
- チャールズ・ダーウィン、リチャード・ドーキンス、スティーブン・J・グールド
ほか -
<進化論>
「進化論」とは何でしょうか?実は、「進化学」という学問はなく、それは「生物学」の一ジャンルでもなく「遺伝子工学」の一ジャンルでもありません。あえて言うなら、「進化についての仮説集」といった感じでしょうか。もちろん、その中には、あの有名な「種の起源」の作者ダーウィンの進化論も含まれていますが、それは数ある説の中で最も有名なものではあっても、けっして定説と言い切れるものではありません。20世紀中に科学は、それぞれのジャンルで大きな発展をとげ、それなりに結論らしきものを作り上げてきました。(「量子力学」、「相対性理論」、「遺伝子工学、「分子生物学」・・・etc.)
そんな中、多くの人がもう解決してしまったかのように思っていながら、実はほとんど何もわかっていないに等しいジャンル、それが「進化」についての研究です。
例えば、「進化」の仕組みや原因がわからないということは、「進化の仕組み」がどの範囲にまで適用できるのか?それもわからないということです。「進化」とは生物単体やその遺伝子にだけ適用できるのか?それとも、その生物が属する生物種全体か?もしくは、その生物種がもつ個性だけでなく「文化」にまで適用できるのか?未だにわからないのです。
さらに「進化論」は「生物学」のジャンルだけでなくそれ以外のジャンルにも適用できる可能性があります。「社会学」、「哲学」、「経済学」など、多くのジャンルの学者たちが「進化論」を取り入れています。誰もがそれぞれの「進化論」を語ることができるのもまた「進化論」の特徴です。とはいえ、それでは「進化論」について語りきれなくなるので、ここでは「生物学」それも「生物の肉体的構造」に関する「進化」について絞ろうと思います。
生命の誕生した当初、地球上には最も単純な生命である単細胞生物しか存在しませんでした。そして、それが多細胞生物となり、さらに雄と雌に分かれて生殖を行うことで子孫を残すようになります。こうして、生命はより複雑な身体や高度な知能をもつ新しい種を生み出し続けました。「進化論」は、なぜ単純な生命が人間を含む、より複雑な構造をもつ生物にまで変化したのか?その原因と過程を探ぐろうとする学問といっていいでしょう。
1859年にダーウィンが「種の起源」を発表して以降、「進化」について数多くの学説が発表されました。それらはダーウィンの進化論に修正を加えるものだったり、否定するものだったり様々でした。ところが、「進化」についての謎は未だほとんど解明されていません。それは「進化」の過程があまりに長いスパンで起きる現象なため擬似的にしか観察できず、直接それを確認することが不可能だというのが最大の原因です。
では、「進化」について、現在どこまで分かっているのでしょうか?そして、未だ未解明の部分とは何なのでしょうか?
<ダーウィンの「進化論」>
先ずは、「進化論」の基礎ともいえるダーウィンの「進化論」とは何かから初めてみましょう。
ダーウィンが「種の起源」のアイデアを得ることになる歴史的な旅、ビーグル号の船上で彼はイギリスの地質学者サー・チャールズ・ライエルが書いた「地質学原理」を熟読していたといいます。そこに書かれていたのは、地形というのは常に少しずつ変化しており、その結果が今の地球の地形を生み出したということです。このことは、当時やっと常識として受け入れられるようになったことでした。今では、笑い話になりそうですが、それまで地球はある日突然、今のような地形の姿をもって生み出され、動物や人間たちもそこに同時に誕生したと考えられていました。「地質学原理」はそうした考えを否定したわけです。それはある意味「聖書」に書かれた地球創生の歴史である「創世記」の記述に対する挑戦でもあっただけに、当時大きな話題となりました。しかし、この本を読んだダーウィンはそこに書かれていることは生物の歴史にもあてはまるのではないか?そう考えました。そして、その考えをもとに彼は島々での調査を行いながら「進化論」を書き上げるに至ります。したがって、ダーウィンは島々に生きる動物たちの違いの原因は何かと考えた時に地形と同じように生物もまた変化し続けるなら当然島の環境に合わせて変って行くに違いない!そう考えたのです。こうして生まれたダーウィンの進化論を要約するとこうなります。
「ある種の生物が、ある環境の下でその影響を受けると、個体間の違いにより、生き残るのに優劣の差が生じる。(自然淘汰)そして、その違いがその子孫たちに受け継がれることで、少しずつその生物は変化(進化)してゆく」
