
- デュポン社 Du Pont と新素材(ナイロン、テフロンなど)-
<20世紀世界経済をリードしたアメリカ>
二十世紀の世界をアメリカがリードし続けたのは、いち早く確立された民主主義のおかげであると同時に優れた政治家のおかげであり、豊かな資源のおかげでもありました。しかし、第二次世界大戦後、再びアメリカが世界の頂点に立ったのにはもうひとつ大きな原因がありました。それは、戦争中にヨーロッパから渡った才能ある科学者、発明家と才覚に恵まれた企業家たちが築き上げたアメリカの巨大企業が世界経済をリードし続けたおかげでもありました。(ユダヤ人迫害、戦争被害、貧困などを逃れ多くの優秀な人材が自由の国アメリカへと渡ったのです)
エジソンの発明を商品化し世界的企業となったゼネラル・エレクトリック。T型フォードを自ら開発し自動車の時代をリードし続けたフォード自動車。コンピューター時代を築いたIBM社とパソコン時代のきっかけを作ったアップル・コンピューター社。その後、インターネット時代の基本ソフトを独占し続けたWINDOWSの開発者ビル・ゲイツ率いるマイクロソフト社。世界の航空産業界に君臨し続けたボーイング社、ロッキード社。他にも、世界の証券業界をリードし続けたゴールドマン・サックス。カリスマ経営者テッド・ターナーが生み出した24時間ネットワーク・ニュースの先駆けCNNなど、いろいろとあげられます。アメリカが20世紀の世界経済をリードし続けることができたのは、こうした世界でもトップクラスのいくつかの企業とそれを生み出したカリスマ的な経営者たちのおかげといえます。
そんな中、アメリカの化学工業を世界一に押し上げ、未だに基礎科学の分野において世界をリードし続けているデュポン社もまた地味ながらアメリカを代表する企業のひとつです。(地味というよりも、「隠れている」といった方が正確かもしれません)
環境汚染の元凶ともいえる存在であるとはいえ、ナイロンやポリエチレンなど現代社会に必要不可欠な素材を生み出し商品化させたデュポン社もまた20世紀を象徴する企業のひとつだったといえます。
「地球破壊の20世紀」というテーマならば、デュポン社はまさにその主役の一人だということになりそうです。
<デュポン社の歴史>
デュポン社を創立したエリュアール・イレネー・デュポンの父親は、フランスで時計細工師をしていたといいます。しかし、カルヴァン派のプロテスタントだったため、主流派のカトリック教徒から迫害を受け、フランス革命の混乱を逃れ、国外に脱出することを決意します。そして、当時最高の化学者だった有名なアントワーヌ・ラボアジェのもとで学んでいた息子のイレネーを連れてアメリカへと渡りました。(ちなみに、アメリカではデュポン社は英語読みで「デュポント」と呼ばれているそうです)
彼らがアメリカに移住した1789年、アメリカにはまだフロンティアが存在し、開拓時代が続いていました。そのため、西部へと向かう鉄道の敷設工事や発展する工業に必要とされるエネルギー源となる石炭を掘り出すための炭鉱開発に大量の火薬が必要とされていました。しかし、当時質のよい火薬は不足しており、それを知ったイレネーは火薬の製造販売に乗り出すことにしました。偉大な化学者ラボアジェのもとで学んでいた彼にとって強力な火薬の開発はそう困難なことではありませんでした。
1802年、彼はヨーロッパから持ち込んだ技術力をいかして、デラウエア州のウィルミントンに黒色火薬の工場を設立します。アメリカ国内での先住民に対する征服戦争や国外での植民地戦争、南北戦争(1861年〜1865年)、そして、第一次世界大戦、第二次世界大戦と戦争が起こるたびに莫大な利益をあげアメリカ国内の3大財閥の一つへと発展してゆくことになります。(残る2つは、メロン財閥とロックフェラー財閥)
石森章太郎の名作アニメ「サイボーグ009」に登場する「死の商人」とはまさにデュポン社のことだったといえます。
その後、デュポン社は、アメリカの原子爆弾開発にも大きく関わり、ロックフェラー研究所にも多額の出資、協力。ウラニウムやプルトニウムの製造にも参加しています。テレビ版「サイボーグ009」の最終回の敵役はブラックゴーストだけではなく、このデュポン社でもあったのです。
<方向転換>
