サッカーの歴史年表

- 世界と日本-


サッカーに関する歴史的事件、ルール変更の歴史、Jリーグの歴史などを年表形式でまとめました。
左側に世界のサッカー、右側に日本のサッカーに関する記事を書いてあります。
色分けしてみると、Jリーグ誕生以降、日本のサッカーが左側(世界のサッカー)に進出し始めたことがわかります。
今後、ワールドカップの歴史に是非その名を刻んでほしいものです。

1900年代  1920年代  1930年代  1940年代 1950年代  1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年 2010年

19世紀
1863年
<サッカー誕生>
ロンドンに各地のフットボール・クラブの代表が集合「フットボール・アソシエーション(FA)」設立
バラバラだったルールの統一が行われる 
この時に使われたASSOCIATION(協会)の言葉の一部を学生たちが省略「SOCCER」となった
 
1865年
<チームの役割分担>
バックスが3人、「ゴールキーパー」、「ゴールカバー」、「バック」と役割が分けられ、残り9人がフォワード
 
1866年
<3人制オフサイド>
この年までボールより前に出た選手はすべてオフサイド(アウト・オブ・プレー)とされていた。
ルール変更により、ゴールまでに3人相手選手がいれば、ボールより前に出ていいことになった
 
1871年
<最古の大会始る>
イングランドでFAカップ始まる(当時はまだアマチュアの大会)
<ゴールキーパー>
「ゴールキーパー」だけが手を使うことができると決められる
 
1873年(明治6年)
  <サッカー初上陸>
日本海軍兵学寮の教師として来日していた英国海軍のアーチフォールド・ルシアス・ダグラス少佐と部下たちが
東京築地でレクリェーションとしてサッカーをやって見せた
1886年
「国際サッカー評議会」設立(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)
サッカーのルール決定権限はこの会議の参加国にしかない!FIFAは1913年に加盟
 
1888年
<世界初のプロ・リーグ>
イングランドにプロ・サッカー・リーグ誕生
 
1891年
<PK(ペナルティー・キック)の導入>
最初のPKは、6月2日ロイヤル・アルバートvsエアドリー・ユナイテッドFCで実施
 
1892年
<ゴールキーパー保護>
「ゴールキーパー」がボールに触れているか、妨害行為を働いている時意外、選手はGKに体当たりNG
 
1896年
<初のサッカークラブ誕生>
東京高等師範学校(現・筑波大)サッカー部創部
1897年
<ゴールキーパー>
「ゴールキーパー」が手を使える範囲が、ハーフウェイ・ラインを越えるまでの範囲に規定される
 
1899年
神戸の御影師範学校サッカー部創部
慶応義塾大学蹴球部創部。この後は、サッカーは「アソシエーション式蹴球」、ラグビーは「ラグビー式蹴球」と呼ばれるようになります
1900年
1901年
1902年
1903年
<ハンプデン・パーク完成>
スコットランド・グラスゴーにクイーンズパークがハンプデンパークを建設。(収容人員は6万5千人)
その後、14万人規模に拡張され世界最大のスタジアムとなります。(ただし立見も含めた人数)
1904年
<FIFA>国際サッカー連盟Federation Internationale de Football Association(FIFA)発足(欧州7か国)
フランス、ベルギー、デンマーク、オランダ、スペイン、スイス、スウェーデン
サッカー発祥の地、英国は参加を拒否。それに対し、FIFAは世界選手権開催を当初から目的にしていた
初代会長にロベール・ゲラン(フランス)が就任(1906年まで)
東京高等師範学校(現・筑波大)フットボール部がYC&AC(横浜外人倶楽部)に敗れる
1905年
FIFAにイングランドが加盟
アルゼンチンでサッカー・チームの名門、ボカ・ジュニアーズ結成
<GKの守備位置>
PKの場合、ゴールキーパーはゴールライン内にとどまることが決められまし
 
1906年
FIFAの2代目会長にダニエル・ウールフォール(イングランド)が就任(1918年まで)  
1907年
<日本人チームによる最初の試合>東京高等師範と慈恵医専が対戦
1908年
<オリンピック競技となる>
ロンドン・オリンピックにサッカーが正式競技として加わる
イングランドはアマチュア選抜で楽々優勝。
オリンピックがあれば世界選手権は不要とイングランドは考えていたため、世界選手権開催は遅れることに
 
1909年
<GKのユニフォーム>
「ゴールキーパー」は他のフィールド・プレイヤーと違うユニフォームを着用すること
 
1910年
1911年
1912年
 
1913年
1914年
1915年
1916年
<日本代表初の国際大会出場>
「第3回極東選手権」で、日本代表(東京高等師範)は中国に0-5で敗戦、翌日フィリピンには2-15で敗戦
1917年
1918年
<初の全国大会>
第1回日本フートボール大会開催(大阪・豊中)日本初のサッカー、ラグビーの日本大会。ラグビーのチームだけでは少なすぎたためサッカーとの同時開催となったようです(後の全国高校サッカー選手権)
この後、サッカーとラグビーは別々に大会を開催することになります
1919年
1920年
1921年
3代目FIFA会長にフランス人のジュール・リメが就任
1954年までの長期政権となり、ワールドカップの名前に「ジュール・リメ杯」の名がつくことになる
日本サッカー協会の前身、大日本蹴球協会設立
第一回全日本選手権(アソシエーション式蹴球全国優勝競技会決勝大会)日比谷公園運動場で開催
東京高等師範学校などのOBからなる東京蹴球団が神戸の御影蹴球団に1-0で勝利して優勝
1922年
<最初のサッカーくじ>
競馬などの賭けを対象にしていたロンドンのブックメーカーはサッカーの賭けを非合法で始める
 
1923年
<ウェンブリー・スタジアム>
ロンドン郊外ウェンブリーにエンパイア・スタジアム完成。(12万7千人収容)
「ウェンブリー・スタジアム」と呼ばれると同時に「サッカーの聖地」のひとつとなります
1924年
<ウルグアイ旋風>
パリ・オリンピックで南米から唯一参加したウルグアイが優勝
南米らしい素晴らしいテクニックにヨーロッパ各国のチームは衝撃を受けました
<世界選手権開催に向けて>
パリ・オリンピックの入場料収入の3分の1はサッカーだったため、FIFA独自の世界選手権も成功するはず、という考えがサッカー関係者の間に浸透し始めます
<第1回明治神宮競技大会>(内務省主催)
<サッカー>広島鯉城クラブ(広島市中OBを含むチーム)が優勝
 1925年
<2人制オフサイド>
3人制オフサイドから2人制オフサイド(現在のオフサイド)にルール変更
(2人残っているから安心とオフサイドトラップをどのチームも多様して面白くなくなっため)
<第2回明治神宮競技大会>(内務省主催)
<サッカー>優勝は広島鯉城クラブ。準決勝の御影との試合は2試合連続の引き分けとなり3試合に及んだ。(PK戦はまだなかった)
 1926年
1927年
<日本代表の初勝利>
極東選手権上海大会で日本代表はフィリピンに2-1で勝利。これが国際試合での初勝利
この時の代表チームは早稲田大学の学生とOBからなるチームでした
 
1928年
<打倒ウルグアイ>
アムステルダム・オリンピックでウルグアイが連覇達成
プロ化が進んだヨーロッパの多くの国はプロ選手を出場させられず、プロのない南米は有利だった
プロもアマも一緒の世界選手権開催を望む声が、この後強まることになります
 
