- ポピュラー音楽進化論 -

<新しいポップスの誕生>
 僕のサイトでは意識的にできるだけ多くの国、多くの地域の音楽を取りあげるようにしています。当然それらの音楽が誕生した歴史についても調べることになるので、どうやって世界各地のポピュラー音楽が生まれ、育ち、拡大し、消えて行くのかが、なんとなくわかってきます。
 このサイトを読んでいる方の多くは、音楽がもともと大好きな方ばかりだと思いますので、ポピュラー音楽がどうやって生まれようとどうでもよいことかもしれません。とはいえ、音楽が好きな人の中にはよりディープな世界を追求しようとする方も多いでしょう。そんな方に呼んでいただければと思います。
 先ずは重要な法則をひとつ。
「新しいポップスは異なる文化が衝突する限られた範囲の場所で生まれる」
 もしかすると、これこそポピュラー音楽において最も重要かつ唯一の法則かもしれません。もちろん、この法則はあらゆるジャンルの音楽に応用できます。例えば、レゲエ。

<レゲエの誕生>
 アフリカから奴隷船によって運ばれてきた黒人たちの国、ジャマイカ。ほとんどがアフリカ系黒人のこの国は、ラスタファリニズムという独自の宗教を生んだ他の島とはまったく異なる文化をもっています。(この島に住んでいた原住民は移民たちや奴隷たちの持ち込んだ病原菌などによって絶滅させられました)さらには他のカリブの国々のほとんどが元フランス領、元スペイン領だったのに対し、ジャマイカはイギリス領だったため、中南米では珍しい英語圏の国です。そのうえ、ジャマイカはアメリカの沖合近くに浮かぶ島のため、アメリカのラジオ局の電波が直接届きます。そのため、ジャマイカの人々はアメリカのポップスを時間差なしで聴いていました。ジャマイカでは独自のアフリカ系文化の伝統と最新のアメリカ文化が常に衝突していたのです。
 こうして、スカやロック・ステディーなど、R&Bのカリブ版的音楽を経て少しずつ変化したジャマイカン・ポップスはレゲエというまったく新しい音楽を生み出すことになったのです。さらに言うと、ジャマイカは島国であり、アメリカとの関係も薄かったため、限られた範囲の閉ざされた環境の中で薄められることなく独自の音楽が育つ条件がそろっていました。それは、生物の進化において、海で隔てられたオーストラリアにだけ有袋類という特殊な生物種が発展したように、閉鎖された環境は他の場所とは異なる独自の生命進化を可能にするという法則と共通しています。

<ニューオーリンズの街>
「新しいポップスは異なる文化が衝突する限られた範囲の場所で生まれる」
 この法則は、一つの国の中でも通用します。例えばアメリカ国内でいうと、ニューオーリンズの街の場合。
 ニューオーリンズの街は、かつてアメリカ南部で唯一フランスの領土だった土地です。イギリス人によって支配されていた他の土地では、奴隷たちが反乱を起こすために通信手段として利用することを恐れ、打楽器の使用は禁止されていました。(そのため、ギター一本で演奏できるブルースが黒人たちにとって唯一の音楽表現手段になったと言われています)しかし、フランス人は打楽器の使用を週末に限ってだけは許していました。(と言っても、コンゴ広場などの決められた場所でだけでしたが)そのため、ニューオーリンズの街にはアフリカ独特の複雑なリズム(ポリリズム)の伝統がしっかりと根付いたのでした。このリズム文化は、ラグタイムを生み、デキシーランド・ジャズを生み、ルイ・アームストロングを育て、ジャズの故郷と呼ばれる原因ともなりました。また一方では、ファッツ・ドミノ、プロフェッサー・ロングヘアードクター・ジョンネヴィル・ブラザースなど、ニューオーリンズ・ファンクと呼ばれる独特の複雑なグルーブをもつファンク・ミュージックをも生み出しました。(主リズムに対し、裏のリズムがからむという意味で、それはセカンド・ライン・ファンクとも呼ばれています)ニューオーリンズの街はアメリカ南部最大の港町だったことで、カリブの島々から多様な文化が流入していました。そして、元々フランス語圏だったために他の街とは異なる文化を保ち続け、そこにカリブの文化とアフリカ文化が混じり合うことで独自の文化圏が誕生したのです。(そんなゴッタ煮的音楽の典型が、プロフェッサー・ロングヘアーのファンク・ピアノです)

