- ジャン=アンリ・ファーブル Jean-Henri Fabre -
<オタクの原点>
僕は小学生の頃、「ファーブル昆虫記」と「シートン動物記」が大好きでした。その当時は、公園や山に行ってカブトムシやバッタを捕まえ、家で飼ったりもしていました。
でも今思うと、他にも面白い本は一杯あったはずなのに、フンコロガシの話などが楽しくて仕方なかったのはなぜなのだろうか?そうも思います。
ファーブルという研究者の文章には、何か読者を引き込むような魅力があったのか?それとも彼のもつ人間的な魅力が読者の心を掴んでいたのか?そんなことを思いながら、彼の伝記を読んでみました。
すると、彼が虫たちと向き合う姿勢が、「ポップの世紀」で僕がアーティストたちに向き合う姿勢に似ていることに気づかされました。
科学の世界には、もっとお金になる研究があるし、もっと社会を変える研究もあるはずです。たぶんフンコロガシの研究をどんなに極めても、人類の歴史を変えるような発見はないでしょう。それでも、「生命とは何か?」「記憶とは何か?」「社会とは何か?」など、人類が抱える重要な疑問に関する重要なヒントが得られる可能性もゼロではありません。
そして何より、ファーブル少年にとっては、子供時代から親しみ、身近に存在し続けた昆虫こそが最も魅力的な研究対象だったのです。
「好きこそものの上手なれ」それが「ファーブル昆虫記」のもつ魅力の源泉なのかもしれません。
アインシュタインにとって興味の対象が「宇宙」だったように、ファーブルにとっての興味の対象は彼の自宅の庭という「宇宙」でした。それは面積としては小さくても、彼にとっては全宇宙に匹敵する謎を抱えた巨大な研究対象でした。そのことは、少年たちの昆虫に対する気持ちとも共通します。少年たちにとっては、虫たちがいる野原こそが、すべてであり、「宇宙」に匹敵する存在だったのです。
色々な意味でファーブルは元祖オタクなのです。
<ファーブル少年>
ジャン=アンリ・ファーブル Jean-Henri Fabre は、1823年12月22日に南フランス山間部のルエルグの小さな村サンレオン・デュ・レヴズーに長男として生まれました。父親のアントワーヌ・ファーブルは、耕作人、畑の番人で、母親のヴィクトリーヌは、サンレオンの執行吏の娘でした。
彼らの住む地域が貧しい農村地帯だったこともあり、一家は村を出て、ロデーズやトゥールーズなどの街でカフェを始めました。こうして始まった少年時代を街で暮らす間に、彼は学校に通うことになり、科学だけでなく文学など学問全般の魅力に気づかされました。
19歳で学校を卒業したファーブルは、経済的に大学に行く余裕はなく、家族の生活を助けるため、小学校の教師として働き始めます。当時、フランスの教師は年金もなく、給料も安かったため、教師だけで食べて行くことは大変でした。そのため、彼は様々な教科をどの学校でも教えられるようにと、数学、物理学、博物学などの資格取得のため、日々勉強を続けることになります。そして、給料がもらえる仕事をどんどん引き受けます。その中には、高校で製図実技を教えたり、市役所主催の市民向け実用講座で物理・化学の授業だけでなく、染色工場のための研究まで様々な仕事がありました。
しかし、そうした様々な授業の合間にも、彼には少しづつ自分が研究するべき分野が見えてき始めていました。
ファーブルは進むべき道を予感しはじめていた。
ここには自然の広い領域がまだ研究されずに手つかずのまま残っている。まだまだ多く調べられ、訂正されなければならない。
昆虫は採集され、分類され、解剖されてきた。しかし、その習慣や暮らしぶりは、まだ十分に知られているとはいえなかった。ここに新しい分野が開けていなかった。ここに新しい学問が確立されるべきであった。
彼は弟のフレデリックに手紙でこう書いていたと言います。
「それは、もっとも気高いもののひとつである。真理を観察することで精神に高められ、精神を現実のみじめさから解放してくれる。そしてその精神の領域において、私たちは、私たちに許されている唯一幸せな15分を享受することができるのだ。
