映像文化の進化と歴史


- 写真・映画・テレビ・パソコン -
<映像の世紀>
 「映像文化の社会学」という本を読みました。このサイトでは文学、歴史、音楽以外、映像関連の文化や歴史を扱っているので大いに勉強になりました。
 20世紀の歴史を振り返る時、写真、映画、テレビ、そしてパソコンやスマホにおけるデジタル・コンテンツやSNSの進化は最重要分野です。そこでこのページでは、そうした映像文化の歴史と社会に与えた影響についてまとめてみようと思います。
 全体を通して感じたのは、20世紀は大手メーカーが製作し大衆に有料で公開していたのに対し、21世紀は個人が製作し、大衆と無料で共有するように変化したことです。(正確には無料ではないのですが・・・)それを可能にしたのが、インターネットの登場とSNSなどデジタル情報技術の発展でした。
 音楽の世界では早くから情報の共有や加工はデジタル的手法で行われるようになっており、それがサンプリング、マッシュアップ、配信ライブなどを可能にしましたが、今後は映像の世界でもそうした手法が可能になるはずです。いつか俳優なしでデジタル技術によって、映画が作れる時代が来るかもしれません。
 ここでは<写真>、<映画>、<テレビ>、<パソコン>の4つに分けてまとめたいと思います。

<写真の歴史> 
 「写真」技術発明された当初、長時間にわたり被写体をとどめる必要があったことから、動かないモデルを撮ることから始まりました。そのため、写真の大衆レベルへの普及は、「肖像写真」と呼ばれる分野から始まりました。
<肖像写真>
 写真が被写体そのものと重ね合わされて捉えられていたことは、初期の写真術がダゲレオタイプという複製可能なテクノロジーとして受け入れられていたことも関連します。それは究極の肖像画だったと言え、それが写真に撮られると寿命が縮むという迷信に結びついたとも考えられます。
 当時は写真と頭髪なども装身具として身に着ける人が多かったことも同じ考え方からきています。

「ダゲレオタイプ」
 1840年代に発明された写真技術。当時、この技術による肖像写真は1枚50フランから100フランと高額でした。当時の労働者の平均日当が2フランだったので、1ヶ月分の給料だったことになります。そのため、肖像写真はブルジョア階級にとって象徴的なアイテムだったと言えます。
 撮影には長時間を必要とし、金額的に高額なだけでなく複製もできないダゲレオタイプは、ほとんど画家に描かせる肖像画と変りなかったわけです。
 当初、ダゲレオタイプの特許はフランス政府が買い上げて一般に無料で公開したため、誰でも自由にその技術を利用できたので利用者が急増しました。それに対し、現在の写真のルーツとなる「ネガ・ポジ法」は、特許権があり、自由に使えなかったため、広がるのが遅くなったのでした。それでも複製が可能な「ネガ・ポジ法」が、1850年代から70年代にかけて主流になって行きます。
「カルト=ド=ヴィジット」
 1854年、アンドレ=アルフォンス=ウジェーヌ・ディスデリがパリのスタジオで「カルト=ド=ヴィジット」と呼ばれる小型の肖像写真撮影を始めます。この撮影法は、複製が可能なだけでなく、低価格化も実現し、一気に「肖像写真」の大衆化が始まります。(1回の撮影で12ポーズ撮影可能、複製も簡単にでき、撮影料金も1セット20フランと格安を実現)上流階級はこの写真を名刺代わりに配るようになり、貴族ではない新興の富裕層市民にとってもステイタス・シンボルとして重要なアイテムとなりました。
 そんな中、肖像写真家ナダールの登場は、肖像写真に新たな価値を見出します。彼は撮影の際、余計な背景や小道具を用いず、上半身だけをシンプルにとらえます。当然、被写体となる人物の個性が全面に現れることから話題となり、当時の文化人たちから高い評価を得ました。
 ドイツで写真スタジオを営んでいたアウグスト・ザンダーはブルジョワだけでなく様々な労働者、農民など一般人の写真を撮りため、1929年「時代の顔」という写真集を出版しました。多様な人々の肖像を収めたこの写真集は、写真が秘めたパワーを証明するものとなりました。しかし、当時ドイツ民族の一様性を掲げるナチス政権により出版禁止に追い込まれたと言います。
 1876年、フランスの首都パリの警視庁が犯罪者の身元確認のために肖像写真を用い始めました。ここから写真を用いた個人の特定、証明の歴史が始まりす。ただし、その後、写真と身体側的による犯罪者の特定は不確定要素が多すぎるとして廃止になり、英国の統計学者フランシス・ゴルトンが1892年に提唱した指紋による特定に代わって行きます。そして現在ではその方法も過去のものとなりつつあり、DNAが個人を特定する究極の存在になりました。

