- フェラ・アニクラポ・クティ Fela Anikulapo Kuti -

<アフリカン・ポップスを代表し続けた男>
 アフリカン・ポップスは、キング・サニー・アデユッスー・ン・ドゥールサリフ・ケイタトマス・マプフーモパパ・ウェンバなど、数多くのミュージシャンたちの活躍で1980年代後半には、世界的に注目を集めるようになりました。それぞれの地域ごとに独自のスタイルをもつアフリカン・ポップスは、新しいファンク・ミュージックの発進地として重要な地域になったのです。しかし、そのアフリカン・ポップスの黄金時代から、さかのぼること20年、1970年代にアフリカから世界に向けて独自のファンク・サウンドを発信し始めた男がいました。その男、フェラ・アニクラポ・クティ(アニクラポとは「死をコントロールする者」という意味だという)の存在は、他のアフリカン・ポップスのミュージシャンたちとは、まったく一線を画す位置にあると言えるでしょう。彼は1960年代から、この世を去る1997年まで、その独自のスタイルで常に第一線で活躍を続けた「孤高の人」でした。(彼はエイズによる合併症でこの世を去りました)

<フェラの生まれた街>
 フェラ・ランサム・クティは、1938年にナイジェリアの首都ラゴス北部に位置する街、アベオクタで生まれました。このアベオクタという街は、20世紀初頭にこの地がイギリスによって植民地化されようとしていた時、最後まで闘い続けたヨルバ人たちの拠点として、歴史的に有名な街です。その街に、誇り高きヨルバ人の一人として彼は生まれたのでした。

<ヨルバ人とは?>
 ヨルバ人というのは、ナイジェリアにおける三大民族、イボ族、ハウサ=フラニ族、ヨルバ族の中でも、主流派に属する民族で、大統領など政府の中枢を占めています。アフリカを代表する楽器のひとつ、トーキング・ドラムは、元々ヨルバ族の楽器であり、ジュジュを代表するミュージシャン、キング・サニー・アデもヨルバ人です。 そして、1970年代にこのヨルバ人中心のナイジェリアから独立しようと、イボ族の人々が起こした戦争があの悲惨をきわめた「ビアフラ戦争」だったわけです。その意味では、フェラ・クティは、一応ナイジェリアにおける主流派民族の出身であったことになるわけです。

<フェラとそのサウンドの生い立ち>
 フェラの父親は牧師で、母親は教師から政治運動家へと転身した進歩的な人物でした。(母親は、後に軍隊によって殺されています)しかし、そんな堅い家庭に育った彼は、多くの教職者の家庭がそうであるように、反抗的な少年時代を過ごし、16歳の頃から仲間を集めてバンド活動を始めていました。当時の音楽の流行は、ハイライフと呼ばれるジャズからの影響を大きく受けたポピュラー音楽で、1958年にロンドンの音楽大学に留学してからは、彼の興味はさらに本格的なジャズへと向かって行きました。しかし、帰国後は、1960年代にアフリカを訪れたジェームス・ブラウンのファンクに衝撃を受け、その要素を吸収しながら、自らのサウンドに積極的に取り入れて行きました。
 こうして、ジャズとハイライフ、ファンクが一体化した彼独自の複合的ファンク・サウンドが生み出されました。それに彼は「アフロ・ビート」と言う名をつけ、後にそれが彼のサウンドの代名詞となったのです。

<黒人解放運動との関わり>
 1969年、彼はアメリカへバンドを引き連れてツアーに出かけ、そこでマルコムXらによる黒人解放運動の影響を強く受けて帰国します。そして、この後彼は、世界の黒人が連帯する事を目指し、その第一歩として、アフリカの統一を目標にかかげるようになり、そのための音楽活動をしてゆくようになります。

