「『歴史の終わり』の後で」 After the End of History
- フランシス・フクヤマ Francis Fukuyama -
<フランシス・フクヤマ>
2022年「民主主義の危機」の年だった気がします。
ロシアによるウクライナ侵攻はその象徴的事件。中国の台湾への圧力も高まり、いつ事件が起きても不思議がない状況でもあります。
アメリカでは民主主義とは正反対のポピュリズムによる分断が深刻化。トランプの勢いは弱まりつつありますが、未だに危機的状況が続いています。
日本もまたその影響を受けて、なし崩し的な防衛費の増額が進みつつあります。
20世紀に勝利を収めたかのようだった「民主主義」はなぜ失敗したのか?
ここから先、どうすれば危機を脱することができるのか?
そんなことを考えていたら、この本に出会いました。
名前は聞いたことはありましたが、そもそも政治学に興味があったわけではないので、彼の本は今まで読んだことがありませんでした。
1989年「ベルリンの壁崩壊」によって「歴史は終わった」とかつて彼が書いた意図は何なのか?
1992年にそう書いた彼の代表的な著書「歴史は終わった」の続編となる本を読ませてもらいました。
そこで「歴史」と「政治」についての新しい視点を学ばせてもらいました。
人間は何のために生きているのか?それは自分を評価して欲しいから。そこからすべては始まると彼は説明します。
「承認欲求」こそが人類の進歩における最大のモチベーションだというのです。それは僕も納得です。
ちなみに、この本が発表された時点ではロシアによるウクライナ侵攻はまだ始まっていないのですが、彼はこう書いています。
ウクライナは、構成主義の拡大との戦いにおける最も重要な前線基地です。ウクライナが独立と民主主義を維持して、自国の腐敗の問題に対処するのに成功しなければ、旧ソ連のどの国も成功できないでしょう。だからこそわたしはこの数年間、ウクライナで多くの時間を過ごしてきたのです。
彼はウクライナで民主主義を推進するためのプログラムを主宰していました。それは武力を用いなくてもできる「反ナチ化運動」でした。ロシアの侵攻は彼の努力を無にすることになりました。
<民主主義について考える>
<国家と民主主義>
近代の民主主義はバランスをとることが求められるものだと思います。一方で国家がなければいけません。国家とはつまるところ権力をまとめて集中させる制度であって、それによって法を執行し、コミュニティを外部の者から守って、国内の行動を取り締まることができるようになる。しかしこの強力な国家をつくったら、今度はそれを抑制する必要があって、その手段が法の支配と民主主義なわけです。
- 民主主義によって、国家は少なくとも人口の相当部分の望みに従うことになります。このバランスをとるのが非常に難しい。国家がなかったり弱かったりして苦しんでいる社会もあれば、国家が強すぎて苦しんでいるところもあります。うまくこのバランスをとるのは、政治におけるちょっとした奇跡だと思います。
<民主主義とは?>
政治学者の多くは、民主主義を単に手続き的に定義しています。民主主義国は自由でなければならず、複数政党による公正な選挙が定期的に実施されていなければならないというわけです。それもひとつの考え方ですね。しかし、民主主義を実体の面で考えることもできる。こうした手続きが整っているか否かだけでなく、結果が実際に国民の意志を反映しているかどうかという面です。ここで多くの民主主義は問題にぶち当たります。形式面では正しい手続きがとられていても、結果は国民が望むものになっていないのです。その理由は国によってさまざまですが、これは今まさに直面している問題の一つです。人々は思っていたものと違うといって民主主義を非難していて、実際それが正しいこともあります。エリートが制度を悪用して、国民の本当の望みに制度が反応しないようにすることもあるからで、これがロビーイングや大きな利益団体といった類のものに見出される問題ですね。
