アーシュラ・K・ル=グウィンによるファンタジー論


「いまファンタジーにできること Cheek by Jowl」

- アーシュラ・K・ル=グウィン Ursula K.LeGuin -
<ファンタジー論>
 20世紀を代表するファンタジー作家、アーシュラ・K・ル=グィン Ursula Kroeber Le Guin は、「ナルニア国物語」や「闇の左手」、「オメラスを歩み去る人々」、「なつかしく謎めいて」などの著者として知られています。そんな彼女の作品に特徴的なのは、物語の中で「女性論」や「環境問題」、「差別問題」など、様々な社会問題が扱われていることです。とはいっても、けっして彼女の作品は説教臭かったり、宗教的メッセージの押しつけを感じさせたりするものではありません。あくまでも、それらのメッセージは「物語」の中に隠されていて、読者に直接メッセージを主張することはありません。読者がその物語に何を感じるかは人それぞれにまかされています。
 そんな彼女のファンタジー作品は、どのように書かれているのか?
 彼女ならではのファンタジー論について、各地で行われた講演から編集された本「いまファンタジーにできること」から印象的な文章を選んでみました。
 そこには、「ファンタジーとは何か?」、「ファンタジーはどう書かれるべきか?」、「ファンタジーが書かれる目的は?」などが書かれています。

<ファンタジーは意味を構築する>
 訓練を受けていない批評家は、ファンタジー作品がどのようなルールに従っているか感じとることができず、その作品を無意味だと感じるかもしれない。理解できないことを言い訳したり、隠したりするために、さまざまなラベルがその作品に貼りつけられる - シュールレアリズム、ダダなど。しかし、シュールレアリズムが意味の破壊である一方で、ファンタジーは意味の構築である - 純粋に言語的な構築であれ、それ以上のものであれ。ファンタジーの語りでうまくいっているものは、とくに、内的な一貫性が強いことで知られている。ファンタジーのルールは、通常の世界のルールとは異なるが、決して、通常の世界のルールを嘲るものではない。シュールレアリズムは破壊するために覆すが、ファンタジーは再建するために覆すのだ。
カール・クローバー「ロマン主義のファンタジーとSF」より

 優れたファンタジーは、異なる世界を作者ならではの考えで再構築する作業から生まれ、作者はそこに「意味」を与えることに成功しています。世界の秩序を破壊する様々な芸術活動に対し、「0」から世界を創造するファンタジーは、リアルに破壊された世界に住む人々にとっては、大きな救いとなるはずです。
 ちなみに「ロック」もかつては、「シュールレアリズム」に匹敵する破壊の音楽でした。しかし、今やそれもほぼ過去の話となりつつあり、その後誕生した「パンク」の破壊衝動ももう過去の思い出になりつつあります。そんな中、ファンタジーが担ってきた役割は、過去も今も世界の再構築にあるのです。ただし、それが成功しているかどうかはわかりません。もしかすると、ファンタジーの世界もまた「ロック」が変化していったように、世界再構築という作業から離れつつあるかもしれません。
 残念ながら、世界的な大ヒットとなった「ハリー・ポッター」シリーズは、そんな世界の再構築という役割を果たしているとは思えません。

<ファンタジーは「自然」とのつながりを復活させる>
 人類はかつて、自然の一部として生きていました。しかし、森を出た人々は農業を発展させながら、自然を変え始め、自然とのつながりを失ってゆくことになります。そうした自然との決別は、厳しい自然の中で生きる人々ほど、その変化は急激でした。

 しかし、ユダヤの砂漠の部族はこのようには考えなかった。彼らは大地を、養ってくれる母体とは思わず、敵だとみなした。相互依存のネットワークではなく、支配するべき国だと考えた。動物は人間からも完全に切り離された。人間は神に委託されて、ほかのすべてを支配するべきだということになった。
 食べ物を得るために動物を飼って繁殖させ、家畜化し、支配するにつれ、また、都市に住み、人間だけで暮らすことが多くなるにつれて、自分たちをほかの種から切り離し、違いを強調し、自分たちのほうが上だと主張して、近縁関係とそれに伴う義務を拒否することが容易になった。ヨーロッパでは、動物とともにコミュニティーをつくり、隣人として暮らすという考えが非常にまれになり、アッシジのフランチェスコはそう主張しただけで、変人で聖人だということになった。
 ヨーロッパでは十八世紀までに、「自然」が発明されていた。「自然」はほかの種すべてと、彼らが棲み、わたしたちは棲まない場所のすべてをい含む。理想化されないにせよ、悪霊のように思い描かれるにせよ、自然は人間にとっての「他者」だ。わたしたちは自然の外に、自然の上に立つ。


 <ファンタジーは失われた楽園を求める>
 多くのファンタジーに出てくる懐かしい森や町や、わたしのアースシーは、そういう偉大なビジョンに基づいているわけではないが、やはり、現代の人類が追放の身であり、かつて知っていたコミュニティーやその親密さから締め出されているということを含意していると思う。そのことを嘆くというよりは、読者に思い出させるというほうが的確だろう。

 「ペット」は人と自然をつなぐ数少ない存在といえますが、「ファンタジー文学」とは、そのつながりを復活させることができる数少ない存在といえます。
 これまでファンタジーの作家たちは、それぞれの作家たちがそれぞれの思う世界を提示し、その世界と人類との共存のための未来を模索してきました。そして優れたファンタジー作品は、読者にもその模索に参加させてくれます。
 宮崎駿が描いてきた「腐海の森」や「トトロの森」、「もののけの住む森」は、まさにそんな人間と自然が共存する世界です。

