「極北 Far North」

- マーセル・セロー Marcel Theroux -

<現代文明崩壊後の世界>
 大好きです。こういうタイプの小説。村上春樹の訳でなくても、読みたくなります。
 現代文明崩壊後の世界を描いたSF作品はこれまでも多くの作家が挑んできました。古くはH・G・ウェルズの「タイムマシン」においても描かれたいますし、猿が支配する「猿の惑星」(ピエール・ブール)、植物の王国になっている「地球の長い午後」(ブライアン・オールディズ)、犬が支配する「都市」(クリフォード・シマック)、中世のヨーロッパに逆戻りしてしまった「黙示録3174年」(ウォルター・ミラー)、島に取り残された少年たちを主人公にした「蝿の王」(ウィリアム・ゴールディング)、崩壊後の悲惨な現実をリアルに描いた「ザ・ロード」(コーマック・マッカーシー)、地球の半分が崩壊した世界を描いた「渚にて」(ネビル・シュート)、崩壊後のアメリカを伝説的に描いた「隔離小屋」(ジム・クレイス)・・・どれも名作です。かつて、SF作家たちの多くが人類文明の崩壊を予見する危機的状況を様々な形で描いてきました。その原因は、核戦争、謎のウィルス、世界大戦、異星人からの攻撃、隕石など天体との衝突、大地殻変動、気象異常、ロボットやコンピューターによる反乱など様々です。こうした作品による人類への警告こそ、SF作家の仕事であると言っていたのは、今は亡きカート・ヴォネガットです。
 しかし、SFというジャンルが拡大し一般文学の中に浸透するにつれ、SF作家とは異なる作家たちが「終末SF」を書くようになり始めます。彼らが描く作品の多くは、世界の崩壊に警鐘を鳴らすのではなく、崩壊した世界を創造しそこからの再生を描くことにあります。もちろん人類の文明が崩壊した状況下でたった一人の人間にできることはたかが知れています。できるのは、せいぜい自分の魂を救うことぐらいでしょう。でも作家たちにとっては、そうした0からの創造行為こそ最もやりがいのある仕事なのかもしれません。

<この小説の設定>
 この小説の場合、著者はそんな状況の設定を限界ギリギリのところにもってゆきました。彼は主人公を地球上で最も環境が厳しい極北の地に立たせます。(考えてみると、SFの原点と言われる「フランケンシュタイン」のラストシーンは北極圏でした。そこから物語りが始まるというのもまた象徴的です)
  人が自らの文明を失い、雪に覆われた原野に投げ出された時、どうやって生き延びればいいのか?まるで思考実験のように著者は様々な敵や状況を操り、主人公を危機に追い込んでゆきます。もちろん主人公が死んでしまっては話が終わってしまうので、そう簡単に死ぬことはありません。そしてしだいに主人公は、その世界の状況を少しずつ明らかにしてゆきます。
 この小説の表紙のように真白な雪原に一人ぽつんと立つ主人公は、その視野を自分の育った村から外へと広げてゆき、ついには上空からその土地を眺めるかのように全体像をつかむまでに到ります。

 かつてこれらの河はすべて名前を持っていた。丘だってそうだ。いや、風景の中の模様のように見えないもっと小さなものだって、ひとつひとつ名前をつけられていたかもしれない。かつてはここはひとつの場所だったのだ、と私は思った。祖先たちが苦労して重ねて勝ち得た知識を私たちはずいぶん派手に浪費してきたのだ。

 自分は世界の中のどこにいるのか?そして、この後地球はどんな運命をたどるのか?そうした先を見通すぐらいの高みにまでしだいに登って行くことになります。

・・・失われてしまったものは惜しいけれど、あるいはこれがいちばん良いことだったのかもしれない。二百年ばかり地球は休みをとるのだ。その間に雨が汚れを流してくれる。そして私たちは歴史の堆積層のひとつになる。


 主人公は様々な知識を得ることで、実際に空から地上をながめるだけでなく、その世界の姿を時間を越えて過去から未来までも見通す視野を得てゆきます。都市とともに文明が失われた世界に一人立ち尽くす人間が、いつしかひとつの「都市」のように新たな文明、もしくは新たな世界を自らの中に築き上げてゆく。「新たな世界の創造」これこそ、作家として最もやりがいのある仕事なのです。

・・・これら都市は各々に知識と慣習を有している。そしてまたそこに住む人々の一人ひとりが、毎朝目を覚ましては、思い出せないほど遥か昔から引き継がれてきた努力の総和に、各々の新しい一切れを付け加えようとするのだ。その一方で私たちといえば、毎朝アダムのように目覚め、庭にあるものから食事や衣服を調達し、木々の名前をいちいち考え出さなくてはならない。