フレデリック、科学、科学がすべてだ」
<彼の数少ない応援者>
学歴もなく、農民あがりで、資産もない彼は、生涯理解者に恵まれず、出世の道も閉ざされたままでした。それでも彼がある程度の評価を得られたのは、彼の研究の意義を理解できる数少ない専門家たちでした。
1866年、彼は科学アカデミーから昆虫に関する研究を評価され、トール賞と賞金3千フラン(給料の2年分くらい)を与えられました。さらに文部大臣ヴィクトール・デュリュイにも評価され、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を授与されることになりました。43歳になってやっと、彼はその仕事を評価されるようになりました。勲章授与式のため、彼はパリに出て、しばらく都会での暮らしが続きましたが、自然のない暮らしとお偉いさんたちに気を遣う毎日に嫌気がさし、さっさと田舎暮らしに戻ってしまいました。
それでも文部大臣デュリィのおかげで、彼はアヴィニョンのサン・マルシアル教会で行われた少年少女も対象とする市民向けの科学講座を担当するチャンスを得ました。
ところが、彼の授業は他の多くの学者や宗教関係者たちから批判されることになります。彼のように子供たちや貧しい人々にまで教育を行うことを当時の社会は認めていなかったのです。そのうえ市民向けの講座では生活に必要な知識だけを教えればそれでよい、と考えられていたのです。大衆には余計な知識や思想は教える必要はないということです。
「女性たちに花の受精について語るとは何事だ!」
など、彼への批判は相次ぎ、彼はそうした市民講座の教師の座も奪われます。
「すべての純粋に科学的な体験は、それが直接応用できないからといって、厳格に授業からの締め出さなければならないというのでしょうか?・・・それがただ知りたいということにしか役立たないという理由で。いいえ、みなさん、そんなことをしたらこの講座から本質的な事柄、つまりいきいきとした精神がなくなってしまいます!」
市が開催していた講座についてのファーブルの訴え
こうして収入の道を失った彼を救ったのは、それまでもコツコツと続けてきた教科書の執筆でした。
1872年、アヴィニョンでの20年目、49歳になった彼は、教科書を執筆することで経済的困窮から脱出することに成功します。
1877年9月14日、彼の優秀な助手でもあった16歳の息子ジュールが突然の病で死んでしまいました。彼はその悲しみを振り払うように研究に没頭するようになります。
1878年、55歳になったファーブルは文部大臣から銀メダルを贈られました。
<ファーブル昆虫記」スタート>
1979年、彼はそれまでの研究の集大成となる「昆虫学的回想録」の第一巻を発表。これが後に「ファーブル昆虫記」と呼ばれ世界中で愛されることになるシリーズの始りでした。当時の平均年齢からすれば遅すぎる作家デビューだったと言えます。それでもこのシリーズはこの後も長く続き、第10巻まで発表されることになります。
なぜ、そのシリーズはそこまで長く続き、彼の死後も現在まで読み続けられる永遠のベストセラーとなったのか?それは単なる昆虫の観察日記ではなかったからです。
しかし、重要な理念、大きな問題はすでに第一巻に含まれている。昆虫は巣づくり、狩り、羽化の世話に際して驚くべき行動をとる。彼らの行動は目的に導かれており、正確で、しばしば意味深く結びついた、信じられないくらい多くの個々の行動で構成されている。なにが彼らにそうするための能力を与えているのだろうか?ほかの研究者たちのいう「ほんのちっぽけな知力」で?たとえ昆虫に課せられた仕事に限っていうことにしても、人間の知能と比べられるようなものなのだろうか?あるいはほかのなにか、つまり無意識の能力である本能なのだろうか?しかし、本能というのはなんなのだろうか?本能はなにをすることができ、なにをすることができないのだろうか?
