女性たちの20世紀ファッション


- ポール・ポワレ、ココ・シャネルからヴィヴィアン・ウエストウッドまで -

<ファッションと女性史>
 「20世紀ファッション史」の主役は、やはり女性です。男性のファッションは、ブルックス・ブラザースが登場した1920年代頃からほとんど変わっていません。第一次世界大戦が生み出したいくつかのファッション(カーディガン、トレンチコート、ラグラン袖のトレーナー)とゴールドラッシュが生んだジーンズとスポーツ用のジャージでほぼ出尽くしてしまいました。(あとは、それを破いたり、継ぎはぎしたりぐらいしかやることは残っていなかったようです)
 それに対して、女性のファッションはスカートやワンピースから男性用のジーンズやTシャツまで、幅広く変化をし続けています。それは女性の社会的地位の変化とともに変化し続けたともいえます。その意味では、女性ファッションの変化は20世紀の社会変化と連動していて、興味がつきません。というわけで、ここでは20世紀のファッションを世界史の変化とともに振り返ります。

<女性ファッションの始まり>(19世紀)
 20世紀以前からファッション・ビジネスは存在していましたが、王侯貴族が身に着ける衣装と大衆が身に着ける衣装はまったく異なるものでした。その点では、ファッション・ビジネスとは上流階級の権勢を示すため存在だったといえます。より安価な既製服の販売については、ヨーロッパにおいて1820年ごろには始まっていたといわれますが、それはあくまでもお金を持つ人々のためのものでした。
 当初、ファッションの歴史を推し進めたデザイナーはやはり上流階級の女性のことを理解できる上流階級の出身でした。例えば、フランスで19世紀末から20世紀にかけて活躍したマダム・パキャン。彼女は夫が銀行家という上流階級の婦人で、自分と同じ階級の女性たちのために洋服をデザインしました。アイデア豊富な彼女は、人の出入りがある場所で自分のデザインした衣装と身に着けたモデルたちを歩かせるなどして話題作りを行う優れた商売人でもありました。ただし、当時のファッションはある意味上流階級のためのユニフォーム的な存在だったともいえます。

オートクチュールは、モードを変化させつつ特権的な人々に提供されるファッションであるがゆえに、資本主義市場経済のシステムに適合するとともに、ブルジョアの存在を安定させる役割をも担ったのである。

 19世紀上流階級の女性が着ていたファッションで最も特徴的なのは、コルセットによってウエストを目いっぱい細くした独特のシルエットです。19世紀と20世紀のファッションにおける最大の違いは、このコルセットのあるなしかもしれません。とはいっても、19世紀の時点でコルセットのないファッションがなかったわけではありません。
(ただし、コルセットのないファションは19世紀半ばにアメリカでアメリア・J・ブルーマー夫人がブルーマーパンツをデザインして男女平等のパンツルックを実現していました)

<ポール・ポワレとココ・シャネル>(20世紀初め)
 「ファッション」としての多くの人々に広がったコルセットのないデザインを生み出したデザイナーとして知られているのはフランスの男性デザイナー、ポール・ポワレです。1900年にイサドラ・ダンカンからの依頼により東洋風のゆったりしたデザインの衣服を生み出したポワレは、1906年にコルセットをなくしたゆったりシルエットのドレスを発表しました。
 1910年、彼はトルコのハーレムパンツに似たパンツルック、ローブ・アントンラヴェを発表します。しかし、ポワレは女性たちの心を解放するためにコルセットをとったというより、ファッションの流れを生み出す中で自然にゆったりになったのでしょう。しかし、コルセットが消えたことは確実に女性の地位向上を示すものだったとはいえるでしょう。
 ゆったりとしたコルセットのないファッションを、女性目線でさらに推し進め、そこに思想性まで持ち込み、女性たちの生き方にまで影響を与えることになったのは、女性デザイナーのココ・シャネルでした。彼女はジャージ素材の導入で女性ファッションの価格を大幅に下げると同時に動きやすいカジュアル・ファッションやパンツスーツなどによって、働く女性たちのための「ユニ・フォーム」を与えることになりました。自らも働く女性として男たちと競い合っていた彼女は、その後も「働く女性」、「自立する女性」の身に着けるべきファッションを提案し、女性ファッションの流れを大きく変えてゆきます。彼女の登場は、より多くの女性たちに流行のファッションをもたらしたが、まだまだごく一部の人たちのモノでした。