<天皇陛下の御真影>
 明治天皇の肖像写真「御真影」は近代日本の形成において大きな役目を果たしました。明治5、6年に、明治政府は元首である天皇の写真を撮影。公館などで主権の象徴として飾ったり、海外の元首や皇族の写真との交換に用いました。写真の象徴性を利用することで天皇を中心とする日本国の統一を保とうとした。
 しかし、その後、天皇の「御真影」はこの時撮影された内田九一の写真から明治21年に製作されたイタリアの画家キョッソーネによる肖像画とその複製に代えられました。写真がもつリアリズムではなく絵画のもつ象徴性の方が時間や空間を超越したイメージを生み出せると考えられたようです。
 当時の日本人にとって、公的施設に必ず飾られていた天皇の写真は国民が仰ぎ見るためのものではなく、天皇が国民を見守っているという感覚を生み出しました。西欧における国王の肖像写真と日本人のそれと意味が違ったわけです。だからこそ、火事で御真影を焼失させた学校の校長が責任をとって自害するという事件が起きたのでしょう。

<消えた集合写真>
「写真は集団における統合の指標であり手段である」
ピエール・ビルデュー

 集合写真は、まさに集団統合の象徴と言えます。様々な行事を撮影した記念写真も家族のための統合の指標です。
 写真は村、家族、国の秩序維持に貢献する存在でもありました。そして家族写真はカメラの普及と共により身近なものとなります。
 1970年代半ばには、カメラは「一家に一台」の時代となり、増える写真に合わせて「フエルアルバム」も登場します。(1968年)
 山田太一原作のテレビ・ドラマ「岸辺のアルバム」(1977年)はそうした家族写真に象徴されてきた家族の時代が終わりを迎えつつあることを描いた作品でした。
 そして、1980年代に入るとカメラは家族のためのものではなく個人それぞれのためのものへと変化し始めます。
 1986年に発売された「使い捨てカメラ」(写ルンです」は、その象徴です。旅における写真をグループで共有することでグループの絆が確認されました。
 1995年のプリクラの登場は、そこに新たな変化をもたらしました。一緒に写真を撮り、それを持ち歩き、それを見せ合ってコミュニケーション・ツールとして用いることになりました。16分割されプリントされた写真をケータイ番号と同じように交換、収集することは、その後のメル友につながります。プリクラを撮影するのが固有性が消された背景の中というのも、人間をカードなどのコレクションと同じように扱うのに適していました。
 こうして「集合写真」は家族の崩壊と共に消えて行くことになりました。

<報道写真>
 報道写真はメッセージです。このメッセージは発信源、送信手段、受信者から成り立っています。発信源とは編集部と技術班で、その中のある人が写真を撮り、他の人が選んで構成、処理をし、最後にまた別の人がそれに見出しをつけて説明文を書き、解説します。受信者とは新聞の読者のことです。送信手段とは新聞そのもの、正確に言えば競合するメッセージの複合体であって、写真はその中心であるが、新聞の名そのものが固めている。
「硫黄島の星条旗」
 「硫黄島の星条旗」は、時期的には1946年ピュリッツァー賞の選考対象でしたが選考委員会は、あえてルールを破り、1945年のピュリッツァー賞に選びました。この時点で、この写真は「報道写真」ではなく「プロパガンダ写真」になってしまったのかもしれません。アメリカ政府は、1945年5月から7月に開催された第7回国際ツアーの公式ポスターにこの写真を採用しました。さらにこの出来事は、舞台上で兵士たちに再現されプロパガンダのためのショーとなり、戦争のための債権を国民に購入させるために貢献しました。
 ただし、「硫黄島の星条旗」の写真。そもそもこの写真は実は、戦場での当日の写真ではありませんでした。1945年2月23日最初に立てられた旗は記念に持ち帰ることになり、別の旗が代わりに立てられていたのです。そして、この2回目の旗立ての時にAP通信のカメラマン、ジョー・ローゼンソールが撮影した写真が、記念すべき「硫黄島の星条旗」となったのでした。
 さらに言うと、この後も硫黄島ではさらなる激戦が続き勝利とは程遠い状況でした。写真の撮影後、36日がたってやっと全島の制圧に成功したのでした。この写真は、上陸後に摺鉢山の制圧に成功した最初の勝利に過ぎず、勝利の記念撮影ではなかったのでした。
 1954年には彫刻家フェリックス・デ・ウェルドンによって、忠実に再現された「合衆国海兵隊記念碑」がアーリントン国立共同墓地に建設されました。ところがこの彫刻には撮影者ローゼンソールの名前も兵士たち6人の名前も記載されていません。その彫刻はあくまでも戦場の英雄たちの象徴としての銅像だったのです。しかし、このイメージはその後、お祭りの山車や劇の題材や様々に使用されパロディー化されることにもなります。
 2001年9月11日に起きた同時多発テロ事件の際、この写真は時を越えて蘇りることになりました。グランド・ゼロ地点に消防士たちが星条旗を立てる姿が、あのアメリカの象徴的写真の再現として扱われたのです。
 クリント・イーストウッド監督の名作「父親たちの星条旗」では、この写真のイメージを再び脱神話化。6人の兵士たちは、英雄から一兵士へと戻ることになりました。

