世界各国のサッカー・スタイルとその歴史 
Soccer Style Map & History

<世界のサッカー・スタイル>
 世界各国に様々な音楽があるように、それぞれの国、民族、地域には、それぞれ異なるサッカー・スタイルがあります。その違いを生み出すのは、体格や国民性だけでなく、政治や文化、そしてそれを生み出した歴史のようです。サッカー評論家の後藤健生は、著書「世界サッカー紀行」の中でこう書いています。

「そもそも、ボール・タッチの感覚、サッカーのスタイルといったものは、人種とか国民性ではなく、その国のサッカーの歴史の中で作られ、伝えられてきたサッカー文化なのだ。子供たちはプロ選手のプレーをスタジアムやテレビで見て、プロ選手のプレーを批評する。それを聞いて、子供たちはいいプレーと、悪いプラーを理解する。そういうことを通じて、その国のサッカー・スタイル(つまり文化)が伝承されるのである。」
後藤健生

「音楽にたとえると、欧州のサッカーはオーケストラ型で、指揮者やパートがきっちり決まった組織的な感じだ。それに対してブラジルはジャズやサンバのように即興的。いろんなものをミックスして、本番の中から何かが生まれる。
 オーケストラのように楽譜通り進めていくものはまねしやすいけれど、ジャズメンのまねは難しい。分析しきれないのがブラジル、だからこそ強いのかもしれないね。・・・」

三浦和良「やめないよ」より

 ということは、「サッカーの歴史」があって初めてそのスタイルが確立されるということでもあります。日本サッカーの歴史もやっと少しずつ積み上げられてきましたが、まだまだ底は浅いといわざるをえません。それでも、テレビでは「FOOTXBRAIN」のような考えるサッカー番組という画期的な企画も生まれ、着実に日本のサッカー文化は厚みを増しつつあります。このサイトも、そうしたサッカー文化の積み上げに少しは役立てればと考えています。
 世界のサッカーを知ることで、日本のサッカー・ファン力を上げる!

ヨーロッパ イングランド スコットランド アイルランド
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カメルーン コートジヴォワール    
ケニア コンゴ ソマリア
南アフリカ  ジンバブエ    
アジア 日本 韓国 オーストラリア 中国

<ヨーロッパ>
<イングランド>「サッカーの原点を受け継ぐ者たち」
 遥か昔から世界各地には様々なボールを使ったゲームがありました。日本にも、中国にも、インカ帝国にも、タイにも、それぞれまったく異なるルーツをもつボール・ゲームが存在していましたが、現在のサッカーのルーツがイングランド生まれの「アソシエーション式フットボール」であることは間違いありません。さらにそのルーツをたどると、それは中世イングランドで行われていた村対抗のお祭りにあります。年に一度、2月から3月の間にある告解火曜日、二つの村の人々が総出で一個のボールをめぐる争奪戦を展開し、それを目標になっている地点に運んだ方が勝利をおさめるというイベントでした。当時はボールを手で持つことはOK。ルールなどはいい加減で、殴る蹴るなど荒っぽいものだったため、時には試合中に死者が出ることもありました。しかし、危険なイベントではあっても、統治する側にとってこのお祭りは、大衆の不満を発散させる都合の良い機会でもありました。そのため、年に一度のこのイベントは危険ではあっても統治者によって容認されることになり、この考え方に基づいてサッカーは、その後大英帝国によって世界中の植民地へと輸出されることになります。
 19世紀に入り、このイベントには共通のルールが設けられることになります。それはこの競技がパブリック・スクールの体育教育に用いられることになったからです。交通機関が発達してきたイングランドでは、学校間の対抗戦が行われるようになったため、ルールを統一する必要が生じてきました。こうして、1863年、フットボール・アソシエーションが設立されました。この時初めて、フットボールで手を使うことが禁止され、それに納得できないグループが、手を使うことが出来るラグビーの協会を設立したわけです。
 もともと寒い時期に人々が身体を寄せ合うようにしてボールを奪い合う「移動式押しくら饅頭」として生まれた競技なだけに、イングランド人にとってのフットボール(サッカー)はボールをめぐる身体のぶつかり合いなわけです。そして、そうした起源があるからこそ、イングランドのサッカー・スタイルは、ラグビーのような身体のぶつけ合いに重きを置き、ボールをサイドから蹴りこむことでゴールを狙う、これもラグビー的なものになったと考えられます。さらにいうと、「フーリガン」の原点もまたサッカーを全員参加の競技と考えるところからきているのかもしれません。(ただし、「フーリガン」という名前は、ロンドンで一時期悪名が高かったアイルランド移民の暴れん坊一族の名前からとられたそうですが・・・)
  このところイングランド伝統のフィジカル・サッカーは過去のものと見られがちです。世界の主流は、FCバルセロナを主役とするパス・サッカーとなりました。イングランド代表も、地元開催の大会で優勝して以来、決勝戦にも駒を進めていません。「サッカーの母国」は、伝統を捨て新たなサッカー・スタイルに向かうべきか?地元開催だったロンドン・オリンピックでもイギリスは合同チームでのぞんだものの結果を残せませんでした。ルーニーという逸材がいる間に、なんとか結果を残したいところでしょう。
<追記>
イギリス人に対して一般的に言われているのは、
「勇敢」「あきらめない」「献身的」「闘争心」
<スコットランド>「フットボールを世界に広めたパスサッカーの本家」
 スコットランドのサッカーといえば、かつて中村俊輔が在籍したセルティックが有名です。セルティックというチーム名は、「Celtic」すなわちケルト民族のことです。ケルト系が中心のスコットランドとアングロサクソン中心のイングランドは、遥かな昔からライバル関係にあり、イングランドによる侵略戦争が何度も繰り返されてきました。現在でもスコットランドには独立を目指す動きがあり、現在ではかなりの自治権が与えられています。
 遺伝的にケルト民族は小柄なため、大柄なアングロサクソンとの戦闘は体格的に常に不利でした。しかし、フットボールに関してなら、彼らにも勝機が十分にありました。1863年にイングランドがフットボール・アソシエーションを立ち上げた後、次に協会を立ち上げたのは、そのスコットランドでした。(1873年)
 1872年に行われたイングランド対スコットランドの試合は、歴史上初のサッカーの国際試合となりました。この試合、体格差で不利なはずのスコットランドはイングランドに得点を与えず、0−0で引き分けとなりました。スコットランドは、フィジカル重視のイングランドに対して、細かいパス回しで対抗したようです。
 イングランドからスコットランドへと伝わったサッカーは、この後、西はアイルランドへ、南はフランス、ベルギー、オランダへと広まりました。しかし、それを伝えた人々の多くは、実はイングランド人ではなくスコットランド人だったといわれています。もともとケルト民族は船に乗って世界中を旅する海の民だったので、大英帝国の船の乗組員の多くもまたケルト系の人々でした。そのため、大英帝国が世界各地に建設した植民地には、スコットランド人によってサッカーが伝えられることになったのです。(そういえば映画「タイタニック」の主人公の青年もスコットランド系でした)そして、イギリスは、住み着いた国や街に必ずサッカー場を建設しました。
 1894年に初めてサッカーをブラジルに伝えた鉄道マン、チャールズ・ミラーという人物もやはりスコットランド系のイギリス人でした。そんなわけで世界中に広まったサッカー・スタイルの多くは、イングランドのフィジカル重視のスタイルではなく、スコットランドのパス重視のサッカーになったのでした。考えてみると、このことはサッカーの普及に大きな影響を与えたかもしれません。フィジカル重視のイングランド・サッカーが、輸出されていたとしたら、アジアのように体格的に小さな民族が住む土地では、サッカーの普及は遅れたかもしれないからです。ラグビー人口とサッカー人口の違いから考えても、その影響は大きかったかもしれません。
 身体が小さくても勝てるスポーツであることを、南米のチームがいち早く証明したことで、サッカーはラグビーとは異なる運命をたどることになりました。そう考えると、今世界中にサッカー・チームが存在しているのは、スコットランド人のおかげなのかもしれません。