<ファンタジーは新たな世界への希望を生み出す>
 想像力の文学は、悲劇的なものであっても人を力づける。ノスタルジックな慰めを与えるという意味では、必ずしもなく。それは、想像力の文学がほかの選択肢を含むに十分なほど大きな世界を与え、それによって希望を与えるからだ。
 際限なく繰り返しから成るフラクタルな世界は、驚くほどもろい。その中には安全さというものが、その幻影すらもない。人間が建設したものは人為的作用によって、今にも完全に破壊されるかもしれない。それは、中性子爆弾、テロリストたち、次なる疫病の世界だ。それは人間だけを研究する人間だ。それは現実という罠だ。人々がどこかほかのところに目を向けたいと望むことに何の不思議があるんだろうか。だが、ほかのどこかはない - 人間ではないものの中と、わたしたちの想像力の中にしか。
 マンデルブロ集合の世界から出たいと望むなら、望むこと自体によって道路地図が手にはいる。正確で、複雑で、不可解で、不可欠な地図だ。


 ファンタジーは、けっしてハッピーエンドとは限りません。しかし、優れたファンタジーはたとえ悲劇で終わったとしても、そこには明日への希望が残るものです。それは現実世界において数多くの悲劇に見舞われている人々に勇気と希望を与える文学としての役割を果たしているはずです。

<ファンタジーはメッセージを語らない>
 フィクションの書き手であるわたしは、メッセージを語ることはしない。わたしは物語を語る。
 たしかに、わたしの物語は何かを意味している。でも、それは何を意味するか知りたいなら、物語にふさわしい言語で、その問いを投げかけなくてはならない。メッセージなどという用語は、解説書や説明文、訓話にふさわしいものだ - それらはフィクションの言語とは異なる言語で書かれている。
 物語が「メッセージをもっている」という考えは、その物語を二、三の抽象的な言語に縮小することが可能だということ、学校や大学の試験で要求されるように、またそっけない書評に見られるように、コンパクトに要約できるということを前提にしている。

 フィクションに意味がないとか、役に立たないとか言いたいのではない。とんでもないことだ。わたしの考えでは、物語を語ることは、意味を獲得するための道具として、わたしたちがもっているものの中でもっとも有効な道具のひとつだ。物語を語ることは、わたしたちは何者なのかを問い、答えることによってわたしたちのコミュニティーをまとまらせるのに役立つ。また、それは、わたしは何者なのか、人生はわたしに何を求め、わたしはどういうふうに応えられるのかという問いの答えを知るのに、個人がもつ最強の道具のひとつだ。
 しかし、それはメッセージをもつ、ということと同じではない。文学的な短編や長編の複雑な意味は、その物語そのものの言語に参加することによってのみ、理解可能だ。その複雑な意味をメッセージに翻訳したり、訓話にしたりすることは、もとの意味を歪め、裏切り、破壊する。


 ダンスや絵画のような表現方法が、言語や国境を軽々と飛び越えるように優れたファンタジーは一般の文学作品よりも広い範囲の年代、民族の人々に受け入れられています。それは、「メッセージ」を伝える行為が共通の文化認識を必要とするのに対し、「物語」を伝えることはそれがなくても可能だからかもしれません。もちろん、それを可能にするのは、「言葉」と「物語」だけでなく様々な要素(哲学、宗教、文化、社会システム・・・)を自在に操る才能を有している必要があります。
(「指輪物語」の著者J・R・R・トールキンが優れた言語学者だったことは偶然ではないはずです)


<ファンタジーは現実認識のための最強兵器である>
 ファンタジーは子どものための物語の形として、子どもの本質に根ざした、もっとも自然なものだ。なぜ、そう言えるのだろうか?子どもたちはたいてい現実と非現実の区別がつかないからか?子どもたちには現実からの「逃避」が必要だからか?そのどちらでもない。現実から意味を汲みとるために、子どもたちは想像力をフルタイムで働かせているから、そして、想像力による物語こそが、その仕事をするための最強の道具だからだ。

 優れたファンタジーを誰よりも吸収する能力をもつのが「子どもたち」なのは当然かもしれません。

<ファンタジーは孤立しないための必需品である>
 わたしたちは孤立すると気が狂う。わたしたちは社会性に富む霊長類だ。人間には属することが必要だ。お互いに属すること。もちろん、それが第一だ。けれども、わたしたちは遠くまで見ることができ、賢く考えを巡らすことができ、大いに想像することができるから、家族の一員、部族の一員、自分たちと同じような人々の中のひとりであるだけでは満足できない。人の心は怖がりで疑い深いが、それでもなお、もっと大きなものに属すること、もっと幅広いものとひとつになることを渇望する。荒野はわたしたちを恐れさせる。それは未知のもので、無頓着で危険だから。だが、それはわたしたちにとって絶対に必要なものである。・・・

 人類は自然から分離されつつありますが、さらに個々の人間同士の関係もまた分離されつつあるのかもしれません。それは携帯電話やインターネットの発達に反比例するように進んでいる気がします。それだけに人々が共通の社会認識をもつことが可能なファンタジーの存在は、現代社会においてより大きな意味を持ちつつあるのかもしれません。


「いまファンタジーにできること Cheek by Jowl」 2009年
(著)アーシュラ・K・ル=グウィン Ursula K.LeGuin
(訳)谷垣暁美
河出書房新社

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