多くの命を救った二人の女性


- フローレンス・ナイチンゲール Florence Nightingale -

- マリー・キュリー Marie Curie -

フローレンス・ナイチンゲール Florence Nightingale 
「看護の概念を変えた改革者」 
<看護師界の天使>
 フローレンス・ナイチンゲール Florence Nightingale は、1820年5月12日にイタリアの
フィレンツェに生まれたイギリス人です。彼女の名前は、生まれた街フィレンツェからとられました。
 父親はイギリスの貴族階級の資産家で、新婚旅行で3年間ヨーロッパを旅するという豪華版。その途中で、2年目のナポリで長女が誕生。3年目のフィレンツェで彼女が生まれたのでした。そんな恵まれた環境で育った彼女ですが、ある日突然転機が訪れます。
 16歳の時、彼女は神の声を聞きます。その声は彼女に神に仕えることを求めました。そのために何ができるのかを考えた彼女は、両親には隠れた医学、看護学について勉強し始めます。直接的に病に苦しむ人を救うことが、神に仕える道に通じると考えたのです。

<19世紀の病院>
 19世紀の病院は今とはまったく違う存在でした。医学自体がまだ発展途上だったこともあり、一般人は病院で治療を受けることができませんでした。当時の病院はそもそも修道院の一部を利用した施設で、その修道院に功績のある人々が病にかかった時に、その世話をするために存在しました。そこは、一部の信者やごく一部の資産家のための施設であり、大衆を救うための施設ではありませんでした。
 ただし、そもそも修道院という施設は、カトリックの宗教者が修行をするために存在しました。ところが、イギリスがプロテスタントの国になって以降、カトリックの修道院は激減し、同時に病院の施設も失われました。
 そんな状況の中、1854年にクリミア戦争が始まります。オスマン帝国を巡り、ロシアとイギリスが戦った戦争です。

<戦乱の地、クリミアへ>
 彼女が医学の専門的知識を持つことを知るイギリスの陸軍大臣シドニー・ハーバートから、イギリス兵の治療のために看護団を率いて現地に向かってほしいとの依頼を受けます。こうして、彼女はクリミア戦争に看護団の総監督として向かいました。
 現地に着いた彼女はさっそく仲間たちと仕事の準備に入りますが、思わぬ妨害を受けます。先に着き仕事を始めていた医師たちが彼女たちを無視し、仕事を与えてくれなかったのです。いかに看護師の仕事が軽く見られていたかがわかります。仕方なく彼女はメンバーたちと共に施設内のトイレ掃除の清掃など、環境の改善を行います。実際、当時病院に入ることは、治療による回復よりも、病院内で感染したり、体調を崩す場合の方が多かったといいます。当時は、そうした環境衛生面の改善はまったく手付かずの状況だったのです。
 その後、戦況が急速に悪化したことから、次々に怪我人が運び込まれ出すと、必然的に彼女たちも働かざるを得なくなります。その間、清掃だけでなく、仮設のベッドを作ったり、換気の徹底を行ったり、汚れたままだったシーツの定期的な交換などを実施。そうした改善が行われたことで、病院の状況は劇的に改善することになりました。当初、病院における死亡率は42%にも達していました。入院すれば、軽い病でも感染症を患い逆に症状が悪化する可能性も高かったと考えられます。ところが、彼女たちの活躍により、3か月後の死亡率は5%にまで下がりました。これでは、死亡者のほとんどは病院によって殺されていたようなものです。

<英国にて>
 戦争が終わり、イギリスに帰国した彼女はビクトリア女王に戦場での経過を報告し、陸軍兵舎と軍の病院施設を改善するよう提案します。彼女の提案が優れていたのは、その根拠を通知データによって示したことだったようです。こうして彼女の進言により、イギリスの病院は大幅に改善されることになり、世界でも先進的な医療先進国へと発展することになります。
 彼女の尽力によりイギリスでは看護学校も設立され、キリスト教の布教よりも病気の治療を目的とした人材を育てることになります。
 同じ頃、コレラなど感染症の患者を隔離、治療するための施設として、ストーク・マンデビル病院のような施設も誕生します。そして、そこで開催された入院患者たちによる体育大会が後のパラリンピックへと発展することになります。

マリー・キュリー Marie Curie 
「二つのノーベル賞と二つの顔を持つ天使」

<女性研究者としての誇り>
 マリー・キュリー Marie Curie というよりも多くの方は「キュリー夫人」として憶えている人物です。彼女が生まれたのは、1867年11月7日ポーランドです。
 キュリー夫人と言えば、世界でただ一人生涯に2度ノーベル賞を受賞した女性です。最初の受賞こそ、夫の共同研究による受賞だったので、一部には夫のおかげで受賞したとみる人もいましたが、この時も研究の主体は彼女だったと言われています。2度目の受賞ではそのことを証明してみせたとも言えます。
 彼女は自らの研究に自信と誇りをもっていました。だからこそ、彼女は自らの研究成果を男性研究者に託すことなく、女性研究者の代表であるという自覚をもって発表を行っていたようです。だからこそ、周囲から目立ちたがり屋と揶揄されてもかまわずに行動し続けました。
 しかし、彼女のそうした行動は悲劇を生むことにもなりました。ラジウムを万能の物質と信じる人々により、安全性を確認することなく様々な分野での使用が増えたことで、多くの人々が被爆し、死者も数多く出ています。

<多くの命を救ったレントゲン>
 彼女の功績は、実はノーベル賞を受賞したラジウムの発見だけではありません。第一次世界大戦において、彼女が普及させたレントゲン撮影の装置は数多くの兵士たちの命を救いました。
 それまで戦場で銃弾を撃ち込まれた兵士を救うことは非常に困難な作業でした。なぜなら、銃創はわかっても、打ち込まれた銃弾がどこにあるのか、まったくわからず、とりあえず銃創を切り拓いて行くしかありませんでした。当然、傷口は開き、銃弾を見つける前に出血多量で命を落とすことが多かったのです。
 X線を照射することで体内のどこに銃弾があるのか?それを明らかにすれば、手術は無駄な切開をせずに済みます。マリー・キュリーは、戦場でそのレントゲン撮影を行うために必要な装置を普及させることに大きな貢献を果たしました。そのおかげでリムジン車を改造した放射線治療車20台が作られ、放射線治療のための装備を200か所に設置されることになりました。その効果は絶大でした。そのおかげで命を救われた兵士の数は100万人に達するとも言われています。

<多くの命を奪ったラジウム>
 自らも夫と共に被爆することになる放射性物質ラジウムの危険性は、当時まだほとんど知られていませんでした。そのため、ラジウムの発する放射線を利用するために多くの工業分野で用いられ、それがなんの防護措置もない人々によって使用されることになりました。特に蛍光塗料としての使用は多く、時計工場などで大量に使用されていました。そして、その工場の労働者の中から多数の被爆者が現れることになりました。
 自らも被爆による白血病で命を落とすことになりますが、その事実を知っていたはずの彼女の心境はどうだったのか?自分の研究は危険ではあっても、救った命の方が死なせた命の方が多いはず。そう考えていたのでしょうか?
 ノーベル賞の受賞の栄光と「マッドサイエンティスト」の汚名は紙一重なのかもしれません。

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