<ストルガツキー兄弟の「ストーカー」(「路傍のピクニック」>
 ストルガツキー兄弟のSF小説「路傍のピクニック」もしくはその映画版「ストーカー」。このSFの歴史に残る名作の影響はかなりある気がします。映画「ストーカー」は、軍によって隔離された禁断の土地「ゾーン」の中心部にあるとされる「謎のパワー」を調査するためにそこへ侵入するチームの物語でした。
 似ているとはいっても、もちろんこの小説は「ストーカー」のパクリというわけではありません。彼がイギリスのテレビ番組が制作するドキュメンタリー番組のためにシベリアやウクライナを旅した時の体験がそのインスピレーションのもとになったようです。特に彼が取材で訪れたウクライナでは、かつて原発事故が起きたあのチェルノブイリ近くの移住禁止区域に住む一人暮らしの女性と出会い、彼女に大きな影響を受けることになりました。たった一人で放射能の危険を無視して、そこで農業を営み自給自足の生活を続ける女性の姿を見て、彼女なら人類最後の一人になっても行き続けるのではないか?そう思ったといいます。そして、そんな彼女と彼が旅した広大なシベリアの雪原を組み合わせれば、この小説への第一歩は踏み出されたといえるでしょう。

<人類最後の存在>
「人類の文明を過去へと巻き戻し、そこから再スタートを切るとしたら、どんな人間がそこで生き残れるか?」
 著者はその設定をもとに物語を書き始めていったようです。
 この小説の意外なところは、物語がスタート地点から出発して遥かな旅に出た後、再びスタート地点に戻ってくるところにあります。でも、もとの状況に戻ってしまっていいのでしょうか?いやいや実は主人公の心の中は、過去のそれとは全く異なるのです。
 人が生き延びようと決意するのは、明日に希望を見出せて初めて可能になることです。それは「今」を理解することで「明日」を見通せるようになることでもあります。

<福島への思い>
 この本の翻訳者、村上春樹氏が「あとがき」で書いているように、この小説を読めば「福島」のことを思わずにはいられません。東日本大震災以降、福島を離れて暮らすことになった人々に「明日は見えているのか?」ということを思わずにはいられません。
 当面の生活費があっても、住む家があっても、仕事があっても、共に暮らす家族がそろっていたとしても、自分たちが望む「明日のビジョン」が見えてこないとしたら、誰だって生きる気力を失うはずです。でも、どうやって「明日」を見つければいいのか?
 誰一人同じ状況ではなく、人それぞれの「明日」は違うのは当然です。自分の力で見つけられる人もいれば、家族の支えが必要な人、国や地方自治体の支援が必要な人も多いでしょう。ゼロからの再スタートが可能な人もいれば、年齢的にも経済的にも再スタートが不可能な人も多いでしょう。
 最後の最後まで生き残る本当に強い人は、「明日」を創造して脅える人ではなく、地道に「大地とともに生きる能力」を持つ人なのであり、その状況を把握するために旅をする必要もあるのかもしれません。

 おまえがここを出ていく準備ができたときには、ウィンチェスター銃と、いちばん速い馬を二頭携えて行くがいい。冬のよく晴れた日が旅立ちには絶好だ。・・・

 2012年の年末、インドで起きた集団レイプ事件が大きな問題になりました。急激な経済発展と貧富の差の拡大、拝金主義による宗教心の駆逐、インターネットなどによる情報の氾濫などにより、インドは急激に変りつつあるようです。かつては貧しい国ではあっても、宗教心から集団レイプ事件のような弱者への暴力犯罪が少ない国だったはずのインド。しかしそのインドですら、モラルが失われつつあるのです。
 貧しい人々が世界中どこでもユニクロを着て、マックを食べている・・・残念ながら世界は着実にそうなりつつあります。

<あらすじ>
 未開の地シベリアに理想の生活を求めて移住した人々。彼らはそこで原始的ではあっても地に足のついた生活を始め、自らが捨てた現代文明からの独立を果たそうとしていました。

 それぞれの国の貧乏人は、それぞれに見かけが違うし、その違い方は貧乏じゃない人々の場合よりも大きい、というのが父の唱える説だった。貧しい人々のルーツは大地に根ざしており、彼らが食べるもの、着るもの、彼らの家、彼らの習慣 - それらはみんな大地からそのまま育まれたものなのだ。藁か椰子かカリブーの皮か。米か小麦かキャッサバか。毛皮か木綿か毛織物か。彼らの暮らしは丸ごと、その土地の特性や慣習に固定されている。
 でもあるとき父は、母と出会う一年ほど前のことだが、旅して回っていて、あることにはっと気がついた。世界中どこの国であれ - ペルシャ、シャム、インド地方、ヨーロッパ、南洋地域、メソポタミア - 貧しい人々はみんな同じような見かけになってきた。彼らは同じように暮らし、同じように食べ、同じ服を(中国の同じ地域で作られた服を)着るようになったのだ。
 父にとってそれは、人々が土地から切り離されたというしるしだった。


 ところが、そこで世界を崩壊に導く事件が起きてしまいます。生きる場所、生きる糧を求めて押し寄せる人々によって彼らの町もまた崩壊してしまいます。

 最初の飢えた女が雑貨店の前で倒れ、息を引き取ったとき、いったい何が持ち上がっているのか、しばらくのあいだ私たちにはわからなかった。でも今にして思えばそのとき、世界の半分が移動を余儀なくされていたのだ。

 町に残った唯一の生き残りメイクピースは、ある日どこからか飛んできた飛行機を目撃。どこかにまだ文明が存在していることを確信し、旅に出ます。しかし、その旅はあまりに過酷で、危険に満ちたものとなります。

「極北 Far North」 2009年
(著)マーセル・セロー Marcel Theroux(アメリカを代表する作家ポール・セローの息子です!)
(訳)村上春樹
中央公論新社

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