<アイルランド>「ケルトの血が生み出す魂のサッカー」
 スコットランド人と同じケルト民族の血が流れているアイルランドですが、イギリスの一部であるスコットランドに対し、植民地から独立国となったアイルランドは、イングランドとは常に敵対関係にありました。そのため、アイルランドではイングランドの国技ともいえるアソシエーション・フットボールを認めず、その代わりにゲーリック・フットボール(ラグビーに近い手を使うことが許されている競技)とハーリング(ホッケーに近いスティックを使用する競技)が、国民的人気スポーツでした。意外なことに、アイルランドでサッカーの人気が現在のように高いものになったのは、1990年代に入ってからのことだといいます。
 1990年にイングランド・サッカー界の英雄、ボビー・チャールトンの兄がアイルランド代表の監督に就任。彼がアイルランド代表を率いてワールドカップ・イタリア大会に出場し、一気にベスト8にまで勝ち上がったことで、やっとサッカーは国民的な人気を獲得さいます。ラグビーよりも荒っぽいといわれるゲーリック・フットボールの伝統もあり、アイルランドのサッカー・スタイルは、イングランドのそれに近くフィジカル重視の守りとサイド攻撃を得意としています。しかし、ヨーロッパの中では体格的に小柄な民族に属していることもあり、それをスピードとスタミナで補う根性のサッカーを得意にしています。歴史的にアイルランドとイングランドの関係は、韓国と日本の関係にちょっと似ているのですが、二つの国アイルランドと韓国のサッカー・スタイルもまた似ている気がします。植民地として、長く苦しんできた歴史の中で、国民には反骨精神と忍耐力が身についたのかもしれません。
 ただし、アイルランド人は自分たちの国を過大評価することがなく、謙虚なことでも知られていて、そのためフーリガンのように暴力的な応援をすることがありません。それは彼らのサッカーにおけるフェアプレー精神にも表れています。だからこそ、アイルランド代表チームは他国のサッカー・ファンからも愛される存在です。彼らのチーム・カラーが「緑色」なのは、そんな彼らの平和的な考え方からかもしれません。
<オランダ>「空飛ぶオランダ人の楽しすぎるサッカー」
 オランダ・サッカーといえば、「フライングダッチマン」。そして、ヨハン・クライフでしょう。さらにいうと、フランスもスペインもワールドカップで優勝してしまったので、最後の「無冠の帝王」とも呼べるかもしれません。どのチームよりも面白いサッカーをするが、勝負には勝てない。ヨハン・クライフの登場以来、多くのサッカー・ファンに愛されるチームです。
 数多くの格闘家を生み出している国オランダは、大型かつ瞬発力のある選手の宝庫ですが、その理由のひとつに、かつて植民地だったアフリカの国スリナムから来た黒人たちの存在があります。(ライカールト、ダーヴィッツなど)
 さらに重要なのが、1960年代にアヤックスが始めた若手選手の育成システムを国全体が取り入れたことです。そのおかげでオランダは、サッカーに関する育成システムの先進国となりました。アヤックスはその後ヨハン・クライフの登場により黄金時代を迎え、ヨーロッパ最強のチームとなり、アヤックス中心のオランダ代表もまたワールドカップでの優勝を狙えるところまできました。
 ただし、そうした英才教育で育てられた選手は優れた技術をもつものの試合環境の変化に弱かったり、勝負どころに弱いという傾向にもありました。さらにトップクラスの選手はわがままを許される環境に慣れてしまい、チーム内のまとまりが壊れやすく、平気で監督を批判したり、チームを離れるなどのトラブルが多いのもオランダならではのことです。(ルート・グリットやダーヴィッツ)
 それにしても、人口わずか1500万人程度の国でありながら、個的なパフォーマンスではどの国にも負けない選手をそろえられるオランダに犠牲的精神と優勝へのモチベーションがそろったらどれだけ強いチームになることか。以前、ヨーロッパ選手権をベルギーと共同で開催したことがありますが、ワールドカップを地元開催できれば、優勝の可能性も高まるかもしれません。
 それとも、オランダは「永遠の無冠の帝王」である方がサッカーファンには楽しみがあっていいのでしょうか?
 2014年ブラジル・ワールドカップでは、オランダは最強スター軍団でしっかりと守りを固める戦い方で優勝を狙いました。しかし、惜しくもアルゼンチンに敗退。前回大会に続きまたも優勝を逃してしまいました。
「オランダのサッカーは、単細胞生物のゆに、どこから切っても、すぐに頭と尾が出る。どこからでも攻撃し、どこからでも守る。ディフェンスもオフェンスもオールラウンド。」
荒井義行
<ドイツ>「勝利への最短距離を突き進むサッカー」
 ドイツ・サッカーといえば、必ず出てくる言葉は「ゲルマン魂」。どんなに前評判が低くても、前半に2点先制されてハーフタイムを迎えたとしても、レッドカードで一人少なくなったとしても、それでもなおあきらめることなく戦い続け、ついにはその試合をものにしてしまう。それがドイツ・サッカーの得意とする「ゲルマン魂」です。しかし、それは単に勇猛果敢であきらめることを知らないドイツの国民性から生まれたものなのでしょうか?サッカー評論家の後藤健生氏はそのことについて見事な分析をしています。
 ドイツ人は、頑丈な肉体とスタミナを売りにしていますが、それを最も有効に活用し、勝利に結びつけるためのプレー・スタイルとして築きあげられてきたのが一見、頑固一徹に変わらぬ戦法を続けるドイツのサッカー・スタイルになったというのです。
 フィールド内にスペースを見つけた選手はそこに走りこむ。そして、ボールを持つ選手はそのスペースにボールを蹴り込みます。あとはそのスペースに走りこんだ選手がボールを確保。あとはその繰り返しによってボールを運び、ゴールへと迫る。この戦法には細かな技術は必要なく、スペースを抑える体力とスペースに走りこむスタミナさえあれば、どんなメンバーでも対応することが可能です。90分にわたり、この戦法を繰り返せば、体力、体格的に劣るチーム相手なら必ず得点機が訪れる。そのことを彼らは信じてプレーを続ける。そして、信じているからこそ、結果も伴うことになりました。
 20世紀中のワールドカップにおけるドイツの成績は、優勝2回、準優勝3回、3位1回。ヨーロッパ選手権では、優勝3回、準優勝2回、3位1回。さらにワールドカップの予選においては、たった一度だけ、予選突破後の消化試合で負けただけという安定した強さを誇っています。ワールドカップでのPK戦でも負けなしということで、相手チームは接戦になるとやはりドイツが勝つのでは、という雰囲気に飲まれることになります。
 21世紀に入り、スペイン・サッカーの黄金時代となり、ドイツの「ゲルマン・サッカー」は勝てなくなりつつあります。しかし、ドイツのサッカー・スタイルが変わることはないでしょう。論理的に考えれば、ドイツにとって勝利への最短コースは間違いなく今までの戦法だからです。
 サッカーとは、ゴールを決め、守りきって勝つための「確率」をいかにして高めるかを競うスポーツ。そのことをいち早く理解し、独自の戦法を固めたのがドイツでした。それに対し、新たな勝利のための方法を見出したのが、スペインということになりそうです。どっちが最強かは、歴史が証明することなのかもしれません。
 2014年、ドイツはスペインのポゼッションとアルゼンチンの堅守速攻、両方を併せ持つ完璧なチームとなって、見事に優勝を勝ち取りました。これほど、文句なしの優勝は今までもなかったかもしれません。21世紀のサッカーは今やドイツ主導に変わったようです。
<追記>
ドイツ人に対するイメージとして、一般的に言われているのは、
「強い精神力」「規律意識の高さ」「効率のよさ」「勤勉」「課題の把握能力」「頼りがいがある」
<イタリア>「サッカーを芸術に高めた戦術研究」
 イタリア・サッカーといえば、やはり「カテナッチオ」というのが定番です。「鍵をかける」ように守りを固め、天才肌のファンタジスタにボールをあずけ、先制点を奪う。後はしっかりと守りきり、1−0で勝利する。これがイタリアにとって完璧な勝利といわれてきました。
 イタリアという国は、もともと様々な都市国家がより集まってできた国です。サッカーはそうした歴史における都市間対立の「代理戦争」として人気を得たともいわれています。「戦争」であるからには、「内容」よりもいかに被害を少なく勝利をもぎ取るかが重要。しかし、立てこもっただけでは戦争には勝てないのも事実。そこで彼らは勝つための「戦法」を研究。相手によって、攻め方を変え、最も有効な戦いの方法を選ぶようになりました。こうした戦のための研究熱心さが、彼らのサッカーにも生かされています。
