- サー・エドマンド・ヒラリー Sir Edmund Hillary -

<栄光の登山家>
 世界の最高峰エベレストを世界で初めて極めた男、エドマンド・ヒラリー。サー・エドマンド・ヒラリー(ヒラリー卿)というその呼び名から、僕はてっきり彼はイギリスの名門貴族の出身なのだと思っていました。現在でも、ヒマラヤなど高峰の登山には巨額のお金が必要ですが、当時は現在以上に多くの人と多くの資材を必要とする巨大プロジェクトだっただけに、ごくごく限られた人しか挑戦は許されませんでした。それだけに、ヒラリー卿が英国貴族としての経済力を武器に世界の頂点に立ったと考えるのは、的外れではなかったと思います。
 ところが、彼はそんな名門家系の出ではなく、それどころかイギリス人ですらないニュージーランド人だったとは、全然知りませんでした。地元シェルパ族のテンジン・ノルゲイとニュージーランド人のヒラリー、二人の外部出身者がなぜ英国隊のアタック・チームに選ばれたのか?
 ここでは、世界最高峰に立った男たちのひとり、サー・エドマンド・ヒラリーの人生を追ってみます。

<ニュージーランドでの青春時代>
 エドマンド・ヒラリー Edmund Hillary は、1919年7月20日、ニュージーランドのオークランドに生まれています。小さな田舎町トゥアカウで育った彼は、オークランド・グラマー・スクールに入学し、卒業後は大学に入学します。しかし、大学生活にすぐに飽きてしまった彼は軍隊に入ります。第二次世界大戦が終わると、彼は故郷に帰り父親が営んでいた養蜂業を手伝うようになります。しかし、16歳の冬にマウント・ルアペフですごした冬山登山の体験が忘れられなかった彼は、登山に熱中するようになります。標高は低いものの雪が多く急峻な山が多いニュージーランドで、彼は雪と氷の崖を登るためのクライミング技術をしっかりと身につけることができました。

<ヒマラヤでの挑戦>
 1951年、彼はニュージーランド人によるヒマラヤ遠征隊に参加、6000m級の当時まだ未踏だった山々に登り、その魅力の虜になりました。この遠征において彼の雪山でのクライミング能力は高く評価され、その噂を聞いたイギリス人の探検家エリック・シプトンが自らのエベレスト登山チームに彼を招きます。その挑戦は失敗に終わりましたが、そこでもまた素晴らしい働きをした彼は、2年後に再びイギリスが組織したエベレスト遠征隊にも参加することになりました。
 1953年、エベレストに挑んだイギリス隊は途中で隊長のシプトンが降ろされて、軍隊出身のジョン・ハントに代わるという変更がありました。隊のメンバーは、その変更をこころよく思わなかったのですが、この挑戦を絶対に成功させるという英国の威信を賭けた強い意志は隊長とともに隊のメンバーにしっかりと伝わりました。
 当然、隊長のハントは、エベレストの山頂に立つために最も確実な方法を選択します。とはいえ、英国隊であるからには、イギリス人を主役にするべきなのは当然でした。そのため、最初のアタック・チームは二人のイギリス人チャールズ・エヴァンスとトム・ボーディロンが選ばれています。しかし、二つ目のアタック・チームに隊長のハントは、ヒラリーとシェルパのテンジンを選びました。お互いに外部の人間同志、なおかつ人懐こい性格同志の二人はすぐに意気投合し、最高のチームになりつつありました。登山家としての実力も十分で若さのある二人は、頂上アタック・チームとして最適なコンビでした。それだけに、なんとしても成功させる必要があった英国チームにとっては、必然的な選択だったのでしょう。こうして、最初のチームのアタックが失敗したために、ヒラリーとテンジンに人類初の快挙に挑むチャンスが巡ってきたのでした。
 1953年5月29日、彼とテンジンは見事山頂(8848m)に到達します。

<時の人のその後>
 一躍、時の人となった彼は、英国王室から「サー Sir」の称号を受けます。しかし、彼の冒険魂はエベレストだけではおさまりませんでした。1958年今度は南極探検隊を組織し、南極点に到達します。彼にとっては、高い山だけが冒険の場ではなかったのです。それだけではありません。1959年、彼はヒマラヤで多くの登山者やシェルパたちが目撃したという雪男にも強い興味をもち、ついには調査隊まで組織して、調査活動を行ないました。(もちろん、雪男は見つかりませんでしたが・・・・・)さらにインドのガンジス川をボートでさかのぼるなど、数々の冒険にチャレンジしました。
 その後、彼は冒険の第一線から退いた後、彼らの登山を助けてくれた人々への恩返しのため、ヒマラヤの山岳民族(シェルパ族も含め)のための環境改善運動に取り組み始めました。子供たちのための学校を建てたり、地域の医療を充実させるため病院を建てたり、道路などの建設を行なうための基金ヒマラヤン・トラストを設立。自らの知名度を利用しながら募金活動や講演会を行いながら世界中を旅し、ヒマラヤに住む人々への恩返しを続けました。
 冒険好きの彼はエベレストの初登頂で燃え尽きることなくその後も冒険を続けました。彼の人生はそれ自体が一つの偉大な冒険だったといえるのかもしれません。
 2008年1月11日に彼はその生涯を終えていますが、エベレストに一緒に登ったテンジンが体力の衰えとともに生きる目標を失っていったのとは対称的に、彼は最後までヒマラヤのために生きるという目標を貫き通すことができました。山で死ななかった山男の人生としては幸福な最後だったのかもしれません。

「・・・危険に瀕すれば心は恐怖でいっぱいになり、英雄並みの勇気をふるいおこすのは困難なことだと悟った・・・ある意味で恐怖は友になった - そのときは恐怖を憎んだが、恐怖は挑戦に風味を加え、征服に満足感を添えてくれた。・・・・・」
エドマンド・ヒラリー著「冒険なければ勝利なし」より

<追記>[エベレスト?チョモランマ?]
 エベレストの名は、ヒマラヤの山々を測量したイギリスの測量所の所長、ジョージ・エベレスト卿の名前からとられています。ただし、元々この山はチベットの人々から「チョモランマ」と呼ばれていました。その意味は、一般的に「世界の母なる女神」といわれていますが、本当はそうではありません。正確には「チョモランマ」でなく「ジョモランマ」で、山にやどる神「ジョモ・ミヨランサンマ」の名からとられています。それは「長寿の五人姉妹」と呼ばれる5人の女神のひとりですが、けっして最高の存在というわけではありません。したがって、ヒマラヤの山々の中での地位は測量によって世界一に選ばれるまでは、決して高くはなかったのです。他にもヒマラヤには美しい山はいくつもあり、エベレストはその中のひとつにすぎなかったのです。

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