1929年
日本蹴球協会がFIFAに加盟
<昭和四年の政変>
大日本蹴球協会は当初高等師範学校関係者が理事会の中心となっていました。
しかし、大学チームの力が強まり、この年、理事会に大学側の理事4人を送り込み、主導権を獲得します。
こうした流れは他のスポーツでも共通していて、大学がスポーツの中心となって行きます。
1930年
<第9回極東選手権>日本・東京大会
サッカー日本代表は中国と引き分け優勝。これが国際大会初優勝となった。
第1回ワールドカップ・サッカー・ウルグアイ大会
参加国は13
ヨーロッパからはフランス、ユーゴ、ルーマニア、ベルギーのみの参加となり、ウルグアイは関心の低さに抗議して次回大会への参加を拒否する
ウルグアイは独立100周年を記念して大会誘致を決定。参加チームの宿泊費や旅費はウルグアイ政府が負担し、首都モンテビデオには十万人収容のスタジアムを建設すると発表しました
大会は延べ43万4千人を動員し、FIFAも大きな利益を獲得。この利益を使うことで、スイスのチューリッヒにFIFAは本部を設立。専門の事務員も雇うことが可能となりました。
<準決勝>
アルゼンチン 6-1 アメリカ
ウルグアイ 6-1 ユーゴスラビア
<決勝>
ウルグアイ 4-2 アルゼンチン
<活躍した選手>
ホセ・レアンドロ・アンドラーデ(世界初のの黒人スター選手となったウイング・ハーフ)
<ワールドカップ開催までの経緯>1924年パリ・オリンピック、1928年アムステルダム・オリンピックではウルグアイが連続優勝
1932年ロス・オリンピックではアマチュア規定の問題からサッカーが除外され、そのために世界選手権を開催する企画が登場した
第一次世界大戦によってヨーロッパは疲弊し、逆に食料品を輸出していた南米には勢いがあった
「アルゼンチンは想像力あふれる華麗なフットボールを展開した。しかし技術で上回っても、戦術の欠如は補えない。ウルグアイはアリで、アルゼンチンはセミだった」
イタリアのジャーナリストによる決勝の記事より
(イソップ物語の「アリとキリギリス」は多くの国で「アリとセミ」として知られている)
1931年
<ゴールキーパーの死>
9月5日スコットランドでのレンジャースVSセルティックにて、セルティックGKジョン・トムソンがレンジャースのフォワード、イングリッシュと激突。頭がい骨骨折により死亡。
 この死からGKへのチャージについて、問題点が指摘されるようになり始めます。
 
1932年
FIFA本部がスイスのチューリッヒに移転、ヨーロッパ中心へと移行開始
<サッカーくじ>
イギリスのサッカーくじが合法化
 
1933年
1934年
第2回ワールドカップ・サッカー・イタリア大会
(詳細はここから)
この大会のエントリーは31か国となり、初めて予選が行われた
 1935年
1936年
<ベルリンの奇跡>
ベルリン・オリンピックにて日本代表チームが優勝候補だったスウェーデンに3-2で勝利。これはその後「ベルリンの奇跡」と呼ばれることになります。
1937年
1938年
イングランドのアマチュアチーム「イズリントン・コリンシャンス」来日。ヨーロッパからの来日は初めてでした。 ワールドカップ・フランス大会に出場する予定だった日本代表は「盧溝橋事件」の影響で棄権
アジアからエントリーしていたのは、日本とインドネシア(オランダ領東インド)だけで出場できていたはず・・・
第3回ワールドカップ・サッカー・フランス大会
予選参加国 : 36(戦争のため、最終的に26しか参加できず)
本大会出場国 : 16
<準決勝>
イタリア 2-1 ブラジル 
ハンガリー 5-1 スウェーデン
<決勝>
イタリア 4-2 ハンガリー
<活躍した選手>
レオニーダス・ダ・シルバ(ブラジル)は「黒いダイヤモンド」と呼ばれ、得点王に輝いた。ブラジルは黒人選手の起用によりサッカー強国の仲間入り
イタリア・チームの中心選手シルヴィオ・ピオラが大活躍
<大会の特徴>
ヨーロッパと南米交互開催ならアルゼンチン開催となるはずだったが、FIFA会長兼フランス・サッカー連盟会長のジュール・リメの力によりフランス開催となる
そのため南米各国が反発し、ブラジルとキューバ以外は参加せずに終わった
1939年
1940年
1941年
1942年
 1943年
1944年
1945年
1946年
終戦の翌年、早くも日本選手権が再開されました
1947年
1948年
アディダス社誕生>(スポーツ・シューズからスタート)「ダスラー兄弟商会」が分裂し、弟のアドルフ・ダスラーが設立
1949年
1950年
<マジック・マジャール活躍>
ハンガリー代表チームがポーランド戦に勝利し、伝説の連勝が始まる。「マジック・マジャール」の時代始まる。
<初のナイトゲーム>
10月1日第1回早慶サッカー公式戦開催。これは進駐軍が設置したナイター設備を用いた試合となりました
(ナイル・キニック・スタジアムにて)
終戦から除名されていたFIFAに再加盟
第4回ワールドカップ・サッカー・ブラジル大会
戦争で中断されていた大会が復活(1988年以来)
ワールドカップを初開催した第3代FIFA会長ジュール・リメを記念し、ジュール・リメ杯世界サッカー選手権が正式名となる。
トーナメント方式だった大会を、一次リーグと決勝リーグによるリーグ戦方式に改めた。
戦後の混乱もあり、アジア、南米では予選が開催されず。
インドは裸足でのプレーが禁止されたため、出場を辞退
本大会参加チームは13チーム
ベスト4は、ブラジル、スウェーデン、スペイン、ウルグアイ
「マラカナンの悲劇」地元ブラジルが決勝でウルグアイに敗れる(2-1)
20万人以上入っていたマラカナンスタジアムでは、4人がショックによる心臓麻痺で死亡
ウルグアイの首都モンテビデオでも3人がショック死
コカコーラが広告看板を設置
1951年
<海外チーム来日>
戦後初の海外チーム来日。スウェーデンからヘルシングボリと日本代表が対戦し、0-5で大敗。日本のサッカー・レベルは一気に後退していた。
<天皇杯>この年から日本選手権に「天皇杯」がつくことになる
1952年
1953年
1954年
4代目FIFA会長にロドルフ・セールドライヤー(ベルギー)が就任(1955年まで) <ワールドカップ予選>
スイス大会のアジア予選出場決定戦で日本は韓国に一分け一敗で出場権を逃す
第5回ワールドカップ・サッカー・スイス大会
FIFA創立50周年大会  44ヶ国が参加
戦後最初の前大会に戦争責任のために参加できなかった西ドイツが大活躍
予選リーグでわざと2位になることで決勝リーグを楽に切り抜け、決勝戦で優勝候補筆頭だったハンガリーを破り見事優勝を飾った。
準々決勝 ハンガリー×ブラジル 西ドイツ×ユーゴスラビア
準決勝  ハンガリー×ウルグアイ 西ドイツ×オーストリア
決勝   西ドイツ 3×2 ハンガリー(0×2からの逆転)(4年間の連勝28勝4分けがついにストップ)
ゼップ・ヘルベルガ―監督率いる西ドイツは、フリッツ・ワルターが大活躍
ハンガリーでは、プスカシュ・フェレンツが活躍するが、その後彼はスペインに亡命
(東欧では反ソ連の運動が激しくハンガリーも動乱に巻き込まれていた)
1955年
第1回ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ(現在のUEFAチャンピオンズ・リーグ)開催
5代目FIFA会長にアーサー・ドルリー(イングランド)が就任(1961年まで)
第1回都市対抗サッカー大会開催(後楽園球場)優勝は東京代表の東京クラブ
1956年
<オリンピック出場>
メルボリン・オリンピックで日本代表は1回戦でオーストラリアに敗れる
1957年
1958年
<ミュンヘンの悲劇>
欧州クラブ選手権に出場していたマンチェスター・ユナイテッドが乗る飛行機がミュンヘン空港離陸時に墜落。ほとんどのメンバーが死亡。「ミュンヘンの悲劇」として映画化もされています。
第3回アジア大会で、フィリピンに0-1、香港に0-2で敗戦
第6回ワールドカップ・サッカー・スウェーデン大会
 第二次世界大戦も終わり、交通の便(飛行機)も良くなり、大会史上初めて世界中の主な強豪がほとんど参加。さらに今大会は大会史上初めてテレビで中継された大会でもありました。
 戦争によって選手強化ができなかったことから戦争に参加していた国のレベルダウンが目立ち始め、逆に戦争による直接被害がなかった国の活躍が目立った。
準決勝 スウェーデン×西ドイツ       ブラジル×フランス
決勝   ブラジル×スウェーデン
優勝   ブラジル(ガリンシャ、マリオ・ザガロそして初登場のペレが活躍)
1959年
1960年
ローマ・オリンピックに予選敗退で出場できず、東京オリンピックに向け西ドイツからデットマール・クラマー招聘
彼の指導により、日本は基礎からサッカーを学び直し、大きく躍進します
1961年
6代目FIFA会長にスタンリー・ラウス(イングランド)が就任(1974年まで)
ユーゴスラビア代表チーム来日(ヨーロッパのフル代表の来日は初)
 
