- イングランドの伝統音楽からビートルズまで -

<繁栄するイングランド>
 スコットランドやアイルランドなど、イングランドによって支配されていた国々は、その悲劇的な歴史の中「バラッド」という独自の音楽を生み出し、後世にその影響を残すことになりました。
 では、上の二つの国だけでなく世界各地の植民地を支配し、世界で最も豊かな国になっていた宗主国イングランドからは、どんな音楽が生まれたのでしょうか?
 どうも、その頃のイングランドからは、世界に広まるような音楽は生まれていなかったようです。それにはやはりいくつかの原因がありました。
 当時ロンドンを中心とするイングランドの都市部には、経済的発展とともに急速に新興の中産階級富裕層が生まれようとしていました。貴族階級に属さない彼らは、趣味については貴族たちに追いつこうと、当時の芸術音楽、今でいうクラシック音楽に熱中しそれ以外の庶民の音楽に興味を示すことはありませんでした。
 一方、マンチェスターやリバプールなどの工業都市は急激な発展にともない労働を必要としたため、異常なペースで人口が増え続けていました。そのため、それらの街に住む人々のほとんどは工場で働く労働者で、長時間にわたる単純労働に耐えられる若年層と女性が中心でした。成人男子の人口比率は1/4に過ぎず、厳しい労働条件と急激な工業化による環境破壊が重なり、都市部の若者たちの平均寿命は異常に低く20歳まで生きられたのは半分以下に過ぎなかったともそうです。こうした社会状況の中では新しい文化の創造は困難だったのかもしれません。
 ただし、奴隷として過酷な条件のもとで働かされていたアメリカの黒人たちでさえ、ブルースや黒人霊歌をを生み出しのですから、イングランドの都会でも誰かが新しい音楽を生み出していたはずです。ただ、それらの音楽はクラシックを愛する中産階級以上の階層からは無視されたため、歴史に残ることがありませんでした。やっとそれら一般大衆の音楽が歴史に記録されることになるのは、19世紀後半、労働運動の誕生とその活発化によって大衆文化が見直されるようになってからのことになります。

<イングランドの大衆音楽>
 イングランドにも、この時代に独自のポピュラー音楽というものは存在していました。そのひとつにモリス・ダンスと呼ばれるダンスとその音楽があります。どうやらその起源は、ローマ帝国によってイングランドが支配されていた紀元1世紀から4世紀頃とも言われていますが、そのほとんどは謎に包まれているようです。
 毎年6月にその年の収穫を願って行われるそのダンスの踊り手はすべて男性。フィドルとアコーディオンなどの伴奏に乗って飛び跳ねるダンスは、かなりの体力を要するもののようです。実は、このダンスもイングランドの繁栄とともに消滅の危機にありました。それが復活するきっかけとなったのは、なんとつい最近1972年のこと、「モリス・オン Morris On」というアルバムの発売によるものでした。
 モリスを音楽的に甦らせたそのアルバムを作ったのは、フェアポート・コンベンションのメンバーで、当時はスティーライ・スパン Steelye Spanを率いていたアシュリー・ハッチングスと同じくフェアポート・コンベンションのギタリストでその後ブリティッシュ・フォーク・ロック界をリードすることになるリチャード・トンプソン、そして自らモリス・ダンスを子供の頃から踊っていたというアコーディオンのナンバー1奏者ジョン・カークパトリック。この3人が中心となってモリス・ダンスの音楽が復活し、そこから消滅しかかっていたイングランドのトラッド復興運動も本格化することになります。

