「フロベールの鸚鵡 Flaubert's Parrot」

- ジュリアン・バーンズ Julian Barnes -

<不可思議小説>
 この作品は小説と呼ぶべきなのか?それは発表当時から議論の対象になってきたことです。実際、この小説は、隣国フランスではエッセイ部門においてメディチ賞を受賞しています。エッセイなのか?評論集なのか?研究本なのか?小説なのか?実に不可思議な作品です。
 しかし、それが単に奇書とか面白本ではなく、複雑かつオチャメな構成を持ちながらも、なおかつこの本は「小説と何か?」「創作とは何か?」「芸術とは何か?」などの疑問に真面目に挑んでいるのですから驚きです。
 20世紀フランス文学史を代表するというよりも、世界の現代文学史を代表するというよりも、世界の現代文学史を語る時に忘れることのできない存在である小説家ギュスターヴ・フロベールについて、ある架空の研究者が書いた評論、年表、小説、エッセイ、観光案内、辞典、試験問題集・・・etc.なんとも種々雑多な文章を数々を集めた総合作品集。それがこの本「フロベールの鸚鵡」なのです。

<フロベールとは?>
 では、この本でジュリアン・バーンズが取り上げているフランスの作家フロベールとはいかなる人物なのか?
 先ずは、そのことについて、日本を代表する小説家、小説研究家である高橋源一郎氏のお言葉を頂戴しましょう。

「限りなく零に近い予備知識として、小説の歴史を講義してみよう。わたしの小説史は簡単だ。数行で終わる。こんな具合いに。
 - 近代小説の歴史は二つの源泉を持つ。
 一つは『ドン・キホーテ』。 でも、これは偉大な例外とでもいうべきものだ。
 もう一つは18世紀イギリス小説。スイフト、デフォー、フィールディング、リチャードソン、スターン。ここではじめて中産階級の無意識を表現するための芸術、つまり小説が生まれた。それと同時に近代も生まれた。
 『近代』小説が『現代』小説に成長するためには海を渡ったところのもう一人の天才を必要とした。フロベールである。19世紀半ば、『近代』が『現代』となった - 」

高橋源一郎「LITERARY」(雑誌SWITCHの文学版)1992年5月号より

 ということは、フロベールという作家の本を読んでからでないとこの本は読んでも面白くないのか?というとそんなことはありません。実際、僕はフロベールの本を一冊も読んだことはありませんでした。彼の代表作「ボヴァリー夫人」を読んでから、この本を読む必要はないと思います。どちらかといえば、この本を読んでから「ボヴァリー夫人」を読む方がいいかもしれません。僕自身は不倫小説ともいえるジャンルの本は読みたいとは思わないのでなおさらです。(これは言いすぎですね。すいません)
 とはいえ、なんの知識もなしでこの本を読んで面白いのかというと、けっしてそうではありません。逆に、ヨーロッパの歴史についての知識があればあるほど面白いのも、この本の特徴でしょう。そのことについても、高橋源一郎先生のお言葉があります。

「・・・何かを知るためには、予備知識があった方がいい。でも、それがどこまで必要なのか、ほんとうはだれも知らない。そして、たいていの場合、われわれはほとんど何の予備知識もなく、いい加減な当て推量で、ものごとについて判断を下す。そのことを考えると、ほんとうにおそろしい。
 そう、ではバーンズを読むために必要な『予備知識』とは何だろうか。わたしにはそれを正確にいう能力はない。ただ、何となくわかるよいうな気がするだけである。・・・・・
 いや、ほんとうに必要な『予備知識』はヨーロッパについての知識なのだ。あるいは近代についての知識。情報ではなく知識。・・・・・」

高橋源一郎「LITERARY」(雑誌SWITCHの文学版)1992年5月号より

 幸い僕はこのサイトを作るために勉強してきたおかげもあり、ヨーロッパの近代史もそれなりに知っているつもりです。そのおかげで、フロベールの小説を読んでいなくても、この本を十分に楽しめたのかもしれません。しかし、19世紀のヨーロッパ史についての知識がほとんどなくても、なお、この本は楽しめるということです。ただただ、あなたが小説好きで、芸術が好きなら、それで十分に作者の「思い」が理解できるはずだと思います。なぜなら、この本はフロベールという作家の生き様に迫ることで、「小説」、「芸術」、「創作」だけでなく、「人が生きる意味」、「人類の未来」といった普遍的な問題にまで踏み込んでいるからでしょう。
 例えば、こんなフロベールの言葉が紹介されています。
「箴言に関する箴言をひとつ。書くことにかかわる真実なら、まだ何ひとつ作品を公にしない前であっても悟ることができるかもしれないが、生きることにかかわる真実は、時すでに遅しというときになってしか悟りえないものである。・・・・・」
フロベール