1962年
第7回ワールドカップ・サッカー・チリ大会
総参加国数 52
本戦参加チーム(15ヶ国)
西欧圏(資本主義国) 西ドイツ、イタリア、スイス、スペイン、イングランド
東欧圏(共産国)    ソ連、ユーゴスラビア、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア
南米           ウルグアイ、コロンビア、チリ、アルゼンチン
北中米          メキシコ
ベスト8(予選リーグ突破チーム):チリ×ソ連、ユーゴスラビア×西ドイツ、ブラジル×イングランド、チェコスロバキア×ハンガリー
ベスト4:ブラジル×チリ、チェコスロバキア×ユーゴスラビア
決勝:ブラジル×チェコスロバキア
優勝:ブラジル(1958年スウェーデン大会に続き連続優勝)
<活躍した選手>
ボビー・チャールトン(イングランド)、レフ・ヤシン(ソ連)、レオネル・サンチェス(チリ)、ガリンシャ、ジジ、マリオ・ザガロ(ブラジル)など
<ブラジル黄金時代>
神様ペレを怪我によって使えなかったにも関わらず、ブラジルは、ガリンシャの活躍などにより、見事な優勝を飾り黄金時代を築き上げつつあった。
この大会左サイドで活躍したザガロは、後に監督としてもブラジル代表を率いて優勝することになる。
<東欧圏の大活躍>
1953年のスターリン死後、共産圏には、鉄の壁という厚い壁に隔てられた安定のもと、自由化の波が広がり、つかの間のサッカー黄金期を迎えていた。
東欧圏の大活躍は、明らかにその結果であった。
<国の威信を賭けた大会>
1960年チリは大地震に襲われ壊滅的な打撃を受けていたが、だからこそという信念の元、この大会はチリで行われた。
(もちろんチリ開催はすでに決まっていのだが)この大会は、まさに国家の威信を賭けたプロジェクトだった。
歴史上、多くのワールドカップは、こうした国の威信を賭けたプロジェクト的性格をもっている。これもワールドカップの大きな特徴と言えるでしょう。
1963年
<至上最高のGK>
レフ・ヤシンが欧州年間最優秀選手(バロンドール)に選出される(ゴールキーパーとして過去唯一)
 
1964年
<東京オリンピック開催>
当時の日本ではサッカーはマイナー競技だったため、小学生から中学生・高校生の団体せスタンドが埋められた。しかし、この大会で多くの観客が初めてサッカーというスポーツを観戦し、しかも、日本代表がアルゼンチンを破って準々決勝に進出する健闘を見せたこともあって、その後の日本におけるサッカーの普及発展につながっていくことになった。
後藤健生
1965年
<サッカー日本リーグ(JSL)発足>(実業団8チームより構成)
オリンピック日本代表監督を務めたデットマール・クラマーが日本サッカーの強化のためにリーグ戦開催を提言。
東京オリンピックでの活躍もあり、開幕戦となった東京駒場運動公園陸上競技場には4500人が観戦。
メキシコ大会には東京オリンピック出場のメンバーが中心で出場し、見事に銅メダルを獲得します。
クラマーの貢献は日本にとって大きい!
1966年
<選手交代OK>
ワールドカップでの選手交代は過去許されていなかった!この年の大会で負傷した場合のみOKとなった
<プロ対アマ>
スコットランドのプロチーム「スターリング・アルビオン」が日本選抜と対戦。当初日本体育協会はこのプロとアマの試合を許可しませんでした。しかし、マスコミの批判により承認。FIFAはプロとアマ両方の団体を統括しているのでこの試合は国際的にはまったく問題なかった。試合には、4万5千人が来場。
第8回ワールドカップ・サッカー・イングランド大会
総参加国数 51
本戦参加チーム(16ヶ国)
西欧圏(資本主義国) イングランド、フランス、西ドイツ、スペイン、スイス、ポルトガル、イタリア
東欧圏(共産主義国) ハンガリー、ブルガリア、ソ連
南米           ウルグアイ、アルゼンチン、ブラジル、チリ
中北米          メキシコ
アジア          北朝鮮
ベスト8(予選リーグ突破チーム):イングランド×アルゼンチン、西ドイツ×ウルグアイ、ポルトガル×北朝鮮、ソ連×ハンガリー
ベスト4:西ドイツ×ソ連、イングランド×ポルトガル
決勝:西ドイツ×イングランド
優勝:イングランド(初優勝)
<活躍した選手>
エウゼビオ(ポルトガル、但しモザンビーク出身の黒人)
ベッケンバウアー、ロター・エメリッヒ(西ドイツ)
ジェフ・ハースト、ノビー・スタイルズ、ボビー・チャールトン(イングランド)
<イングランドの記念すべき優勝>
イングランド・サッカー協会設立100周年を記念して行われた大会で、見事に地元イングランドが優勝を飾った。
<アジア・アフリカのボイコット事件>
アジア・アフリカ諸国が各大陸から1チームづつ代表を出場させて欲しいとFIFAに要求したが認められず、結局予選をボイコットするという戦略をとった。
しかし、この動きに同調しなかった北朝鮮は、アジア・アフリカからの出場枠1を棚ぼたで得ることになった。しかし、この北朝鮮は意外な活躍をみせて、ベスト8に進出。
そのおかげで、次回大会よりアジア、アフリカは各大陸から1チームづつ代表が参加できるようになりました。(2002年と同様、この時もイタリアがその犠牲となった)
<ブラジル、まさかの予選敗退>
ブラジルは、ペレが徹底したマークによって潰され、予選で敗退してしまった。しかし、それは連続優勝によってチームの若返りをしきれなかったためとも言われている。
(2002年のフランスを思わせます)
<テレビ中継始まる>
この大会からテレビでの生中継が始まりました。サッカーはいよいよ世界中に広がり、「大衆化」が急速に進むことになりました
1967年
<日韓対決>
東京オリンピックのサッカー代表戦の最終戦で日本は韓国と対戦。3-3で引き分けとなるが、得失点差で日本が韓国を上回り、代表権を獲得。もし、フィリピン戦で15ゴール決めて決めていなければ、日本はオリンピックに出場できず、銅メダルもなかったことになります。
<パルメイラス来日>
ブラジル、サンパウロの名門チーム「パルメイラス」が来日。
日本代表チームは、2試合中1試合で2-1勝利を収めています。
1968年
<男子日本代表ブレイク!>
メキシコ・オリンピックで釜本らの活躍で銅メダル獲得(ただし、この勝利により自信を持ち過ぎた日本サッカー界はその後長いトンネルに入り込むことになり、「ナイロビの奇跡」、「ジョホールバルの歓喜」は遥か先のことになります)
<サッカー人気が過熱>
11月17日国立競技場で三菱重工とヤンマーディーゼルの試合が行われ、4万人の観衆が集まった。(試合には、杉山隆一と釜本邦成が出場)JSL全体でも平均して7000人の観衆を集めるようになります。
<天皇杯サッカー>
天皇杯全日本サッカーが1月14日が初めて国立競技場で開催
<アーセナル来日>
イングランド・プレミアリーグの名門アーセナルが来日。第3戦は、サッカーとしては初の5万人越え達成。
1969年
<近代サッカー・ルールの完成>
 この大会から、試合中の選手交代が初めて可能になった。(2名まで)
 さらに、イエロー・カード、レッド・カードが使用されるようになり、近代サッカーの基本ルールがやっと完成しました。
<サッカー戦争勃発>
エルサルバドルと隣国ホンジュラスがサッカーの試合をきっかけに戦争が始まる(「サッカー戦争」と呼ばれる)
<天皇杯元日決戦>
天皇杯決勝戦が初めて元日に開催。(2014年まで続く)
1970年
<選手交代>
負傷者のみ交代OKだった選手交代がこの年の大会から2名まで自由に交代OKとなった 
 