<写真・デジタル技術の進化>
 1880年代、アメリカでハーフトーン印刷(網目写真版印刷)が普及し、新聞や雑誌に写真を掲載できるようになりました。写真の印刷技術も普及し、1920年代には写真中心のグラフ雑誌が登場。1936年にはアメリカで「ライフ誌」が創刊されます。
 こうして写真文化は、当初は「撮られる文化」「見る文化」として発展し始めました。しかし、それはしだいに「撮る文化」「見せる文化」へと変化し始めます。「撮る」主体が、限られたプロのカメラマンからアマチュアのカメラマンへと移動し始めるのです。
 1888年、アメリカのイーストマン社が普及型のカメラ「ザ・コダック」を発売。それは100枚分のフィルムがセットされ、撮影後に10ドル支払えば、現像、焼き付け、カメラに次のフィルムをセットしてくれるというサービス付きの初心者向けカメラでした。その後、カメラは機能が増え、軽量化され、使い方も簡単になって行き、なおかつ低価格化して行きます。
 日本でも1960年代から1980年代にかけて、小型化だけでなくオートフォーカス機能などが追加され、カメラは誰でも自由に「それなり」のクオリティで撮影可能な大衆レベルの娯楽、芸術の一ジャンルとなりました。
 1986年には、「レンズ付きフィルム」(使い捨てカメラ)も登場し、一人に一台カメラを持つ時代になります。
 1995年に登場した肖像写真をシールにできる「プリクラ」は少女たちにとっての名刺代わりとなり、対話のツールとして大流行することになりました。
 デジタル・カメラの登場は、現像しなくても写真が見られる時代をもたらし、2000年の「写メール」の登場は、写真を撮るだけでなくすぐに転送できることを可能にします。写真を撮り合い見せ合う「遊び」は、現代社会の中で他社とのつながりを作り出すことで自我を保とうとする心の表現手段となりました。
 21世紀に世界中で流行した「セルフィ」(自撮り)は、プリクラ由来の仲間同士での写真のやり取りとはまた異なる次元のツールです。自らが写り込む「セルフィ」は撮影者であり被写体でもある自分の意識を映し出す作品です。そして、それを全世界に発信することで、それぞれが作品の発表者としてアーティストの仲間入りをした気分にさせてくれます。それはより多くの人からの「承認」を得ることが目的となり、その数が自らの存在価値であるかのようになって行きました。
 世界初のポートレイト写真は、フランス人イポリット・バヤールが、1840年に自分自身が溺死者に扮して撮影したセルフ・ポートレイトだと言われています。それは現在世界的に流行中の「セルフィ」の元祖でもあったわけです。
 インスタグラムの登場により、写真はより多くの人に見られること、より多くの人と共有されなければ意味がなくなり、「拡散」することが目的となりました。
 そしてLINEの登場により、写真は特定の集団を形作るためのツールとして使われるようにもなります。

