- フランシス・ベーコン Francis Bacon -

<人間の暴力性に形を与えた画家>
 画家フランシス・ベーコンは以前から気になる存在でした。特に映画界の奇才デヴィッド・リンチが彼の絵画に大きな影響を受け、映画の中にそっくりに場面まであると知り、いよいよ彼の事を知りたくなりました。(例えば、映画「ブルーベルベット」の中の刑事の死体がベーコンの作品「頭を怪我した男」にそっくりだと映画評論家の町田智浩氏が「ブレードランナーの未来世紀」で指摘しています)
 ちょうどいいタイミングで2013年7月NHK教育TVで前衛舞踏家の田中眠が「ベーコン作品を踊る」というドキュメンタリーを放映していて、そこでベーコンの作品や生い立ちを紹介してくれました。(ゲストとしてやはりデヴィッド・リンチが登場していました)ベーコンが描いたこの世のものではない不気味な怪物たちを演じる田中眠の鬼気迫るパフォーマンスを見てさらに興味がわいてきました。彼が描いた怪物たちはどうやって生み出されたのでしょうか?人間のもつ「暴力性」イメージを視覚化した危険な画家フランシス・ベーコンとはいかなる人物なのでしょうか?

<アイルランドの悲劇の中で>
 フランシス・ベーコン Francis Bacon は、1909年10月28日にアイルランドの首都ダブリンで生まれました。一説によると、彼の父親は有名な哲学者フランシス・ベーコンの血筋にあたるといいます。彼は五人兄妹の次男で、父親は競走馬の調教を仕事にしていました。アイルランドでは裕福な家庭だったようです。しかし、彼は子供の頃から病弱で慢性的な喘息に悩まされていて、父親から乗馬の訓練を受けることも満足にできなかったようです。
 1914年に第一次世界大戦が始まりますが、アイルランドでは同じ頃、イギリスの支配下からの独立を求める独立活動が活発化していました。1916年には、ダブリンを中心に各地で暴動が起き、アイルランド国内はまるで戦場のような状況となります。一時は家族そろってイギリスへと逃れるものの故国にもどったベーコン少年はそんな状況で悲惨な死の現場を何度も目撃することになりました。特にアイルランドの混乱は、単純にイギリスからの独立運動によるものではなく、カトリックとプロテスタント、二つの宗派に属するアイルランド人同士の争いによるものでもありました。ある日、突然、隣人同士が憎み合い、殺し合いにまで発展してしまう現実を目にしたベーコン少年に「人間=暴力」というイメージが焼き付けられたのも当然です。

「アーティストにとっては、絶望や不幸の感情のほうが満足の感情よりも役に立つ。感受性の全体を、よりしなやかに、引き延ばしてくれるのだから。・・・」
フランシス・ベーコン

<同性愛のアーティスト>
 1925年、16歳の時、彼は母親の下着を身に着けていることを父親に知られ、家を追い出されます。暴力に満ちた世界の一員であることを拒否するかのように彼は男性であることを拒否したのです。こうして、同性愛者として生きる道を選ばざるをえず、ひとりロンドンで生活し始めます。
 1927年、ベルリンを訪れた彼は当時、芸術の最先端を走っていた街ベルリンから大きな影響を受け、その後パリで見たピカソの絵画展から受けた衝撃により画家になることを決意します。
 1928年、ロンドンに戻った彼は家具やカーペットなどのデザインで収入を得ながら、絵を描き始めます。その後、アトリエで自作の展覧会を行いますがまったく評価されず絵画制作もデザイナー業も、そこで一度あきらめてしまいました。
 1933年、画家になることをあきらめきれなかった彼は、ピカソからの影響を受けた「磔刑図」が売れたこともあり、自身の発表スペース「トランジション画廊」を始めます。しかし、これまた反響がなく、ショックを受けた彼は作品の多くを処分し、またも画家になることをあきらめます。
 1937年、彼を支える愛人でありパトロンでもあったエリック・ホールの助けを得て、彼はグループ展「英国の若い画家たち」に自作「庭の中の人物」(1936年)を出展。再び画家としての活動をスタートさせます。この頃、第二次世界大戦が始まりますが、喘息の持病をもつ彼は兵役をまぬがれ、画家としての活動を続けることができました。

