- アーネスト・ヘミングウェイ Ernest Hemingway -

<ラスト・アメリカン・ヒーロー>
 20世紀に活躍したアメリカ人作家の中で、最もアメリカ的かつアメリカ人に愛された人物といえば、やはりヘミングウェイなのではないでしょうか。釣りと狩り、ボクシングに闘牛を楽しむアメリカ的でマッチョなライフ・スタイル。海外の戦場にも取材に出かけてゆくお節介なまでのヒロイズム。結婚と離婚を繰り返すソープ・オペラ的な私生活。どれをとっても実にアメリカ的な生き方です。だからこそ、彼は「アメリカの世紀」だったといえる20世紀を代表する作家となりえたのかもしれません。
 そのせいか、彼のライフスタイルはアメリカの文化に憧れる人々にとって今もなお理想とされています。だからこそ彼は「パパ・ヘミングウェイ」という愛称とともに永遠のアメリカン・ヒーローであり続けているのでしょう。しかし、そんな憧れの存在である彼の人生は本当に幸福だったのでしょうか?彼はかつて「 ロスト・ジェネレーション(失われた世代)」を代表する作家のひとりと呼ばれていました。同じ「ロスト・ジェネレーション」を代表する作家、スコット・フィッツジェラルドは、1920年代の好景気の終わりとともに、小説家としての活躍時期を終えてしまったことで有名です。それに対し、ヘミングウェイは1960年代まで活躍を続けます。(もちろん、彼の方が若かったせいもあるのですが、・・・)しかし、彼もまたフィッツジェラルドと同じように心の中はあらかじめ失われていたのかもしれません。その結果が、彼の悲劇的な最後に現れているように思えてなりません。

<愛に飢えた少年>
 アーネスト・ミラー・ヘミングウェイは、1899年7月21日アメリカ西部シカゴ近郊のイリノイ州オークパークで生まれました。多くの優れた作家やアーティストに共通するのですが、彼もまた母親の愛情に恵まれず複雑な少年時代を過ごしました。なぜか彼の母親は男の子をほしがらず、彼は4歳頃までいつも女の子のような格好をさせられていたといいます。そのうえ、厳格なクリスチャンだった彼女は、後にヘミングウェイが自由奔放な生活を始めると、彼の生き方を認められず、ついには彼と絶交状態となります。その関係は最後まで修復されず、彼は母親が死んだ時も彼女の葬式に出席しませんでした。それでも彼は父親とは仲がよく、釣り好きの父のおかげで、後に彼のライフ・スタイルの象徴となるアウトドアの基礎を身につけることができました。
 1913年、高校に入学した彼はいろいろなスポーツでその才能を発揮し始めます。フットボールなどの団体競技にはむかなかったものの、個人種目の水泳や陸上、ボクシングなどでは大活躍。そして、なかでも最も得意だったのが射撃でした。これもまた、後の彼の趣味のひとつとなり、さらには戦場へと向かうことを恐れない彼のその後の人生を暗示してもいました。
 彼はまた小学生の頃にラドヤード・キプリングの「ジャングル・ブック」を読んで以来、ジャック・ロンドンやマーク・トウェイン、オー・ヘンリーなどの小説も大好きでした。その影響で、自分でも文章を書くようになり、高校時代には校内新聞に記事を書いたり、校内の文芸誌で短編小説を発表したりするようになっていました。

