「EUREKA ユリイカ」 2000年

- 青山真治 Shinji Aoyama -

<「ユリイカ」という映画>
 2000年のカンヌ映画祭国際批評家賞など、数々の映画賞を受賞した名作です。(そのわりに日本での知名度は低い気がしますが・・・)
「ユリイカ」=「我、発見せり!」
 この作品の中で、登場人物たちは何を発見したのか?そして、彼らの旅を見続けた観客は何を発見するのか?
この映画は、観客を主人公たちの旅の道ずれにすることで、映画への参加を求めます。
 ある人は、主人公の情けなさにイライラし、ドラマの展開の遅さに怒りすら覚えるかもしれません。ある人は、主人公が巻き込まれた悲劇的な人生に自分のそれを重ね合わせ、彼らの再生に救われる思いを感じるかもしれません。また、ある人は主人公たちの行動を自分に関わりのない別世界のドラマとして客観的に見るだけで終わるかもしれません。
 観客は、主人公の立場に立つのか、彼の父親や家族の立場に立つのか、妻の立場に立つのか、兄妹もしくは彼らの従兄弟の立場に立つのか、それともはるか上空から彼らを見守る神の視点に立つのか、その選択を迫られるともいえるでしょう。
 当然、この映画に対する感想は、それぞれがどんな立場で「旅」に参加したのかで、大きく異なることになります。もちろん、それぞれの観客はひとつの立場にだけに立っているわけではありません。その日の精神状況や環境の変化などによって、それは常に変化し続けるはずです。どんな人でも、ある瞬間には利重剛演じるバスジャック犯に限りなく感情移入できる可能性があり、その事件のトラウマによって自らも殺人犯になってしまうという、あまりに悲惨な精神的変化を理解できる瞬間もあるかもしれません。
 誰もが目に見えない壁を隔てて、人を殺すことを異常とは思わない精神状態と隣り合っていて、その壁は意外に薄い。そのことをこの映画で発見するかもしれません。映画の中で主人公が留置所で壁をたたいて隣の部屋と交信する場面がありました。あの場面は、そんな壁を隔てたところにいる殺人を犯していたかもしれないもう一人の自分との対話だったかもしれません。(ラスト近くバスの中で泣き続ける少女に対して、バスのボディーをたたいて語りかけるシーンもありました)
 バスジャックを行い乗客を次々に殺害した犯人は、映画の中で正体不明と新聞に書かれています。その犯人はどこにでもいる存在であり、もしかすると観客の周りにいる人物かもしれないということなのでしょう。

<理不尽な世の中を逃れて>
 この事件の中でかろうじて生き残ったバスの運転手と中学生の兄妹。三人はそんな凄惨な事件のトラウマによって死の恐怖に捉えられ、人を信じられなくなり家に閉じこもってしまいます。ここまでは、そう珍しくないお話かもしれません。しかし、この映画では、被害者であるはずの三人が家族や周りの人々によって支えられ立ち直ってゆくドラマではないのです。彼らは逆に好奇の対象となり人々の視線にさらされ、そのために兄妹は両親を失い、バスの運転手沢井もまた怪しげな人物として、同じ街で起きた連続殺人事件の容疑者として警察に疑われることになります。なんという理不尽な現実。しかし、実際にこのドラマの方がリアルに感じられるのが今の社会状況です。敗者は負け続け、不幸は不幸を呼ぶ、これが今の日本であり、だからこそ、沢井がすぐに人に頭を下げる癖がついているのは、そうした人生に慣れてしまったからなのかもしれません。
「ああ、こういう人いるよなあ」そう思える人は、この映画でバスから途中下車させられる若者(斉藤陽一郎)の視点に立っているのかもしれません。(たぶん、それは幸福なことでしょう)精神的に追い込まれていった主人公は、同じ体験をした兄妹とともに生活するようになり、彼らを連れて人生をリセットするための旅に出る決意を固めます。映画が始まって2時間たち、やっとこの映画のテーマともいえる「再生の旅」が始まることになります。こんなに本題に入るのに時間をかけた映画、今まで見たことがありません。

