「戦艦ポチョムキン BRONENOSETS POTYOMKIN」
- セルゲイ・ミハイロヴィッチ・エイゼンシュテイン Sergei Mikhailovich Eisenstein -
<映画の歴史を変えた男>
ソ連の映画界を代表する存在というよりも、世界の映画史を変えた偉大な監督です。彼が用いた「モンタージュ」の技法は、世界中の映画監督たちに影響を与えました。彼が活躍した1920年代は、アメリカ経済の黄金期であると同時に、ソビエト連邦による革命の時代でもありました。エイゼンシュテインという人物は、その革命の時代を生きただけでなく、政治的な革命の混乱の中、自らが映画の世界で革命を起こした映像作家でもあります。
今では彼が生み出した「モンタージュ」の技術は当たり前となっているため、名作「戦艦ポチョムキン」を見ても、その有難味は薄れているかもしれません。それでも、オリジナルだけがもつ凄みはこの映画から感じられるはずですから、機会があれば是非一度ご覧になってみてください。もちろんブライアン・デ・パルマ監督の大ヒット作「アンタッチャブル」の有名なラストの銃撃戦を見ると、エイゼンシュテインが残した映像マジックの遺伝子を感じることができるはずです。
<革命が生んだ監督>
セルゲイ・ミハイロヴィッチ・エイゼンシュテイン Sergei Mikhailovich Eisenstein は、ラトヴィアのリガに1889年1月23日誕生しています。(フランスの巨匠アベル・ガンスと同じ年)父親は建築家で、1915年にペトログラードの学校に入学しますが、革命が勃発したため、赤軍に入隊。共産党のポスター画家としてミンスクに派遣されます。
1920年、モスクワの労働者劇場の背景画を任された彼は、その後は舞台の演出も任されるようになり、さらに革命期のソ連を代表する舞台演出家メイエルホリドの元で、演出など多くを学びました。
1922年、フリッツ・ラングの代表作「ドクトル・マブゼ」のソ連での公開のため、彼はソ連版の再編集作業を任されます。そしてこの頃、彼は帝政ロシア時代から活躍する映画監督レフ・クレショフの元で、映画作りに必要な多くの事を学んでいます。その中でも最も重要なものが「モンタージュ」の技法でした。
<映画の歴史を変えた「モンタージュ」>
「モンタージュ」とは、フランス語で「組み立てる」ことを意味する建築用語で、フランスの映画用語としては「編集」作業をさし、「バラバラに撮影したフィルム断片をその目的に応じて接合し、一本の作品にまとめること」である。英語のassemblyとかediting
あるいはcuttingに相当する。
「モンタージュ」に関して、最初に注目したレフ・クレショフは帝政ロシア時代からの映画監督で、国立映画学校の教師となって、エイゼンシュテインらの監督たちを育てました。彼が見つけたフィルム編集の重要な効果として「クレショフ効果」と呼ばれるものがあります。
「クレショフ効果」とは、モンタージュの実験から見つけられました。当時の大物俳優イワン・モジューヒンのクローズ・アップ映像の後に、スープ皿、棺、子供と三種類のの映像をつなぎます。そうすると、それぞれ三本のフィルムでモジューヒンの顔は、それぞれ違って見えるというものです。どう見えるかは、予想できますよね?