<労働運動の誕生>
 独自の音楽を生み出せなかったイングランドですが、19世紀のロンドンでは「ミュージック・ホール」と呼ばれる場所が繁栄の時を迎えようとしていました。ミュージック・ホールとは、コンサート・ホールとパブの中間のような存在で、音楽だけでなくお笑いや芝居など、いろいろな芸能を見せる場所として、19世紀から20世紀にかけてイギリスにおける娯楽文化の中心となりました。
 当時、ミュージック・ホールが発展したのには、大きな理由がありました。19世紀前半、イギリスでは産業革命の影響で急速に産業が発展、そのための労働者が増えると同時に労働環境が劣悪化していました。環境汚染、労働災害、職業病、地域社会の崩壊など、現代の我々が抱える社会問題の多くがこの頃生まれたと言えるでしょう。そのため、労働者たちの中から、そうした劣悪な労働条件に対する抗議の声があがり始め、労働運動というものが始めて生まれようとしていました。当然、そうした労働運動は政府にとって都合の悪いものだったため、その活動は地下に隠れるようにして行われていました。そのため、彼らは街中のにぎやかな場所、ライブを聞かせる小さなパブなどに集まっては小さな集会を開いていました。この頃から、すでにライブ・ハウスは、社会にとってのアンダーグラウンドであり、文化の発信地としての役割を果たし始めていたわけです。
 しかし、労働運動がしだいに力を持ち始めると、政府はそれに対し圧力をかけ始めます。そして、その手始めとなったのが、彼らの集会場所となっていた飲み屋をつぶすことだったのです。

<ミュージック・ホール文化>
 政府は前述の小さなライブハウス的飲み屋に対し営業規制を課すようになりました。そのため、政府の許可を得ていない小さな飲み屋はライブを行えなくなり、政府の認可のもとでミュージック・ホールという新しいスタイルの店が登場することになったのです。
 ミュージック・ホールとは、それまでの店よりも大きく、大衆的な店で、当然多くの客に対応するために娯楽に徹した出し物を売りにしていました。当時の上流階級の人々がクラシックやオペラを見ることに喜びを見出していたのに対して、中流以下の人々が求める当たり障りのない娯楽を与えるために生まれたのが、このミュージック・ホールだったわけです。こうして、芸能娯楽文化における二極化が進んだことが、イングランドにおいて芸術性の高い大衆芸能が育ちにくくなった原因ではないかと言われています。

<ミュージック・ホールとチャップリン>
 とは言っても、ミュージック・ホールが何も生み出さなかったというわけではありません。なんと言っても、そこからはあの喜劇王チャーリー・チャップリンが登場しているのです。母親もまたミュージック・ホールの人気歌手だったチャップリンは子供の頃から舞台に上がっていました。しかし、ある日母親が突然舞台上で声が出なくなったため、急遽彼が歌を歌うことになり、それをきっかけに彼は舞台芸人として活躍するようになりました。彼の歌って踊れるお笑い芸の原点は、イギリスのミュージック・ホールにあったのです。もちろん、彼が本当に世界的大スターになったのは、彼がアメリカでスカウトされて映画界入りして以降のことであり、ハリウッド映画の世界で監督、主役を勤めるようになってからのことですが、そのお笑いのセンスとアドリブで生み出される歌と踊りの面白さはミュージック・ホールの舞台で鍛えられ、育まれたものだったのです。

<ミンストレル・ショー>
 そんな大衆芸能のメッカであるミュージック・ホールで大いに受けた出し物の中にアメリカからやって来たミンストレル・ショーがありました。白人の歌い手が顔を黒く塗って黒人のマネをして歌い踊るこのショーは、ロンドンで大ヒット。その後、1873年にアメリカから黒人学生たちのニグロ・スピリチュユアル・グループ、ジュビリー・シンガースがやって来ると彼らもまたたいへんな人気を獲得しました。イングランドの上流階級の人々は、アメリカにおける黒人たちの悲劇的運命に同情すると同時に自分たちがこうした芸能を理解するセンスを持っていることに対し自己満足を得ていたとも言えそうです。良くも悪くも、こうした海外文化に対するイングランドの姿勢は、海外進出先進国だったイングランドにとって一つの文化となります。
 20世紀に入りアメリカから多くのジャズ・ミュージシャンやブルース・ミュージシャンがイギリスに渡り、そこで彼らが本国では考えられない歓迎を受けたことも有名な話です。(デクスター・ゴードンだけではなくジミ・ヘンもテレンス・トレント・ダービーもそう)それに、後にビートルズを初めとする若者たちがアメリカのブルースにのめり込んだり、ソウルにのめり込んだりするようになるのも、そうした彼らの歴史的伝統があったからこそだと思います。

