
- 遠藤賢司 Endo Kenji -
<史上最長寿のロックン・ローラー>
エンケンこと遠藤賢司は、自称「史上最長寿のロックン・ローラー」であるだけでなく、猫踊りの得意な「荒野の狼」であり、四畳半の部屋でカレー・ライスを食べながら宇宙旅行を夢みる永遠の夢想者でもあります。
なんのこっちゃ?と思われるかもしれません。ぶっちゃけたところ、エンケンは日本のニール・ヤングと言った方がわかりやすいかもしれません。今時の若者たちが束になってかかっても、彼のギターが発する爆音には勝てないでしょう。彼はまるで年とともに若返り続けているかのように、どんどんパワフルにノイジーに、そしてアナーキーになっています。
<フォークのエンケン>2014年9月追記
エンケンは、1947年茨城県に生まれました。受験のために上京した彼はある日ラジオから流れてきたボブ・ディランの「ライク・ア・ローリングストーン」に衝撃を受けます。これが彼が歌を歌い出すきっかけとなりました。明治学院に入学すると彼は独学でギターの練習に挑みます。当時、日本ではグループ・サウンズ・ブームが、フォーク・ブームへと移り変わろうとしており、彼はギター片手に1966年、東北学院大学の学園祭のステージでドノヴァンの「カラーズ」を歌い音楽活動をスタートさせました。翌年からはオリジナル曲を作り始め、ギターを叩きつけるように弾き、ロックのようにシャウトする独特のスタイルを身に着けて行きます。
1968年、彼は高石音楽事務所に所属し、プロとしての活動を開始します。
レコード・デビューは、1969年のシングル「ほんとだよ」。翌70年には、同じ事務所のメンバーからなるヴァレンタイン・ブルー(細野晴臣、松本隆、鈴木茂)を従えて、いち早くフォーク・ロックの世界に挑み、アルバム「Niyango」を発表。ギター一本のフォーク・シンガーとブリティッシュ・ブルース・ロック、ハード・ロックが中心のバンドが大勢を占める中、独特の個性をもつアーティストとして、その存在を知られるようになって行きました。
「録音終了後社内の会議で、制作と宣伝と営業の人間が集まって試聴するんですけど、フォークとかロックとか流儀じゃなくて、自分の歌を歌った人の作品が初めて社内の檀上に登ったような感じで、好感をもちながらもみんなびっくりしていました。」
金子章平(プロデューサー)
<アングラ・レコード・クラブ>
彼のような特異な個性をもつアーティストを生んだのは、やはり1960年代という特殊な時代だったからかもしれませんが、もうひとつ彼の所属していたレーベルURC(アングラ・レコード・クラブ)の存在もあげておく必要があるでしょう。
元はと言えば、このレーベルはその歌詞がレコード倫理審査委員会のチェックに引っかかり発売中止になってしまったプロテスト・フォークの騎手、岡林信康が所属していた事務所が立ち上げたものでした。アーティストたちが自由に作品を発表できるよう会員制のレコード販売組織を作ることが当初の目的だったのです。これがその後、レコード店と直接販売契約を結ぶことによって、大手レコード会社の影響や政治的な圧力を受けずにレコードを発表できる現在のインディーズの原点へと発展したわけです。
URC所属のアーティストには、他に五つの赤い風船、高田渡、はっぴいえんど、友部正人、加川良などがおり、それぞれが影響を与えあいながら、独自のスタイルを生み出していました。(岡林が、はっぴいえんどをバックに従えて、フォークロックの傑作アルバム「見るまえに跳べ」(1969年)を発表し、エンケンもまた同じように彼らをバックにアルバムを製作したのも、このつながりがあったからです)
<四畳半フォークから異次元空間フォークへ>
当時のフォーク・ソングは、「四畳半フォーク」という呼び名があったように、身の回りの限られた空間、社会、人間関係への思いを歌に込めた私小説的な色合いが濃い音楽でした。彼の当時最大のヒット曲「カレーライス」は、まさにその典型としてヒットしたのかもしれません。(なにせ日本最大の大衆料理「カレーライス」を囲む幸福な食卓を描いた曲なのですから・・・)
しかし、「カレーライス」だけがエンケンの世界ではありませんでした。「カレーライス」が収められたアルバム「満足できるかな」(1971年)の同名タイトル曲は、そんな幸福な小宇宙とは正反対のブラックな宇宙を描いていて、明らかに当時のフォーク歌手たちとは一線を画する存在感を示す作品だったのです。
「 あー君は待ってたっけ