(実際のところ、第二次世界大戦の終戦から2005年にかけて民主主義国は増えてきましたが、21世紀の現在は独裁体制の国が増え、減少に転じています)
<近代民主主義国家の原点>
はじまりはフランス革命で、そこから二つの政治運動が生まれました。ひとつは普遍的な承認に基づいた自由主義体制です。自由主義社会のもとで「人間の権利」を与えられることによって、ひとりの市民としての個人の尊厳が承認されるわけです。発言、集会、結社、信仰、そして最後に投票権利が与えられる。
(そもそも人間に「権利」などなかったのです)
・・・・・
フランス革命から生まれたもうひとつの政治運動がナショナリズムで、これは個別主義的な形態の承認でした。ナショナリズムは、同じ言語と文化を共有する集団のアイデンティティに基づいています。自由主義とナショナリズムという二つの力はその後、一世紀にわたってヨーロッパのいたるところで互いに競い合います。最終的にナショナリズム的な承認が優勢になって、二つの世界大戦というヨーロッパ文明の大惨事につながったのだと思います。
ただし、第二次大戦での敗戦処理は、日本やドイツがその後、世界経済の中心になることを考えると、成功したと言えそうです。しかし、その後、アメリカはベトナム、アフガニスタン、イラクなどで戦後処理の問題を失敗することになります。
<イラクでの失敗>
「イラクが何かを教えてくれたのだとしたら、それは近道がないということです」
F・フクヤマ
近道がないという発言は、政治学者ケン・ジョウィットがかつて言ったことを受けてのものです。要するにジョウィットは、わたしが民主主義のカール・マルクスなら、ビル・クリストルはウラジミール・レーニンだというのです。つまり、技術、経済変化、その他の構造的要因によって、長期的にゆっくりと自由民主主義へと向かっていくというのがわたしの見解だと。それと対照的に、クリスとルとその仲間の新保守主義者たちは、軍事力を使ってこのプロセスを加速できると考えていた。ただ、結局のところこの近道は存在しないことが経験によって示されたと思います。レーニンの近道が存在しなかったのと同じです。
<アメリカのイラク、アフガニスタンへの侵攻について>
アメリカは、どちらの国でも国家をつくる必要があることに気づきました。侵攻後、国家は崩壊していたからです。アメリカ人は国家があるのは当たり前だと思っていて、国家を嫌ってすらいます。実際、国家建設が重要だとは思っていませんでしたし、侵攻後にしなければならない必要要件だとも考えていなかったのです。そして突如として困難に直面したわけです。・・・
混沌とした自然状態のなかでどのように国家をつくるのか、それについての最も基本的な知識すらなかったのです。
アメリカがこの過ちを犯した原因は、1989年にまでさかのぼります。
(ベルリンの壁崩壊後の東ヨーロッパはスムーズに民主主義国家に移行し、大きなトラブルはおきなかったため、悪い独裁者さえ取り除けばあとは自然になんとかなる。そう誤解してしまったのでした。さらに振り返ると、第二次大戦後の日本も同様に上手くいきました)
<東アジアでの成功>
権威主義による移行は東アジアでうまくいった戦略ですが、どこでも有効なものではありません。国家と民主主義に類するものを同時に確立した国、あるいは少なくとも近代国家へ移行した国がたくさんあります。権威主義の段階をすべての国が経なければならないということは、まったくありません。
<目指すべき民主国家とは?>
国家に十分な力がなければ、物事を動かすのは困難です。繁栄と安定を望むのなら、質の高い国家が存在することが重要なのです。近代国家でなければ、国の規模が大きくても小さくても関係ありません。幸福は得られないのです。いまの新型コロナの危機的状況を見れば、そのような国家が重要であることがわかります。
(ゼロ・コロナにこだわり続けた中国が国民にとって幸福だったのか?それは一時期中国全土で盛り上がった反政府デモを見れば明らかでしょう)
<理想に近い国デンマーク>
