- エラ・フィッツジェラルド Ella Fitzgerald -

<三大女性ジャズ・ヴォーカリスト>
 三大女性ジャズ・ヴォーカリストといえば、「Lady Day」ことビリー・ホリディ、「The Singer」ことサラ・ヴォーン、そして「First Lady of Jazz」ことエラ・フィッツジェラルドです。ジャズ界には数多くの女性ヴォーカリストがいますが、この三人は未だに別格的存在といえるでしょう。しかし、「ファースト・レディ」という愛称をもちながら、彼女の私生活はけっして大統領の妻のように恵まれたものではなく、その生い立ちは悲惨なものでした。

<悲惨な生い立ちからの出発>
 エラ・フィッツジェラルド Ella Fitzgerald は、1917年4月25日にアメリカ中東部ヴァージニア州ニューポート・ニューズに生まれました。その後、すぐに母親とともにニューヨークに出ますが内縁の父親は家を出ており、母親は仕事のために彼女を養護施設にあずけ、ついには心臓発作で若くしてこの世を去ってしまいます。ついに彼女はホームレス生活を余儀なくされ、学校どころか、警察に補導されるなど、若くして人生崩壊の危機を迎えます。そんな危機を救ったのは、黒人芸能の殿堂アポロ・シアターで行なわれていたアマチュア芸能コンテストでした。
 16歳の彼女は、そのコンテストにダンサーとして出場しようとします。ところが、その日彼女の前に素晴らしいダンス・チームが登場したため、彼女は歌で勝負することに急遽変更。この日彼女は見事に賞金の25ドルを獲得。こうして、彼女の歌手としてのキャリアがスタートすることになりました。
 その後、彼女はハーレム・オペラ・ハウスで行なわれたオーディションでも優勝。1935年の2月にタイニー・ブラッドショウ楽団で歌手デヴューを果たした彼女は、すぐにチック・ウェッブ楽団の専属歌手に招かれます。1938年に録音した「ア・ティスケット・ア・タスケット」が大ヒットしたことで彼女の名前は広く知られるようになりますが、翌年バンド・リーダーのチック・ウェッブが病死してしまいます。そのため、彼女はバンドを維持するために自らバンド・リーダーとなり、エラ・フィッツジェラルド&Her Famous Orchestraとして再出発することになりました。しかし、バンド・リーダーという余計な仕事も背負うことは彼女に負担となったこともあり、彼女の本当の活躍が始まるのはバンドを解散してソロのなってからのこと、1941年以降のことになります。

<女性ジャズ・ヴォーカルの最高峰>
 1950年代に入ると彼女の人気は浮動のものとなります。その人気を物語る記録として、ジャズ評論の最高峰ダウンビート誌におけるランキングがあります。1952年ジャズ批評家が選ぶ女性ジャズ・ヴォーカル部門の第一位に選ばれた彼女は、それからも同部門の第一位に輝き続け、なんと1971年までその座を守り続けたのです。
 彼女の誰にも真似できないスキャット唱法は「バップ・ヴォーカル」とも呼ばれ高く評価されましたが、時に完璧すぎてアドリブ性に欠けると言われることもありました。しかし、そうした彼女の歌のアドリブ性の低さは完璧さを追求する彼女の性格とそれを実現できる正確な歌唱力があったからこそ生まれたものと考えることもできます。そのうえ、彼女は完璧に出来上がった歌を披露する時、たとえ毎回同じように歌ったとしても、それを常に新鮮に歌い上げることが可能でした。もしかすると、何度でも同じ歌を新鮮な心で歌える能力こそ、彼女にとって最大の武器だったのかもしれません。(同じ曲に様々な表情を見いだすことができたものの出来栄えのバラツキも大きかったビリー・ホリディの歌唱とは好対照だったといえます)
 僕自身、昔彼女のカセット・テープをもらったとき、何度も何度もあきずに聴いた記憶がありますが、それは聴く側にも常に新鮮に聞こえるようにと彼女が仕掛けた魔法のせいだったのかもしれません。

<優秀な裏方たち>
 そんな彼女の優れた歌唱力を生かす方法を見つけ彼女をトップスターの座に押し上げた貢献者としてデッカ・レコードのプロデューサー、ミルト・ゲイブラーをあげることができます。彼の発案により、彼女が数々の大物ソングライターたちの作品をアルバム単位でカバーするという画期的な企画が生まれることになりました。ヴァーヴ・レコードへの移籍後、彼女のマネージャーノーマン・グランツは制作者として、その企画を実現します。こうして、彼女はコール・ポーター、ジェローム・カーン、アーヴィング・バーリン、ガーシュイン兄弟など、ショービズ界の大物ライターにデューク・エリントンアントニオ・カルロス・ジョビンなど偉大な作曲家たちの曲を歌い、アルバムとして発表してゆくことになります。彼らの曲は、彼女が取り上げることで再び名曲として新鮮な輝きを帯びることになりました。
 彼のもうひとつのヒット・シリーズともいえたのが、数多くのライブ・アルバムです。「エラ・イン・ローマ」、「エラ・イン・ベルリン」、「エラ&デューク・アット・コート・ダジュール」などの名盤を企画し成功させたのは、やはり長く彼女のマネージャーを勤めたノーマン・グランツです。彼の優れたプロデュース手腕もまた彼女にとっては大いなる幸いでした。
 こうして、優秀なスタッフに恵まれたことで彼女は長く活躍できたのかもしれません。

<悲劇的な私生活>
 不幸な生い立ちから始まった彼女の人生は、ジャズ・ヴォーカリストとしての大成功により一転しました。しかし、そうした成功の裏で彼女の私生活はけっして幸福なものとはいえませんでした。2度の離婚や結婚詐欺男とのゴシップなど、彼女の結婚生活は失敗の連続でした。そのうえ、彼女の晩年は糖尿病との長い闘いの歴史となりました。その悪化にともない、彼女は失明さらには両足を切断するところまで追い込まれてしまいます。当然、アーティスト活動も断念。こうして、1996年6月15日、彼女はこの世を去ってしまいました。それでも彼女は享年79歳でしたから、他の多くの黒人ミュージシャンに比べればずいぶん長生きしたアーティストだったといえます。

<お奨めアルバム>
「Ellla Fitzgerald 1935 -1937」
 彼女がそのキャリアをスタートさせたチック・ウェッブ楽団だけでなく、ベニー・グッドマン楽団や彼女自身のバンド、サヴォイ・エイトなどをバックに録音された初期の録音集。若かりしエラの歌声を聴くことができます。

「Song in a Mellow Mood」(1954年)
 エリス・ラーキンのピアノのみというシンプルなバックだからこそ、エラの歌声が生きた名盤。まだ34歳だった彼女がジャズ・ヴォーカルの女王として絶頂期の実力を聞かせてくれます。

「エラ・イン・ベルリン」(1960年)
 ライブならではのドライブ感と彼女ならではのスキャット唱法を楽しめるエンターテイメント・アルバム。選曲も映画音楽の「風と共に去りぬ」からガーシュインの「サマータイム」、ご当地ドイツ出身の作曲家クルト・ワイルの「マック・ザ・ナイフ」などバラエティーに富んでいて楽しめます。

「エラ・フィッツジェラルド・アット・オペラハウス」(1957年)
 オスカー・ピーターソン・トリオをバックに行なわれた黄金期の貴重なライブ録音です。レスター・ヤングらも参加して行なわれた「ストンピン・アット・ザ・サヴォイ」も収録されています。

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