第9回ワールドカップ・サッカー・メキシコ大会
総参加国数 71 本戦参加チーム(16ヶ国)
西欧圏(資本主義国) ベルギー、イタリア、スウェーデン、イングランド、西ドイツ
東欧圏(共産主義国) ソ連、ルーマニア、チェコスロバキア、ブルガリア
南米           ウルグアイ、ブラジル、ペルー
北中米          メキシコ、エルサルバドル
アフリカ         モロッコ
アジア          イスラエル
ベスト8(予選リーグ突破チーム):西ドイツ×イングランド、ウルグアイ×ソ連、イタリア×メキシコ、ブラジル×ペルー
ベスト4:イタリア×西ドイツ、ブラジル×ウルグアイ
決勝:ブラジル×イタリア
優勝:ブラジル(3回目)
<活躍した選手>
ロベルト・リベリーノ、ジャイルジーニョ、トスタン、ペレ(ブラジル)
フランツ・ベッケンバウアー、ゲルト・ミュラー(西ドイツ)、ロベルト・ボニンセーニャ(イタリア)
ゴードン・バンクス、ジェフ・ハースト(イングランド)
<ブラジルの完全優勝>
 ブラジルは南米予選から本大会の決勝戦まで、すべて90分での勝利というまさに完全優勝だった。
監督のマリオ・ザガロは、選手としても監督としても優勝するという初の快挙を成し遂げた。
 3回目の優勝を遂げたブラジルはジュール・リメ杯を永久保持することになりました
<テレビのためのワールドカップ>
 メキシコの組織委はヨーロッパでのテレビ放映時間をゴールデン・タイムにするため、あえて35度以上ある日中に試合を行った。
(この時のメキシコ・サッカー連盟会長ギジェルモ・カニェドは、この大会の放映権を獲得していた「テレビサ」の経営者でもあった!)
<サッカー戦争>
 エルサルバドルとホンジュラスが、ワールドカップ予選試合をきっかけに戦争状態に突入しました。
但し、これは政治的に対立していた2国の軍部が戦争を起こしたいがために、わざと危険といわれていた試合を強行させたことが、後に明らかになりました。
 サッカーのために戦争が起きたのではなく、戦争を始めるためにサッカーを利用したというのが事実だったのです。
 1971年
1972年
<ブラジルからの助っ人>ジョージ与那城、セルジオ越後がブラジルから来日(二人は日本サッカーを技術の面で大きく進化させることになります)
<サントス来日>ブラジルの名門サントス来日。あのペレも現役で出場。国立競技場の観衆は5万人を越えました。
1973年
オランダのアヤックスが欧州選手権三連覇達成(アヤックスとオランダの黄金時)  
1974年
<FIFA>ジョアン・アベランジェ(ブラジル)が7代目FIFA会長に就任し、FIFAの拡大路線を進める
1998年までの長期政権となり、後に大きな問題となる腐敗体質が生まれるきっかけともなる
ジュール・リメ・カップに代わり、新しいFIFAワールドカップが登場
 