ただし、彼のこの主張は彼自らが調査した離れた島々に住む生物の違いと前述の「地質学原理」のような他の学問からの類推ともいえるものであり、科学的な裏づけは、ほとんどありませんでした。
当時、ヨーロッパではイギリスの産業革命やアメリカの独立などの急激な社会変革により、人類の文明はより良く変化しつつあるという思想が広がっていました。ダーウィンの進化論はそうした社会思想を生物学の分野に拡張したものというよりも、そうした社会思想のひとつだったと考えるべきようです。だからこそ、彼の理論はキリスト教会からの批判によって社会から抹殺されることなく生き残ることができたのかもしれません。ただし、地域によっては、その後も長く進化論は正当な理論として認められませんでした。ダーウィンの進化論を学校で教えたとして、教師が有罪にされたスコープス裁判は1925年にアメリカで起きた事件ですし、未だにアメリカでは聖書に書かれているとうりに人類は誕生したと教えている学校があるのです・・・!かつて、生物学者のP・H・ゴッズは真面目にこう言っていました。
「アダムにヘソを持たせたのは、有機体循環という見せかけ、つまり、我々に『地球には長い歴史があるぞ』と思わせるための、神のトリックであった」
(なるほど、そうきたか!という感じです)
<「メンデルの法則」再発見>
それから50年近くダーウィンの進化論は、その真偽とは別に「すべての物は変化し続け、環境に適応しながら、より良い方向へと変化してゆく」というある意味哲学的な概念として世界中に広まることになります。しかし、20世紀に入り、ダーウィニズムは遺伝学という科学の一ジャンルの中で本格的に論じられることになります。そのきっかけは、20世紀初め1900年に有名な「メンデルの法則」が再発見されたことでした。(「最発見」というのは、この法則はすでに34年も前に発表されていたにも関わらず、まったく科学界から注目を浴びることがないまま忘れられていたからです)この法則により、生物にはそれぞれのもつ特徴(色や形など)を子孫に伝えるなんらかの因子があることが明らかになりました。(後にこの因子は「遺伝子」と名づけられることになります)
こうして、科学理論として「遺伝」について研究することが可能になったことで「進化」の謎もまた少しずつ明らかになり始めます。さらに「メンデルの法則」が明らかにしたものの中に「突然変異」が世代交代の中で必然的に現れるということがあります。これによって、生物進化は自然淘汰によって少しずつ変化するだけでなく、突然変異によって急激に変化することもありうるという新しい要因が明らかになりました。
<「ハーディ=ワインベルクの法則」>
1908年にイギリスの数学者ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディとドイツの医師ウィルヘルム・ワインベルクが変異遺伝子がどれだけ定着(生存し遺伝することで子孫に伝えられるか)可能かを、それぞれ独立して計算、数式化。それが「ハーディ=ワインベルクの法則」として発表されます。
その後、進化についての研究が進む中で「進化」を可能にする4つの要素が明らかになってきました。
(1)交配が何らかの要因によってランダムに行われず、偏った遺伝子型の子供が生まれる。
(2)交配を行う生物集団があまりに小さいため環境の影響、突然変異の誕生などが起きやすくなる。
(3)強い自然淘汰(急激な環境変化など)が働くことで、生き残る生物が限られてくる。
(4)生物集団中に突然変異種が現れる。
上記の要素が重なり合うことで生物の急激に変化を遂げる可能性が高まるということです。
こうして、1920年代以降、こうした要因が統合的に生物を進化させるという「統合説」が進化論の主流になってゆくことになります。
<「集団遺伝学」>
ソ連では、1925年ごろ、短期間で交配を繰り返すショウジョウバエの集団を用いて遺伝の研究を行う「集団遺伝学」が誕生します。次々と世代が代わるショウジョウバエの群れを用いることで、進化の過程を短縮して再現することが可能になってわけです。(ただし、それがすべて生物の遺伝にも応用できるかどうかは、?かもしれませんが)
その手法は、T・ドブジャンスキーによってアメリカにももたらされ、T・H・モーガンらとも共同研究により「実験集団遺伝学」というより論理的、実証的な遺伝子へと発展しました。この理論は1937年「遺伝子と種の起源」として発展され「遺伝」と「進化」の研究に大きな影響を与えることになりました。