<盛る文化の誕生>
 プリクラは元々写真からリアリティーを排除するツールでした。しかし、そのことはプリクラの進化はよりリアリティーを失いファンタジー的な「カワイイ」へと進化します。よりカワイイ、より若く、より仲良くみえるよう加工技術が加えられて行きました。
 2000年代半ばに流行となって「盛り髪」が起源とされる「盛り文化」は同じ時代に流行語となった「リア充」と結びつきました。時代はリアルの充実ではなく虚構の世界の充実を目指す文化のひとつとして「盛る文化」を生み出したのです。盛られた映像もまた現実であるという感性が生まれつつありました。
 逆に言えば、それは映像を加工することで「現実を虚構化」することだったとも言えます。現実社会が厳しく孤独なものになればなるほど、この感性は多くの人々に受け入れられることになるのでしょう。蜷川実花による映像作品(写真や映画)はその延長線上にあると言えます。
 「盛り文化」は、その行き過ぎが「イタい」と批判され始めたことからストップがかかりました。すぐに炎上してしまうSNSの世界において、「整える」ことが求められることになり、盛る文化は誰もがわかるような派手なものから、より高度でわかりにくいプチ盛りに変化しつつあるようです。どちらにしても「盛り文化」は現実と仮想の壁を壊しつつあるようです。

 21世紀の今、報道写真、芸術写真、記念写真、記録写真、加工写真など、様々な写真スタイルが誰にでも可能な時代となっています。それは確かにデジタル技術のポジティブな面として評価できます。それでも21世紀に入り、デジタル技術の発展は負の面を見せる場合が多かったのも事実です。そんな中、2020年に人類を襲った新型コロナ・ウィルスの危機は、離れ離れになっていた人々の心を通じ合わせるために久しぶりに家族写真も意味を思い出させてくれたかもしれません。
 


<映画の歴史> 
 リュミエールの登場以前にも科学的な実験として映画に近い映像技術は存在しました。しかし、1895年にリュミエールがシネマトグラフをパリで公開して以降、映画は観客である大衆が「見る文化」として発展することになります。
 映画は世界各地の風俗や風景を記録する記録媒体として利用されましたが、すぐに「演出」によって「物語」を描き出す娯楽としての「映画」が生み出されることになります。そのことは、リュミエールが残した作品を見れば明らかです。
 写真と異なり、映画は簡単に個人が撮る側にはなれなかったこともあり、大衆のほとんどは「見る側」となり、世界中に映画館が作られることになります。そのため、映画の歴史は芸術的映像表現の歴史というよりも、娯楽的映像表現を進化させるための技術開発の歴史だったとも言えそうです。
(1)アトラクションとしての映画時代(サイレント映画の時代)
 芸術性よりも、アトラクションとしての楽しさが求められた時代。その代表作とも言えるのが、ジュルジュ・メリエスの代表作「月世界旅行」です。
(2)古典的映画の時代(ハリウッド映画黄金期)
 観客が映画というテクノロジーの効果を忘れ、登場人物に感情移入しながら物語を楽しむことができる作品。
(3)ポスト古典的映画の時代(21世紀の映画)
 (A)SFX、3Dなどテクノロジー的な映画の進化。
 (B)集団で見る大衆娯楽から、より趣味的個性的な作品への分化。(内容的なパーソナル化)
 (C)ハード面でのパーソナル化。(ビデオ、映像配信などにより一人で見る映画時代の始まり)

 さらにそこから時代は進み、個人が映像を撮って一般公開する時代が始まりました。(TikTok、デジタルカメラ技術の進化)

<プロパガンダ映画>
 写真は無数の複製を生み出すことによって、均一な社会空間をつくるツールともなります。それに対し、映画には娯楽性を求める観客の思いもあり、プロパガンダとして効果は写真ほどではないかもしれません。しかし、映画が娯楽として最も大きな役割を果たしていた第二次世界大戦中には、ドイツだけでなくどの国でも戦意高揚のためのプロパガンダ映画が作られました。
 中でも有名なのが、ドイツの女性監督レニ・リーフェンシュタールの「意志の勝利」(1935年)や「オリンピア」(1938年)などのナチス礼賛の作品です。彼女は「オリンピア」において、再現映像やストップ・モーション、ライティングなど様々な撮影手法を用いることでリアルな選手の動きを越えたスーパーアスリートを映像化しています。だからこそ、その被写体となった選手たちは、スポーツ選手の枠を越えた存在となり、映画もまたスポーツ記録映画の枠を越えることに成功しました。
 しかし、プロパガンダ映画として歴史に残るのは彼女の作品くらいで、多くの作品は忘れられてしまいました。(ただし、「カサブランカ」のようにプロパガンダ映画として見られない作品として歴史に残った作品もありますが・・・)