第10回ワールドカップ・サッカー・西ドイツ大会
総参加国数 89 本戦参加チーム(16ヶ国)
西欧圏(資本主義国) 西ドイツ、スコットランド、オランダ、スウェーデン、イタリア
東欧圏(共産主義国) 東ドイツ、ユーゴスラビア、ブルガリア、ポーランド
南米           チリ、ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチン
北中米          ハイチ
アフリカ          ザイール
アジア、オセアニア   オーストラリア
ベスト8(2次リーグ進出チーム)成績順:(A組)オランダ、ブラジル、東ドイツ、アルゼンチン (B組)西ドイツ、ポーランド、スウェーデン、ユーゴスラビア
決勝:西ドイツ×オランダ
優勝:西ドイツ
<活躍した選手>
ヨハン・クライフ、ヨハン・ニースケンス(オランダ)
ウォルフガング・オフェラート、フランツ・ベッケンバウアー(「リベロ」誕生)
ライナー・ボンホフ、ゲルト・ミュラー、パウル・ブライトナー(西ドイツ)
ロベルト・リベリーノ(ブラジル)、ヴージェ・ゴーシュ・ラトー(ポーランド)
<未来のサッカー、オレンジ軍団初登場>
 初出場オランダとその中心選手ヨハン・クライフの与えた衝撃は凄かった。
「トータル・フットボール」「ローテーション・フットボール」と呼ばれた斬新なプレー・スタイルは、まさに「未来のサッカー」であり、20世紀末のサッカーを20年早く実現していました。
<商業主義的大会運営の本格化>
 ブラジル人のジョアン・アヴェランジェが、初めてヨーロッパ以外の土地からFIFA会長に就任。
彼の主導の元、巨大企業とスポンサー契約を結ぶことで、より商業的な大会運営が行われるようになります。
<アジェンデ政権崩壊による対立>
 1973年チリで民主的に選ばれた初の左翼政権(アジェンデ政権)を軍部がクーデターによって転覆させるという事件が起こりました。
(当然そのバックにはアメリカがいました)
この時、かつて1962年チリ大会の際。メイン競技場に使用された国立競技場は、左翼系市民に対する拷問と処刑の場になるという悲劇が起きました。
 ところが、その競技場がこの大会の最終プレーオフ会場に選ばれるという事態が起きました。
それは、チリがその対戦国として残っていたからなのですが、あろうことかその相手が左翼の総本山ソ連だったのです。
当然、ソ連は会場の変更を要求。それが無視されたために、棄権してしまいました。
おかげで、チリは本大会の出場権を得ることになります。
そして、本大会でも、会場として使用することについて反対の多かった東西分断中のベルリンで、東ドイツと対戦するという偶然が重なりました。 
1975年
<世界一のGK>
ピーター・シルトンがGKとしては過去最高額となる年俸2億4千万円でストークシティと契約
<バイエルンミュンヘン来日>
ドイツの名門バイエルンミュンヘンが来日し、日本代表に連勝して帰国
1976年
モントリオール・オリンピック出場決定戦、日本代表は韓国に敗れて敗退
1977年
<日本初の海外プロ選手>
奥寺康彦がドイツ1FCケルンに(初のプロ選手であると同時に海外移籍選手誕生)、入れ替わるようにブラジルからラモス瑠偉が来日(日本サッカーに技術だけでなく精神力をもたらすことになります)
<NYコスモス来日>
ペレが所属するアメリカのプロサッカー・チーム、NYコスモスが来日。日本代表と対戦
<高校選手権、東京へ>
大阪で開催されていた高校選手権が首都圏に移され、その人気が急速に高まりました
<初の全国少年サッカー大会>
この年から「全日本少年サッカー大会」が始まり、サッカーの底辺が急速に拡大することになります
<ワールドユース選手権>
第1回U-20世界選手権がチュニジアで初開催される
1978年
第11回ワールドカップ・サッカー・アルゼンチン大会
総参加国数 106 本戦参加チーム(16ヶ国)
西欧圏(資本主義国) イタリア、フランス、西ドイツ、オーストリア、スペイン、スウェーデン
              オランダ、スコットランド
東欧圏(共産主義国) ハンガリー、ポーランド
南米           アルゼンチン、ブラジル、ペルー
北中米          メキシコ
アフリカ         チュニジア
アジア          イラン
ベスト8(2次リーグ進出チーム)成績順:(A組) オランダ、イタリア、西ドイツ、オーストリア (B組) アルゼンチン、ブラジル、ポーランド、ペルー
決勝:アルゼンチン、オランダ
優勝:アルゼンチン
<活躍した選手>
マリオ・ケンペス、ノルベルト・アロンソ、ダニエル・ベルトーニ、レオポルド・ルーケ
オズワルド・アルディレス(アルゼンチン)
ロブ・レンセンブリンク、アーリー・ハーン、レネ・ファンデケルクホル、ディック・ナニンハ(オランダ)
ゼップ・マイヤー、ライナー・ボンホフ、ディーター・ミュラー(西ドイツ)
パオロ・ロッシ、ロベルト・ベッテラ(フランス)
<最も政治色の強かった大会>
 クーデターによって軍部が政権を奪ったばかりの不安定な状態で行われた大会だったが、大会中ゲリラ組織によるテロ事件が起きることはなく、無事に大会は行われた。
サッカーという国民的スポーツは、右派、左派どちらにとっても、無視することのできない存在だったのです。
<イランの民主化と黄金時代>
 今大会唯一のアジア代表国イランは、当時近代化、民主化が進んだことで急激な経済発展を遂げていました。
その結果が、アジア大会での優勝、ワールドカップ出場という黄金時代につながったと言われています。
 しかし、この大会の翌年、ホメイニ師を中心とするイスラム革命が起こり、イランは再び厳格なイスラム国家に戻ります。
そして、イラン・サッカー界の黄金時代も終わりをつげることになります。
<攻撃サッカーに変身したアルゼンチンの優勝>
 地元アルゼンチンの代表監督には、アルゼンチン独特の守備的サッカーを否定したセザール・メノッティーが就任。
軍事政権の圧力により選手の海外流出を抑えることにより、強力な攻撃的チームを作り上げ、見事優勝を飾った。(海外組はマリオ・ケンペスただひとりだった!)
<地元優勝へ疑問の判定続出>
 地元が優勝したこと、軍事政権主導の大会だったこともあり、審判の判定への不満や八百長疑惑など、数々の大会批判が行われた大会だった。
 ペレ、ベッケンバウアー、ヨハン・クライフらの時代が終わり、ジーコ、プラティニ、マラドーナの時代には、まだ早いヒーロー不在の大会でもあった。
1979年
日本開催の「第2回U-20ワールドユース選手権」でマラドーナの活躍によりアルゼンチンが優勝。 <女子サッカー始まる>
サッカー協会が女子チームの登録受付を開始
1980年
1981年
<クラブ・ワールドカップ選手権>
第1回トヨタ・カップ(サッカーのクラブチーム世界一決定戦)日本で開催
(フーリガン問題や中立性の問題、スポンサーの力などから日本が選ばれた)
 <女子日本代表誕生>
女子サッカー日本代表が初の国際試合が神戸で開催(対イングランド)
1982年
<オリンピックへプロ参加>
FIFAがロサンゼルス・オリンピックへのプロ選手参加を認める
<マラドーナ来日>
アルゼンチンの名門ボカ・ジュニアーズがマラドーナと共に来日
第12回ワールドカップ・サッカー・スペイン大会
総参加国数 109 本戦参加チーム(24ヶ国)
西欧圏(資本主義国) イタリア、西ドイツ、オーストリア、ベルギー、イングランド、フランス
              北アイルルランド、スペイン、スコットランド
東欧圏(共産主義国) ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、ソ連
南米           ペルー、チリ、アルゼンチン、ブラジル
北中米          エルサルバドル、ホンデュラス
アフリカ         カメルーン、アルジェリア
アジア          クウェート、ニュージーランド
2次リーグ進出チーム:ポーランド、ソ連、ベルギー、西ドイツ、イングランド、スペイン、イタリア、ブラジル、アルゼンチン、フランス、オーストリア、北アイルランド
準決勝進出チーム: イタリア、ポーランド、西ドイツ、フランス
決勝:イタリア、西ドイツ
優勝:イタリア
<活躍した選手>
カール・ハインツ・ルンメニゲ、ピエール・リトバルスキー、パウル・ブライトナー、クラウス・フィッシャー、ホルスト・ルベッシュ(西ドイツ)
ミシェル・プラティニ、ディディエ・シクス、ロシュトー、ジレス(フランス)
クラウディオ・ジェンティーレ、マルコ・タルデリ、パオロ・ロッシ、アレッサンドロ・アルトベリ、アントニオ・カブリーニ(イタリア)
ズビグニウ・ボニエフ(ポーランド)、ブライアン・ロブソン(イングランド)
<マラドーナ自滅>
 活躍を期待されたマラドーナはプレシャーにより実力を発揮できず、ブラジル戦で相手のファールに報復のキックで退場。活躍できないまま大会を去った。
<スポンサーのための大会>
FIFAは広告代理店と共同で「一業種一企業」と契約し、1社当たり30億とも言われる収入源を獲得。大会の運営は、スポンサーの都合を重視するようになります。
<民主化のシンボルとなった大会>
 スペインを長年に渡って支配し続けた独裁者フランコ将軍が死去。
その後継者となったファン・カルロス国王は民主化を進める進歩的な人物だったため、この大会はスペインの民主化を世界に知らしめるための大会になりました。
そのため、バスク地方の独立を目指すグループがテロを実効する可能性もありましたが、幸い大会中に事件は起きませんでした。
<フォークランド紛争>
 この年4月にフォークランド諸島の領有権をめぐり、アルゼンチンとイギリスとの間で戦争が勃発。
本大会には、アルゼンチンとイングランド、スコットランド、北アイルランドが出場を決めていたため、大会への影響が心配されましたが、抽選によるグループ分けにより、対戦は避けられました。
<新ルールと出場チーム数の増加>
 参加国数がこの大会から24ヶ国となり、アジア、アフリカの出場枠がそれぞれ2ヶ国になりました。
さらに、準決勝以降の試合においては、延長戦で勝負が決まらない場合にPK戦が導入されることになりました。
<民主化ポーランドの活躍>
 レフ・ワレサを指導者とする連帯が進めた民主化は、大会の一年半前にソ連の圧力によって挫折していたものの、2次リーグの同じ組でポーランドがソ連を上回り、見事ベスト4に進出したました。
<黄金のカルテット>
 ブラジルはトニーニョ・セレーゾ、ファルカン、ソクラテス、ジーコの「黄金のカルテット」を擁し、史上最強のチームと呼ばれました。
しかし、攻撃的な戦法が災いし、ベスト4にも残ることができませんでした。(個人的には、この頃からワールドカップ・サッカーというものの存在を知り、ジーコたちのプレーに魅せられました)
<44年ぶりの優勝>
 イタリアは、一次リーグでは一勝もできず、3引き分けでかろうじて2次リーグに進みました。
前評判でも評価は低かったのですが、その後八百長事件の出場停止が解かれたばかりのストライカー、パオロ・ロッシの復活などにより、しだいに調子をあげ、結局44年ぶりの優勝を飾りました。
1983年
1984年
1985年
<フーリガン問題深刻化>
イギリス、ブラッドフォード・サッカー場で火災事故。ベルギーでイングランド(リバプール)、イタリア(ユベントス)のファン激突し、40名以上が死亡する惨事となる。(フーリガン政治問題化)