<怪物誕生!>
 1944年、彼の代表作となった「ある磔刑の足元にいる人物たちのための3つの習作」が発表され、3体の不気味な怪物が世に放たれることになりました。その謎の生命体はどんな生物にも似ていないだけでなく、人体の一部からなる肉の塊のように見え、見る者に不安な気分をもたらします。発表当時は、その意味不明の作品に対する批判の声が多かったものの、一部から熱狂的に支持されて注目を集めることになりました。それは、世界が戦争の狂気におかされていた影響によって生み出された作品だったのかもしれません。
 この時、彼はすでに35歳になっていましたが、彼自身、これがデビュー作と考えていたようです。そして、その3枚の絵には、その後の彼の作品要素のほとんどが表現されていました。三枚の絵からなる連作であること。それらの作品に「習作」と名付けること。肉の塊のような不思議な生物を描くことなどがそうです。
 1949年、6点からなる連作絵画「頭部」発表。この中で初めて彼はベラスケスによる教皇インノケンティウス十世の肖像画をもとにした作品を描いています。この後、このモチーフは何度も彼によって描かれ、1953年に代表作のひとつ「ベラスケスによる教皇インノケンティウス十世の肖像にもとづく習作」を生み出します。彼はベラスケスのもとになった作品についてこう語っています。
「私が思うに、ベラスケスは、自分が当時の宮廷や人々を記録していると信じていた。・・・記録フィルムでできるとわかっている以上、芸術家は、自分の仕事のそうした部分はほかに引き継いできたわけで、今やるべきなのは、イメージを通じて感受性が開かれるようにすることなんだ。・・・」

 さらに彼は、かつてはベラスケスらの絵画には「宗教」という精神的な柱があったが、現在ではそれが失われていることも指摘。芸術家にとっては、そうした失われた価値観の代わりの何かを見つける努力も必要とされるとも語っています。
 1950年、40歳になった彼は画家として一般的にも認められるようになり、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートで数ヶ月間教鞭をとっています。
 1951年、いっしょに住んでいたかつての乳母の死にショックを受けた彼は、未完成の作品を残したままアトリエを売却してしまい、その後もアトリエを点々とするようになります。(どんだけ打たれ弱い人なのでしょう。しかし、だからこそ、人に見えない怪物が見えたのかもしれません)彼はカメラの登場によって失われた絵画のやるべき仕事として、「何かのイメージをキャンバスに写し取る」ということを見出したといえます。
 彼は「磔刑図」を描いた時のアプローチの仕方について、こう語っています。
「・・・そのときは自分の感情や感覚に取り組んでいるんだよ。実際のところはね。だからそれはほとんど自画像に近いと言ってもよい。」
 彼にとっては「感情」こそが描くべきものであり、だからこそ「感情」を操る必要があるとも考えていました。
「・・・アーティストは感情のバルブを開けることができるんだと。そしてそれゆえに、傍観者を、生に、もっと暴力的に立ち戻らせることができるんだと。・・・」
 そして、彼が表現しようとしていた「感情」を表現するために最も多く使われたのが「暴力」でした。

<「暴力」の絵画化>
「私の絵画が暴力的なのではない。生こそが暴力的なのだ。」

 考えてみると、かつて画家たちが描いてきたのは、「歴史的事件」や「風景」「日常生活」の「記録」もしくは人々の「悲しみ」「怒り」「喜び」の「表情」であって、「暴力」そのもののイメージを直接描き出した作品はなかったのかもしれません。
「私がしたいこと、それは対象を、その外見をはるかに超えて歪めることなんだ。だが、歪めることによって、対象を外見の記録へと連れ戻してあげるんだ。」
 さらに彼は自らの作品を一般的なイラストレーションのように具体的に「対象」を描くのではなく、その対象を曖昧性をもつ形体として描くことにこだわりました。

「・・・イラストレーションでない形体は、まず感覚に作用し、それからゆっくりと漏れ出して、事実へと戻っていく。どうしてそうなるか、それはわからない。事実がそれ自体において曖昧であることや、外見もまた曖昧であることと関係しているかもしれない。だからこそ形体を記録すること、その記録の曖昧性によって、事実により近づくことができるんだ。」

 彼の描こうとするイメージが現実の風景や現実の人間、生物と異なるのはそうした曖昧性をもつ具象作品だからであり、けっしてそれが抽象絵画、それもシュルレアリスム的なイメージをキャンバスに写し取ったものとは異なることに注意する必要があります。

<叫びと暴力と恐怖と>
「私がつかまえようと思っているイメージは、いわゆる具象と抽象の間の綱渡りのようなものだ。それは完全に抽象を出自としているようで、抽象とはまったく関係がない。具象的なものを取り出して、神経組織に対して、もっと暴力的に、もっと鋭くそれをもたらそうという試みなんだ。」
 見る者に対して暴力的に機能する作品を目指していた彼の作品には前述の「ベラスケスによる教皇・・・」以外にも「映画「戦艦ポチョムキン」の乳母のための習作」など「叫び」をモチーフにした作品も多く存在します。それが「暴力」によって生み出された「恐怖」のイメージを形体として描いたものなのか?と問うと、彼はこう答えています。

