー」のようなアカデミー賞作品。それとは対照的な「イージーライダー」「地獄の黙示録」「テルマ&ルイーズ」のようなアウトロー・タイプまで様々あり、アメリカ人が最も愛するジャンルかもしれません。
 そんなハリウッド映画人が要素が満載だったからこそ、この作品はアカデミー賞でも作品賞も含めて4部門の候補になりえたのです。

 こうして見てくると、映画版の「ドライブ・マイ・カー」は、短編小説の映画化として見事な成功例ですが、けっしてワールドワイドな支持を得ることを目指して作られたとは思えません。
 それはあくまでもより良い作品を目指した結果であり、時代が求める作品を追求した結果だったのでしょう。時代がコロナ禍で世界中が心が癒しを求めていたという好条件もこの作品を後押ししたと言えそうです。

「ドライブ・マイ・カー」 Drive My Car 2021年
(監)(脚)濱口竜介
(P)山本晃久(AP)(原)村上春樹(脚)大江崇允(撮)四宮秀俊(美)徐賢先(編)山崎梓(音)石橋英子
(出)西島秀俊、三浦透子、霧島れいか、岡田将生、パク・ユリム、ジン・デヨン、ソニア・ユアン、アン・フィテ、ペリー・ディゾン、安部聡子
<あらすじ>
俳優で演出家でもある家福は、かつて娘を失くし、その後2年前に脚本家だった妻をくも膜下出血で失くしていました。
アジア演劇祭での演出をすることになった彼は、その開催地、広島でしばらく暮らすことになります。
緑内障で視力が落ちていた彼のため、練習会場への送迎のため運転手の女性、渡利が準備されていました。
彼女の完璧な運転テクニックでの移動中、彼の日課となる亡き妻の残した芝居の録音テープとの練習が始まります。 

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