一時間後に試合が再開されたことが批判され、ユベントスがPKの1点で優勝するが、祝福されることはなかった。(5月29日)
<U-16世界選手権>
第1回U-16世界選手権が中国で開催(優勝は決勝で西ドイツを破ったナイジェリア)
<ワールドカップ予選、屈辱の敗退>
ワールドカップアジア予選の決定戦で日本が韓国と対戦。
10月26日国立での第1戦は1-2で敗戦。11月2日の第2戦は0-1で敗戦で出場権を逃す。
すでにプロリーグが誕生していた韓国との力の差が明らかだった
(加藤久、都並敏史、木村和司、水沼貴史・・・過去最高のメンバーと呼ばれていただけにショックが大きかった)
1986年
  <プロ登録の認可>
日本リーグの選手登録に「プロ」が認められ、プロ化への道がスタート
第13回ワールドカップ・サッカー・メキシコ大会
参加国総数 110 本戦参加チーム(24ヶ国)
西欧圏   イタリア、ベルギー、フランス、スペイン、北アイルランド、デンマーク、西ドイツ
        ポルトガル、スコットランド、イングランド
東欧圏   ブルガリア、ソ連、ハンガリー、ポーランド
南米     アルゼンチン、パラグアイ、ブラジル、ウルグアイ
北中米   メキシコ、カナダ
アジア    韓国、イラク
アフリカ   アルジェリア、モロッコ
<予選リーグ突破チームと一次リーグ勝敗>
メキシコ ×ブルガリア、ベルギー× ソ連、ブラジル ×ポーランド、アルゼンチン× ウルグアイ
フランス ×イタリア、西ドイツ ×イングランド、スペイン ×デンマーク
準決勝進出チーム   フランス、西ドイツ、アルゼンチン、ベルギー
決勝            西ドイツ、アルゼンチン
優勝            アルゼンチン
<活躍した選手>
ヤン・クーレマンス、ステファン・デモル、フランク・フェアコウテン、ジャン・マリー・パフ(ベルギー)ミシェル・プラティニ、ジャン・ピエール・パパン、ジャン・ティガナ、ロシュトー(フランス)
エワトール・エンリケ、ディエゴ・マラドーナ、ホルヘ・バルダーノ、ホルヘ・ブルチャガ、ペドロ・パスクリ(アルゼンチン)クラウス・アロフス、ローター・マテウス、アンドレアス・ブレーメ、ルンメニゲ(西ドイツ)
イエスパー・オルセン、ブライアン・ラウドルップ、プレベン・エルケア・ラールセン(デンマーク)ピーター・シルトン、ピーター・ベアズリー、ゲーリー・リネカー(イングランド)
アブデルラザク・ハイリ、アブデルカリム・クリマウ(モロッコ)ソクラテス、ファルカン、カレカ(ブラジル)
<FIFA私物化の始まり>
 当初はコロンビアで開催される予定だったが、経済の悪化が原因で辞退。アヴェランジェFIFA会長の鶴の一声により、メキシコでの2度目の開催が決まりました。
しかし、大会の放映権を独占していた「テレビサ」の重役がFIFAの副会長を務めていたり、アヴェランジェ会長と「テレビサ」オーナーが友人同士だったりなど、FIFAの明らかな私物化が始まっていた。
<アフリカ初の予選リーグ突破>
 モロッコがポルトガルを破った他、イングランド、ポーランドと引き分け、予選リーグを見事一位で通過。
アフリカ初の予選リーグ突破となり、決勝リーグでも、この大会準優勝の西ドイツと0-1,0-0という僅差の敗戦で大健闘をみせた。
<ワールドカップ・マラドーナ大会>
 この大会の準決勝アルゼンチン対イングランド戦は、ワールドカップ史上最も繰り返し見られる伝説の試合となった。
 それはあの「神の手」から生まれたゴールだけでも、充分歴史的な価値があったかもしれません。
ただし、それを世界中のサッカー・ファンに「神の手」と言わしめたのは、そのゴールから数分後の「奇蹟の5人抜きゴール」があったからこそなのです。
このゴールを生で見たときの戦慄は未だに忘れられません。
 それともうひとつ、「神の手」が生まれた布石には、イングランドによる徹底的なマラドーナ潰しがありました。
前半、彼はイングランドの選手からしつようにタックルを受け、倒され続けました。それは誰が見てもかわいそうなぐらいでした。
それを見ていた審判だからこそ、「神の手」判定が生まれたのかもしれません。
<アルゼンチンの守備的戦法>
 アルゼンチンは守備的な試合運びを身上とするカルロス・ビラルドが監督に就任。徹底的に守備を固め、攻撃はマラドーナひとりに任せるという戦法を貫き、これが全勝での優勝につながった。
しかし、これはマラドーナという天才が絶好調であったこの大会だったからこそ、可能な戦法だったことが、次回の大会で明らかになる。
1987年
<ジョン・バーンズ>
ジャマイカ系英国人ジョン・バーンズがリバプールFCに入団。
チーム唯一の黒人選手だったため、ファンからも差別された
1988年
日本リーグの中に「活性化委員会」誕生。(「完全プロ化」に向けた準備委員会)
1989年
<ワールドカップ予選>
ワールドカップ・アジア予選で日本代表は中国に敗れて、出場権を逃す
<フットサル>
第1回フットサル世界選手権オランダ大会開催
<プロリーグスタート決まる>
「活性化委員会」での検討が進み、1992年にプロ・リーグをスタートさせることが決定
1990年
<オフサイド・ルール変更>
守備の選手の前に出ず、「並んでいれば」オフサイドにならないことになった
アジア大会(北京)で女子日本代表チームが準優勝
第14回ワールドカップ・サッカー・イタリア大会
参加国総数 109ヶ国 本戦参加チーム(24ヶ国)
西欧圏   イタリア、オーストリア、スコットランド、スウェーデン、西ドイツ、スペイン
        ベルギー、イングランド、アイルランド、オランダ
東欧圏   チェコスロバキア、ルーマニア、ソ連、ユーゴスラビア
南米     アルゼンチン、ブラジル、コロンビア、ウルグアイ
北中米   アメリカ、コスタリカ
アフリカ   カメルーン、エジプト
アジア    アラブ首長国連邦、韓国
<予選リーグ突破チームと一次リーグ勝敗>
カメルーン×コロンビア、チェコスロバキア×コスタリカ、アルゼンチン×ブラジル、西ドイツ×オランダ、アイルランド×ルーマニア、イタリア×ウルグアイ、ユーゴスラビア×スペイン、イングランド×ベルギー
準決勝進出チーム アルゼンチン、イタリア、西ドイツ、イングランド
決勝          西ドイツ、アルゼンチン
優勝          西ドイツ
<活躍した選手>
オマン・ビイク(カメルーン)
ワルター・ゼンガー、サルバトーレ・スキラッチ、ロベルト・バッジョ、ジャンルカ・ヴィアッリ(イタリア)
ロベルト・センシーニ、ディエゴ・マラドーナ、クラウディオ・カニージャ、セルヒオ・ゴウゴチェア(アルゼンチン)
ローター・マテウス、アンドレアス・ブレーメ、ユルゲン・クリンスマン、ルディー・フェラー、ピエール・リトバルスキー、ギド・ブッフバルト(西ドイツ)
ゲーリー・リネカー、ポール・ガスコイン、デービッド・プラット(イングランド)
<印象に残らない大会>
全体的に守備的な試合が多く、素人目に見ても面白くない試合が多い大会だった。大会に関する話題も、良くないもの、つまらない事件が多く、記憶に残ることが少ない大会となった。
 開催国のイタリアは、当時セリエAの人気が高くなったところで、世界中の大物が在籍する黄金時代だった。
<事件1- ロハス事件 ->
 南米予選の最終戦、チリ対ブラジルの試合中、ブラジルのファンが投げた発煙筒がチリのロハスに当たり、中止試合となった。
ところが、ロハスの怪我は自分で仕組んだものであり、負けていた試合を再試合に持ち込むためだったことがわかり、チリは次回大会にも出場できないことになった。ロハスは永久追放処分となった。
<事件2- メキシコ・チームの年齢詐称事件>
 メキシコはU-20の世界大会でオーバーエイジを出場させたとして、ワールドカップ予選への出場を禁止された。
しかし、この処置は、それまでの同例に対する処置に比べると、明らかに厳しすぎた。これは次回開催国のアメリカを本体会に出場させるためにFIFAが仕組んだものであったと言われている。
<事件3- 神の手Part2 ->
 本体会予選リーグのアルゼンチン対ソ連戦において、ソ連のオレ・クズネツォフのヘディング・シュートをマラドーナが腕で防ぎクリアーした。
審判はそのことに気づかなかったため、試合後責任を問われて帰国させられた。
<事件4- フーリガン隔離作戦 ->
 80年代にヨーロッパ各地で事件を起こしたフーリガンの国、イングランドとオランダが同じグループFに入った。
そのため試合を無事行うため、大会本部は、試合の会場をサルディーニャ島とシチリア島という本土から離れた地域に決めた。
<事件5- カメルーン・チーム大活躍 ->
 アフリカ代表のカメルーンは、大ベテラン、38歳ロジェ・ミラの史上最年長ゴールが飛び出すなど、大活躍をみせ、アルゼンチン、コロンビアなどの強豪を倒してのアフリカ勢初の準決勝進出となった。
(飛び出しすぎたあの伝説のゴール・キーパー、イギータからボールを奪い取ってのゴールもありました)
<事件6- 勝つべきチームの敗退 ->
 ルート・グリット、マルコ・ファンバステン、フランク・ライカールトを擁するオランダは、かつての黄金時代に匹敵する華麗なプレーを展開したが、決勝トーナメント一回戦で西ドイツに惜敗してしまった。
 ドラガン・ストイコビッチ、ロベルト・プロシネツキ、デヤン・サビチェビッチを擁するユーゴスラビアも史上最強のメンバーがそろったが、アルゼンチンにPK戦に持ち込まれて敗れ去った。
 こうして、創造的で見応えのあるチームが以外に早く大会から姿を消してしまった。
<事件7- 史上最低の決勝戦 ->
 アルゼンチンは徹底的な守りのサッカーを展開。
マラドーナにマークが集中する中、そこからクラウディオ・カニージャへのスルー・パス一本で点を奪うか、だめならPK戦に持ち込むという単純で面白みのない戦法を貫きます。
それでもしっかりと決勝まで勝ち残った。
ただし、西ドイツ対アルゼンチンの決勝戦は、アルゼンチンがPK戦狙いとしか思えない超守備的戦法をとったこともあり、史上最もつまらない決勝戦と言われることになった。
1991年
第1回女子サッカー・ワールドカップ中国大会開催:優勝はアメリカ <キリンカップ>
キリンカップで日本代表がイングランドのトッテナムに勝利し優勝
<Jリーグ発足へ>
「社団法人 日本プロサッカーリーグ」設立、初代チェアマンに川淵が就任
<U-17世界選手権>
U-16からU-17に変更されたユースの世界選手権でガーナが優勝
1992年
<ルール>バック・パスをゴールキーパーが手で処理することが禁止になる。
<日本代表>日本代表初の外国人監督としてオランダ人のハンス・オフト就任
<アジアカップ>アジアカップ・サッカー広島大会で日本が初優勝
<Jリーグ>第1回Jリーグカップ(ナビスコカップ)優勝はヴェルディ川崎、準優勝は清水エスパルス
広島広域公園陸上競技場完成(収容人員は5万人、サンフレッチェ広島のホーム)
1993年
「ドーハの悲劇」
1993年10月28日、カタールのドーハのアルアリ・ スタジアムでにイラクとのワールドカップ最終予選
日本代表はロスタイムに得点を失い引き分けとなり、アメリカ大会への出場権を逃してしまいました。
この試合の視聴率は58%を記録。日本中で6千万人が悲劇の目撃者となりました