「デンマーク化」とは、腐敗のない近代国家をもつことであって、これは単に国民に福祉給付金を提供する大きな政府をつくるよりもはるかに難しいことです。南アメリカの大きな国はみな、福祉国家をつくろうとして惨めなまでに失敗しました。
(南アメリカではブラジルやアルゼンチンのように政権が右と左をいったりきたりが続いています)
「デンマーク」というのは、よく機能する国家機関を備えた国の象徴なのだと。ただ、さらに疑問を投げかけてもいます。仮に「デンマーク」がどのように機能していて、それがどう誕生したかわかっていたとしても、実際にデンマークとは文化の面でも歴史の面でも大きく異なるほかの国に、有用な知識をうまく応用できるのかと。
どの国もデンマークのようになれるかと言えば、それは無理な話なのです。
<デンマークの精神的な基礎>
ルター派の影響は、国家を強化してその力を集権化した点で重要でした。ヨーロッパ各地の諸侯が宗教改革を口実にカトリック教会の所有権を奪い、それが国家に組み込まれたのです。ルター派は人々が自分で聖書を読むことが大切だと考えてもいましたので、読み書きを大衆に普及させるのもあと押ししました。一方でカルヴァン派は、腐敗を取り除くのに非常に重要な役割を果たしています。カルヴァン派の伝統では、ある種の厳格な個人的道徳観が育まれていたからで、それがオランダ、プロイセン、イングランド、アメリカでの近代官僚制の成立にとって重要だったのです。
結局のところ、腐敗はとても自然なものなのだと私は思います。
人は友達を助けたいし、家族を助けたいものなのです。個人的な感情を交えるべきではなく、友人や家族のために不正を働いてはいけないという考えは、強制されなければ出てきません。カルヴァン派は信者にある種の道徳観を押しつけ、そのおかげで厳格な秩序ができて、これがまちがったことであると官僚に言い聞かせる環境ができたわけです。こうしたルールを内面化していなければ、いくら外から監視されても人はほんとうに誠実にはなりません。
<ヨーロッパにおける法の重要性>
もうひとつ別の自由主義の伝統があって、そこで自由は法に根ざしています。法が権力の濫用を防ぐので、法は自由の土台であるというのがその考えです。法が権力を侵害するのを防ぐわけです。この自由の解釈もヨーロッパの伝統に深く根ざしています。
(ヨーロッパは宗教的な基盤もあり、法がすべてに先行して存在します)
<民主主義の危機について>
<民主主義からアイデンティティ(ポピュリズム)へ>
民主主義の時代から今どう変化しつつあるのか?それは民主主義重視からアイデンティティ重視の世界へと変わりつつあるとフクヤマは説明します。
かつては左右のイデオロギー対立が存在し、20世紀の政治を特徴づける産業化された社会で、資本と労働者の相対的な経済力をめぐる諸問題への対処法によって二つの陣営に分かれていた。しかし、いまではアイデンティティの問題を軸に政治的な立場が作られるようになりつつあり、その多くは狭い意味での経済よりも文化によって決まる。この変化は自由民主主義を健全に機能させるのに望ましいとはいえない。
<アメリカの場合>
いま私たちが暮らしているのは、アイデンティティの軸によって定義されつつある世界です。アイデンティティによって定義される世界を最もよく表しているのが、ドナルド・トランプ大統領でしょう。2018年のアメリカ中間選挙では、従来の共和党の政策で選挙戦を展開することもできたわけです。減税を掲げたり、経済が雇用を生み出していることをアピールしたり、経済成長を約束したりといった具合です。けれどもトランプはそういったことは語らなかった。何について語ったのか。南部の国境を越えて幹しこから移民が大量に侵入していると語り、軍隊を送ると語ったのです。この脅威とされるものに対処すべく、トランプは出生主義で市民権を与えるのをやめると脅しをかけ、つまるところ国が外国人に攻撃されていると主張しました。これはアメリカ保守主義の性質が大きく変化して、ロナルド・レーガンの保守主義の特徴だった自由市場のイデオロギーから離れたことを示します。経済の軸からアイデンティティの軸へとシフトしたわけです。