大きな刃のついたノコギリもって
これ以上僕をきざもうっていう気かい
でもそれで満足できるかな
君はとっても嬉しそうに僕の首を切る
あ、ギーコラあ、ギーコラ・・・
でもあんまり音が大きいとほら
騒音防止法にふれるよ」
(詞、曲とも遠藤賢司)
<フォークからロックへ>
さらにエンケンは進化を続けます。1974年発表のアルバム「Kenji」では当時のJ-ロック最高峰のバンド、サディスティック・ミカ・バンドをバックに迎え、よりロック色を強めて行きます。しかし、1975年から3年間、彼は沈黙を続けました。それは丁度ロック界がパンクの衝撃を受け、大きな転換期を迎えている時期にあたり、彼自身もこの時期大きな転換期を迎えようとしていました。
<ミクスチャー・ロックに突入>
1978年しばしの沈黙を破ってアルバム「東京ワッショイ」が発表されます。このアルバムは明らかにパンクの影響を受けて作られていました。しかし、単なるパンクのアルバムではなく、そこにはクラフトワークの影響のもとテクノが導入され、そこに日本独自の数少ないダンス・ミュージック「祭囃子」が組み合わせられていました。それは日本初のミクスチャー・ロック・アルバムだったのかもしれません。(YMOがテクノ・ポップの代表曲「テクノポリス」の大ヒットを放つのは、翌年のことです)
横尾忠則のポップなジャケット・デザインとともに、このアルバムは「東京シティー」のテーマ・ソングとしても、歴史に残るアルバムとなりました。
<宇宙空間ロックからエンケン・バンドへ>
その後1980年には彼の宇宙指向が生んだアルバム「宇宙防衛軍」を発表。1983年にはミニ・アルバム「オムライス」を発表しますが、その後アルバムをぱったりと発表しなくなります。
と言っても、アルバムの発表はないものの、彼はエンケン・バンドを結成し、ド派手なライブ活動を展開し始めました。メンバーは、ギター、ヴォーカル、ハモニカのエンケンに、ベースの湯川トーベン、ドラムスの石塚俊明の3人です。(石塚俊明と言えば、かつて60〜70年代に最も過激なアジテーション・バンドとしてその名を知られた頭脳警察のドラマーです)
この頃から彼はライブで、まるで1990年代のニール・ヤングのような爆音ギターを轟かせるようになっていました。アルバム「不滅の男」は、そんな彼の強力なライブを収めた作品でした。
<追記>
浦沢直樹の「20世紀少年」の主人公の名前、遠藤ケンヂは、遠藤賢司からとられているとのこと。さすがはロック・フリークの浦沢さんです!
<休火山ついに爆発>
1996年、休火山エンケンは10数年ぶりに大噴火しました。この久々のオリジナル・アルバム「夢よ叫べ」は、彼が今まで挑んできた数々のタイプのサウンドの集大成と言えるような内容になっていました。
「俺は勝つ」では、シンプルで力強いフォーク・ロックを。
「裸の大宇宙」では、パワフルな爆裂ロックン・ロールを。
「ボイジャー君」では、優しくロマンチックな宇宙空間を漂う広大なスケールのフォークを
「頑張れ日本(日本サッカーの応援歌)」では、ブラス・バンドによる元気なサッカー応援歌を
「嘘の数だけ命を燃やせ」では、力強いロックで不滅の男の意地を見せてくれ、そして最後の「夢よ叫べ」では優しく聞くものを勇気づけてくれました。
すべての人を元気づけてくれる素晴らしいアルバムです。ああ、「不滅の男」よ永遠なれ!
さあ、俺もがんばるぞ!
<四畳半から見た宇宙>
僕はかつて大学生だった頃、東京中野の四畳半の部屋に下宿していたことがあります。今から思えば、本当に狭い空間でしたが、そんな小さな部屋からも窓さえ開けると、そこには巨大な東京の街が見えたし、本を開けば未知の世界が広がっていました。(当時、僕は物理を勉強していて、SF小説が大好きでした!)もちろん、ラジカセのおかげで好きなだけ音楽を聴くこともできたのですから・・・それは僕にとって充分幸福な空間だったように思います。あとは一歩外に飛び出せば良かったのです。
<追悼>
2017年10月25日70歳でまだまだ叫べる年齢でしたが、胃がんのために死去なさいました。
ご冥福をお祈りいたします。
<締めのお言葉>
「宇宙のことを理解しようとする努力は、人間の生活をドタバタ喜劇の水準から少しばかり引き上げるきわめて少ない事柄のひとつであり、同時にそれにいくらかの悲壮美を与えるものである」
スティーブン・ワインバーグ
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