<ファッションの大衆化>
 ファッションが大衆化したきっかけは、社会に中産階級という新しい階層が現れ、彼らが自分たちのファッションを求めたことだったといえます。特にアメリカは貴族階級が存在しなかった分、誰もが中産階級や上流階級に仲間入りできる国だったことから、中産階級向けのファッションがいち早く広がったといえます。
 アメリカの既製服ともいえる「アメリカン・ルック」を生み出したクレア・マッカーデルは、アメリカにおけるシャネル的な存在で、1946年のベビー・ドール・ドレス(ルーズ・シルエットの黒のハイ・ウエスト・ドレス)はその代表作でした。
 アメリカの大衆は、こうしてアメリカ初の百貨店「メ―シーズ」でブルックス・ブラザースなどの既製服を購入することで「アメリカン・トラッド」と呼ばれる大衆ファッションを育てました。ただし、この時点ではまだ「ファッション」はお金持ちのための贅沢品だったといえます。映画「華麗なるギャツビー」の豪華なパーティーでの衣装はまさにその映像化でした。
 その後、さらに「ファッション」における平等を押し進めたのは、皮肉なことに「戦争」という悲劇でした。

<戦場における平等>(1950年代)
 ヨーロッパでもアメリカでも日本でも、戦争が始まったことで、国家的な衣料品の制限が実施されました。そして多くの国民には国民服や軍需工場で働くためのユニフォームが広まって行きました。こうして標準化されたファッションは、階級の差、収入の差、性の差もなくし、国民を平等に扱う文化を生み出すことになりました。特に戦場において「平等」を体感した若者たちは故国に帰っても、そのことを忘れませんでした。これが彼らが着るモノにも影響を与えることになりました。
 もうひとつこれらのユニフォームは、美しさや個性よりも「動きやすさ」や「頑丈さ」そして「安価」であることが求められていました。そのため、素材はシルクではなくコットンが中心となり、動きやすさのためにジャージ素材が持ち込まれ、頑丈さという点でデニム(ジーンズ)やキャンバス地も用いられるようになります。こうして広まることになった機能優先の実用服こそ、カジュアルな大衆ファッションの原点でした。戦後、1950年代に青春時代を迎えた若者たち(ビートニク世代)は、これらの前述のカジュアル・ファッションの中から、Tシャツやジーンズを普段着として選び、自分たちのファッションとして確立することになります。(マーロン・ブランドジェームズ・ディーンはその象徴)
 さらに1960年代になり、ヒッピーブームの時代になるとそうしたカジュアル・ファッションは、女性たちの間にも広がり、男女平等のユニセックス・ファッションを生み出すことになります。

 ジーンズとTシャツという衣服は、街をうろつく貧しい若者の衣服でもあった。それゆえ、この姿は、つつましい仕事着という古くからの印象と並んで、無軌道な若者の雰囲気を演出する小粋な印象をもたびたび作りだしてきた。そして1960年代には、現代の「サン・キュロット」派の衣服、反抗的な都会の群衆が着る恐ろしい衣服になった。・・・Tシャツとジーンズはファッショナブルな反体制の威信を保ち、どんな流行のなかでも泰然自若としていられる力を保ち、しかもいつまでも新鮮なままである。
アン・ホルダー「性とスーツ」より

 しかし、同じ頃、女性たちはまったく異なるファッションを発見します。それはより女性としてのアイデンティティーを追求した究極のデザインともいえるファッション・アイテムでした。シャネルの登場以後、最大のファッション革命、それは1965年「ミニ・スカート」の登場でした。

<ミニ・スカート革命>(1960年代)
「クレージュはポール・ポワレとともに、20世紀モード史の双璧をなす真の創造者であると言えるだろう」
ブリュノ・デュ・ロゼル「20世紀モード史」より

 ミニ・スカートの発明者とも言われる人物、それは空軍のパイロットからファッション・デザイナーになった男性デザイナー、アンドレ・クレージュでした。彼はそれ以前に1963年には「パンタロン」も発表してブームを起こしていて、「ミニ・ルック」として発表したミニ・スカートも大きな話題となりました。ただし、彼は単なる思いつきでスカートを短くしたわけではありません。そこには、深い思想が込められていました。彼はミニスカートの発表時、次の3点にこだわったとされています。

(1)現代女性は働く女性であり、車を乗りまわすなど、活動的な生活をしている。したがって、その服はかさばらず、働きやすいということが基本になる。女性の服は気取りではなく、行動が重視されなければならない。
(2)現代女性は男性と平等であることを望んでおり、現にますます男性と対等な存在になっている。女性はもはやオブジェ「男にみられる対象」ではなく、シュジェ「男をみる主体」になろうとしているのだ。女性は服装のなかで、この男女平等を表現すべきである。これは男性の服を女性のものとしてとらえることで実現されるだろう。
(3)現代女性は自分に巻きつけられた性のタブーという鎖を全部、アクセサリー・ショップに放り投げてしまいたいと思っている。つまり、自分の性の衝動や欲望がノーマルなものとして認められ、受け入れられることを望んでいるのである。したがって、女性は自分の肉体をみせることができなければならない。服でごまかさずに、あるがままの肉体を強調する必要がある。