(その結果は世界に拡散。トランプ以外にも世界中に彼と同じようなポピュリストの指導者を生み出すことになりました)
<アメリカにおける自由>
共和主義的な伝統では、自由は積極的な自治であると考えられています。つまり、自由であるとは市民として自治に参加するということであって、投票するだけでなく、軍隊に加わったり、討論に参加したり、政策を形成したりもするということです。・・・
アメリカの問題は、国家をある種の必要悪としか考えないロック的な伝統や自由至上主義の伝統があることです。リプセットによるとこれは、アメリカ建国から生じたものです。アメリカはイギリスの君主制と議会の権威への反乱の結果として建国されたのであって、国家そのものへの不信感がその中心にあります。そこから二つ目の自由という理解が生まれたわけです。
いまの共和党員は自由をそのように考えています。自由を脅かす可能性があるのは政府だけだと思っているのです。民間企業や社会的圧力のことは気にかけていません。・・・したがって政府を弱体化させたがっていて税金を払わないといった手段によって政府の資金源を奪おうとしています。
(そもそもヨーロッパとはまったく逆なわけです)
<プロテスタントの国、アメリカ>
「知らない町に行った時、みんなどうやってあなたのことを信用するんですか」
セールスマンはこう答える。
「わたしはバプテストですので、バプテスト教会に行くんです。同じバプテストだからということで、そこにいる人たちはわたしと取り引きをしてくれて、わたしの製品は信頼できると思ってくれるわけです」
そこからウェーバーは、社会的信頼は実のところ宗教改革の影響のひとつであり、アメリカのプロテスタント主義の宗派的な性質の影響のひとつだという着想を得たのです。これがのちに社会関係資本と呼ばれるようになります。正式な組織を通じてではなく自覚的に人々が互いに信頼して集団としてともに働く力のことです。・・・
(この伝統が今でもアメリカには残り、そこから排除の考えも生まれることになりました)
<日本の場合、中国の場合>
日本では、他人をすぐに信頼できる他国にない伝統があったために、近代化の歴史の非常に早い段階から大企業が発達しました。他方で中国では、ずいぶん長いあいだ会社の規模は小さな同族企業にとどまっていた。中国の文化では、親類以外の人を信頼するのは非常にむずかしいからです。
この構造は経済体制に大きな影響を与えます。重要なメカニズム、つまりよそ者への信頼のメカニズムを調べてみると、必ずしも似ている国のあいだに多くの類似点があることがわかります。
<アメリカの分断>
左派政党の最大の票田は労働者階級です。民主党は白人労働者階級の有権者に頼って選挙に勝っていました。ニューディール連合はロナルド・レーガンの時代まで続きましたが、その後、動機が変化します。ひとつには、民主党が人種問題において公民権やフェミニズムなどへ重点を移行させてきたためです。この変化によって一部の白人労働者階級の有権者が離れはじめて、それがいまも続いています。左派は自らを再定義し始めて、労働者階級そのものではなく、特定の集団に対する不当な扱いに集中するようになった。左派の多く人にとって、労働者階級は問題の一部にすぎなくなったわけです。・・・
白人ナショナリストの多くはこう言うでしょう。
「我々白人は、今や不当に差別されたマイノリティだ。差別是正措置(アファーマティブ・アクション)によって虐げられてきた。左翼が我々よりも外国人を優遇するせいで、子どもたちをしかるべき学校に入れることができない」
<セレブたちの誤り>
現在の上流階級は、自分たちのことを支配階級だとは見なしていません。いまの高学歴の専門的職業人はたいてい、イデオロギー的には左寄りの傾向にあります。排除されたり社会の周縁に追いやられたりしている人たちへの懸念を表明して、中道左派政党に投票数する。文化的にはそれらの人たちはよりコスモポリタンであらゆる多様性を受け入れる。とはいえ、子どもと自分自身の暮らしについておこなう選択によって、階級として自分たちの有利な立場を強化する傾向にはあります。