 サッカーに関する研究資料の量では世界一ともいわれるイタリアは、相手チームの戦術を研究し、その長所を消すことを得意にしています。その先駆者は、1960年代前半にインテル・ミラノを指揮した監督エレニオ・エレイラだったといわれています。その後、セリエAの試合は、お互いに守り重視の戦いをするようになったため、どんどん得点が減ってゆきました。イタリア代表チームも当然そうした戦法を用いるようになりますが、国際試合の場合、一発勝負のため、国内のリーグ戦よりもなお慎重な戦いとなるため、ガチガチの守備固めが多くなり、そうした試合運びに対して「カテナッチオ」という呼び名が生まれたわけです。こうして、イタリアのチームは、1−0ならベスト、アウェーなら0−0の引き分けもOKとするのが常識とするようになりますが、それは場合によっては無気力な試合を生むことにもつながります。そして、しだいにその影響がセリエAの試合レベルを下げるようになりました。その象徴ともいえるのが、1990年のイタリア大会でした。その大会では、地元イタリアだけでなく優勝国のアルゼンチンなど多くの国が守備的な戦いを展開し、ワールドカップ史上最もつまらない大会といわれるほど点が入らない試合の連続となりました。あまりの引き分けの多さに、FIFAは次の大会から勝ち点の変更を行い引き分けを不利にすることになります。
 勤勉に戦い相手の長所をつぶす戦術はイタリア人には合っているのかもしれませんが、試合に勝つためにイタリアはロベルト・バッジョやデルピエーロのような「ファンタジスタ」も常に生み出してきました。(フランス代表のプラティニもイタリア系でした)ガチガチのサッカーはそうしたタレントを生み出すことをも阻害しかねず、イタリア・サッカーは一時低迷の時期を迎えます。(セリエAでは、海外からファンタジスタを呼べますが、代表チームはそうは行かないのです)
 芸術の国イタリアは、勤勉なる大衆と一握りの天才、そして優れた策士によって初めて最強のサッカーを生み出しうるのかもしれません。2012年、ヨーロッパ選手権でイタリアは「カテナッチョ」を捨て去ったかのような試合ぶりをみせました。再びイタリアはかつてのACミランのように「カテナッチョ」と「ファンタジスタ」を融合させることができるのか?
<追記>
イタリア人のイメージについて、一般的に言われているのは
「気まぐれなラテン系」「情熱的」「激しやすい」「軽薄」「快楽主義」「官能的」
<フランス>理想の人種融合を実現した21世紀のサッカー」
 EU諸国の中でもフランスは社会主義的な民主主義を特徴としてきました。さらに芸術に関しては昔から国家主導による援助・育成体制が充実していることでも有名です。だからこそ、芸術やファッションの世界でフランスは世界をリードし続けてきたのかもしれません。「芸術の都、パリ」は、街並みの保存も含め国家単位での支えがあって初めて保たれているのです。音楽に関しても、1990年代にフランスは国家規模で「ワールドミュージック」のレーベルを立ち上げそれを世界に発信するプロジェクトを成功させています。
 サッカーに関しても例外ではありません。世界に先駆けて1970年代半ばにフランスは国立のサッカー研修所を設立。そこで選手やコーチの育成を行い始めています。その後、そのシステムを模範として、すべてのプロチームが育成システムを導入。こうしてフランスでは若い世代からどんどん優れた才能が育つようになります。そして、1980年代にその成果としてミシェル・プラティニを中心とするフランスの黄金世代が登場。彼らのサッカーは、その華麗さから「シャンパン・サッカー」と呼ばれることになります。
 勝敗よりも、その華麗さを売りにする「シャンパン・サッカー」は、芸術を愛し自由を愛するフランス人の国民性によって生み出されてたと思われます。しかし、個性が強いことで知られるフランス人の中にはサッカーに興味のない人も多く、1998年のフランス・ワールドカップの時も、当初は多くのフランス人が会場となる都市からバカンスに出かけてしまいました。幸いフランスが勝ち続けたため、途中からフランスはたいへんな盛り上がりになりましたが、それはフランスという国にとっては非情に珍しいことだったといいます。では、フランス人はどんなサッカーをすれば喜ぶのか?プラティにはかつてイタリアの名門ユベントスに在籍していた時、こう言ったことがあるそうです。

「イタリアでは結果がすべてだが、スペクタキュラーな試合をして勝たなければフランスの観客は満足しない」ミシェル・プラティニ

 ラグビーの人気が高くサッカーファンが意外に少ないフランスですが、彼らの目は肥えていて、国内リーグの人気が低い分、海外の試合を良く見ています。そのうえ、辛口の国民性ですから、フランスのサッカーファンは、つまらない試合をして勝っても評価はしてくれないのです。こうして生まれた「シャンパン・サッカー」ですが、プラティニ中心の華麗なサッカーは世界を魅了するもののワールドカップで結果を残すことはできませんでした。素晴らしいサッカーを展開するももの勝負強いドイツの前に敗れてしまったのです。(1982年スペイン大会)その後、しばらくフランスは低迷期を迎えますが、新たな世代は人種の壁を越えた21世紀のチームとしてプラティニの夢をかなえることになります。
 アルジェリアから来たベルベル人の子、ジダンを中心にガーナ生まれのデサイー、バスク人のリザラス、旧ソ連からの移民アバルジア人のジョルカエフなど、多民族からなる代表チームは、人種の壁を越えて見事に融合し1998年世紀末のフランス・ワールドカップで見事に優勝。もともとはフランス人ジュール・リメが設立したジュール・リメ杯はやっとフランスにやって来たのです。フランスが国家規模で目指した人種融合は、20世紀の最後にサッカーの世界で見事結果を出したのです。ただし、その後ジダンの頭突き事件以後、フランスは低迷期に入ってしまいます。政権が、人種差別を容認する右派的な政権に変わったことも、影響しているかもしれません。あの事件は、人種差別的な発言がもとになっているといわれるだけに実に皮肉なことです。
<追記>
フランス人のイメージとして、一般的に言われているのは
「合理的」「教養」「華麗」「才能」「インスピレーション」「魅力」「上品」
<ロシア>「赤の広場にサッカーは似合わない?」
 イングランドの資本家もしくは貴族階級が生み出したサッカーは、ロシア革命後の共産主義政権にとって嫌悪すべき存在だったはずです。しかし、イングランドでも貴族階級ではなく、労働者階級のスポーツとして広まったようにソ連でも労働者たちはこのスポーツに飛びつきました。もしかすると、大衆はそのスポーツに「自由の喜び」を感じていたのかもしれません。政府もそうしたサッカー人気を利用するようになり、秘密警察のチームとして「ディモナ・モスクワ」が設立されます。(今でも名門チームです)当然、ソ連代表チームのスポンサーは政府で、国家の威信をかけてチームの強化が行われるようになります。特に冷戦時代はアメリカとソ連のオリンピックのメダル争いは熾烈だっただけに、ソ連はこの競技にも力を入れるようになりました。
 1956年のメルボルン・オリンピックでは、「黒蜘蛛」と呼ばれた伝説的ゴール・キーパー、レフ・ヤシンを擁するソ連代表チームは金メダルを獲得しています。ただし、当時のオリンピックは、アマチュア選手しか出場できませんでした。当然ながら、プロ選手が出場するワールドカップにおいてソ連はなかなか活躍できず、1966年イギリス大会での4位が最高です。
 不思議なことにソ連(ロシア)チームは、大会前の前評判が高くても、一次リーグで驚異的な強さをみせても、なぜか決勝リーグではコロッと負けてしまうことが多いようです。2012年のロンドン・オリンピックでも、初戦に素晴らしい試合を展開し、2018年にはロシアでのワールドカップが開催されるだけに、今回は優勝もありえると思わせました。ところが、その後前評判の高さが嘘のようにあっさりと負け続け大会から早々と姿を消してしまいました。
 強靭なフィジカルによってしっかりと守り、そこから手数をかけずにスルーパスやサイドからの攻撃によって点を取るというスタイルは確立されていますが、それを押さえ込まれてしまうと打開するアイデアを創造することができない。これは「創造性」を求められない画一化された社会体制が基準となっていたソ連時代の遺産によるものなのかもしれません。実際はソ連の崩壊から20年以上がたっているのですから、もうそろそろロシア代表も自由なサッカーを展開できそうなのですが?