 文学が好きな人なら、ここで取り上げられている普遍的なテーマにひかれないわけがありません。ここで要注意なのは、著者のジュリアン・バーンズは、こうした芸術論を展開するためにフロベールを用いたわけではないということです。それはあくまでオマケです。彼は大好きな作家であり最も影響を受けた作家の大ファンとして、やりたいことをやっただけなのです。その思いについては、この本の最初に書かれています。

「・・・・・なぜ、僕らは作家をそっとしておけないのか?どうして、書かれた小説を読むだけで足りないのか?
 フロベールが望んでいたのはまさにそのことであったにもかかわらずである。・・・・・僕らには、ひとつの人生が後に遺したものには何か不足を補う真実がひそんでいるにちがいないという思い込みでもあるのだろうか?・・・・・」

「フロベールの鸚鵡」より

 そして、今、僕が書いているこの文章もまた、ジュリアン・バーンズのファンによる余計なお世話的文章なわけです。

<フロベールの生きた時代>
 フロベールの生きた時代とは、どんな時代だったのでしょうか?そのことについては、この本にあまり書かれていないので、ここでちょっと解説しておきます。
 19世紀前半のヨーロッパの思想に大きな影響を与えたものとして、社会主義、共産主義の登場があります。マルクスが「共産党宣言」を発表した1948年、フロベールの住むフランスでは2月革命が起き、第二共和制が成立し、社会主義的な改革が進みます。
 ところが、その改革は理想にはほど遠く、不況がより悪化、政治が混乱する中で一人の独裁者が登場、政権を握ります。皇帝ナポレオン3世の誕生です。こうして、1852年から1870年まで、フランスはナポレオンによる帝政の時代が続くことになります。1850年代末のヨーロッパは全体が経済恐慌によって疲弊していましたが、フランスはアルジェリアの征服と植民地化(1957年)やスエズ運河の建設(1859年)など、海外への活発な進出により経済が発展。1867年には、パリで万国博覧会を開催し、フランスの国力を世界中に見せつけることになりました。そして、この年、フロベールは中産階級による中産階級のための中産階級の不倫小説「ボヴァリー夫人」を発表しています。
 しかし、フランスの黄金時代は、プロシアとの戦争(普仏戦争)での敗北などにより終わりを迎えます。1870年、ナポレオンは皇帝の座を追われ、フランスは第三共和制の時代に入ります。そして、あの有名な「ラ・マルセイエーズ」がフランス国歌となった翌年、フロベールはこの世を去っています。
 ナポレオンの生きた時代とともに去ったフロベールは、ある意味「近代の終わり」と「現代の始まり」を生きた作家といえます。

<進歩の時代への不信>
 この時代、科学の発展はめざましく、この時代に20世紀に発展することになる多くの科学技術が生み出されています。スティーブンソンによる蒸気機関車が開発されたのが1825年のこと。電化時代の基礎となる「オームの法則」が発見されたのが1827年。産業革命によって世界の歴史が加速度的に進化し始めた時代がまさにこの時代でした。こうした、時代の変化に対して、強い嫌悪感を示していた数少ない存在。フロベールはそんな作家の一人でもありました。

「人類の文明が進歩すればするほど、人間は堕落してゆく。すべてが秤ににかけられた経済的利益の絡み合いという時代になれば、美徳など何の役に立つだろう?自然が完全に人間の支配下に置かれ、本来の姿を失ってしまったら、造形美術があるはず。ともあれ、これから混沌の時代がはじまる。」
 さらに彼はこうも言っていました。

「あらゆるものの上にあるものが芸術である。詩篇一冊は鉄道にまさる価値がある。」
 まるでカート・ヴォネガットじゃないですか!ヴォネガットよりも一世紀以上前から、人類の進歩にケチをつけていた男フロベール。なるほど、ただ者ではなさそうです。こうした、フロベールの考え方に対して、この本の主人公であるフロベールの研究者は自らの妻の死について語りながら、こう賛同の意を述べています。

「生は時代とともに進歩向上してゆくものなのだろうか?僕自身の答え、歯の治療法あるのみという答えに似た僕の答えはこうだ。今日、いかにも進歩したと思える唯一のものは死だけである。・・・・・」

 この見解は、この作品の主人公のものですが、いつしかそれはフロベールの言葉なのか、はたまたジュリアン・バーンズのものなのか、わからなくなってしまいます。とはいっても、この本に書かれているフロベールの言葉はすべて彼が書いた文章からとられているそうです。真実あってこそ、虚の魅力が生まれる。これはジュリアン・バーンズの信念のひとつのようです。(そのため、彼は「虚」だけで物語を作り上げてしまうラテン・アメリカの文学には抵抗があるようです)