<政府を信じない国アメリカ>
アメリカ人の国家不信はやや病的で、国民が身動きがとれない状態に閉じこめられています。国家を信用していないので、税金をはらいたがらない。国家に権限を与えたくないから、国家は公的医療を提供できない。国家が財産やサービスを実際に提供できないと、国民は「ほら見ろ、国は無能だ。税金は払わないし、権限もこれ以上は与えないぞ」と言う。悪循環です。アメリカのほかに南アメリカの多くの国もこの状態に陥っています。
<ポピュリズムの時代>
ポピュリズムは、制度への信頼が広い範囲で低下しているのと歩みを共にしています。・・・
多くの国で教育レベルが向上しました。高等教育を受けると、人は権威に対して懐疑的になります。多くのことを疑問視するようになり、情報もたくさんもつようになって、その結果、さまざまな権威が言うことを信用しなくなる。・・・
その結果、信頼は低下しますが、多様性が広がるのはいいことです。社会が開かれて、多くの点でより公平になっているということですから。
信頼の低下は組織を弱体化させますが、社会で進行しているより大きな変化は必要な要素でもあるのです。
多くの政治学者が最近の民主主義の後退は1960年代や70年代とは異なると指摘しています。60年代と70年代には、一連の軍事クーデターによって突然、民主主義による支配が覆されました。いまは、民主主義はゆっくりと腐食しています。・・・
<ポピュリストの歴史>
ルーズベルトとムッソリーニはいずれもポピュリストでしたが、その意図と結果はまったく異なります。ルーズベルトは大恐慌への怒りを利用してアメリカ的福祉国家をつくりましたが、ムッソリーニは自分の権力を使ってファシストの独裁国家をつくったのです。
大きな問題のひとつが、国民形成は自由民主主義よりも権威主義体制のもとでのほうがはるかにやりやすいことです。ルールを強制できますし、長期間、特定の暮らしをするよう人々に強いることもできますから。現代のすべての民主主義は、非民主的な手段で形成された国民を運よく引き継いだのです。それらの国が安定しているのは、こうした国民をただ引き継いで、自分ったちでつくる必要がなかったからです。
<ポピュリズムを生み出す下地>
「第二次世界大戦後の数十年の有権者と比べて、21世紀の有権者は権利意識が強く、自分自身と自分の意見をより重んじて、他者の見解に不寛容になっている。より要求がましく辛辣で怒りっぽい。これはミレニアム世代とX世代だけではない。こうした変化はベビー・ブーム世代にも当てはまる」
<ポピュリズム政権による情報操作>
この数年で、民主主義の的もテクノロジーの使い方を考え出したことがわかりました。かつて人々が目する情報をコントロールしていた編集者、出版社、主流メディアといってヒエラルキーが取り除かれて、だれもがなんでも発表できるようになったのです。その結果、望ましくない情報を目にすることが多くなり、そうした情報のなかには、敵と見なす相手を傷つけようとする者が意図的に流しものもあります。この数年間に、プーチンがロシアがヨーロッパの他の民主主義国とアメリカに対してやってきたのがこれです。
<3種のポピュリズムと危険性>
(1)経済的ポピュリズムであり、そこでは(多くの場合左派)指導者が、長期的に維持することが不可能な経済改革を掲げる。
(ベネズエラのチャベス大統領はこの典型的存在)
(2)このタイプが重視するのは、スタイルとカリスマ的なリーダーシップであり、国民との密接なつながり。
「わたしはみなさんの代表だ」ということです。
しかし、ここでは「代表」は「制度」として理解されておらず、司法やメディアなどの制度と真っ向から対立することも多い。
(フィリピンのドゥテルテやブラジルのボルソナロ、トランプもこのタイプでしょう)
(3)国民を特定のかたちで理解していて、自分たちと異なる人はたとえ市民権をもっていても排除する。
(ハンガリーの折るバーン・ヴィクトルによる民族主義政権。彼はハンガリーを非自由主義的民主主義国家と呼んでいます。自由なき民主主義!?)