 自由のない国のサッカーは、「創造性」が育たないために強くなれない、しかし、自由すぎて不平等な国のサッカーもまた人を信じることができないために組織プレーを展開できず強くはなれない。ソ連は前者、ロシアは後者に当てはまるような気がします。
 「赤の広場」で自由にサッカーを楽しむことができる時代が来て初めて、ロシアのサッカーは強くなれるのかもしれません。
<ハンガリー>「魔法を失った伝説のサッカー王国」
 ハンガリーがかつてヨーロッパ最強のサッカー王国だったことは、もうかなりのサッカーファンしかしらない歴史的な秘話になりつつあります。ハンガリーは、1938年のワールドカップで準優勝しており、トップクラスの実力をもつ国でした。しかし、その後、第二次世界大戦が始まり、さらに戦後は東側(共産圏)の一員となったために西側のチームとの試合が少なく、その実力はベールに包まれることになりました。しかし、1950年代に入り、ハンガリーは西側諸国との試合を行えるようになると、その実力を発揮。世界に衝撃を与えることになります。当時「ブンダーチーム(Wonder Team)」と呼ばれていたヨーロッパ最強国のひとつオーストリアに1950年5月に敗れて以降、ハンガリーは1954年のワールドカップ直前まで22勝4引き分け無敗という驚異的な成績をおさめているのです。
 特に有名なのは、1953年サッカーの母国イングランドを彼らのホームであるウェンブリー・スタジアムで6−3で撃破した試合でしょう。歴史上イギリス国外のチームにホームで負けたことがなかったイングランドをその屈辱をはらすためアウェー戦に挑みましたが、これもハンガリーが7−1と大勝してしまいました。コチシュ・サンドル、プシュカシュ・フェレンツの2トップと指令塔ヒデクチ・ナンドールらが繰り出す攻撃は圧倒的な迫力で、いつしか彼らは「マジック・マジャール」と呼ばれるようになります。(ハンガリーの国民は民族的にマジャール人と呼ばれています)
 そんなハンガリーがついに敗れたのは、1954年スイス・ワールドカップ決勝の西ドイツ戦でした。ところが、この後、ハンガリーはワールドカップに挑むチャンスをサッカー以外の理由で失うことになります。
 1955年、民主化を進めるハンガリーにソ連軍が侵攻。そのためにプシュカシュ、コチシュらの主力メンバーがスペインに亡命してしまったのです。それでも、1960年代に入ると再びハンガリーは勢いを取り戻し、1964年の東京、1968年のメキシコ両オリンピックで連覇を達成。しかし、ソ連の崩壊と東ヨーロッパ諸国の経済的な弱体化とともにハンガリーのサッカー界は長い低迷期に入り、今やその復興の兆しすらみえません。どんなサッカー強国も国家の体制が崩壊してしまえば、その栄光は失われ、復活は遠いものになる。これもまた現実です。
 それでもソ連が崩壊した後、同じ東欧のブルガリアとルーマニアがワールドカップだ活躍しています。やはり「自由」と「サッカー」には強い結びつきがあるようです。
<スペイン>「代表意識を持った最強テクニック集団」
 1980年代の終わり、僕はスペイン一人旅の途中、スペイン・リーグの試合を見てきました。本当はFCバルセロナの試合を見たかったのですが、たまたまやっていたのは、アトレチコ・マドリードとアスレティック・ビルバオの試合でした。後で知ったのですが、ビルバオはバスク地方にあるチームで選手はみなバスク人だったといいます。そして、アトレチコ・マドリードはそんなバスク地方から首都マドリードに出てきた人々が作ったバスク系のチームだといいます。どうりでチームカラーがどちらも赤と白でややこしかったはずです。バスク地方といえばスペインからの独立を目指している地域。スペインという国には、国内に様々な異なる文化圏が存在しています。
 同じように、バルセロナを中心とするカタルーニャ地方もスペインからの分離独立を目指していて、今でもカタルーニャ語とその文化を重視した異なる文化圏を築いています。国内に異なる文化圏が存在するスペインは、代表チームを選ぶ際、常にそのメンバーの出身地構成が問題となります。
 一昔前ならバルセロナ中心の今のスペイン代表チームはスペイン全体からの応援を受けられなかったかもしれません。それは、大阪と東京の対抗意識とは比べ物にならない歴史的因縁によるものです。スペイン人(マドリード中心の地域)とカタルーニャ人(バルセロナ中心の地域)は、かつてスペイン内戦(1930年代半ば)において殺し合いを繰り広げた歴史をもっているのです。こうした歴史を持ち、なおかつバルセロナとマドリードが常にサッカーにおいてもライバル関係にあったことから、スペイン代表チームは、メンバー選びに苦労し、スペイン国民全体からの支持を得にくい状況にあったわけです。
 ワールドカップの歴史において、スペインの評価は常に高く「無敵艦隊」と呼ばれ続けてきましたが、なぜか本大会での優勝がなく、ベスト8止まりの常連といわれてきました。その原因には、そうした代表チームとしての意識の低さが影響していたのかもしれません。
 しかし、スペイン戦争から時は流れ21世紀に入り、ヨーロッパ全体がEUとして統合される中でスペイン人の意識も変わりつつあるようです。カタルーニャ地方には大幅な自治が認められるようになり、かつてのような対立意識は薄れつつあるようです。そんな中、FCバルセロナを中心に固められたスペイン代表チームは、チームとしてのまとまりを保ちつつ、国全体の応援を得てついにワールドカップで初優勝を果たしました。
 バルサのポゼッション・サッカーを見ていると、ふと「闘牛」を思い出します。ボールをもつ選手に寄ってくる敵は牛で、彼を引きつけたところで、それをいなして味方にパスを出す。それは「闘牛」同様芸術の域にまで高められたボールを使った儀式のようにも見えます。だからこそ観客たちもそこで「オーレ!」と叫ぶのでしょう。同じ「闘牛」の国メキシコのサッカーもまたスペイン同様「けれんみ」たっぷりのサッカーを見せるチームです。
 スペインの「ポゼッション・サッカー」については、「FCバルセロナ」のページをご覧下さい。

 イタリアの守備的サッカーに見慣れてしまった者には、浅い目の最終ラインを縦パス一本で割るスペイン・サッカーの逆襲の速度と意外性は、実にすばらしい。ただ、フォーメーションの決め手となる、強力なパス集配者を欠くため、国内リーグでは、ドイツ、オランダ、英国あたりから大型のゲームメーカーを移籍しなければならないのは残念だ。ワールドカップのTV放送から推察する限り、この国のサッカーが、どこか脊椎を欠いたような頼りなさを感じさせるのは、そのためだろう。「無脊椎性」が、オルテガ・イ・ガセットが指摘したように、この国の近代化の全体を象徴するのならば、これもやはり、サッカーにおける「スペイン性」として考慮すべきなのかもしれない。
細川周平「サッカー狂い」より
<ブルガリア>「東欧の民主化が生んだ奇跡の活躍」