これらの疑問をファーブルは調べる。しかしメスや顕微鏡を使ってではない。生きた昆虫の行動を観察するには、ルーペのほうが適していた。ファーブルの第二の道具は知的なものだった。つまり、実験だ。すなわち、必要な状況を巧みにつくりだして昆虫の能力を試すということ、それが研究者の疑問に答えをもたらしてくれるのだ。化学、物理学を勉強したことがファーブルに実験の必要性を教えてくれたのだった。生物学においては、ファーブルが、体系的に実験を用いた最初の人だ。
M・アウアー
さらに重要なのは、彼の昆虫記は昆虫たちの生き様を記録しただけでなく、著者であるファーブルの人生を記した作品でもあったことです。そこには、端々に彼の苦難の人生や人生哲学、アイデアマンとしての発想などが記され、それが読者の心をつかんだのです。
生きることと研究することは、ファーブルにとってはひとつのことだった。したがって彼の研究報告は人生報告でもある。
<終の棲家兼実験場>
さらにこの時期、彼にとって大きな出来事がありました。それまで住んでいた家の家主がプラタナスの木を勝手に短く剪定したことに怒った彼は、町を出て田舎に一軒家を購入することにしたのです。教科書の執筆で得た収入を使い、彼は南プロバンスのセリニャンのアルマスに庭付きの家を購入。そこは自然と静寂と昆虫たちに満ちた彼にとっての楽園でした。ついに彼は思う存分、昆虫観察ができる居場所を見つけたのです。
研究室として昆虫を飼いながら研究もできる場所を彼は求め続けていたのですが、やっとそれを自費で購入したのでした。
巨費を投じて大西洋や地中海の沿岸に、海の動物相を研究するための私設が設立されている。・・・それなのに小さな陸の動物である昆虫は軽視されている。…彼らが暴れると、国家財産にしばしば大きな損害を与えることもあるのに。いつになったら私たちは、死んだ虫ではなく生きた虫を研究する昆虫学の研究室をもてるのだろう。
1885年、ファーブルの妻マリー・セザリーヌ・ファーブルがこの世を去りました。
昆虫観察や執筆に熱中する彼のために、家事や子育てなどを仕切っていた妻の存在は非常に大きなものでした。この時、彼はすでに62歳。ところが、その2年後、彼は家政婦として働いていたマリー・ジョゼフィーヌ・ドデルと再婚。彼女はなんと23歳の若さでした!あまりの年齢差に周囲からは何かと批判されたようですが、再び彼は活力を取り戻し、研究を本格化し始めます。その間、彼には1888年ポール=アンリ、1890年ポリーヌ、1893年アンナ=エレーヌと子供が誕生しています。その子供たちの中でもポールは、写真の技術を習得し、「ファーブル昆虫記」のための写真を撮影し始めます。
こうして、1882年に「ファーブル昆虫記」第2巻が出版されると、1886年第3巻、1891年第4巻、1897年第5巻とコンスタントに出版がされ、1907年の第10巻まで「ファーブル昆虫記」の出版は続くことになりました。
その著作は専門家だけでなく多くの子供たちにも愛されます。それが長く読まれ続けた最大の原因かもしれません。
「昆虫記」がほかの学問的著作と比べて際立っているところは、認識、発見、疑問の解決が豊富にあることだ。しかも、そのことをこれみよがしに強調していない。それどころかいつも認識できないことや、理解でいないことや、謎に満ちている。・・・
この昆虫世界の記述者は、説明や解答をすべて、秘密の大きさを示唆することだけに役立てた。ファーブルは驚きを子供たち、そして説明や解答をすべて、秘密の大きさを示唆することだけに役立てた。ファーブルは驚きを子供たち、そして読者と分かち合っているのだ。
彼はそれまでは収集・観察・解剖が基本だった生物学の世界に「実験」を持ち込んだ先駆者でもありました。
彼はそれまでは観察・収集することが中心だった生物学に「実験」という科学的な研究方法を持ち込んだ最初の学者でした。
観察する。これは意義あることだが、これだけではまだ十分ではない。私たちは実験しなければならない。つかり、みずから介入し、普通の条件下では明かしてくれないようなことを、そっと教えてくれるような状況を人為的につくりだしてやるのだ。動物の行動は到達すべき目的のために巧みに調整されているので、そのほんとうの意味について私たちは思い違いをしているかもしれない。・・・
彼の偉大さは、そうした実験を生物学に持ち込んだだけではありません。彼はそうした研究・実験を簡易的な手法、身近な場所で行うことで、誰もが生物学の研究者になれる道を切り開いたとも言えます。彼の実験精神は「ファーブル昆虫記」を通じて世界中の子供たちへと受け継がれることになったのです。