これらポピュリズムの真の危険は、ポピュリスト指導者の多くが自らの正統性を利用して、決定的に重要な制度を破壊しようとする点にあります。法の支配、独立したメディア、非人格的な官僚制といったものです。彼らはこんなふうに言います。
「こうしたいろいろな法律や憲法による制約は、ほんとうに必要なのか?我々の取り組みの邪魔になっているのに」
<現代社会の危機的状況>
<民主主義におけるAIの危険性>
・・・人工知能(AI)と機械学習の台頭によって、もともとのパソコンPC)革命とは反対の方に向かっています。PC革命は民主的で、コンピューターの力をすべての人に広めました。
AIはその反対です。こうしたテクノロジーを使う力が大企業や大国に集中しているのです。それがAIの大きな問題です。とりわけ、人間が介入することなく自ら変更を加えられたプログラムは問題です。自動車のように部品をすべてばらしたあとにまた組み立てて、その仕組みを正確に知ることができるようなものではありません。複雑なアルゴリズムがあり、そのアルゴリズムもまた別のさまざまなアルゴリズムによってつくられていて、そこから何が導き出されるかはわからないのです。透明性がありません。
<インターネットの危険性>
インターネットはそれ自体が分断の源になりました。インターネットはこの新しいアイデンティティの政治にまさにぴったりの媒体で、そこで人々は他の人と話して意見を共有できるからです。自分たちと意見が異なる人の話は聞く必要がありません。インターネットは社会を様々なアイデンティティ集団に分割する動きを強める傾向にあって、共通の感覚や市民としての感覚をすべて弱めます。
この分断によって、アメリカは他国からの干渉を受けやすくなりました。ロシアが2016年の選挙に干渉したのは間違いありません。分断を際立たせ、国民が政府と同胞を信頼しにくくなるようにするのがロシアの目的です。
<独占的SNSの危険性>
多くの国では、FacebookとGoogleが、人々のコミュニケーション手段になっています。Facebookにログインしなければ人々に向かって政治のことを語れない国もあります。その結果、独占の問題も生じているのです。FacebookはFree
Basicを通じて基本的にフィリピンを乗っ取りました。これに気づかなかった人もたくさんいます。
(95%のフィリピン人が利用し、それをドゥテルテ大統領は独占的に使っているのです!)
<自由競争による自由市場の消滅>
1970年代終わりと80年代はじめに当選したレーガンとサッチャーは、新自由主義を政治の世界で体現する存在でした。しかし、この動きがこれほどの力をもったのは、その背後にいわば高尚な知の力があったからです。つまり経済学者がきわめて手の込んだ一連の政策をつくっていて、それが本格的に世界経済を形成しはじめていたからです。・・・
ニューヨーク大学で経済学を教えるトーマス・フィリポンが「大反転 - アメリカはいかに自由市場を手離したのか」という面白い本を書いています。フィリポンによるとそれは、ヨーロッパが実際に競争政策を重視して多くの市場を可能にしたためです。独占禁止法が執行されないのは、こうした企業がロビイストを雇って議員に働きかけ、独占禁止法の積極的な執行に賛成票を投じないようにさせているからです。
(さらにまずいことに、裁判所の裁判官の多く、こうしたシカゴ学派と呼ばれる経済学者が権威を持っていた時代に育ち、先入観をもっていることです)
<民主主義を見直すべき時>
<民主主義の価値>
人々は権威主義的な政治体制を望んでいるわけではなく、民主主義のなかで普遍的な承認と敬意を保っておきたいと望むだろうと彼が指摘しているのも正しいと思います。いまのところ、民主主義諸国と同じだけ承認欲求を満たせる独裁政権は存在しません。
・・・・・
民主主義諸国はうまく機能する社会を提供しなければなりませんし、民主主義を権威主義体制に置き換えようとする勢力に覆されないように耐えなければなりません。