 1980年代の終わりにソ連が崩壊していこう、サッカー界では様々な変化が起きました。東ヨーロッパに急激に国が増えたのもそのひとつです。そして、「自由」を得たそれぞれの国の選手たちは、そうしたプラスのエネルギーを生まれ変わろうとしている母国のために注ぎ込み、いくつかの奇跡をが起こしました。そのひとつが、それまでワールドカップで一勝もしていなかったブルガリアが1994年のアメリカ大会でベスト4に残ったことです。この時の大会では、同じように民主化が進んでいたルーマニアもベスト8に進出。1998年のフランス大会ではユードスラビアがベスト16、クロアチアが3位となっています。これら東欧勢の活躍は、偶然ではないでしょう。もともと実力がありながら、経済的な問題もあって育成に力を入れられず実力を発揮できていなかったこと。共産圏の国であるがゆえに西側との交流が少なかったのが、自由化によって、選手の行き来が多くなり、着実にレベルが上がったのも事実でしょう。しかし、それ以上に「自由」を得たことで母国への愛情を持てるようになったことが、活躍の一番大きな理由だったと思うのです。
 もちろん、1994年のベスト4進出は偶然ではありません。そうなるだけの豪華な選手たちが当時のブルガリアにはいました。先ずはセンターフォワードのストイチコフ。彼とのパス交換でチャンスを確実に決めたMFコスタディノフ、シラコフ、レチコフ、バラコフの関係は明確な攻撃パターンを形づくり完成の域にまで高められていました。ハジを中心とするルーマニア代表も同じようにまったく迷いのない明確なスタイルで試合を展開し、多くのサッカーファンの心をつかみました。(そんな彼らの活躍に神も味方。アルゼンチン戦の直前にマラドーナがドーピング検査にひっかかり試合に欠場するという幸運もありました)
 民主化により、海外でプロとした活躍し始めた選手たちは、母国にもどり愛する国のために戦える喜びを感じていたのでしょう。モチベーションの高い国が結果を残す。もしかすると、このことはワールドカップを面白くしている最大の理由かもしれません。




<南アメリカ>
<アルゼンチン>「嫌われ者のメンタリティーと奇跡のプレー」
 アルゼンチン・サッカーといえば、良くも悪くも「マラドーナ・サッカー」です。それは、あの伝説のイングランド戦(1986年メキシコ大会)でみせた彼の「五人抜きドリブル」と「神の手」に象徴されています。
 アルゼンチンの選手は、ブラジル代表のようなリズミカルで大きなステップを踏むドリブルではなく、細かなタッチによるスピード重視の縦に強いドリブルをみせます。その最高峰がマラドーナでした。そして、この縦に相手チームを切り裂く攻撃はアルゼンチン・サッカーの基本となっています。イタリアの守備のようにガッチリと守備を固め、チャンスとみると一気に相手のペナルティー・エリアまで縦にボールを持ち込む。これが彼らのサッカー・スタイルです。そして、そこに彼らはオプションとして「神の手」に象徴されるファール・ギリギリの戦法も加えています。審判に見つからないなら「シュミレーション」もシャツを引っ張るのもOK。このずる賢いメンタリティーは、けっしてマラドーナだけのものではありません。アルゼンチンにおいてマラドーナが信仰の対象になっているのは、彼の「神の手」を正しい行為と認めるアルゼンチン人の国民性あってのことなのです。
 実は、サッカーとは関係なしに、アルゼンチンという国は南アメリカの国々の中でも昔から嫌われてきました。ヨーロッパ的な街並みは、フランスのようで街を歩く人々もほとんどが白人。そのため、昔から人種差別が厳しく、かつてはナチス・ドイツの残党の多くがこの国に逃げ込んできたのも、親ナチの国民性があるからです。そのため、南米の人々はワールドカップ・サッカーが始まると、先ずは自国の代表チームを応援し、そこが負けると次にブラジルを応援。でもアルゼンチン代表を応援することはない、そう言われてきました。そんな嫌われ者の国だからこそ、彼らは勝つことにこだわり、ずる賢い戦い方を身につけたのかもしれません。(しかし、勝利へのこだわりという意味では、そこに日本代表が学ぶべきところがあるのも確かです)
 あのスーパースター、リオネル・メッシがアルゼンチン代表に入ってなかなか活躍できないのは、彼が子供の頃からスペインでサッカーを学び、人生もプレー・スタイルもスペイン式になってしまったために、メンタリティーが合わせられないからかもしれません。
 まるでサッカー界の悪役みたいに書いてしまいましたが、それもこれもマラドーナのあの超絶プレーがあったからこそのこと。そして、今もなおメッシがその伝説を引き継ごうとしているのですから、アルゼンチンのサッカーはまだまだ世界の主役であり続けるでしょう。何より、悪役は強くないと面白くないですから・・・。
<アルゼンチンという国>(2011年)
1816年スペインから独立。公用語はスペイン語。
白人が97%(イタリア系、スペイン系)。宗教はカトリックが80%・・・
アルゼンチンのサッカーが、南米でありながらカテナチオ・サッカーに近いのは、民族的な影響が大きいと考えられます。
<ブラジル>「最強最高のサッカー王国再興はなるか」
 ブラジル・サッカーの魅力は、なんといっても個々の選手のテクニックにあります。巧みなフェイントで一気にマークをかわすドリブル。どこからボールが飛んできても、それをピタリと自分の足元に収めるトラップ。コースがあれば、どこからでも蹴りこめる力強いシュート。そうした優れたテクニックをサンバのリズムに乗っているかのようにかろやかに展開できるのは、ブラジルの選手ならではです。
 こうしたブラジル独特のプレー・スタイルの原点は、彼らの血に混じるアフリカの血からもたらされたのではないか?と評論家の後藤さんは説明しています。そして、ブラジルが世界最強のサッカー王国になれたのは、そのアフリカの血が生み出すプレーをどの国よりも早く取り入れたからだというのです。確かにアフリカ諸国がサッカーをスポーツとして本格的に取り入れられるようになったのは、1960年代に多くの国が独立してからのことです。それに対し、ブラジルではサッカー協会が1914年に設立されているのです。もちろん、ブラジルにも人種差別はあり、黒人選手が代表チームで活躍するようになったのは、1934年のイタリア大会に出場したレオニーダスあたりからですが、それでもどこよりも早い黒人選手の登場でした。黒人独特の身体能力が人種融合の進むブラジルでいち早くチーム・プレーに溶け込み、急激な進化を遂げることでブラック・アフリカのパワーとリズム感と南米のテクニックが融合した最強のチームが誕生することになりました。
 しかし、そんな最強チームにも弱点はあります。それは21世紀に入ってもなお、アフリカから優勝チームが誕生しないのと同じ理由かもしれません。ボールを蹴って楽しむことを生きがいとするブラジル人は、攻撃するために攻め上がるのは得意でも、献身的に守ることを苦手としています。あの「アトランタの奇跡」も、守備のほころびがあって起きたこと。
 1994年アメリカ大会での優勝がドゥンガを中心とする守りの堅さによるものだったのに対し、トニーニョ・セレーゾ、ファルカン、ソクレテス、ジーコの黄金カルテットを擁した1982年スペイン大会の最強チームは優勝を逃しています。ブラジルが優勝するためには、守備を固めなければならない。だからこそ、南アフリカ大会では、守りの要ドゥンガに監督が託されたのでしょう。しかし、ブラジルにはもうひとつ根本的な問題があります。