<「生殖的隔離」と「地理的隔離」>
ところで、ここでいう「種」とは何でしょうか?それは交配が行われ繁殖する可能性があるかないか?(より専門的にいうと、生殖的に隔離されているかどうか?)それで同一の種かどうか異種かどうかが決まるということです。ただし、この考えには異論もあるようで、たとえ2種の間で繁殖が可能でも、2種の住む場所や姿、形、食物などが違いすぎるものは異種と呼ぶべきという考え方もあります。(ということは、「進化」について研究する法則に「種」という概念すら、未だ定かではないということなのです)
「生殖的隔離」が種分化によって、最大の要因なのは確かです。そして、この生殖的隔離が起きる最大の原因として考えられるようになたのが「地理的隔離」です。
それはある生物がなんらかの原因(例えば、住んでいる場所が地形の変化によって、二つに分断されてしまい、別々の環境で生きてゆく場合をいいます。そうなると、二つの生物はそれぞれ異なる環境に合わせて独自の進化をとげ、まったく別の種に別れてゆく可能性が高まるわけです。
こうして、動物行動学や古生物学の分野から進化について研究する人々が進化論の中心のひとつになってゆきます。
<「DNAらせん構造の発見」>
1953年、「遺伝」についての研究において、もうひとつまったく別の角度からの挑戦が始まります。それはジェームス・ワトソンとフランシス・クリックによってDNAのらせん構造が発見されたことがきっかけとなって始まりました。ここから「分子生物学」という新しい科学ジャンルが誕生し、進化の流れを直接的に左右するかもしれない「遺伝子」を科学的、論理的に解析する道が開かれることになります。そこで明らかになったのは、DNAとは生物の表現形質を絶対的に支配する究極の存在であるということがひとつ。逆に構造的にも機能的にもDNAに環境が影響を直接与えるということはありえないということです。そして、この絶対的な条件は「セントラル・ドグマ」と呼ばれることになります。
そのため、もし、DNAの暗号を完璧に解くことができれば、進化の要因もまた完璧に明らかになるだろうと考える人々も現れます。1920年代にアインシュタインが宇宙に存在するすべての事象を表わすことのできる「統一場の理論」を構築しようと目論んだように、フランスのJ・モノーらは「遺伝子」の研究によって生命の謎もまたすべて明らかにできるだろうと主張しました。そんな中、コンピューターの急速な発展はDNAの膨大な情報を解析可能にしてゆきます。こうして、分子生物学から始まった「進化」についての研究は、DNAの変異確率を計算し、それをシュミレーションすることで数値的に解析することが可能になってゆきます。ここにきて、ついに「進化」は科学の一ジャンルとして成立しうる分野になったといえるのかもしれません。
<J・モノー>
J・モノーは彼の著書「偶然と必然」の中でこう書いています。
(1)生物は化学的機械である。
(2)すべての生物は機械のように首尾一貫し、全体として統合され機械的単位を構成している。
(3)生物は自分自身をつくりあげる機械である。
<DNAの謎>
しかし、すべてのDNA全体としてどのような仕組みで生命が形づくられてゆくのか?それは未だまったくといっていいほど、わからないままです。
例えば、人間とチンパンジーの遺伝子情報の違いは、ごくごくわずかなものです。にも関わらず、人間とチンパンジーの違いは明らかですが、その違いの原因は何なのかは、ほとんどわかっていません。もしかすると、遺伝子情報的にはほぼ同一でも、どこかの時点で人間が二足歩行を始めて急激に異なる文化を獲得していったという。遺伝子とは異なる部分での「進化」が影響を与えているのかもしれません。(こうした世代を越えて伝えられる文化は「ミーム」と呼ばれます)DNAのもつ遺伝情報はその仕組みが未だに不明だというだけでなく、そこに含むことのできない重要な情報が抜け落ちている可能性が高いのです。
DNAについての謎でさらに面白いのは、細胞当たりのDNA量が高等生物よりも下等な生物、それも肺魚のような生きる化石的な古い生物の方が多い傾向があるということです。逆にいうと、人間のような新しい生物の方がDNA量が少ないということなのです。古い生物ほど、用のない無駄なDNAをもっているということなのか?選ばれたDNAだけをもつことで高等生物は逆に複雑な肉体の構造を獲得したのか?ということは、しっぽを切っても再生可能なイモリの能力は人間が失ったDNAを彼らがもっているからかもしれません。少なくとも、DNAが多いから高等なのではなくDNA=遺伝子のすべてではないということなのでしょう。