<スターという映像文化>
 スターとファンの関係は「見る」「見られる」ではなく、ファンが一方的にスターを「見る」という圧倒的に非対称な関係にあります。スターは手の届かないメディア空間の向こう側で輝く存在です。当然、スターを崇拝するファンはスターからは承認されません。それは「崇拝的な愛」とよばれます。(仏の社会学者エドガール・モラン)
 スターは神や王といった存在を支えていたオーラが消失しはじめた近代に、映像の中でオーラを帯びた存在として現れることになりました。
 1908年フランスの連続活劇映画「探偵王ニック・カーター」の主演俳優に「初めて人を愛しました。あなたの名前をお聞かせください」とファンレターを送る女性が現れました。当時は主演俳優の名前を映画にクレジットしていなかったので、ファンにとってはその名前すらわからなかったのです。こうして、映画におけるスターが誕生することになりました。このことは当時、映画批評誌「シネ・ジュルナル」に驚きをもって、こう書かれています。
「少し前までは、哀れな犠牲者たちは舞台のスポットライトを浴びたドン・ファン役者の眼差しそのものに誘惑されていた。彼はそこに実在していた。だが、今日では、シネマトグラフによって、俳優はどこへでもその魅力的な姿を移動させることができる。ああ!若い娘たちがとりことなる見るとは!」
 さっそくハリウッドの経営陣は、「スター」の利用に思い至ります。こうしてハリウッドのスター・システムが始まることになりました。
 女優フローレンス・ローレンスはマスメディアを利用して宣伝されることで生み出された最初のスターと言われます。彼女は映画の中だけでなく、ポスターやグラビア誌などにも登場し、複製されたイメージを広めることでその人気を全国規模で獲得することに成功しました。
 ただし、そうしたスターたちは映画の中のイメージを維持するために注意を怠ることができない存在となって行きます。だからこそ、映画ファンの多くが画面上のスターたちのファッションや仕草などをマネし、そのイメージを共有するようになったのです。そして、その反動として「美空ひばり襲撃事件」(1957年1月13日)や「ジョン・レノン暗殺事件」(1980年12月8日)などの悲劇が起きることにもなります。

映画の歴史について
 

<テレビの歴史> 
<テレビの進化>
 テレビは映画とはまったく異なる技術によって実現した映像配信装置です。画像を電気信号に変換して電送し、それを画像として再生する技術なので、そもそもフィルムは存在しません。「テレヴィジョン Tele-Vision」とは「遠くのものを見る」という意味です。それは「電信」や「電話」、「ファックス」の延長に存在する装置と言えます。こうして映画とテレビは、そのスタートがまったく違ったため、異なる道を歩むことになりました。
 当初「通信システム」は、マルコーニが発明した「無線通信」としてスタート。それは「個対個」のコミュニケーション・ツールでした。ところが、アメリカの企業家ウエスティングハウスが、この無線のための電波を「放送」に使うことを思いつきます。それが「個対集団」のコミュニケーション・ツールである「ラジオ放送」です。現在でもラジオは、DJと聴取者を結ぶ個対個のメディアとして人気を保っているのは、まさにこの名残と言えます。
 1920年にKDKAというラジオ放送局ができると、次々にラジオ放送局が設立され、わずか1年で300局が誕生しました。こうした流れがあるものの、テレビはラジオの延長としてすぐに広まったわけではありませんでした。
 例えば、日本では1932年当時、テレビの方向性は3つ考えられていたと言います。
(1)テレビ電話として利用。電話の延長としての通信手段。
(2)大衆に娯楽などを提供する利用法。映画の延長。
(3)ラジオ放送の映像版(これが現在のテレビ!)
 ラジオという先行するメディアがあったことから、テレビは「眼で見るラジオ」として説明されることになっていったわけです。さらにラジオが広報として宣伝媒体として利用・発展したことから、テレビも当初から同じような利用が考えられていました。
 アメリカでは第二次大戦中に早くもテレビ局が誕生。1948年には16局、1949年には51局が開局しテレビの普及が急速に進みました。
 日本でも、戦争によって中断していたテレビの研究が再開され、1953年に国営のNHKと民放の日本テレビNTVの2局が放送を開始。しかし、開局時点でのテレビの受信契約数はわずか866世帯。テレビ一台の値段が当時20万円で大卒の初任給8000円なので当然のことでした。そのため、テレビの普及前は公共の場で多くの通行人をターゲットにした街頭テレビがその主役となりました。駅前や盛り場などを中心に首都圏で55か所220台のテレビが設置されていました。その街頭テレビで放送されたプロボクシング、プロ野球、相撲などのスポーツ中継を中心に多くの人々の心をつかむことになりました。
 1959年皇太子のご成婚パレードのテレビ中継は、NHK,NTVと新たな放送局KRT(のちのTBS)が行い、110台のテレビカメラがクレーン、レール、ヘリコプターなどを使って撮影され、日本中で1500万人が見ることになりました。