 多くの優秀な選手がヨーロッパのチームに早くから移籍してしまうため、ジュニアやユースの世代からチームを育てることが難しいのです。さらには、そうした活動を統括するサッカー協会の体制もまた常に変動を繰り返し、育成システムや代表チームづくりに一貫性を保つことができないのです。ただし、次回のワールドカップがリオデジャネイロで行われること、さらにオリンピックもリオで開催されることから、こうしたサッカー協会の体制も固まるかもしれません。
 もう一度、ブラジル・サッカーの黄金時代は訪れるのか?リオデジャネイロ大会は、その意味でブラジルの正念場と21世紀サッカーの未来がかかった大会となるはずです。
<ブラジルという国>(2011年)
1500年ポルトガル領となる。1822年独立。公用語はポルトガル語。
白人53.7%、褐色(混血)38.5%、黒人6.2%。宗教はカトリックが73.6%、プロテスタント15.4%・・・
人種融合が最も進んだ国は、サッカーについても世界のサッカーが融合しているといえます。
<コロンビア>「やば過ぎる国の面白すぎるサッカー」
 コロンビア・サッカーといえば、やはりバルデラマとイギータがいた1990年代でしょう。バルデラマは、あの独特の黄金色のアフロ・ヘアーだけでも忘れられませんが、彼のスルーパスとそれに反応するフレディ・リンコンとファウスティーノ・アスプリージャのスピード。そして、スコーピオン・セーブ!と攻撃参加を売りにしていたGKカルロス・イギータのスーパー&珍プレーの数々。本当に面白いサッカーでした。当時、コロンビアはアルゼンチンを5−0で破るなど、強いときはどんなチームも太刀打ちできない存在でした。
 コロンビアには、クンビアという独特のリズム感をもつ音楽があります。彼らのサッカーはそのクンビアのゆったりとしたリズムを思わせるもので、古き良きブラジル黄金時代のサッカーに似ているとも言われます。ただし、その黄金時代は1980年代の終わりから1990年代の半ばという短い期間に限られます。なぜコロンビアは、ブラジルのようにサッカー王国になれなかったのか?そこにはやはりそれなりの地理的、歴史的な理由がありました。
 ひとつには、コロンビアが地理的にカリブや中米の国々との結びつきが強い野球文化圏であり、アメリカ文化圏の国なためサッカーに関しては後進国だったことがあります。コロンビアが南米サッカー連盟に参加したのは1940年とかなり遅めでした。当時の選手としては、レアル・マドリードの黄金時代を築いたアルフレード・ディ・ステファノがいます。ただし、このときのコロンビアの国内リーグは「ミジナリオス」(百万長者)という名のチームが金に任せて世界中から有名選手を引き抜いていたため、FIFAから除名されてしまい、幻のサッカー・リーグとして謎に包まれていました。1954年にやっと再加入するものの、1962年に一度ワールドカップに出場しただけで、その後成績はパッとしませんでした。
 コロンビア代表ブレイクのきっかけは、1986年にワールドカップの開催国に選ばれたことです。残念ながら、この大会は国内の政治的混乱によりメキシコで代替開催されることになりましたが、地元での開催に向け代表チームの強化が行われていたため、そこからイギータ、バルデラマ、リンコン、アルバレス、エスコバルらを中心とする歴代最強のチームが誕生しました。当時のコロンビア代表は、優勝候補と見られていました。結局、肝心のところで勝負弱さが出てしまい優勝には手が届きませんでしたが、世界のサッカー界に旋風を巻き起こしました。(イギータの攻撃参加が裏目に出たのは、良くも悪くも大会を盛り上げました)
 ところが、そんな黄金時代は悲劇によって幕を下ろすことになります。1994年アメリカ大会で敗退したコロンビア代表のDFエスコバルが、帰国後マフィアによって暗殺されてしまったのです。それは彼のオウンゴールによってコロンビアだ大会を去ることになったからでした、もちろん彼はわざとやったわけではなくその試合の結果が賭けの対象になっていたからです。大会中も、チームには犯罪組織などから様々な嫌がらせや脅迫、メンバー選びへの要求などがあったと言われています。1986年のワールドカップ大会返上も悪名高い麻薬組織メデジン・カルテルと警察との戦争が原因で、その後もサッカー界での八百長問題が明らかになるなどサッカー界の混乱が続くことになってしまいます。エスコバル事件から20年以上が過ぎました。もうそろそろコロンビアの黄金色に輝くサッカーが復活してくれないでしょうか。
<コロンビアという国>(2011年)
1810年スペインから独立。公用語はスペイン語。
メスティーソ(白人、インディオの混血)58%、白人20%、ムラート(白人、黒人の混血)14%、黒人4%。宗教はカトリックが90%・・・
ブラジル以上に人種が融合した国といえるかもしれません。
<ウルグアイ>「栄光の再現を夢見る元祖世界チャンピオン」
 ワールドカップで複数回優勝している国を挙げよ、という質問に、この国の名前をすぐにあげられる人はそう多くないかもしれません。なにせウルグアイの優勝は、1930年の第一回大会と1950年の第4回大会とはるか昔のことなのです。しかし、その後、ウルグアイは優勝どころかベスト4にも残れない状況が続いています。しかし、21世紀に入り再びウルグアイ・サッカーは輝きを見せ始めています。
 ウルグアイのサッカー・スタイルは、隣国アルゼンチンに近いといえます。バックラインがしっかりと守り、そこから前線へパスを縦に供給。鋭いドリブルと絶妙のスルー・パスを使って、一気にボールをゴール前へと運ぶ。アルゼンチンよりは守備的で、パラグアイよりも攻撃的なカウンター攻撃中心のスタイルは伝統として完成されています。
 ウルグアイ代表は、栄光の時代を過ぎても南米選手権での活躍は続き、20世紀中に14回も優勝しています。(あのブラジルでさえ6回しか優勝していません)ただし、1970年のメキシコ大会でのベスト4から、世界レベルでの活躍はなくなっていました。
 アルゼンチン代表の多くがヨーロッパのチームで活躍するのに比べるとウルグアイの代表選手の多くは南米でプレーしていることもあり、彼らのプレー・スタイルはヨーロッパのサッカーに比べゆったりとしていました。そのため、南米では強くても、ヨーロッパのサッカーには対抗できなかったといえます。しかし、最近はヨーロッパ組が増えつつありウルグアイ代表は再び世界のトップに顔を出しつつあります。
 21世紀に入り南アフリカ大会では、得点王となったフォルランやスアレスらの活躍により見事ベスト4入り。その後も国際試合での活躍が続き、ウルグアイはFIFAの世界ランキングでトップ5に定着しつつあります。(2012年時点)ウルグアイ国民にとっては、唯一の誇りとも言われるワールドカップ・チャンピオンの座を再び取り戻すことも夢ではないかもしれません。初代チャンピオンの復活なるか?