エイゼンシュテイン、プドフキン、グリゴーリ・アレクサンドロフの共同署名による「トーキー映画の未来(計画書)」(「トーキー宣言」)に、「モンタージュ」についてこう書かれています。
現代の映画は視覚的映像を操作することで、人間に強力に働きかける。当然ながら、その力はさまざまな芸術のなかでも首位の座を占めるものの一つである。映画にこのような強力な働きかけの力をあたえている基本的で唯一の手段は、明らかにモンタージュである。
モンタージュこそ働きかけの主要な手段であるという主張は、疑問の余地のない公理となっており、世界映画文化の磁石となっている。
ソヴィエト映画が世界のスクリーンで収めた成功のほとんどは、ソヴィエト映画がはじめて発見し、確立した数多くのモンタージュ手法によるものである。
だから、映画をより一層発展させる重要な要素は、観客に働きかけるモンタージュ手法を強化し、拡大することだけである。
山田和夫「エイゼンシュテイン」より
<モンタージュ技法の集大成>
モンタージュを用いた作品作りによって生まれたその集大成的ともいえる作品が、1925年ロシア革命20周年を記念した製作された「戦艦ポチョムキン」でした。
「戦艦ポチョムキン」 1925年
(監)(脚)セルゲイ・M・エイゼンシュテイン
(脚)ニーナ・アガジャーノワ
(撮)エドゥアルド・ティッセ
(出)アレクサンドル・アントーノフ、グレゴリー・アレクサンドロフ
<あらすじ>
1905年、ロシア海軍の黒海艦隊に所属する戦艦ポチョムキンの水兵たちは、劣悪な環境と待遇に耐え切れずに反乱を起こします。船はその後オデッサの港に入港しますが、彼らの叛乱を支持するデモ隊に対し、コサック兵たちが攻撃を開始します。
街の広場に集まった市民への銃撃が始まると、多くの無防備な市民が犠牲となります。そして、この事件がきっかけとなって、共産軍を中心としたロシア革命が始まることになります。
市民が銃撃によって次々に倒れて行く階段の有名な場面。母親が銃撃によって倒れたため、赤ん坊を乗せたまま階段を下って行く乳母車を追ったスリル満点の映像は今見ても見ごたえがあるはずです。しかし、共産主義の思想を広めるための映画ということから、資本主義諸国でこの映画は大ヒットというわけには行きませんでした。
「戦艦ポチョムキン」はソ連以外では到る処で検閲により上映を禁止された。しかし、到る処で人々が集まってこの映画を秘かに観賞した。各地のシネマテークが保存したがったこの傑作の爆発的な力強さが抑圧しようとする権力によって倍加された。この映画は、チャップリンの作品を別にすれば、急速に他のいかなる作品よりも有名になった。ゲッベルス博士は、数年後にナチス一色に塗りつぶしたドイツ映画界に新しい<ポチョムキン>を作る命令することによって、心ならずもこの作品に敬意を表さざるをえなかった。この勝利によってエイゼンシュテインは第一級の監督になった。
ジョルジュ・サドゥール「世界映画史」より
エイゼンシュテインの作品は、ソ連の誕生と共産主義が拡散することを恐れる西側諸国にとって大きな脅威でしが、その映像美や技術的な素晴らしさには誰もが脱帽しました。
1928年、彼は10月革命10周年を記念した作品「十月」を発表。1929年にはその後のロシア革命を描いた「全戦」を完成させますが、革命の英雄だったトロツキーがスターリンの追い落としにあい失脚。完成した映画の中からトロツキーを消すように指示されます。結局、映画のタイトルも「古きものと新しきもの」と改めることで、やっと公開にこぎつけたのでした。この頃から、彼と共産党との関係は上手くゆかなくなり始めます。そんな中、彼はヨーロッパへの旅に出発します。それは3年に及ぶ長いものとなりました。
<赤い巨匠、ヨーロッパへ、そしてハリウッドへ>
「各州の映画検閲官たちは”大へんな革命煽動の危険映画だ”と大さわぎし、事実いくつかの州では上映を禁止されたが、アメリカの映画資本家たちの眼にはまず”金になる映画”とうつった」
山田和夫「エイゼンシュテイン」より