<青山真治監督>
 この映画の監督、青山真治は、1964年福岡県北九州市に生まれています。(この映画は彼のホーム・グラウンドを舞台に撮影されたわけです)1989年に立教大学の文学部英米文学科を卒業している彼は、大学の映画研究会に所属。映画評論の最高峰のひとり蓮見重彦から映画学を学んだ恵まれた環境で学んだ映画人です。日本の映画監督としては珍しい学究派の映画監督の一人で、大学の先輩としては同じように理論派の監督として本を出版している黒沢清監督がいます。大学卒業後、フリーの助監督となった彼はフランスの巨匠ダニエル・シュミットの助監督を勤めるなど、監督としてのエリート・コースを歩んだといえます。だからこそか、彼ほど映画の演出においてドラマチックな演出を抑える監督も珍しいかもしれません。
 彼の演出の仕方は初期の北野武作品や小津安二郎の作品を思わせます。台詞が少なく静かな映像が続く中、場面を盛り上げるための音楽は限りなく排除されています。これもまた北野映画との類似を感じさせます。そのぶん、時折聞こえてくる音楽には「癒し」と「救い」の効果を強く感じます。この映画の音楽には監督自身もクレジットされており、いかに監督がこの映画の音楽に深く関わっていたかがうかがわれます。
 シカゴ音響派と呼ばれる新世代のアメリカン・エレクトリック・ミュージックの重要人物、ジム・オルークの音楽はまさにそんな「心の癒し」にぴったりだと思います。
 日本が生んだ世界の巨匠小津安二郎は俳優たちに徹底した演技指導を与えることで有名でした。それぞれの俳優に座る位置や身体の傾け方、顔の向きまで細かく指示を与えたといいます。こうした徹底した指示もしくは拘束により、いつしか俳優たちの心の中にあった良い演技をしてやろうという気持ちが失われてゆき、あの小津映画独特の静な表情が生み出されたといいます。「ユリイカ」にも、こうした小津監督の作風が生きているのかもしれません。
「自分の映画は面白くない方がいい」
青山監督は自分でそう言い切っていたそうです。
 青山監督は、この映画のノベライズ本で三島由紀夫賞を受賞、2005年発表の小説「ホテル・クロニクルズ」では野間文芸新人賞を受賞するなど、作家としても活躍している文学者でもあります。それだけに、彼の作品を純文学的な芸術映画として嫌う人もいるようです。それも確かにありでしょう。「ドラマのない映画」、「面白くない映画」が嫌いな人は見ると腹が立つかもしれません。しかし、「ドラマのないドラマ」でも人を感動させられることを発見するかもしれません。人生においてドラマチックな瞬間などごくわずかしかないのですから、それをドラマにするのは自分の責任であるということも学べるかもしれません。
 映画によって、「新しい世界観」と出会うことを喜びと感じられる人なら、きっと楽しめるはずです。
 映画デビュー作は、「教科書にないッ!」(1995年)、「Helpless」(1996年)、「チンピラ」(1996年)、「冷たい血」(1997年)、「月の砂漠」(2002年)
「東京公園」(2011年)(音と映像の美しさだけで十分に癒されてしまう映画。マンションの部屋にさす光とレースのカーテンの揺れが、なぜか青春時代を思い出させてくれ妙に懐かしい気分になりました。これもまた「青山ワールド」のひとつでしょう)