<ウルグアイという国>(2011年)
1777年スペイン領となる。1821年ブラジル領となる。1825年独立。公用語はスペイン語。
白人88%、メスティーソ(白人、インディオの混血)8%、黒人4%。宗教はカトリックが47.1%・・・
アルゼンチンに次ぐ白人国家だからこそ、サッカー・スタイルも似ている。ブラジル領だったことからブラジルに対するライバル意識は強い。



北中米カリブ海
<メキシコ>「華麗なるショーマンシップ・サッカー」
 2012年ロンドン・オリンピックで金メダルを獲得したメキシコ代表は、久しぶりにメキシコ・サッカーの力を世界に照明しました。メキシコのサッカー・スタイルは日本と似ているかもしれません。体格的に日本と似ているので彼らはその分よく走ります。メキシコの国土の多くが高地にあることから、メキシコ人の肺の強さは有名で、昔から優秀なトランペッターと長距離走者を多く輩出してきました。それだけに彼らのスタミナは日本人以上かもしれず、ロンドンではその力を見せ付けられました。
 もうひとつメキシコで有名なスポーツとして「ルチャ・リーブレ」があります。あのミル・マスカラスに代表される華麗な空中殺法を売りにしたプロレスです。彼らが見せるジョーマンシップと素早い身のこなしは、サッカー・プレイヤーにも共通しています。
 小柄な体つきにも関わらず世界を驚かせたゴールキーパー、カンポスのスーパープレーの数々。ボールを両足ではさみ、それを跳ね上げてディフェンスをかわしたブランコ。ゴールを決めるたびに宙返りをみせたストライカー兼軽業師ウーゴ・サンチェス。彼らのショーマンシップにあふれたプレーだけでなく、今や世界中のスタジアムに広まった「ウェーブ」。これもまたメキシコで生まれたパフォーマンスで、もともとは「メキシカン・ウェーブ」と呼ばれるものでした。
 メキシコの選手はそのほとんどがアメリカ先住民。黒人やメスティーソ(混血)が多い中南米のチームの中では異色の存在です。(この点でも、人種的に日本と似ています)さらに彼らの先祖は天然ゴムの固まりを使ったバレー・ボールのようなスポーツ「フエゴ・デ・ペロータ」を行っていたことでも知られています。この競技は足も使うサッカーに通じるものでした。(かつては日本にも蹴鞠という遊びがありました)
 足技のテクニックと強靭なスタミナ、そしたショーマンシップをもつメキシコが組織として連動するプレーをし始めたら、そのロンドン・オリンピックの再現をワールドカップの本大会でも見せられるかもしれません。
<メキシコという国>(2011年)
1821年スペインから独立。公用語はスペイン語。
メスティーソ(スペイン系白人とインディヘナの混血)60%、インディヘナ30%、スペイン系白人9%。宗教はカトリック87%・・・
先住民中心の民族であり、黒人が少ない分、体格的には小さい。
<アメリカ>「世界最強の学生サッカーを卒業することはできるのか?」
 基本的にアメリカのサッカー・スタイルは、イングランド直系のサイド攻撃と粘り強い守備が基本といえます。ただし、アメリカのサッカーには花がない。それは、彼らのサッカーが学生サッカーの延長であり、アメリカン・ドリームとは無縁の存在だからです。もちろんアメリカにもサッカーのプロ・リーグはあり、代表選手はそれらのチームか海外のプロ・リーグに所属するプロ選手です。しかし、アメリカにおいてサッカーというスポーツは、ちょっと特別な存在です。少年時代にアメリカ人がサッカーをするのは、学校教育の一環として基礎体力をつけるのに適していると考えられているからです。そのため、中学まではサッカーをしている子供は多く、その後多くの少年はそれぞれの適正に合わせて様々なスポーツを選択します。当然、プロとしての成功を目指す優秀な選手たちは、「アメリカン・ドリーム」の実現する最短距離にある競技、バスケットボール、野球、アメリカン・フットボール、アイスホッケー、ボクシングなどを選ぶことになります。(女子の場合は、その後の選択肢が少ないため、そのまま多くの女性がサッカーを続けるため、その実力は世界一となったのです)
 そんなわけで、アメリカでサッカーを大人まで続けるのは、ファンも含めて中産階級以上の家庭に育ったサッカー以外の仕事で食べて行ける若者たちがほとんどということになります。当然、その中にアフリカ系は少なく、ヒスパニック系も少ないことになります。といっても、スポーツ大国のアメリカですから、白人選手中心とはいえ選手の身体能力は高くスタミナのも驚異的です。有名選手はいなくても組織プレーのレベルは高く、チームとしてのもとまりもあります。それに中産階級に黒人やヒスパニック系も増えつつはあります。
 前評判は低くても、ワールドカップではそこそこの活躍をするものの大番狂わせを起こすまでには至らない。それがアメリカ代表の今の限界といえます。それを変えるには、プロリーグがもっと盛り上がり、そこからスーパー・スターが誕生することが必要な気がします。
<アメリカという国>(2011年)
1776年イギリスから独立。公用語は英語。
白人79.8%、ヒスパニック15.4%、黒人12.8%、アジア系4.5%。宗教はプロテスタント51.3%、カトリック23.9%・・・



アフリカ
<カメルーン>「アフリカ最強のファンタジック・サッカー」
 アフリカ代表のチームとして初めてベスト8に進出した国。(1990年イタリア大会)そして、あの「カズ・ダンス」の元祖である伝説のストライカー、ロジェ・ミラの母国。さらにいうと、Jリーグ、ガンバ大阪でも活躍したエムボマの故郷でもあります。それにインテルでの長友の同僚エトーもカメルーン代表です。2000年には、オリンピックの金メダルとアフリカ選手権での優勝という二冠を獲得。20世紀アフリカ最強のチームだったといえそうです。
 カメルーンの総人口は1300万人で、隣のナイジェリアの1億人に比べれば小さな国ですが、そのナイジェリアをも上回る成績を収めています。もちろん西アフリカの住民に共通する驚異的な身体能力はカメルーン代表の売りではあります。しかし、それよりもカメルーンのサッカーの歴史が恵まれたものだったことの方が重要だったのかもしれません。
 もともとカメルーンのサッカーは、宗主国だったフランス直系のサッカーを受け継いでいます。植民地時代からフランスは、カメルーン国民にサッカーを奨励。不満の捌け口として利用するためにサッカーを国内に広めました。カメルーンにとって幸いだったのは、フランスからの独立の際も、その後も、国内での大きな紛争や隣国とも戦争もなかったことです。アフリカのほとんどの国が、国境紛争、飢餓、クーデター、宗教・民族紛争などにより国民生活すら保てない状況に一度は陥っていることを考えれば、それは非常に恵まれているといえます。国内の平和が保たれているからこそ、カメルーンの選手たちは安心して海外に移籍してそこで活躍することもできるのです。逆にヨーロッパのチームとしても、安心してカメルーンの選手を獲得できます。もし、アフリカの国々が平和を維持できていたら、もしかするとアフリカから優勝国が今頃誕生していたかもしれません。そうならないのは、やはりいまだにアフリカが経済的にも政治的にも安定とは程遠いからなのでしょう。
<カメルーンという国>(2011年)
1960年フランスから独立。公用語はフランス語。
宗教はカトリック26.4%、伝統信仰23.7%、プロテスタント20.7%、イスラム教21.2%・・・
<コートジヴォワール>「国家を統一させたパワフル・サッカー」