「戦艦ポチョムキン」は危険な左翼映画だが、エイゼンシュテインに映画を撮らせたら、きっと大儲けできるだろう、と多くのハリウッドの映画関係者は考えたようです。1929年8月、モスクワを出発し、ヨーロッパ各地を巡っていたエイゼンシュテインは、パリでパラマウント映画の副社長ジェシー・L・ラスキーと出会い、彼に招かれてハリウッドへと向かうことになりました。その旅の目的は基本的には、ハリウッドで最新のトーキー映画技術を学ぶことにありました。しかし、彼は週給250ドルという契約で、トーキーなどハリウッドの映像技術を学びながら、ハリウッドで映画を撮るためのいくつかの企画を立ち上げます。売れるものなら何でも作るハリウッド映画界は、彼の作品を売り出す気満々だったようです。
ところが、それらの企画はどれも実現することなく、彼は契約解除となりハリウッドを去ることになります。ハリウッドでは、後に起きる「赤狩り」の前触れのようにエイゼンシュテインに対する批判が根強く、それがハリウッドでの映画製作実現を拒む最大の理由だったようです。予算的にも、彼に撮らせることの危険性は感じていたのでしょうが・・・。
<幻のSF映画「宇宙戦争」>
もし、エイゼンシュテインがハリウッドで映画を撮っていたら、映画史はどう変わっていたでしょうか?もちろん、ハリウッドは彼に映画を撮らせたかったのでしょうが、アメリカ政府は彼に反アメリカ(反資本主義)の映画を撮らせることはなかったでしょう。意外なことに、この時、彼にH・G・ウェルズの「宇宙戦争」を映画化しないか、という企画が持ち込まれていたようです。政治的な作品は撮れなかったであろう彼には、もしかするとSF映画の映画化は有りだったのではないか?そんな気もしてきます。(当時の映像技術では到底満足のゆく作品にはならなかったでしょうが・・・)幸か不幸か、この企画は実現しませんでしたが、1938年同じ時期にこの企画は「ラジオ・ドラマ」で実現され、アメリカ中を驚かせることになります。それが次なる時代の天才オーソン・ウェルズでした。
<悲劇的な最期>
結局、彼はアメリカからメキシコへと渡り、アプトン・シンクレア夫妻らからの出資を得て、「メキシコ万歳」を撮影し始めますが、撮影が長引き予算も超過してしまい、出資者たちともめてしまいます。結局、彼は撮影を中止し、現像したフィルムに触ることもできないままメキシコを出発します。そのうえ、アメリカが彼の入国を拒否したため、彼はそのままアメリカ大陸を離れ、3年ぶりにソ連に帰国することになります。
帰国後、1933年、彼はモスクワの国立映画学校で教師として働き始めます。しかし、3年間の不在中に故国ソ連は大きく変化していました。スターリンによる独裁体制はいよいよ本格的となり、反体制派はシベリアに送られ、海外での人気者エイゼンシュテインもまたスターリンの標的となります。そして彼が書いた脚本は、ほとんどがソ連映画局に映画化を拒否されてしまいます。わずかながら映画化が実現したのは、「アレクサンドル・ネフスキー」(1938年)と「イワン雷帝」(1944年)だけでした。こうして彼は失意の中、病に倒れ、1948年に50歳という若さでこの世を去ってしまいます。
<脱モンタージュ>
当然ながら、「モンタージュ」は映画を製作する上で最も重要な技法とは限りません。逆にその無効化によって生まれた映像スタイルもあります。それはスクリーンに現実の真の連続性を持ち込み、出来事をより全体的に捕えようという試みです。ワンカットの長廻しは、正反対の技法と言えますし、イタリアのネオリアリズモは「リアル」を追及するために、あえて時間軸をいじらないことを選んでいます。
そして、そんなネオリアリズモに憧れたフランスの若者たちの一人ジャン=リュック・ゴダールは、リアリズムをさらに突き詰めた新たな映像スタイルを生み出します。そして、その原点となった彼の処女作「勝手にしやがれ」でヒロインを演じ、一躍ヌーヴェル・ヴァーグの女神となったのがジーン・セバーグでした。
実は、そのジーン・セバーグの二度目の夫となった小説家ロマン・ギャリ(ガリー)はソ連からの移民で、彼の父親は「クレショフ効果」でも有名なソ連を代表する俳優イワン・モジューヒンでした。「モンタージュ」の歴史的なモデルとなった俳優の血が、新たなリアリズムの原点にもなったわけです。
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