<新聞記者としてのスタート>
 高校卒業後、彼はカンザスシティー・スターという地方新聞社に見習い記者として雇われました。そこで記事を書くことに追われながら習得した「簡潔な文章」、それこそが後に彼によって完成されたといわれるハードボイルド・スタイルの文章のもとになったものでした。さらに彼はその仕事をしながら重要なことを学びました。それは事件が起きた現場で自分の目と耳で事実を確認してこそ、本物の記事もしくは文章が書けるのだという確信です。彼が後に発表する小説のほとんどが彼の実体験に基ずいているのは、こうした彼がつかんだライフ・スタイルの延長といえます。
 1918年、彼に願ってもない実体験のチャンスがめぐってきます。彼は赤十字の輸送部隊に志願兵として参加。もともと第一次世界大戦に向かうアメリカ軍に入隊したかった彼は、ついに念願の戦場に行くチャンスを得たのでした。そこで彼は非戦闘員だったものの敵の攻撃によって負傷した兵士たちの救出に活躍。その時自らも負傷し、アメリカ人としては初めてヨーロッパ戦線における負傷兵としてミラノの病院に入院することになりました。そしてこの時、彼は担当の看護婦アグネスとの熱烈な恋に落ちました。結局アグネスは自分がヘミングウェイより7歳も年が上であったことから、彼からの結婚の申し込みを断り、恋に自分からピリオドを打ちました。そしてこの時彼の胸に深く焼きついた熱い思いが、後に小説「武器よさらば」となって世に出ることになるわけです。
 戦場から戻った彼は、1920年シカゴでの生活を始め、そこで最初の妻となる女性ハドリー・リチャードソンと出会います。しかし、シカゴ在住の作家シャーウッド・アンダーソンの助言もあり、彼は本格的に作家を目指すため、あえてパリへと旅立つ決意をします。それは当時、パリこそ世界中の芸術家たちが集まり、その才能を発揮する最高の舞台だったからです。こうして、1921年12月、彼は新妻となったハドリーとともにパリへと旅立ったのでした。

<「巴里のアメリカ人」パリにて>
 当時のパリはヨーロッパにおける文化・芸術の中心であるというよりは、世界の文化・芸術の中心でした。そのうえ、禁酒法によってつまらなくなったアメリカのナイトライフに満足できない裕福なアメリカ人の理想郷となっていました。ヘミングウェイは、そんなパリの街に着くとさっそく、「巴里のアメリカ人」の代表格的な存在となっていた作家ガートルード・スタインや詩人のエズラ・パウンド、それにパリを訪問中だったスコット・フィッツジェラルドらと親しく付き合うようになります。なかでもスコット・フィッツジェラルドは彼の作品を高く評価してくれ、自分の本を出版しているスクリブナーズ&サン社の編集者に彼を紹介し、その後アメリカで出版するためのお膳立てをしてくれました。そんな時、彼の人好きあいの良い性格は大いに役立ったのですが、そうやって築かれた人間関係は後に彼自身の手によって壊されることになります。
「失われた世代 Lost Generation」
 ヘミングウェイらの世代の芸術家につけられた名前のことで、パリに住み着いていた文学者ガートルード・スタインが、ヘミングウェイとその飲み仲間の友人たちについてについての言葉から生まれたと言われています。
「戦争で役目を果たしたあなたたち若者全員。あなたたちは失われた世代だわ」
 スコット・フィッツジェラルドは、1920年の「楽園のこちら側」の中にこう書いています。
「成長してみたら、すべての神は死に絶え、すべての戦争はもう戦われてしまい、人間に対するすべての信頼がぐらついているのを目の当たりにした、新しい世代がそこにあった」

<「日はまた昇る」キーウェストにて>
 1923年、彼はスペインの田舎町パンプローナを訪れ、有名な「サン・フェルミン祭」を見学。その後、闘牛を生で見た彼は、その魅力に強くひきつけられ、毎年のように闘牛見物にスペイン、メキシコを訪問するようになります。こうして、彼が目にした闘牛という異色のスポーツは、文章化されて海外に広く紹介されるようになります。世界中でスペインとメキシコぐらいでしか行われていない闘牛というマイナーな競技が世界中の人に知られるようになったのは、彼が書いた魅力的な文章によるものだったようです。
 この年、彼は「三つの短編と十の詩」という作品集で作家としてデビューを果たしますが、ほとんど話題になることはありませんでした。彼が注目されるようになるのは、翌年に発売された短編集「われらの時代」からで、その後1926年に発売された長編小説「日はまた昇る The Sun also rises」によって彼の名はロスト・ジェネレーション(失われた世代)の代表作家として世界中に知れ渡ることになります。虚無的で享楽的な現代の若者像をストレートに描いたこの作品もまた、パリでの彼の生活とまわりのアメリカ人たちをモデルにして描かれていました。そうした若者たちの生き方をストレートに描いたこの作品は、当時歴史上初めて生まれようとしていた「若者たちの文化」を世に知らしめ、その影響は世界各地の若者たちへと広まってゆくことになりました。それは「フラッパー」と呼ばれるお金と暇のある都市部の新しい若者層が求めている世界観を描いたものでもあったのです。(同じように新しい若者たちの姿を描いていたのがスコット・フィッツジェラルドでした)
 彼自身もまたその私生活は自由奔放で、既婚者でありながら雑誌記者のポーリン・ファイファーと付き合い始めると妻とともに旅行に連れ歩いていたといいます。そんな生活に嫌気が差した妻とは「日はまた昇る」の印税をすべて譲ることで円満に離婚。二度目の妻となったポーリンと彼は、パリからフロリダ州のキーウェストへと住みかを移し、まったく新しい生活を始めました。
 1929年、彼の2作目の長編小説「武器よさらば」がスクリブナーズ・マガジンに連載され、その後単行本として発売され大ベストセラーとなりました。この作品によって彼はいよいよベストセラー作家の仲間入りを果たしました。こうして、再び金銭的な余裕のできた彼はマグロやカジキの釣りに最適なフロリダを中心にスペインの闘牛、アフリカでのライオン狩りなどに熱中する日々を繰り広げるようになります。そして、そんな中から「午後の死」(闘牛もの)や「キリマンジャロの雪」(アフリカもの)などの作品が生まれました。「パパ・ヘミングウェイ」のイメージはこうして生み出されてゆくことになります。(加藤和彦のアルバム「パパ・ヘミングウェイ」はそんな彼のゴージャスな冒険の日々をイメージし音楽にしたものです)