<言葉と文学>
 この本には、文学を生み出す「言葉」の問題について語ったフロベールの文章についても書かれています。

「・・・『ボヴァリー夫人』の一節にあるつぎのような悲哀に満ちた定義を想い起こしていただきたい。『人間の言葉とは割れ鍋のようなものでしかなく、われわれは星座をも動かさんと願っていながら、調子をつけて割れ鍋を叩いて熊を躍らせるような真似しかできないのだ。』こうしてみると、この作業に対する見方には二通りあり得るわけだ。飽くことを知らず完璧な文体を追求した作家か、あるいは、言語が本質的に不十分なものであるという悲劇に目をとめずにいられなかった作家か、のいずれかである。・・・・・」

 そして、さらに「作家」としての生き方について語ったフロベールの手紙が紹介されています。

「人生にのめりこむと、人生を見る目が曇ってしまいます。人生の辛さ、あるいは人生の喜びにとらわれすぎてしまうのです。芸術家とは、僕の考えでは、怪物的存在 - 自然からはみでた何ものかです。・・・・・」

 「作家」であるということは、いかなることなのか?この究極の問いについてフロベールの言葉を引用しながら歴史との関わりを交えて語られていますが、それはフロベール文学がいかに時代をこえて語りうる存在であるかの証明だったともいえます。

「・・・・・リヴォルノで地震があったとき、フロベールが犠牲者に対する同情と、どこかの暴君のもとで石臼をひかされつづけて何世紀も前に死んだ奴隷に対する同情は、同じ程度のものだったのです。そいつはひどいとお考えですか?これが歴史的想像力を持つということなのです。全世界のみならず、全時代の市民であるとはこういうことなのです。フロベールが『人間に対すると同様に、キリンや鰐に対するべき、生きとし生けるものすべてと神のもとにおいて同胞である』と言ったのは、こういうことなのです。すなわち、これが作家であるということなのです。」

 さらにこの本では、あろうことかフロベールが書かなかった本についての分析までがなされています。確かに書き上げた本よりも書くことを断念した本にこそ作家の夢はつまっているのかもしれません。でもそこまでやるとは、オタクも極まれりって感じですね。

「フロベールの場合、幻の作品ともいうべきものは今ひとつの影を投げかけている。娼家に足を踏み入れて目的を果たさずに終わったことが人生最良の出来事だというなら、ついに書かずに終わった作品の案が浮かんだときこそ、創作生活における最良のときなのではあるまいか。最終的なかたちを与えられなかったためにかえって無垢な姿を残すことができた作品案、作者自身ほどには愛情を持つはずのない読者の目にさらされずにすんだ作品案が浮かんだときこそ、まさに最良のときだったのではないだろうか。」

<時を越えた作家
 フロベールは、時の壁を越えて異なる時代を覗き見る能力をもっていました。当時、時の概念とは過去の文化を研究する「歴史」とイコールで、未来を予知する行為は占い師や予言者の仕事でしたが、フロベールは未来について数多くの不安を書き残しています。

「ことによると、人種間の戦争がまたはじまることになるのだろうか?一世紀もしないうちに、数百万の人間がいっぺんに殺しあって死ぬことになるのではないだろうか?全東洋と全欧の戦い、旧世界と新世界のぶつかりあい、あり得ないことではないじゃないか?」

 なぜ彼をもって現代文学の原点と呼ぶのか?
その理由のひとつとして、フロベールが未来に対してもっていた正確な予測があったはずです。急激に変化し始めていた社会をとらえる力がなければそれを正確に描くことなど不可能なのですから。
 こうした視点をもつことが可能だったのは、彼が旧体制に属する貴族階級ではなく新たに生まれつつあった中産階級に属し、なおかつ、それなりの知識と自由な時間をもつ裕福な階層に属していたからともいえます。だからこそ、そんな中産階級の人々の恋と人生を描いた「ボヴァリー夫人」は、新しい人間たちのための文学となりえたのです。そういえば、この本の作者ジュリアン・バーンズという人物もまた中産階級の出身です。まあ、それはいまどき当たり前として、彼の場合、家族は教師ばかりで作家になろうという意志は彼自身大人になってからも全然なかったそうです。
 彼はオックスフォード英語辞典の編集者として働いた後、37歳になって初めて小説を出版したという遅咲きの作家です。作家よりも良き読者であることを目指していたという彼は、経験が不足している分、自由度は高かったのかもしれません。そして、そんな彼が始めた多角的にフロベールを描き出す試みは、いつの間にか今までにない不思議な構造の本を生み出すことになりました。
 文学は楽しく読まれるのが一番。例えそこに奥深い哲学がこめられていても・・・・・。

「フロベールの鸚鵡 Flaubert's Parrot」 1984年
(著)ジュリアン・バーンズ Julian Barnes
(訳)斉藤昌三
白水社
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「イングランド・イングランド」  「終わりの感覚」 

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