「・・・叫びの図像は、恐ろしいイメージだと言えるかもしれない。でも実際に私が描きたいのは、恐怖よりも叫びそのものなんだ。」

 一説によると、人は「恐怖」のために「叫ぶ」のではなく「叫ぶ」から「恐怖」を感じるのだといいます。例えば、ジェットコースターに乗って叫ぶ人は怖がってはいないはずです。本当に怖がっている人は叫ぶ余裕すらないはずですから。(僕がまさにその怖がる人です)人は恐怖を味わいたいがゆえに自ら叫んでいるのです。したがって、「叫び」とは「恐怖」の根源的な形体のひとつということなのでしょう。

 1954年、彼の作品は海外でも高く評価されるようになり、ロンドン現代美術研究所で初の回顧展が開催されます。
 1956年、彼はモロッコのタンジールにアパートを借り、60年代前半にかけてたびたびそこを訪れるようになります。そして、そこでウィリアム・S・バロウズやアレン・ギンズバーグなどビートニクのアーティストたちと交流。大きな影響を彼らから受けることになりました。
 1961年、サウスケンジントンにあるガレージの2階にアトリエを構えた彼はそこを生涯の仕事場とすることになります。翌年、テート・ギャラリーで大回顧展を開催。さらに同展は、ドイツ、イタリア、スイス、オランダでも開催されました。さらに翌年にはアメリカのグッゲンハイム美術館でも回顧展が開催されます。
 1971年、61歳の年、彼はフランス、パリのグラン・パレで大回顧展を開催し、その後、世界各地を巡ることになりますが、回顧展初日の前日夜、彼の愛人が自殺してしまいます。こうして、この時期の代表作となる「ジョージ・ダイアーを偲んで」(1971年)が描かれることになりました。
 彼はその後も現役バリバリで創作活動を続けた後、1992年4月28日(82歳)、心不全によりその生を終えました。

「・・・私は、芸術は記録することだと信じている。そしてそれは伝えることだとも思っている。そこから考えると、抽象画には伝えるものがなく、あるのはただ、画家の感性とわずかばかりの感覚だけだな。いかなる葛藤もそこにはないんだ。」

 彼の作品を抽象絵画と見るのは大きな間違いです。彼の絵の中の怪物たちはベーコンが実際に見たリアルな怪物の映像そのものなのです。

 彼のもうひとつの代表作「ふたりの人物」(1953年)は、二人の人物(男性二人)が絡み合う姿を描いた作品です。しかし、二人の姿はぼんやりと描かれていて、まるでセックスによって二人が一体化し、新種の生命体に変態しようとする瞬間のようです。「愛」と「暴力」の融合ともいえる「セックス」によって一体化した自らの姿を鏡で見た彼には、この絵しか見えてこなかったのかもしれません。

 1962年の作品「ある磔刑のための3つの習作」に描かれている不気味な物体は1944年に彼が描いた謎の怪物たちを解剖した肉の塊のように見えます。それは彼が自らが目にしてきた映像だったのでしょうか?この生物の内臓のような絵を見ていると、サム・ペキンパーの後期の傑作「戦争のはらわた」やデヴィッド・クローネンバーグの「ヴィデオ・ドローム」などの映画を思い出します。人間の「暴力性」にこだわったベーコンの作品は、絵画だけでなく多くの映画にも影響を与えてきたのでしょう。しかし、今や暴力の映像は、ネットによって垂れ流し状態となり、アメリカ軍による一般市民への銃撃映像などはありふれたものになりました。しかし、そんな暴力映像とベーコン作品はどこが違うのでしょう?
 ベーコンはそうしたリアルな映像には物語があり、その物語を知ったとき、その映像は退屈なものになると語っています。映像が具体的であるほど、その暴力は「犯人探しの興味」や「事件の原因追及」や「その映像の真実性」など、様々な「物語」から自由になり、より普遍的な存在になりうる。それこそが、フランシス・ベーコンが目指していた理想の絵画だったのかもしれません。

<参考>
「現代アートの巨匠 先駆者たちの<作品・ことば・人生>」 2013年
美術手帖(編)

映画「愛の悪魔 フランシス・ベイコンの歪んだ肖像」 1998年
(監)(脚)ジョン・メイバリー
(製)キアラ・メネージュ
(撮)ジョン・マシソン
(音)坂本龍一
(出)エレク・ジャコビ(そっくり!)、ダニエル・クレイグ(ジョージ・ダイアー)、ティルダ・スウィントン
ベーコンとその恋人ジョージ・ダイアーの歪んだ愛の日々を描いた作品。
かなり彼の作品のイメージに近い作品のようです。
(Etテレ日曜美術館の「バリー・ジュール・コレクション特集」の回で部分的に見られました)

絵のない20世紀美術展へ   トップページへ