<「誰がために鐘は鳴る」スペインにて>
 1936年、スペイン戦争が勃発。右派のフランコ将軍に批判的だったヘミングウェイは北米新聞連盟の特派員としてスペインに入り、共和国軍を積極的に支持する記事を書きます。結局、共和国軍はドイツとイタリアという二大ファシスト国家の応援を得た反乱軍に敗れてしまいますが、彼はこの時の体験をもとにして長編小説「誰がために鐘は鳴る For Whom the bell tolls」を書き上げます。タイムリーだった題材とラブ・ストーリーの融合は再び世界中で大ヒットととなります。
 しかし、その間彼は2人目の妻と離婚しています。次なるお相手は作家として活動していたマーサ・ゲルホーン。離婚成立後、二人はすぐに結婚。なんだか彼の場合、新しい体験と新しい小説、そして新しい恋に新しい妻がセットになっているかのようです。彼にとって、そうした刺激的な日常はなくてはならないものものだったようですが、それは精神的な彼の病だったとする説もあるようです。しかし、それこそが彼の創作におけるエネルギー源だったのも事実です。彼が後に体力の衰えとともに急激に創作意欲を失い精神のバランスをも失っていったのもそのせいだったのかもしれません。激動の1930年代はそんな彼にとって刺激に不足することのない時代でした。そして、アメリカに戻った彼にはすぐに次なる挑戦のチャンスが待っていました。

<第二次世界大戦と「老人と海」>
 ファシストと民主主義、そして社会主義のぶつかり合うスペイン内乱は、その後すぐに始まる第二次世界大戦の前哨戦でした。1939年、スペイン内乱が終わりフランコが独裁制を確立する頃、ついに第二次世界大戦が始まります。アメリカに戻っていたヘミングウェイは当初、その取材には消極的でした。なぜか地元カリブ海のキューバで、無意味な諜報活動を行うなど、戦場へは向かおうとしませんでした。しかし、彼の場合一度その気になると、やることは本格的でした。再び戦場に戻ることを決意した彼は、ノルマンディー上陸作戦こそ、彼の知名度があまりにも高かったため参加を断られましたが、その後はヨーロッパ戦線の連合軍に同行し戦場通信員として取材を行うだけでなく、時には戦闘にも参加し、フランス人のレジスタンス・グループとともに危険な情報収集任務に参加していたといいます。
 そして、この戦争が終わる頃、再び彼の結婚生活は終わりを迎えることになります。彼は前妻であるマーサと別れ、取材中のロンドンで出会った新聞記者メアリー・ウェルシュと4度目になる結婚を果たします。その後、しばらく彼は作品を発表しませんでしたが、1952年彼のキーウェストにおける生活が生み出した歴史的傑作「老人と海」が発表されます。この作品もまた彼の経験にもとずくもので、モデルとなった年老いた漁師は彼がかつて雇っていたフィッシング・ボートの船長でした。
 老人とカジキマグロの勝負という実に単純な内容でありながら、そこには人生のすべてを覗き見ることができ、人によっては老人はイエス・キリストを表わしているとさえ考えたといいます。それはまさに彼の目指す文学がたどり着いたひとつの頂点であり、ハード・ボイルド文学の原点とも言われる彼の簡潔で力強い文体の完成形がそこにありました。彼はこの作品でその年のピュリツァー賞を受賞。いよいよ作家としての頂点を迎えました。しかし、頂点への到達はそこからの転落をも象徴することになります。同じ年、彼にはそのきっかけとなる事件が襲いかかることになります。