<ドーキンスvsグールド>
上記のように分子生物学から「進化論」への挑戦が行き詰まっているのに対して、それとは異なる分野からの挑戦がその後、大きな話題となります。その代表的な存在がスティーブン・J・グールドとリチャード・ドーキンスという二人の進化論研究者です。20世紀の後半、進化論はこの二人の論争によって、再び大きな盛り上がりをみせることになりました。その詳細については、「ドーキンスvsグールド」キム・ステルレルニー著(ちくま学芸文庫)という本まで出版されているほどです。
<リチャード・ドーキンス>
リチャード・ドーキンスは、1941年生まれのイギリス人で名門オックスフォード大学の教授です。彼の直接の指導教官が動物行動学の創始者の一人であるニコ・ティンバーゲンだったこともあり、彼は動物行動学、行動生態学の立場から「進化」を研究して行きます。
1976年発表の彼の著書「利己的遺伝子」(邦題「生物=遺伝子機械論」)は、専門科学書としては異例の大ヒットとなり、一大ブームを巻き起こし、「進化論」という枠を越えて社会全体に影響を与えることになりました。彼の理論の概略は以下のようになります。
(1)自然淘汰は遺伝を司る自己複製子の系統に作用する。ここでいう自己複製子は、ほとんどがDNAから成り立つ遺伝子のことだが、社会学習ができる動物の場合はアイデアや技術もまた自己複製子となりうる。(これをドーキンスは「ミーム」と名づけています)
(2)遺伝子は連合して個体もしくは個体の群れという乗り物を形成して競争を行う。そして、その中でより有利な個体もしくは個体の群れが淘汰によって世代を経るにしたがい増えてゆくことになる。
(3)人間は他の生物と異なり遺伝子の乗り物であると同時に文化をも世代間で伝えることができる「ミーム」の乗り物でもある。
(4)こうして、遺伝子の乗り物である生物が自然淘汰という外部からの影響を受けながら少しずつ変化をとげることで「進化」が起きる。
<ミームについて>
ミームについて、「利己的遺伝子」にはこう書かれています。
「・・・ミームは、比喩としてではなく、厳密な意味で生きた構造と見なされるべきである。君が僕の頭に繁殖力のあるミームを植えつけるということは、文字通り君が僕の脳に寄生するということなのだ。・・・・・これは単なる比喩ではない。例えば「死後の生命への信仰」というミームは、世界中の人々の神経系の一つの構造として、莫大な回数にわたって、肉体的に体現されているではないか」
N・K・ハンフリー
ドーキンス理論の特徴は、生物とは遺伝子が生き残って行くための乗り物であり、「生き残るため」に遺伝子は肉体改造だけでなく道具を用いたり通信手段を発達させたり文化を生み出して伝えてゆくなどの方法をも用いるというものです。
こうして、遺伝子は生き残るために自分に有利な生き方を様々に編み出し、その中で「環境」や「敵との関係」、「同じ種との生存競争」すべてにおいて上手く立ち回った者だけが今地球上にいるということです。
ダーウィンが主張した自然淘汰の考え方の直系の子孫がドーキンス理論といえるかもしれません。
<スティーブン・J・グールド>
もうひとりの重要人物スティーブン・J・グールドもドーキンスと同じ1941年の生まれですが、彼はアメリカ人でハーヴァード大学の教授。そして、専門は古生物学というドーキンスの動物行動学とはまったく異なるジャンルです。そして、その異なるジャンルならではの視点によって、彼はドーキンスとは異なる進化論の中心人物となりました。彼の理論の概略は以下のようになると思います。
(1)自然淘汰は地域集団の中では個体に作用する。しかし、淘汰は個体の群れに作用することもあり、群れに作用することもあり、「群れ単位」として他の「群れ」より繁殖に関して成功する場合もある。そして、その中から新しい種が生まれるかもしれない。
(2)生物個体が備える性質の多くは、淘汰からでは説明できない。例えば「目」という存在が「光を感じる単純な感覚細胞」から、どうやって現在の複雑な構造(脳と接続された絶妙な構造)を獲得することになったのか?少しずつ変化して現在の構造にまで発達したのでしょうか?しかし、その途中段階の「目もどき」に生き残るために有利な能力があったのでしょうか?邪魔なだけではないでしょうか?目は現在の目の構造をいきなりもってできたのではないでしょうか?