 しかし、どんなに素晴らしい哲学を盛り込んでも、それが受け入れられなければ「ファッション」としては成立しません。クレージュ自身当時は、ミニ・スカートが大ヒットすることになるとは実は思っていなかったといいます。ところが、女性たちはそのファッションを持ち望んでいたのです。
 クレージュのミニ・スカートの影響を受け、イギリスのジンジャー・グループ社が「マリー・クワント」のブランド名でミニ・スカートを売り出すと、その人気はアメリカへと飛び火し、それは一躍世界的ブームへと発展することになります。
 こうして始まったミニ・スカートのブームは、女性たちに様々なライフ・スタイルの変化をもたらすことにもなりました。

<脚線美の時代へ>
 ミニ・スカート革命は、女性たちのライフスタイルに様々な影響を与えることになります。
 例えば、そのヒットに合わせて「パンティー・ストッキング」が急激に売れるようになり、それまでの「ガーターとストッキング」の組み合わせは世の中から消え去ることになります。
 「ミニ・スカートの女神」とも呼ばれた元祖スーパーモデルのツイギーが登場。ファッション・モデルという女性にとって憧れの職業が注目を集めるきっかけとなりました。そして、ここから女性たちはそれまで覆い隠していた脚線を表に出して競うようになります。
 「脚線美」とともに自らの肉体のラインもまたアピールするべき存在となり、そこから美容産業やダイエット産業など様々なファッションの展開が生まれることにもなりました。こうした展開は、21世紀になる頃には男性たちにも広がることになります。ジーンズやTシャツもまたそうした身体のラインを美しく見せるための存在でした。ヒッピー・ムーブメントだけでなく、音楽、映画、文学など様々なジャンルで革命が起きた1960年代はファッションにおいても革命が起きていたわけです。
 しかし、この革命もまた60年代末の反体制運動の鎮静化とともに終わりを迎えることになります。1970年代に入ると、ミニ・スカートもジーンズもTシャツも、ファッションにおける定番アイテムとなっていました。

<パンクの時代>(1970年代)
 定番アイテムとなったTシャツやジーンズを再びファッションの最前線に復活させてのは、パンク・ロックのブームでした。「ロックは死んだ」と宣言したセックス・ピストルズの登場から始まった「パンク・ロック」のブームですが、その仕掛け人は二人のファッション・デザイナーでした。ロンドンでブティック「SEX」をオープンさせたマルコム・マクラーレンと当時彼の妻だったヴィヴィアン・ウエストウッドです。
 二人が店の名前を売り出すために売り出したセックス・ピストルズは、パンクのブームを巻き起こし、それとともにパンクのファッションもまた世界に広がることになりました。この時、「パンク」は新たな反体制思想の表現方法でしたが、すぐに流行のファッションに取り込まれることになりました。
 安全ピンと赤のモヒカン・ヘア、古着のレザー・ジャケット、アーミー・ブーツなどを特徴とする「パンク(=腐敗、くだらないモノ)」は、その後、ジャン・ポール・ゴルチェがコレクションに登場させたことでセレブまでもが着用する流行のファッションに仲間入りし、その役目を終えました。
 ただし、「パンク」の名のもとに登場したバンドの中でもクラッシュ、ポリス、XTC,エルヴィス・コステロ、ポール・ウェラーらがパンク以後も長く活躍を続けたように、パンクの元祖ヴィヴィアン・ウエストウッドはその後もファッション界のトップを走り続けることになります。
 20世紀も終わりになると、いよいよ女性たちはファッションだけでなくあらゆる市場における重要な存在となり、それらを生み出す側の主役として活躍するようになります。ファッションにおける流行も当然女性たちから始まり、男性はその影響を受けて後追いで流行を取り入れる時代になります。(かつては、その逆でしたが・・・)

<参考>
「かわいいの帝国 モードとメディアの女の子たち」
 2009年
古賀令子(著)
青土社

「ファションの20世紀 都市・消費・性」 2007年(初版1998年)
柏木博(著)
NHK出版

「ファッションの歴史(下)」 1985年
J・アンダーソン・ブラック、マッジ・ガーランド(共著)
山内沙織(訳)
(株)パルコ出版

クール&カワイイ・ジャパン   20世紀ファッション史へ   トップページへ