<心を追い込んだ事故のダメージ>
 それは何度も行っているケニアでの狩りを終えたヘミングウェイ夫妻が現地から帰る途中に起きました。彼らが乗っていたセスナ機が電線に引っかかって不時着。その際大きな怪我はなかったのですが、捜索隊に救出された後、今度はその救出機が離陸に失敗し大破してしまったのです。この時、奥さんはたいした怪我はなかったのですが、ヘミングウェイ自身は頭蓋骨骨折、内臓損傷、脊椎損傷などにより、生死の境をさ迷うことになりました。幸い命は救われましたが、その後彼の怪我が全快することはなく、彼は死ぬまでその後遺症に悩まされることになります。
 1954年、彼はついに念願だったノーベル文学賞を受賞することになりましたが、彼は体調が回復しなかったため式典に出席しませんでした。頑健な肉体をひとつのイメージとして売り物にしていた彼にとって、自らの惨めな肉体を人前にさらすことは耐えられなかったのかもしれません。
 その後も、彼は体調不良に悩まされていたこともあり、新しい作品が書けなくなります。行動する作家である彼にとって、動けなくなること、年老いてゆくことは、作品が書けなくなることと同義であり、その意味では精神的な死にも等しいものでした。それでも彼は、パリのホテルで見つかった自分の古い原稿などを参考にして、パリ時代に彼が付き合っていた人々についての回想録「移動祝祭日」を執筆します。しかし、その中には当時の仲間たちについての批判的な記事が多く、結局自分自身でその作品を封印してしまいました。
 実は彼についての「明るく人懐こく多くの人に愛される性格」というイメージは、常に正しかったわけではありません。「老人と海」のアイデアを提供してくれた彼の釣りの師匠だった漁師を不漁を理由に罵倒し、首にしてしまったこともありました。彼の恩人であり友人でもあったスコット・フィッツジェラルドを実名で自著に登場させ、彼がお金に溺れることで才能を無駄にしたと批判したこともありました。この時、スコットは本質的には内容と関わりがないので、なんとか作品(「キリマンジャロの雪])から削除してくれと懇願したにもかかわらず、それを拒否しました。それ以外にも、彼は別れた妻以外にも多くの友人たちを裏切っていました。そんなことも負い目となり、しだいに彼は精神的に追い詰められ、ついにはうつ病と診断されて精神病院に入院することになります。しばらく後、退院しますが常にうつ病に悩まされ続け、ついに1961年7月2日、かつては多くの獣たちを殺した自らのライフルによって、頭を撃ちぬきこの世を去ってしまいました。

<悲しきアメリカン・ヒーロー>
 マッチョなヒーローとして未だに人気の高いヘミングウェイ。しかし、彼の狩りや戦争、それに恋にかけた情熱は、彼の異常なまでの攻撃的性格の表れでもありました。もしかすると、彼にはそうならざるをえない理由があったのかもしれません。そして、彼ほどアメリカという国のもつ性格と共通する作家はいないようにも思えます。人懐っこく誰とでも親しくなるかと思えば、お節介なほど他人に口出しし、敵と見ると徹底的に攻撃を仕掛ける。まるでアメリカという国の性格そのままのようにも思えます。
 実は彼の父親もまた糖尿病や投資の失敗による経済的な破綻を苦にして自殺しています。アメリカン・ドリームの典型とも思えるヘミングウェイの人生は、実はスコット・フィッツジェラルドの悲惨な人生のマッチョ版だったのかもしれません。ヘミングウェイは経済的な成功がスコット・フィッツジェラルドを駄目にしたと書きましたが、自分自身もまた自らの挑んだ危険な冒険の代償として心と身体に傷を負い、死へと導くことになってしまったのです。しかし、自らの望む夢のためにとことん人生をつぎ込んだからこそ、彼らが生み出した作品には時代を超えて人に感動を与える魅力があり、説得力もあるのです。心も身体もボロボロにしたからこそ生み出せる美学、これこそがヘミングウェイ文学最大の魅力なのです。

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