こうした戦場成金としての発展は、当然まわりからの批判を呼ぶことになりました。そのうえ、あまりに成長しすぎたためアメリカ国内の火薬市場などを独占してしまったデュポン社は反トラスト法に抵触、解体の危機に追い込まれることになりました。こうしたことから、火薬産業でのこれ以上の発展は見込めないと考えた経営陣は、新たなジャンルへと展開するため、基礎的な化学工業分野での研究開発に力を注ぐよう方向を転換してゆくことになりました。
そうした基礎研究の中から生まれた最初の大ヒット商品。それは自動車用の速乾性塗料でした。もともと写真用のフィルムを研究開発中に生まれたという速乾性、耐久性に優れた塗料ラッカーをGM(ゼネラル・モータース)とデュポンは共同で自動車用に実用化。1920年代に始まった自動車のベルトコンンベアによる大量生産は、この塗料の誕生によって一気にスピードアップさせることが可能になりました。(それまでは、塗料が乾くのをまたなければ作業が進まなかったたため、スピードアップが不可能だったのです)
なおデュポンとの提携により一躍世界的な自動車製造会社となったGMも、その設立者はデュポン一族の一人、ピエール・S・デュポンです。(1908年設立)
こうした企業間の協力体制による新製品開発もまたアメリカ経済の重要な武器だったといえます。デュポン社は、その後もこうした共同開発による基礎研究を重要視し次々に新素材を開発。そこから巨額の利益を生み出してゆくことになります。
<産学協力体制の確立>
こうした基礎的な研究開発に力を入れるため、デュポン社では大学など研究施設との共同研究を重要視し、多くの研究室に研究費を援助しつつ、そこから優秀な学生を獲得してゆくようになります。
1920年代にデュポン社が始めたR&Dプロジェクト(リサーチ&デヴェロプメント)は、特に有名です。彼らはアメリカ各地の大学で働く教授たちと提携を結び、彼らが研究する基礎研究の情報を常に入手できるようにしました。(これがリサーチ)その中で企業として商品化可能と判断されたテーマに対しては、研究資金を提供し研究を成功に導き、それを優先的に利用できるようにしてゆきます。(これがデヴェロプメント)こうした産学の協力体制は、その後あらゆる分野の学問に広まってゆくことになり、今や兵器開発までもが大学生と軍隊との協力体制によって進められるようになっています。
さらにアメリカはヨーロッパに立ち遅れていたこともあり、特許システムをいち早く完成させることで、研究者の立場を有利にしてきました。ヨーロッパでは新しい発明をしても、それを商品化し販売することで利益を上げなければ何も得ることはできませんでした。しかし、アメリカでは特許によって発明者は守られ、他人が商品化して利益を上げてもそこから利益を得ることができるようになっていました。発明者に有利なそのシステムは、優秀な科学者にとっては最高の条件であり、多くの科学者をヨーロッパからアメリカへと移住させる理由の一つにもなりました。(ヒトラーによるユダヤ人の虐殺の方が、移住の理由としては大きかったかもしれませんが・・・)
<新たな「死の商人」へ>
多くの科学者たちは当初、デュポン社に就職しようとは思いませんでした。それは科学者としての良心が「死の商人」の協力者になることを良しとしなかったからです。当時の科学者には今以上に強い倫理観というものがあったということです。しかし、産学の協力体制が確立されるなかで、そうした考え方はしだいに過去のものとなってゆきました。
こうして、デュポン社は、その後さらなる新商品として防湿性セロファン、合成ゴム、ナイロン(1935年)、ポリエステル、テフロン(1938年)などの新素材を次々に開発。20世紀を代表する企業となり、巨万の富を世界中からかき集めることになります。
ただし、デュポン社とGMが世界シェアの多くを占めていた各種のフロンガスについては、1980年代にオゾン層の破壊原因として早くから指摘されながら、10年以上にわたり製造を続け、世界中から批判を浴びました。利益優先の経営姿勢により、デュポン社は地球や人間たちの破壊を進める新たな「死の商人」の側面も見せています。残念ながら、企業として利益を優先する姿勢が伝統としてある限り、「死の商人」として生命を犠牲にする商品の開発は止まることはないでしょう。
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