「高度経済成長とは、人々がテレビのなかで見た憧れの生活スタイルを消費行動によって実現させていく過程だった。私たちの生活は、テレビを通してテレビ映像のような生活になった」

<テレビの特徴>
 テレビで見る様々な世界の事件を我々は身近なものと感じます。テレビは私たちの生活感覚のなかで遠近感を倒錯させ、遠い出来事を身近なものに、近くの出来事を遠い出来事として感じさせてしまう機能をもつ。
 その極限とも言える例が、1969年7月21日アポロ11号の月面着陸の世界同時生中継です。この瞬間の視聴率は62%。この時、人類は月面に人間を立たせたと同時に映像による同時体験を人類にもたらすことに成功した。
 ただし、この映像を発信したアメリカにとっては、ソ連との冷戦におけるプロパガンダの意味をもっていた。

 テレビを見る行為はただ見るだけではなく、テレビの向こうの被写体に拍手したり、応援したり、罵倒したり…応答することが可能なメディアとして発展し始めたのです。1969年のアポロ11号の月面着陸、1972年の連合赤軍によるあさま山荘たてこもり事件は、その頂点となった事件と言えます。
 さらにテレビはラジオから受け継いだ時間によって区切られた番組プログラムを採用。放送を行う側がそのプログラムを自ら決定するスタイルも用いることになります。「ゴールデンアワー」と呼ばれる家族団らんの時間帯には、それに合わせた番組が用意されるようになります。こうして、テレビの番組構成が日本人の生活のリズムを作り出すようになって行きます。その中でも日本人の暮らしに今でも大きな影響を与えているのが、年末恒例の「紅白歌合戦」です。

<テレビが生み出したアイドル>
 テレビの登場は、そこからテレビならではの「スター」を生み出すことになりましたが、「アイドル」はテレビが生み出した最もテレビ的な存在かもしれません。「スター」が一方的に崇拝される「超越的」な存在であるとするならば、「アイドル」は「親しみ」の存在です。映像の向こう側のバーチャルな他者が、より日常的で身近に感じられる存在であること。それが「アイドル」です。テレビのアイドルは、普段着で暮らす視聴者のもとに向こうからやって来る存在です。逆にスターは、テレビに出演することで、スター性を失うことになりました。テレビは特別な世界を描き出すよりも、生の日常を映し出すことが得意なメディアです。テレビは失われた井戸端会議の代用として、人々が一緒に生きていることを確認するためにあるとも言えます。そして、アイドルはその中心に位置しているのです。それは特別な存在ではなく、隣にいる普通の人であることが重要なのです。
 当初、テレビのアイドルは普通の女の子で、なんの経験もない素人が活躍し成長する姿を映し出すことで視聴者を引き付けました。「スター誕生」はその代表的な番組です。
 1980年代、こうしたアイドル像に大きな変化の時が訪れます。それは、1985年の「夕焼けニャンニャン」に出演したおニャン子クラブがきっかけでした。ここからアイドルの世界には、様々なスタイル、様々なシステムが登場し、音楽業界を活性化させて行きます。例えば、メンバーをオーディションで増やして行く番組のスタイルはファンを「業界人」として参加させることになりました。AKB48の総選挙では、その究極のかたちとして、ファン全員にグループの方向性を選択させることになります。手の届かない存在だったアイドルを自分たち自らが育てたり選んだりすることで、「見る」は「会う」に変化。こうして「会いに行けるアイドル」というコンセプトが誕生しました。今や、ファンはアイドルたちと運命共同体を形成しています。
 SNSの発達はもう一つ別の方向性。自らをアイドル化させ、自らプロデユースする楽しみを生み出しました。コスプレはその手段の一つとして人気になります。それまで分業制だったファッション・モデル、スタイリスト、カメラマン、プロデユーサーを総て一人でできる時代になったわけです。