<田村正毅の撮影>
 名カメラマン田村正毅による撮影は、色彩をそぎ落とした特殊なモノクロ風画面によって四季の変化や感情の変化による演出を極力排除しているように見えます。しかし、その分この映画の画面には絵画的な構図の美しさが満ちています。これもまた俳優たちのクールな演技に合わせた演出なのでしょう。
 田村正毅は、1968年ドキュメンタリー映画界の巨匠小川紳介監督が成田闘争を撮った三里塚を舞台とするドキュメンタリー映画にカメラマンとして参加。その後も小川監督のもとで撮影を担当。その後は他の監督のもとで劇映画の撮影をまかされるようになり、日本を代表する監督たちの多くの作品に参加しています。その代表作を並べただけでも彼がいかに高く評価されているかがわかります。
 「竜馬暗殺」(1974年黒木和男監督)、「ニッポン国古屋敷村」(1982年小川紳介監督)、「さらば愛しき大地」(1982年柳町光男監督)、「タンポポ」(1985年伊丹十三監督)、「ウンタマギルー」(1989年高嶺剛監督)、「萌の朱雀」(1997年河瀬直美監督)、「美しい夏キリシマ」(2000年黒木和男監督)、そして青山監督の作品のほとんど。
 この作品のラスト近く、予想どうり大自然の美しい色彩が現れ、音楽と同様に観客に「癒し」の気分をもたらしてくれます。(ただし、どちらのカラーが美しいのかは、意見が分かれるところでしょう)さらにこの後、カメラは空へと高く舞い上がって行きます。地上に固定され、しばられていた観客の視点は、色彩を得ただけでなく、ここにきて重力からも開放され、空から下界を見下ろす自由をも与えられるわけです。3時間半にわたり束縛され続けてきた観客の目と耳、そして心は最後の最後に解放され、生きてさえいればいつか味わうことのできるであろう自由の感覚を味わうことができるのです。

<俳優たち>
 この映画、配役も絶妙でした。主役の役所広司の情けなさは、「タンポポ」のダンディズムより彼にははまり役です。宮崎あおいちゃんのポキッと折れそうなはかなさは、最近の明るいイメージからは考えられません。この演技があったからこそ現在の人気があるのでしょう。久々に映画で見た国生さゆりも素敵でした。(うちの奥さんが時々、この人に似ているといわれるので昔から肩入れしています)
 普通の大学生として、4人の中で唯一、観客の立場に近い存在の役どころを演じている斉藤陽一郎がまた実に普通で良かった!彼の存在がリアリティーを保ち続けたおかげで、この映画は「大人のおとぎ話」にならずにすんだともいえます。
 もうひとり普通の人間を代表する存在の主人公の友人を演じた光石研は、「普通だけどどこか怪しい」人間としてさすがの演技でした。
 そして、なんといってもバスジャック犯であり無差別殺人犯を演じた利重剛。某住宅会社のCMで演じているサラリーマンの良いお父さんも、もしかするとこうなってしまうのでしょうか?美味しい役どころでした。

<追記>(2013年8月)(田中英司「現代・日本・映画」より)
「生きろとはいわん。死なんでくれ」(この映画のキャッチコピー)
 つまり、この映画は「死語」という言葉に代表されるように、時代が殺してしまうものたちに対するインスパイアを主題の奥に隠し、消滅しかかっているものたちの最後の抵抗を描き続けている映画、つまりは癌を宣告された人に与える最後のワクチンという意味合いの映画だったというわけだ。

 しかし、映画が突然(揺れまくった)空撮になり、映画の終わりを告げるタイトルが赤文字で表示されると、これが不思議な解放感に満たされて、ああ、よかったよかったという気持ちでいっぱいになってしまうのである。・・・「映画」はそれが一時的であったとしても救われた。私もとりあえず救われたばかりか、よっと青山映画の凄みというのをにわかに体験した悦びが全身で感じられ、この安堵感がさらなる青山映画の飛躍と、観客である私の次なる跳躍となるかもしれないという「発見」が、「ユリイカ」なのではないかと、しびれた頭で考えたりもしたのである。(注)「ユリイカ」とは「われ発見せり!」の意味


「EUREKA ユリイカ」 2000年
(監)(脚)(編)(音)青山真治
(製)塩原徹、長瀬文男、仙頭武則、滝島優行
(プロデュース)仙頭武則
(音)山田勲生
(出)役所広司(沢井)、宮崎あおい、宮崎将、斉藤陽一郎、光石研、松重豊、国生さゆり、真行寺君枝、でんでん、利重剛

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