 代表チームは勝つことで、その国の人々に大きなものをもたらす。しかし、同時に、負けることで、さらに大きなものを失わせることになる。この、負けることで大きなものを失う経験なしに、その国を代表するチームにはなれないように思われる。日本代表チームは、1993年のドーハで、ほとんど初めて、負けることでどれほど大きなものを失うかということを、人々に示しかけた。
 サッカーの日本代表が真に「日本代表」なるためには、勝つことによってでなく、負けることによって失う経験を、まだ何度も繰り返さなくてはならないのかもしれない。

沢木耕太郎「シネマと書店とスタジアム」より
<Jリーグ>Jリーグ発足、サッカー・ブーム到来
鹿島アントラーズ、ジェフユナイテッド市原、浦和レッドダイヤモンズ、ヴェルディ川崎、横浜マリノス、横浜フリューゲルス、清水エスパルス、名古屋グランパスエイト、ガンバ大阪、サンフレッチェ広島F.C
10チームでのスタート
(開幕戦はヴェルディ川崎と横浜マリノス戦。2-1でマリノスが勝利。前期優勝はジーコ率いるアントラーズで、後期はヴェルディ川崎。三浦カズ、ラモス、都並、北沢、柱谷らを擁するヴェルディはいきなり黄金時代に突入)
<年間優勝>ヴェルディ川崎(前期)鹿島アントラーズ(後期)ヴェルディ川崎
<Jリーグカップ>優勝:ヴェルディ川崎、準優勝:清水エスパルス
<監督の指示OK>
監督が試合中に選手に直接指示を与えることが許されることに
<キック・イン>
日本で開催されたU-17世界選手権で「キック・イン」が実験的に採用
(FKと同じように時間がかかり、長身FWに合わせるだけの展開が多く、幻のルールとなった)
<U-17世界選手権>
U-17世界選手権日本大会でナイジェリアがヌワンコ・カヌらの活躍で優勝
(この時のメンバーがアトランタ・オリンピックで金メダルをとることに)
1994年
第15回ワールドカップ・サッカー・アメリカ大会
(詳細はここから)
メキシコのゴールキーパー、ホルヘ・カンポスが大活躍。ド派手なユニフォームが話題になる
<Jリーグ>ベルマーレ平塚・ジュビロ磐田が加盟し、12チーム編成となる
<年間優勝>ヴェルディ川崎(前期)サンフレッチェ広島(後期)
<Jリーグカップ>優勝:ヴェルディ川崎、準優勝:ジュビロ磐田
<ファルカン就任>
代表監督にブラジル人のパウロ・ロベルト・ファルカンが就任
<日本人監督誕生>
代表監督に日本人、加茂周が就任し、3年に渡りチームを指揮
アジア大会(広島大会)で女子日本代表が準優勝
1995年
<女子サッカー・ワールドカップ・スウェーデン大会>優勝はノルウェー
日本代表はベスト8に進出
<タイムアウト>
U-17世界選手権と女子ワールドカップで前後半に2分間のタイムをとれる「タイムアウト」を実験導入
(テレビCM用という批判もあり、幻のルールとなった)
<Jリーグ>セレッソ大阪・柏レイソルが加盟し、14チーム編成となる
<年間優勝>横浜マリノス(前期)横浜マリノス(後期)ヴェルディ川崎
長居スタジアム完成(収容人員47000人、セレッソ大阪のホーム)
<サッカー・バブルはじける>
サッカー界のバブルがはじけ、各チームの経営状況の悪化が始まります
1996年
「マイアミの奇跡」アトランタ・オリンピック日本代表チームが予選リーグでブラジルに1-0で勝利
スポーツ・ブランド「ナイキ」が大ブームとなる。
<Jリーグ>アビスパ福岡・京都パープルサンガが加盟し、16チーム編成となる
<年間優勝>鹿島アントラーズ(2位)名古屋グランパス(この年は前後期制ではなかった)
<Jリーグカップ>優勝:清水エスパルス、準優勝:ヴェルディ川崎
<マルチボール>Jリーグで「マルチボール・システム」導入
<ノンフィクション>「28年目のハーフタイム」金子達仁(文春文庫)アトランタ・オリンピックでの男子サッカーの活躍
<オリンピック出場権獲得>サッカーオリンピック代表が28年ぶりにアジア予選を突破
<ナイジェリア旋風>
アトランタ・オリンピックでアフリカ代表のナイジェリアが優勝(準優勝はアルゼンチン)
サッカー界にもアフリカの時代が来ると言われた(そうはならなかったが・・・)
<ラインズマンから副審へ>
「ラインズマン(線審)」と呼ばれていた呼び名が、「アシスタント・レフェリー(副審)」と改定
<アドバンテージ>
攻撃側がファールを受けても攻撃を継続する方が有利な場合、審判はゲームを続けさせることが可能になった
ファールした選手には後からファールを告げ、攻撃がすぐに終わった場合はフリーキックもありになった
1997年
<ジョホールバルの歓喜>サッカー・ワールド・カップに初出場決まる
この試合は無観客試合として行われたが、会場の周りでは日本からのサポーター2万人が応援していた
テレビで日本で声援を送っていた数も6千万に登ったと言われます。
中田のミドルシュートをイランGKがはじき、そこに岡野が駆け込んでのゴールは、語り継がれる名場面です
<年間優勝>ジュビロ磐田(前期)鹿島アントラーズ(後期)ジュビロ磐田
<Jリーグカップ>優勝:鹿島アントラーズ、準優勝:ジュビロ磐田
<Jリーグ>ヴィッセル神戸が加盟し、17チーム編成となる
Jリーグの準会員だった鳥栖フューチャーズ運営会社が倒産
清水エスパルスも債務超過からチームを売却
<ルール変更>
(1)キックオフ、ゴールキックから直接得点することがOKとなった
(2)味方のスローインをGKが手で受けるのはNGとなった
(3)PKのとき、ゴールライン上ならGKは動いても良いことになった
1998年
第16回ワールドカップ・サッカー・フランス大会
(詳細はここから)
この大会への登録国は174か国
この大会から「マルチボール・システム」導入
「ロスタイム」の電光板表示導入
8代目FIFA会長にゼップ・ブラッター(スイス)が就任。FIFAの腐敗体質が決定的となり、2015年に辞任する
<年間優勝>鹿島アントラーズ(前期)ジュビロ磐田(後期)鹿島アントラーズ
<Jリーグカップ>優勝:ジュビロ磐田、準優勝:ジェフ市原
<Jリーグ>コンサドーレ札幌が加盟し、18チーム編成となる
札幌ドーム完成(収容人員41484、北海道日本ハムとコンサドーレ札幌のホーム)
横浜国際総合競技場(収容人員72327人、横浜Fマリノスのホーム)
<ノンフィクション>「決戦前夜」金子達仁(新潮社)、「6月の軌跡 - ’98フランスW杯日本代表39人全証言 -」増島みどり
1999年
<女子ワールドカップ>女子サッカー・ワールドカップ・アメリカ大会開催:優勝はアメリカ
<中田英寿ブレイク!>日本の中田、セリエAのペルージャで大活躍
<年間優勝>ジュビロ磐田(前期)ジュビロ磐田(後期)清水エスパルス
<Jリーグカップ>優勝:柏レイソル、準優勝:鹿島アントラーズ
<Jリーグ>横浜フリューゲルス消滅し横浜マリノスを合併し、横浜F・マリノスとなる
<2部制へ移行>
J1、J2からなる2部リーグ制へ移行(J2にはベガルタ仙台、モンテディオ山形、大宮アルディージャ、FC東京、川崎フロンターレ、ヴァンフォーレ甲府、アルビレックス新潟、サガン鳥栖、大分トリニータが加盟)
<ブラジル代表来日>ブラジル代表チームが来日。0-2で日本代表敗戦