<人間の終わり>
「近代自然主義はその性質からして終わりがないので、次の二、、三世代のうちに、過去のソーシャル・エンジニアたちができなかったことを実現可能にする道具をバイオテクノロジーが提供するだろう。その時点で、人間の歴史は確実に終わる。人間そのものが廃止されるからだ」
(人間の本質が変われば「人権の平等」の考え方も本質的に変わってしまうでしょう。さらに言うと、インターネットの登場はそうした人間時代の終わりの始りだったのかもしれません)
<未来への選択肢>
<優先順位付き投票>
アメリカのような極端な二極化を防ぐ方法がないわけではありません。それにより、より多くの意見を政治に生かせる可能性が生まれるかもしれません。
(スピードは遅くなりますが・・・)
二極化の問題を緩和するには、いわゆる優先順位付き投票というオーストラリアで用いられている制度に移行すればよい。
一人の候補者に投票するのではなく、候補者リストに優先順位をつけて投票する。
第一希望、第二希望、第三希望を記す。
もし、第一希望の候補が上位に入らなければ、その票は第二希望の候補のものになる。この仕組みだと、候補者間での協力が促されます。ライバル候補の第二希望になりたいからです。それに、二つの政党によって示された選択肢が気に入らない場合は、第三政党に安心して投票できるということでもあります。
<社会民主主義への回帰>
所得を再配分して医療や年金へのアクセスを保証し、人々に社会的保護を提供するといったことに取り組む政治体制が必要です。それをおろそかにしていたら、アメリカのようになって多くの一般市民がおおいに幻滅することになります。社会民主主義というかつての概念に立ち戻る必要があるのです。そうすれば、資本主義経済体制の正統性を維持しながら、それをかなり広い範囲の社会的保護と結びつけることができるかもしれません。
(中国のような独裁主義体制でも資本主義経済は成立しますが、それが国民の幸福に結びつくとはかぎらないのです)
<自由主義しかない!(あとがきより)>
自由主義は人間の歴史をこれまで動かしてきた矛盾を理念上解消できる体制であり、それを目的地(end)として目指すのが規範的に望ましいというのがフクヤマの主張だった。
では、歴史を動かしてきた矛盾とは何か。ひとことでいえば、「承認をめぐる闘争」であり、それが「歴史の終わり」の核にほかならない。人間はそもそも他者からの承認を求める動物である
- ほかの人間から、ほかよりもすぐれた者として、またほかと平等な存在として認められることを求める。
フクヤマの考えでは、自由民主主義によってこの矛盾は原理上、解消された。自由民主主義では、法のもとですべての人間があまねく平等に承認され、また個人が様々な領域で自由に活動することによって、優越願望もある程度満たされるからである。
ようするにフクヤマは、承認を人間の根本的なニーズと見なし、そのニーズをほかよりも満たせるという理由で自由民主主義を擁護していたのである。したがって、いくら経済的に成功を収める権威主義国家が登場しても、それが自由民主主義国の代わりになるとは考えない。
「『歴史の終わり』の後で」 After the End of History 2022年
(著)フランシス・フクヤマ Francis Fukuyama
(編)マチルデ・ファスティング Mathilde Fasting
(訳)山田文
中央公論社
フランシス・フクヤマは1952年生まれのアメリカ人政治学者
この作品のもとになったのが1992年の「歴史の終わり」で、その改訂増補版がこの作品。
その他にも、「大崩壊の時代」(2000年)、「アメリカの終わり」(2006年)、「政治の起源」(2013年)、「政治の衰退」(2018年)などの著作があります。
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