盲目の噺家が語る新たな落語の世界

「遊動亭円木」

- 辻原登 Noboru Tsujihara -
<ぼんやりとした世界にて>
 不思議な小説です。
落語の世界を小説化したような物語なのに、時代設定は現代。
主人公は荒れた生活のせいで、持病の糖尿病が悪化。失明寸前の状態になり、落語家としての仕事を休業していました。
しかし、視力を失いつつある彼は、逆に不思議な能力を身につけてゆくことになります。
地震を予知したり、見えないはずの風景を見たり、絵を触っただけでモデルのことがわかったり、・・・
彼が語る出来事が、彼自身には見えていない世界のことのせいか、リアルな部分と想像の部分との区別がぼんやりしています。
この「ぼんやりとした世界」が、この小説を魅力的しているといえます。

<落語の世界にて>
 主人公が噺家となれば、当然、落語の名作がいくつも登場し、そのストーリーが小説と連動する部分もあります。当然、落語ファンにはお薦めの小説です。
「居残り佐平次」、「つるつる」、「大山詣り」、「明烏 あけがらす」、「立切れ」、「白銅(白銅の女郎買い)」・・・
落語の名作と連動させる物語の展開といえば、宮藤官九郎の傑作「タイガー&ドラゴン」があります。ちなみに、この小説は1999年発表ですから、2005年放送の「タイガー&ドラゴン」よりは古い作品です。
古典落語の名作を復刻(リニューアル)した「タイガー&ドラゴン」に対し、この小説は新たな創作長編落語を書き上げたといえるかもしれません。

<遊動亭円木の能力>
 この小説の主人公である遊動亭円木という噺家の持つ不思議な能力について、魅力的に描かれている部分をここでは書き出してみようと思います。その部分を読んだだけでも、この小説の魅力が感じられるはずです。

(1)時に、彼は夢の中で空を飛びます。そして、そんな彼が空を飛ぶ姿を目撃したという人まで現れます。

円木は眠らず、空想の中で、ずっと鳥海の上を飛んでいた。象潟も日本海も、鳥海の雪渓も橅の森も、寝しずまった矢島のまちも、ふとんの上に再び白い片足を投げ出して眠っている寧々の姿もはるか下にみていた。・・・

(2)時に、彼の特殊な感覚は様々なイメージを呼び覚まします。視力を失いつつある中、彼は触覚というもうひとつの感覚を研ぎ澄ましつつありました。それは人類にとって最も重要な能力なのかもしれません。

 円木が、岩屋の洞窟で、女の顔に触れたとき、ロビーのタペストリーの感触を思い出し、さらに、立木がうろから取り出してきた手紙に触れたときは、女の傷痕の感触に似ていると思った。
 人間の感覚のなかでいちばん鋭敏で正確なのは触覚だとアリストテレスはいっている。われわれはほとんどすべての感覚において他の動物より劣っている。視覚なんてその最たるものだ。触覚だけが頼りだ。触覚のおかげで、人間は動物のなかで一番賢い地位を保っていられるのだ、と。


(3)時に、彼は眼で見たことのない風景をも脳裏に再現することがあります。

 円木は盲だ。だから、実際に視界にとらえた光景ではないが、そのとき、その場にいて、あらゆる感覚を動員してつかみ取った臨場感は目明きより鮮明に残り、時とともに彼のひたいの裏側で、ひとつのたしかな光景に生まれ変わる。そのときはみえていなかった光景が、記憶の中で、絵というより映画のような動きをともなった画面に変幻する。

(4)時に、彼はその驚異的な記憶力を用いて、自らを落語専用ジューク・ボックスに改造し始めます。

「はい。もっとありていに申せば、落語の図書館になるんです。ジューク・ボックスになる」
「円木さん自身がかい?」
「はい、わたし自身がです。・・・」
・・・・・・
「おお、円木、記憶の人となる、・・・・か。うん、気宇壮大だねえ。円木の噺は、聴いてるみたいだ、ふしぎだ、と思ったことがある。この場合、噺を演じているのが円木なのに、語っている当人がまず耳をかたむけている、かたむけながらやっているという意味なんだが。噺家はひたすらsyばるものです。ところが円木さんの噺は、円木さん自身が聴いている。聴いている噺が、どういう風の吹き回しか外にもれ出て、わたしにもきこえてくる、そんなふうでふしぎでならなかった思いがある」


<明楽さん>
 遊動亭円木のパトロン的存在として登場する謎の資産家、明楽さんもまたただ者ではありません。

・・・で、その統一理論のモデルとして、超弦理論というのが考え出された。26次元空間で波打つ弦が、無数の素粒子を生み出すんです。26次元なんて、人間のなんて、人間の想像能力を超えている。あまりに難解で、それを数学的に想像できる人間は地球上にたった二十人いるかいないか。
「だんなもその中に入るんですか」
円木は何がなんだか訳もわからず、冗談の合いの手のつもりだった。
「図星。そうなんです。わたしもその二十人衆のひとり」


 明楽さんは自らの死が近いことを知り、死ぬまでにと下町の街中に不思議な公園を作り始めます。といっても、彼は死を恐れていたわけではありませんでした。

「・・・実は、生と死は何の関係もないんじゃないか。わたしは死ぬ、という考え、というか文章は誤りなんです。わたしと死とは何の関係もない。死は存在しない、とすら言うこともできない。死について、わたしは考えることはできない。壁があるわけでも扉があるわけでもない。わたしが、死ということについて考えていると思っていたのはまちがいで、じつは生について考えていたのです。わたしたちはむこう側には出られない。
 あちらとこちらというものもまたありえないからです。死とは、あらゆる絶対的な不可能性の比喩なんです。そこにわたしたちは宙吊りにされています。・・・・・」

明楽さんの言葉

 失明や死など、不幸な出来事の連続のようでありながら、この小説には基本的に希望が満ちあふれています。そこがこの小説最大の魅力ということもできます。

「遊動亭円木(ユウドウテイ・エンボク)」 1999年(各章の発表は1997年から1999年)
(著)辻原登
文藝春秋
<あらすじ>
 落語家の遊動亭円木は、優秀な落語家でしたが昔気質のヒネクレもので、荒れた生活がたたり持病の糖尿病を悪化させ、失明の危機にありました。生活も困難になった彼は妹夫婦が住むマンションで暮らすことになり、落語家の仕事も引退状態になっていました。
 それでも彼には、その才能にほれ込んだ明楽さんという資産家のパトロンがいて何かと仕事を持ってきてくれます。出張の落語を頼まれたり、同じマンションの住人のトラブルに巻き込まれたり、彼を愛する女性が現れたり、主人公は様々な人と関わる中で、盲目の落語家として新たな道を歩み出そうとします。

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