2000年
<男子日本代表>サッカーアジアカップ(レバノン大会)で、日本代表が2大会ぶり2度目の優勝
トヨタカップ第21回大会でボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)が優勝
<年間優勝>鹿島アントラーズ(前期)横浜Fマリノス(後期)鹿島アントラーズ
<Jリーグカップ>優勝:鹿島アントラーズ、準優勝:川崎フロンターレ
宮城スタジアム完成(収容人員49133人、ベガルタ仙台の準ホーム)
<UEFA欧州選手権>フランスが優勝
2001年
<Jリーグ><年間優勝>鹿島アントラーズ(前期)ジュビロ磐田(後期)鹿島アントラーズ
<Jリーグカップ>優勝:横浜F・マリノス、準優勝:ジュビロ磐田
スポーツ振興くじ「toto」販売開始
カシマ・サッカー・スタジアム完成(収容人員40728人、鹿島アントラーズのホーム)
埼玉スタジアム完成(収容人員63700人、浦和レッズのホーム)
新潟スタジアム完成(収容人員42300人、アルビレックス新潟のホーム)
エコパスタジアム完成(小笠山運動公園)(収容人員50889人、清水エスパルス、ジュビロ磐田の準ホーム)
神戸御崎公園球技場完成(収容人員42000人、ヴィッセル神戸のホーム)
大分スタジアム完成(収容人員、40000人、大分トリニータのホーム)
豊田スタジアム完成(収容人員45000人、名古屋グランパスのホーム)
東京スタジアム完成(調布市)(収容人員49970人、FC東京、東京ベルディのホーム)
2002年
第17回ワールドカップ・サッカー・日韓大会
(詳細はここから)
この大会から放映権料が十倍以上にアップし総額千億円(普及のためにこれまでは安く抑えていた)
<Jリーグ>ジュビロ磐田が前期、後期完全優勝
<Jリーグカップ>優勝:鹿島アントラーズ、準優勝:浦和レッズ
<天皇杯>京都パープルサンガ
<ノンフィクション>「MUNDIAL2002世界標準を越えて」村上龍(光文社)
2003年
女子サッカー・ワールドカップ・アメリカ大会開催:優勝はドイツ
<Jリーグ>横浜F・マリノスが前期、後期完全優勝
<Jリーグカップ>優勝:浦和レッズ、準優勝:鹿島アントラーズ
2004年
<男子日本代表>アジアカップ(北京)準決勝ヨルダン戦で川口能活がPK戦で4人連続シャットアウト
北京アジアカップで日本代表が優勝、中国人による反日暴動多発
<Jリーグ><年間優勝>横浜F・マリノス(前期)横浜F・マリノス(後期)浦和レッズ
<Jリーグカップ>優勝:FC東京、準優勝:浦和レッズ
2005年
<男子日本代表>男子サッカー北朝鮮に2-0で勝利しワールドカップ本大会の出場決定
リヌス・ミケルス(オランダ)死去(3月3日)
ジョージ・ベスト(イギリス)死去(11月25日)
<Jリーグ><年間優勝>ガンバ大阪(2位)浦和レッズ
<Jリーグカップ>優勝:ジェフ市原、準優勝:ガンバ大阪
2006年
第18回ワールドカップ・サッカー・ドイツ大会  <Jリーグ><年間優勝>浦和レッズ(2位)川崎フロンターレ
<Jリーグカップ>優勝:ジェフ市原、準優勝:鹿島アントラーズ
2007年
女子サッカー・ワールドカップ・中国大会(優勝はドイツ)
アジアカップがタイ、マレーシア、インドネシア、ベトナムで共同開催
<Jリーグ><年間優勝>鹿島アントラーズ(2位)浦和レッズ
<Jリーグカップ>優勝:ガンバ大阪、準優勝:川崎フロンターレ
2008年
<海外>サッカー欧州選手権でスペインが44年ぶりに優勝(スペイン、バルセロナの黄金時代)
<Jリーグ><年間優勝>鹿島アントラーズ(2位)川崎フロンターレ
<Jリーグカップ>優勝:大分トリニータ、準優勝:清水エスパルス
「NAKAMURA ATE MY DOG」
スコットランドで活躍していた中村俊輔に対する相手チームの垂れ幕と歌
(中村がいかに活躍していたかの証明でもあり、悪意は少なかったようですが・・・犬を食べるのは韓国?)
2009年
<Jリーグ><年間優勝>鹿島アントラーズ(2位)川崎フロンターレ
<Jリーグカップ>優勝:FC東京、準優勝:川崎フロンターレ
2010年
第19回ワールドカップ・サッカー・南アフリカ大会
(詳細はここから)
<Jリーグ><年間優勝>名古屋グランパス(2位)ガンバ大阪
<Jリーグカップ>優勝:ジュビロ磐田、準優勝:サンフレッチェ広島
2011年
女子サッカー・ワールドカップ・ドイツ大会開催(優勝は日本) <Jリーグ><年間優勝>柏レイソル(2位)名古屋グランパス
<Jリーグカップ>優勝:鹿島アントラーズ、準優勝:浦和レッズ
「KAWASHIMA FUKUSHIMA」
ベルギーのリールスに所属していた川島永嗣に対し、相手チーム「ビアショット」が掲げた垂れ幕
川島は涙を流し抗議し、その後相手チームが謝罪(川島の活躍を証明しているともいえるが・・・)
2012年
<Jリーグ><年間優勝>サンフレッチェ広島(2位)ベガルタ仙台
<Jリーグカップ>優勝:鹿島アントラーズ、準優勝:清水エスパルス
2013年
<ボアテング事件>
1月ACミランVSプロ・パトリア戦でボアテングは差別的チャントに怒り、スタンドにボールを蹴り込んで自ら退場
他の選手も一緒に退場(イタリア・サッカー連盟は今後こうしたケースは審判に中断させると指示)
5月ASローマ戦で再び差別的チャントを受け試合たため、審判により試合が中断される事態に
「人種差別は私たちの中にあります。そしていまなお問題であり続けています。もし私たちが、停滞と闘わなければ、もっとも危険な病気のひとつに多くの人が感染することになたかもしれません」
国連でのボアテングの講演より
ボアテングはガーナ代表選手(父親がガーナ人で母親がドイツ人、弟ジェロームはドイツ代表を選択)
<Jリーグ><年間優勝>サンフレッチェ広島(2位)横浜F・マリノス
<Jリーグカップ>優勝:柏レイソル、準優勝:浦和レッズ
2014年
第20回ワールドカップ・サッカー・ブラジル大会 <Jリーグ><年間優勝>ガンバ大阪(2位)浦和レッズ
<Jリーグカップ>優勝:ガンバ、準優勝:サンフレッチェ広島
3月8日浦和VS鳥栖戦で「JAPANESE ONLY」の横断幕が張られていたことが問題となり(李忠也が標的だったという可能性も)3月23日浦和VS清水戦(埼玉スタジアム)がJリーグ初の無観客試合となった。
<バナナ事件>
FCバルセロナのダニエウ・アウべスがビジャ・レアルのサポーターから投げ込まれたバナナをコーナーキックの際に食べてみせて話題となる(「バナナ」は黒人を差別するためのもの)
この後、多くの有名選手がネットでバナナを食べる映像を公開し世界的に話題が広がった
しかし、バナナの差別的イメージが拡散し、バナナの投げ込みが減ることにはつながらなかった・・・
2015年
FIFA汚職問題で理事会から逮捕者が出て、その後、会長のブラッター氏が辞任 <Jリーグ>前期、後期2期制導入
第7回女子ワールドカップ・カナダ大会
2016年
2017年
2019年
2020年
オリンピック 第32回 東京大会(日本)


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