<日本における琉球音楽>
「新しいポップスは異なる文化が衝突する限られた範囲の場所で生まれる」
 この法則は、狭い島国日本でも応用することができます。例えば、沖縄を中心に発展し続ける琉球ポップスの場合。
 かつて琉球王国と呼ばれていた沖縄は、実際は島毎に異なる文化をもち、西の台湾、東の日本に支配されたり、影響を受けたりしながら、独自の文化を育ててきました。さらに太平洋戦争後は米軍の基地が沖縄各地に設置されたことでアメリカ文化の先進地ともなっていました。1972年までは、沖縄は日本ではなくアメリカの一部だったのですから、当然まったく異なる文化が育つことになりました。
 先ずは、ロック・ミュージックの先進地としての発展があげられます。紫、コンディション・グリーンなど、初期のJ―ロック史に燦然と輝くバンドたちは、この時代沖縄から登場しています。しかし、そうしたアメリカ文化の影響を受けながらも、逆に沖縄のルーツ・ミュージックを見直そうという流れが盛んになります。こうした流れのもと、琉球民謡の大御所、喜納昌永の息子、喜納昌吉や琉球漫談の人気者、照屋林助の息子、照屋林賢率いるりんけんバンドのような伝統を受け継ぎながらも新しい音楽を生み出そうとする動きが現れます。そんな中から、ネーネーズ大工哲弘、知名定男、登川誠仁などの大御所も活躍の場を獲得。琉球音楽は一気に全国区になって行きました。
 さらには、こうした音楽文化の優れた土壌を利用する形で、沖縄アクターズ・スクールというタレント養成学校が設立されます。そこからは、安室奈美恵、MAX、SPEED、知念里奈、DA PUMPなどが登場しました。(かつて、フィンガー5も沖縄から登場しています)
 その後勢いをつけた沖縄の音楽シーンは一気に多様化。Begin、夏川りみ、Kiroro、ディアマンテス、モンゴル800,オレンジ・レンジ、HYなど、あらゆる音楽ジャンルへと拡がりをみせています。もちろん、彼らのルーツに琉球の音楽が存在していることは、彼らの音楽を聴けば必ず気がつくはずです。「島唄」の文化はまだ確実に彼らの中に息づいているのですから。

<港町とポップス>
「新しいポップスは異なる文化が衝突する限られた範囲の場所で生まれる」
 この法則は、港町という異文化が衝突する場所に特によく当てはまります。例えば、大阪の街について見てみましょう。
 大阪と言えば、昔から東日本最大の港町として栄えてきた街です。そこでは常に国内外の文化の衝突や融合が繰り返されてきました。大阪の街には、朝鮮系の人々が住む街、琉球系の人々が住む街など、異なる文化圏が未だに存在しています。そして、それぞれの地域にはそれぞれの文化から生まれた音楽があるわけです。だからこそ、そこでは独自の濃い音楽が生まれています。代表的なものとしては、河内音頭があげられます。芸能の街大阪ならではの、歌による芸能、時事ニュースとも言えるエスニック・ダンス・ミュージックはまさに大阪の街にぴったりの音楽です。こうした音楽が根付いているのも、大阪という街が余所とは違う独自の文化圏を築き上げている証拠です。
 また、イギリスを代表する港町と言えばリバプールがあります。かつて大英帝国が繁栄していた時期には、その玄関口として、世界中から船が来ており、向かえに位置するアイルランドからもケルトの文化や人が流入していました。そんな環境が生み出し、育てたのがビートルズであり、リバプール・サウンドでした。
 こうやって見てみると、世界各地の代表的ポップスのほとんどが港町で生まれていることがわかります。ポルトガルのファドも港町が生んだ音楽。ブラジルのサンバ、ボサ・ノヴァもリオ・デ・ジャネイロやバイーアが故郷。サルサも、キューバのハバナやサンチャゴ・デ・クーバ、プエルトリコのサンファン、ニューヨークのヒスパニック地域など、港町で発展しました。アメリカの黒人音楽の中心地であるアメリカ内陸部の街デトロイトやシカゴ、アトランタ、メンフィスあたりは例外的な存在となるかもしれません。ただし、これらの街はアメリカ社会の急激な変化による人口の移動によって、黒人と白人、南部と北部の文化がぶつかる場所でした。
 最近では、港がもつ役割自体が空港に取って代わられつつあるため、一概に港町=ポップスの生まれる場所ではなくなりつつあります。さらにインターネットの発展により、異文化の衝突は地域と地域ではなく、個人と個人の間で行われるようになりつつあるのかもしれません。そこには、民族も、国境も、言語も関係なく、個人としての能力や才能が問われることになるのでしょう。
 できれば異文化の衝突は戦場を舞台に行われるのではなく、サッカー・スタジアムやライブ会場でだけで行われるよう願いたいものです。

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