<テレビとスポンサー>
 テレビはその発展と共に、より個的対応を強め、それを番組スポンサーは利用するようになります。子供向けのアニメには、製菓会社、おもちゃメーカー。主婦向けのドラマには、化粧品や食品メーカー。父親向けのプロ野球などのスポーツ番組には、自動車会社やスポーツ・ブランド。それぞれのターゲットに合わせて番組が制作され、スポンサーがつくことになりました。
 テレビの所有台数もしだいに増え、1981年には1世帯当たり1.5台となり、1991年には2台を越えています。そうなると、より番組内容は視聴者のニーズに合わせたマニアックなものになって行きます。その主戦場となった深夜枠には実験的な番組が次々に登場し、新しいテレビ番組のスタイルを生み出して行きました。
 フジテレビの「カノッサの屈辱」や「カルトQ」のような究極のマニアック番組。テレビ東京の深夜の時間帯ならではの「ゆる―いコメディ」や「複雑な構成のサスペンスドラマ」などの中には、その後ゴールデンタイムに進出したり、シリーズ化、映画化される作品も登場しました。

<テレビとハードの進化>
 番組の個性化、特殊化が進む中、ハードの面でもテレビの進化は進んでいました。
 1987年代に入りケーブルテレビという都市型メディアが首都圏を中心に発達。視聴者にはよりチャンネルの選択肢が増えることになりました。
 1989年にはNHKが衛星放送をスタート。こうしてテレビのチャンネル数、選択肢が増え、さらに録画機能が加わったことで、人々は自由な時間に自分の好きなジャンルの番組を観ることが可能になりました。そして、その延長にインターネットを利用した映像作品の配信サービスが加わり、視聴方法もテレビとは限らず、スマホ、タブレット、パソコンと選択肢が増えました。テレビという一方向の映像メディアの時代は終わりを迎えるのかもしれません。
 ただし、映像配信ビジネスがどこまで発展しても映画館がなくならないように、テレビによって多くの人が同時に同じ番組を見るという映像体験スタイルもまた人々には必要な気もします。ツイッターを利用して、多くの人が同時にテレビを見るなど、新たな見方も生まれています。
 YouTubeという新たな画像配信の登場もまたテレビに大きな影響を与えています。 

<パソコンの歴史> 
<コンピューターからパソコンへ>
 1968年、カリフォルニアのスタンフォード研究所のダグラス・エンゲルバードが現在のパソコンで用いられているウィンドウ・システムを発表。(フォルダやファイルをアイコン=図像によって表現することで簡単に使えるようにしたシステム)それまでコンピューターのスクリーンにはプログラム言語と数字ばかりが並び、それらのプログラミングができる専門家しかパソコンを利用できませんでした。
 「デスクトップ」という呼び方は、ファイルやゴミ箱をアイコンとしてディスプレイ=机の上に並べているための呼び方でした。
 1969年、インターネットの起源となったARPANETがスタンフォード研究所とカリフォルニア大学LA校、サンタバーバラ校、ユタ大学を結びました。それは「高等研究計画局ネットワーク」と呼ばれ、異なるコンピューターでもつなげる分散型の設計とデータ容量を少なくするための「パケット通信」を採用しています。これにより、世界中のコンピューターと電話線を通じて接続することが可能になりました。
インターネットの誕生について
 1972年、カリフォルニアのコピー機メーカー、ゼロックスの研究者アラン・ケイは持ち歩けるコンピューター,Dynabook(「ダイナミックな本」という意味)を開発。この年、彼が発表した論文のタイトルは「A Personal Computer for Children of All Ages」でした。これが「パーソナル・コンピューター(パソコン)」の誕生でした。
 1973年、カリフォルニア大バークレー校の学生リー・フェルゼンスタインは米軍のカンボジア侵攻に抗議して大学をドロップ・アウト。自らの政治的活動を広げるためのツールとして、BBSを自ら開発、スタートさせました。
 ベトナム戦争の長期化と実質的な敗戦により、アメリカは積極的だった大型コンピューターの開発予算を大幅に削減。それが大学における分散型ネットワークに適した小型コンピューターの開発に力が入れられる要因となりました。軍事や宇宙開発など、大規模なプロジェクトでの利用とは別の目的で使われるパーソナルなコンピューターの時代が訪れたのでした。
<コンピューター「パーソナル化」の過程>
(1)「モノ」としての縮小
 それはENIACのような巨大コンピューターが小型化されていった過程。様々な部品の物理的な小型化が、ノートパソコンやスマホを生み出すことになりました。
(2)「画面(映像)」の変化
 当初はプログラム言語しか表示されなかった画面にアイコンが登場。誰もが使えるように大衆化のための改良が進みました。
(3)文化の革新
 パソコン上で扱われる情報がよりパーソナルな内容、視点に変化。よりマニアックでありながら、より広い範囲をカバーすることで、今まで知られていなかった情報も簡単に入手できるようなシステムの構築が進んだことで「パソコン文化」自体が急激に変化しました。
 そんな文化的な革新の中心思想となったのは、1960年代末のアメリカで広がったカウンター・カルチャー的な文化でした。その象徴的存在が1968年から1972年、カリフォルニア州サンフランシスコで発行された「ホール・アース・カタログ Whole Earth Catalog」です。