(3)自然淘汰からは説明できない生物の大量絶滅現象が地球上で過去に何度も起きている。(恐竜の絶滅やアンモナイトの絶滅など)
こうした時期に登場した突然変異種などが、他の生物が死に絶える中で生き残り、一気に新しい種として拡大することが「進化」の最大要因ではないのか。
(4)生物の種類、特に「門」という基本的な構造の多様性はカンブリア紀にほぼ出揃って以後、減ることはあっても増えてはいない。
自然淘汰が平和な地球上で生物を変化させることはほとんどなく、急激な気候変動や隕石の衝突、もしくは生命自体による謎の大量死などによって初めて生物は変化をとげ、その中で生き残ったものが進化した種として、後に認められることになった。(これを断続平衡説といいます)
グールドの考えをさらにまとめると・・・・・。
「生物の多様性はカンブリア紀にピークを迎え、それ以後は何度も訪れた大量絶滅の危機を乗り越えた種、そしてその中で現れた突然変異種が環境に適応することで生き延びてきた。進化とは生物は環境に適応して少しずつ、より複雑により多様に変化してゆくことではない。長い期間に渡る変化のない時代と短期集中型の激動の時代がもたらす大量絶滅の中、突然変異種がたまたま生き残ることで「進化」をとげたと考えられる」
彼の説については、下記のような記述もあります。
「彼は大突然変異のほとんどは災厄的なものとみるほかないとし、それらを「怪物」と呼んだ。しかし、時たままったくの幸運で、ある一つの大突然変異がある生物を新しい生活様式へ適応させるようなこと・・・彼はそれを「前途有望な怪物
Hopeful Monster」と呼んだ・・・もある、と彼は論を進める。大進化はこうした前途有望な怪物たちがまれに成功することによって進むのであり、ある個体群の中での小さい積み重ねによるのではない、というのである」
リチャード・ゴールドシュミット「進化の物質的基礎」より
「地球の歴史は、容易に変わろうとしない頑固な系をある安定な状態から次の安定な状態へ推し進めるような、時たま起こる脈動の連鎖だった、といってもよい。・・・・・」
スティーブン・J・グールド
<ドーキンスとグールド>
ドーキンスの「進化」とは、遺伝子という主役による生き残りゲームであり、「競争」に例えることができます。それに対し、グールドの進化は避けがたい環境変化の中でたまたま生き残ることであり、「運命」がそのキーワードといえます。もしくは神の存在?
ドーキンスの「進化」は生物がより複雑に、より高度な存在へと変化してゆくことであり、「進化=善」といえるかもしれません。それに対し、グールドの「進化」はけっして複雑化することではなく、「進化=善」でもありません。ドーキンスの考え方は、ダーウィン直系の西欧的な「進歩=善」とする思想の延長なのに対し、グールドのそれは「運命」を受け入れることを良しとするアジア的な思想に近いといえそうです。
不思議なことに、進化論とは科学的に生物が変化する理由を追求すると同時に、その理由を哲学的に探ろうとする試みでもあるように見えてきます。それぞれの科学者の人生観までもが見えてくるからこそ、「進化論」について語るのは面白いのです。
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