<カラクタ共和国の設立>
 1970年代のナイジェリアは、油田マネーによる政治腐敗と貧富の差の拡大、都市部のゲットー化など、多くの問題を抱えていました。そんな状況の中、1974年にフェラは、ついに政府に反旗をひるがえし、「カラクタ共和国」というコミューンを設立します。しかし、そんな彼の国家内国家の設立が政府に認められるはずはなく、カラクタ共和国は警察と軍隊による襲撃を受け、彼は逮捕されてしまいます。
(注)1974年発売のポール・マッカートニーの最高傑作アルバム「バンド・オン・ザ・ラン」は、アフリカで録音されたことで有名ですが、この録音を実現させたのがフェラ・クティーだったのだそうです。驚きです。

<音楽による戦争の開始>
 しかし、本当の闘いはそれからでした。彼は刑務所からの出獄後、すぐにその獄中での出来事をもとに強烈なファンク・グルーブを持つ曲を作りあげ「アラグボン・クローズ」(1974発売)として発売します。(アラグボンは刑務所の名前)さらに、襲撃事件については「カラクタ・ショウ」(1976年)、強制的に排泄物検査をさせられたことについては「エクスペンシブ・シット」(1975年)、そして彼らを襲った軍隊を批判して「ゾンビー」(1976年)など、次々に政府を批判するアルバムを発表していったのです。なんと、ナイジェリア国内では、これらのアルバムがどれも大ヒットし、その凄さは国境を越えて海外にまで伝わって行きました。

<長く果てしない闘い>
 その後も、カラクタ共和国は何度となく軍隊による襲撃や放火、強姦などの被害を受け続けますが、フェラはその都度新しいアルバムを発表し、果てしない闘いが続きました。ついに彼はナイジェリアの大統領を目指すようになり、それに対する弾圧はさらに強まって行きます。しかし、彼はけっしてその闘いから手を引きませんでした。これほどの「闘うミュージシャン」は、未だかつて存在しなかったでしょう。
 彼のそんな強靱な精神力が生みだしたリズムだからこそ、彼のアフリカン・ビートが生み出すグルーブは、多くの人々の腰を休むことなく動かし続けるのに違いないのです。

<日本に登場した頃>
 日本にやっと彼の名が知られるようになったのは、初めて彼の日本版アルバムが発売された1981年頃ということになるでしょう。
 アメリカ帝国主義の象徴としてITT(インターナショナル・テレフォン・アンド・テレグラム)を批判した1979年発売の「ITT」を含んだ編集盤「アメリカン・プレジデント」「オリジナル・サファーヘッド」、この強力な二枚が、僕にとって最初のフェラとの出会いでした。そして、それは同時にアフリカン・ポップスとの初めての出会いともなりました。しかし今思うと、フェラのアフリカン・ビートの衝撃は、アフリカン・ポップス初心者の人間にとって、ちょっと荷が重すぎた気もします。彼の存在の凄さを理解できるようになってきたのは、その後「ジュジュ」や「リンガラ」など比較的ポップなアフリカの音楽が日本に上陸してからのような気がするからです。
 彼はあまりにも「孤高の存在」でありすぎました。LPの片面一曲が当たり前の彼にとっては、シングル・ヒットというものはあり得なかったし、彼のワン・アンド・オンリーのサウンドは模倣が不可能でした。そのため、彼の存在は、意外なことにクラブにおけるサンプリングネタで初めて知られるという、不思議な展開になってしまいました。もっと評価されるべき存在であるはずなのですが・・・。

<フランク・ザッパとフェラ>
 彼の存在をあえて、他のジャンルのアーティストと比較するなら、僕は1993年にこの世を去ったロック界の巨人、フランク・ザッパのことを思い出します。フェラが弾丸のように発表しまくったアルバムは、オリジナルだけで55枚程度、それに対し、ザッパはリミックス盤も含むが60枚以上と言われています。そして、「ザッパを大統領に!」という運動が、かつてアメリカで盛り上がったことありました。もし、ザッパがアメリカ合衆国の大統領になり、フェラがナイジェリアの大統領になっていたら、世界はどうかわっていたでしょうか?

<締めのお言葉>
人生とは何か?
「食べること、飲むこと、そして楽しむこと、なぜなら人は明日には死を迎えるかもしれないからだ」
カルロス・ムーア著「フェラ・フェラ」(フェラ・クティの伝記)より

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