「ホール・アース・カタログ Whole Earth Catalog」
 発行人は当時まだ29歳だったスチュアート・ブランド。彼はスタンフォード大を卒業後、陸軍、IBMを経て、トラックで全米各地のコミューンを巡り、その過程でDIY(Do It Yourself)生活に役立つ情報をまとめた手作り新聞を販売しました。それが好評だったことから、その収益を使って「ホール・アース・カタログ」のプロジェクトを立ち上げます。そして発売後、3年でこの雑誌は全米で100万部を売り上げ、ヒッピー文化の発信源となり、世界中で読まれることになりました。
 彼のこのプロジェクトは、直接的にパソコンとは関係なかったのですが、彼の広めたカウンタ―・カルチャーの思想がパソコン開発プロジェクトの考え方に大きな影響を与えることになりました。実際、「ホール・アース・カタログ」では、パソコンについて大きく取り上げていて、その影響がビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズのような天才を登場させる原因の一つになったと言えます。
 「ホール・アース・カタログ」が育てたライフスタイルこそが、パソコン文化発展の中心概念となりました。
「パソコンの思想とは、つきつめればアメリカ・フロンティア精神のことである」
西垣通
 こうして「ホール・アース・カタログ」は、すべての年齢層の人に、コンピューター技術は政治的革命や環境を守るために役立つ、という見方をさせるようになったわけです。

 20世紀の映像文化が「見る文化」だったのに対し、21世紀のそれは「見せる文化」になりつつあります。

<動画投稿サイト、写真投稿サイト>
 2004年12月スマトラ島沖地震におけるインド洋の大津波の記録映像が、多くの観光客たちによって撮影・投稿され、世界中に衝撃を与えました。テレビやニュース・サイトで公開されたそれらの映像は、誰もがスクープ映像を発表するカメラマンになれることを示しました。
 この時の津波の映像を見て衝撃を受けたジョード・カリムらはその数か月後、2005年2月に動画を投稿するためのサイトYouTube を設立します。
 2011年の東日本大震災の津波の映像も、世界中に衝撃を与え、恐怖の体験を追体験させ、それが世界的な支援の輪を生み出すことにもなりました。今や巨大な大災害はすぐに世界中の関心を集めることが可能な時代になりました。

 21世紀の今、視覚メディアは複数並列のフレームを持ちます。パソコンの中には多くのフレームが同時に開かれた状態になっています。そのため、フレーム内の映像がどこから来たのか?誰のものなのか?何なのか?まったくわからない事もあり得ます。
 フレームを越えた存在は、どこからともなくやって来て、あなたのパソコンに現れ、ついにはそのフレームさえも越えて、あなたの目の前に這い出てしまうかもしれません。あの長い髪の女性のように・・・。 


<参考>
「映像文化の社会学」
Sociology of Visual - Imagery Media 2016年
(編)長谷正人
有斐閣

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