<トラッド復興の時>
 ミュージック・ホールを中心とするイングランドの大衆音楽シーンは、第二次世界大戦でドイツとの戦いが始まるといっきに国威発揚、反ファシスト路線を突っ走るようになりました。
 ある意味国策とも言える当時の流行から新しい音楽が生まれるわけはなかったのですが、それでも左翼よりの音楽活動に対する締め付けは緩やかになったことから、戦後再びバラッドなど過去の音楽を掘り起こす活動が活発化しました。こうした、イギリス版フォーク・リバイバルの中心となった人物のひとりがアルバート・ランカスター・ロイドという人物です。
 彼は左翼系の組織である労働者音楽教会(the Workers Music Association WMA)のメンバーであると同時に、イギリス国営放送(BBC)の台本作家としても活躍。さらにはイングランドでかつて歌われていた大衆の歌を掘り起こす本や番組を企画制作。その中で同じように労働運動に関わり、歌によるプロテスト活動をしていたシンガー、イワン・マッコールと出会いました。彼の歌に感動したロイドは、1952年、自らがフィールド・レコーディングにより集めた曲のアルバム録音の歌い手にイワンを抜擢します。
 こうして、イワン・マッコールの活躍が始まりますが、彼は古い歌を掘り起こしただけでなく、ポーグスで有名な「ダーティー・オールド・タウン」などの名曲もつくり、バラッドとフォークの間の重要なつなぎの役目を果たしました。

<スキッフル・ブーム>
 1954年、イングランドの音楽業界で大きなムーブメントが起きました。それは、グラスゴー生まれのギタリスト兼バンジョー奏者のロニー・ドネガンによって起こされたスキッフルの一大ブームです。
 スキッフルというのは、音楽のスタイルというよりはバンドのスタイルからきた名前でした。生ギター、手作りベース、ハーモニカ、ウォッシュボード、カズーなど、誰でも入手できる楽器からなるジャグバンドのスタイルでアメリカ産のフォークやブルースを演奏する音楽がスキッフルと呼ばれていたのです。(ちなみに、イングランドの手作りベースとは、紅茶の箱に棒を突き刺し、、それに弦を一本だけ張ったものが主流だったそうです。さすがはイングランド) 
 ロニーは、このスタイルのバンドでアメリカのブルース・アーティスト、レッドベリーの曲「ロック・アイランド・ライン」を録音したところ大ヒット。いっきにイギリス中でスキッフル・ブームが起きました。アメリカのブルースを模倣しただけに終わったこの「スキッフル」はオリジナリティーに欠けていたこともあり、そのブームは一過性のものに終わりました。ひとつは若者たちの多くがこのブームをきっかけにギターを手に入れたこと。そして、彼らの多くがアメリカの黒人音楽に対するあこがれの気持ちをもったこと。
 そんな下地ができた頃、アメリカから今度はチャック・ベリーやリトル・リチャードのロックン・ロールのヒット曲の数々が届けられ、それと平行して本物のミュージシャンたちがイギリスを訪れるようになります。ビッグ・ビル・ブルーンジー、サニー・テリー&ブラウニー・マギーは、本物のブルースを初めてイギリスに届け、多くのミュージシャンに影響を与えました。さらに、ボブ・ディランもまたこの頃イギリスを訪れ、フォークの新しいスタイルを見せて行きました。

<スキッフル・ブームから生まれた次世代>
 こうして、あこがれのアーティストたちの影響を受けながら育った若者たちの中から、いよいよイギリス発の新しい音楽が生まれることになるのです。リバプールという港町で育ち、メンバーのうち3人がアイルランド移民の血を引く4人の若者。彼らもまたスキッフル・ブームでバンド演奏の魅力に気づき、チャック・ベリーマディー・ウォーターズにあこがれ、ボブ・ディランの詩に感銘を受けて独自の曲作りを行うようになって行きました。
そう、ビートルズの登場です。
 たとえ好奇心と同情心から始まった黒人音楽への興味でも、それがいつしか文化へと成長した時、イギリスはやっと独自の文化発信をすることが可能になりました。皮肉なことに、そうした文化が生まれた頃、イギリスはかつての栄光とはほど遠い、悲惨な経済状況になっていました。しかし、その屈辱的な不況が続く中、その後もパンクやニューウェーブなど、世界的な音楽ムーブメントがイギリスから発信されているのは偶然ではないのかもしれません。
 ポピュラー音楽の発展条件は、いつの世も経済的な繁栄とは相反する場合が多いのかもしれません。

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