ほとんどいつも貧困と闘っていたファーブルが成し遂げたことの偉大さは、今日までずっと、後継者たちを感嘆させ続けている。彼はそれを、貯蔵瓶や釣り鐘型の金網、村の家具職人がつくった飼育箱や虫かご、そしてルーペや几帳面なメモを用いて成し遂げたのだ。・・・
<進化論に反対した理由>
彼は同時代に「進化論」を発表したダーウィンの考え方に反対の立場を撮り続けました。
・・創造者の仕事場は、死者が脱いだ上着を生者が身につける古着屋ではなく、新しい独自の刻印を刻んだ新しく鋳造したメダルが生み出される芸術家の仕事場である。型の豊かさか無限であり、古いものの上になにか新しいものを刻み込んで調整するようなけちくさい倹約とは無縁である。
すべてのファーブルの実験は、それが単純なものであれ複雑なものであれ、本能行動は習得できないということ、昆虫は「正しく」行動するためになんの経験も必要としないということを明らかにしていた。昆虫は経験を集積しないので、それを次世代に伝えることができない。これはファーブルのいっているとおりなのだ。
したがって、昆虫は世代を超えて少しづつ改良されるような進化を生み出すことはできないと考えたのです。しかし、ダーウィンはそうした考えを否定していたわけではありません。昆虫たちが自ら改良するのではなく外的な環境が彼らの中のより環境に適応した個体を残すことで、自然に新しい適応種が生まれると考えていたのです。残念ながら、彼はそこまで長いスパンで自然を見ることができなかったなかもしれません。もしかすると、それは「小さな世界」を見つめ続けたファーブルの限界だったのかもしれません。
1882年4月19日、ダーウィンはファーブルより先にこの世を去りました。
<数学ではなく昆虫を愛した男>
科学全般の知識を持ち合わせていたファーブルですが、最後まで彼は昆虫の研究に熱中し続けました。なぜ、彼は数学者ではなく生物学者となり、昆虫の研究を選んだのか?
科学はその距離・速度・質量・容積について語ってくれる。数学の巨大さが私たちを圧倒し、果てしのなさが私たちを驚嘆させる。しかし、私たちの琴線に触れることはない。どうしてか?そこには生の秘密という偉大な秘密が欠けているからだ。・・・
それに対して、おまえたちの社会には、私のこおろぎたちよ、生が、私たちの粘土の塊の魂が、私のなかで震えているのを感じるのだ。そしてそこにこそ私が、白鳥座にはぼんやりとしたまなざしを向けただけにすぎないのに、どうして全注意力をおまえたちの音楽の夕べに向けたかの理由がある。・・・
「ライプニッツの微積分学が、ルーブル宮殿の建築家はかたつむりほど有能ではないということを証明してくれるだろう。この偉大な測量技師は自分の殻に超自然的ならせんを描くのだ。・・・」
J・H・ファーブル
「ファーブル昆虫記」第1巻から第10巻(1907年出版)まで28年間に彼は様々な賞を授与されました。しかし、昆虫の専門家からの評価は高かったものの、経済的な成功にはまったく結びつきませんでした。
それでも、1903年3800フランの報奨金がついたジュニエール賞を与えられ、ささやかな年金的な収入を確保できるようになりました。そして、高齢になってもなお、コツコツと昆虫たちの観察と研究を続けました。
常にポケットに鉛筆を入れ、思いついたことをそのへんにある紙にメモする。
ファーブルは、しばしば隠者のように言われるが、本当はそうではない。彼が避けていたのは「公的な世界」である。商売や政治の世界、それに争いと陰謀の渦巻く学会もそうだ。彼にとっては精神の国は十分に大きかった。それ以外には、見渡すことのできる家族の世界、それと少数の、慎重に選んだ友人で十分だった。
1912年7月3日、まだ47歳と若かった二番目の妻マリー・ジョゼフィーヌが死去。
1913年には第一次世界大戦が始まると息子のポールが入隊。
この年、そのポールが移した200枚の写真を載せた「ファーブル昆虫記」の挿画入りの決定版が出版されました。
しかし、もうファーブルには次の著作を生み出す気力も体力も残されていませんでした。
1915年10月11日、ジャン=アンリ・ファーブルは死去。
「ほんの数分でいいから犬の野生の脳で考え、はえの複眼で世界を眺めてみることはできないものかと、よく空想したものだ。そうした事物はどれほどちがって見えることだろうか!」
ジャン=アンリ・ファーブル
<参考>
「ファーブルの庭」 Ich aber erforshe das Leben (1995年)
(著)マーティン・アウアー Martin Auer
(訳)渡辺広佐
NHK出版
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