 コートジヴォワールは、1960年から1993年までフェリックス・ウフェ=ボワニ大統領のもとで安定した状況が続いたアフリカでは例外的な国です。カカオとコーヒーの生産により経済的にも安定。そのため周辺国からの移民が増え、人口の1/4に達していました。そのため移民に対する差別が激しくなり、さらに南部のキリスト教徒と北部のイスラム教徒との対立も激化。ついに6年に渡る混乱が続き、クーデターを起こした軍のロベルト・ゲイが大統領に立候補し不正な選挙を行い、勝利宣言をしてしまいます。それに対し、対立候補のローラン・バボはデモを展開。多くの支持を得たためにゲイは国外に逃亡します。しかし、2002年に南部出身のバボが大統領になっても、北部を中心に反乱が続くことになります。
 そんな中、2005年にコートジヴォワール代表はワールドカップへの初出場を決めます。チームのキャプテンであり中心選手でもあるディディエ・ドログバは、BBCアフリカン・プレイヤー・オブ・゙ジ・イヤーに選ばれ、そのトロフィーを持って北部を訪問。(彼自身は南部出身)北部の都市プアケでのパレードは大成功。彼はワールドカップ予選の対マダガスカル戦をプアケで行いたいと発表します。
 2007年に行われたこの試合は5−0で見事に勝利。ドログバもこの試合でゴールを決め、一躍国家的な英雄となりました。ちなみにチームのもう一人の柱、ヤヤトゥーレは北部出身です。
<代表チーム「Les Elephants 象」の成績>(2011年)
ワールドカップ出場は、2006年、2010年、(2014年も)でいずれも一次リーグ敗退、アフリカ・ネーションズ・カップは18回で1992年には優勝 FIFAランク 19位
<コートジヴォワールという国>(2011年)
1960年フランスから独立。公用語はフランス語。
イスラム教38.6%、キリスト教32.8%、伝統信仰11.9%・・・
<ナイジェリア>「驚異の身体能力が生かされる日は来るのか?」
 アフリカ諸国の中でも本大会出場の常連のひとつであり、アフリカで世界一に最も近い国ともいわれてきました。1994年のアメリカ大会に初出場すると、いきなり決勝トーナメントに進出。準々決勝でロベルト・バッジョとバレージを擁する準優勝のイタリアと当たり延長の末敗れるという大健闘をみせました。この大会でのダニエル・アモカチのギリシャ戦のシュートは今も語り草になっています。続く1996年のアトランタ・オリンピックではアフリカ勢として初の金メダルを獲得。一気に世界でもトップ・クラスへとジャンプ・アップしています。当時のカメルーンとナイジェリアの活躍により、アフリカ勢のワールドカップ制覇は遠くないだろうと誰もが思っていました。段違いの身体能力で世界に衝撃を与えたナイジェリアの選手たちがチームとして鍛えられれば怖いものはないだろう。そう思うのは当然でした。ところが、その後、ナイジェリアはそれまで以上の成績を残せずにいます。それはなぜなのでしょう?
<不正の常態化>
 ヨーロッパと異なりナイジェリアではサッカークラブの多くは政治家兼実業家の所有物です。石油や天然ガスなどの資源に恵まれていることは、ナイジェリアに経済的豊かさをもたらしましたが、不正と経済格差の原因にもなりました。政治家たちがチームの人気を政治利用することを考えるのも当然でした。こうして、ナイジェリアのサッカー界では八百長は常態化することになりました。ついにはトップ・リーグの決勝戦ですら公然と八百長の対象になったことがあるくらいです。これでは、選手たちのモチベーションは上がらず、優秀な選手は早々と海外に出てゆくことにもなります。
<年齢詐称>
 ナイジェリア代表のユース年代の活躍には理由があります。どうやら、多くの選手が5歳程度の年齢詐称を行い低い年齢で登録しといえるようです。なかには9歳も年齢をごまかしていた例もありました。なるほど、全員がオーバーエイジでは体力的に勝てないわけです。

 21世紀に入り、守備のスタイルはマン・ツー・マンではなく複数で取り囲むのが常識になりつつあります。特にメッシのように優れた選手には常に複数の選手が対応しています。そのため、優れた身体能力だけでは守備を崩すことは難しくなりつつあります。そのうえ、優秀な選手は海外のチームでプレーするのが当たり前になると、チームとしての練習には参加できなくなるため、アフリカのチームはしだいにチームとして練習が困難になってきています。そうでなくとも、ナイジェリアという国は様々な民族からなるなるため、民族間の対立が絶えない国でした。特にヨルバ族、イボ族、ハウサ族の対立は、ビアフラ紛争として世界中に知られることになりました。サッカー代表チームの活躍は、そんな国内の対立を治める役割を果たしたともいえます。しかし、南米サッカーですらヨーロッパに勝てなくなっている21世紀にアフリカチームの活躍はありうるのでしょうか?そこには、ユースレベルから選手を育て、そこにヨーロッパ組を参加させる。そうしたチーム体制をととのえるだけの経済力、政治的な平和が長い期間にわたって続くことが必要ですが、21世紀に入り、アフリカの状況は決して改善してはいません。アフリカで最も大きな人口を抱えるナイジェリアが活躍する日が来れば、それはアフリカが上手く行き始めたこと。そうなる日を待ちたいと思います。
<ヌワンコ・カヌ>
 アトランタ・オリンピックでチームを優勝に導いたスーパースター。彼はオランダ時代にはアヤックスの欧州チャンピオンズ・リーグの優勝にも貢献。さらにインテル・ミラノやアーセナルなど、多くのチームで活躍。ナイジェリア国民にとっては、民族や宗教の対立を越えた伝説的存在となっています。
<代表チーム「The Super Eaglesスーパー・イーグルス」の成績>(2011年)
ワールドカップ出場は4回で1994年、1998年はベスト16、アフリカ・ネーションズ・カップには16回出場し、1980年、1994年に優勝 FIFAランク 44位
<ナイジェリアという国>(2011年)
1960年イギリスから独立。公用語は英語。
ハウサ族21.5%、ヨルバ族21.2%、イボ族18.4%、フラニ族11.2%・・・宗教は、キリスト教系(プロテスタント22.0%、聖公会13.0%、カトリック8.0%)、イスラム教43.9%・・・。
<エジプト>「アフリカ最強クラブ・チームを有する強国」
 カイロ・ダービーを戦うアル・アハリ(赤い悪魔)とアル・ザマレク(白い騎士)はアフリカ最強のクラブ・チームでもある。アフリカ・チャンピオンズ・リーグでアル・アハリは6回、アル・ザマレクは5回優勝。
 アル・アハリは、1907年に植民地主義に抵抗する学生たちを支援するために設立された労働者階級のチームだった。(アル・ザマレクはインテリ、中産階級のチーム)
 クラブ・チーム、代表チームともに常にアフリカではトップ・クラスにいますが、世界レベルの戦いでは結果が残せていません。かつての宗主国イングランドのプレー・スタイルが基本で、21世紀の新しいサッカー・スタイルの導入が送れたままともいえます。さらに、ムバラク政権崩壊後のエジプト国内の混乱がチームのレベルアップを妨げているようです。
 エジプト代表チームは、1934年アフリカからの招待チームとしてワールドカップに出場。ハンガリーに2−4で敗れて敗退しました。
 代表チームは、アル・アハリとアル・ザマレクのメンバーが常に対立してなかなかチームにまとまりがなかった。しかし、マハムード・エル・ゴハリ監督は見事にチームをまとめ、1990年イタリア・ワールドカップに見事出場します。オランダと1−1の引き分け。アイルランドと0−0の引き分け。イングランドに0−1で負けて惜しくも予選リーグを突破できなかった。その後、ゴハリ監督は12年間に4度監督を任されることになりますが、その後結果を残せていません。
 2005年、大統領選挙で敗北しかけます。そこで投票所での投票妨害や投票用紙の偽造が露骨に行われました。それに対して、ムスリム同胞団などの反体制派が暴動を起こし、危険な状況になりました。しかし、ムバラクはエジプト代表チームに救われます。ちょうどエジプトで開催されたアフリカ・ネイションズ・カップでエジプトは見事に優勝。スタジアムに応援に駆け付けた彼は、無事に危機を乗り切りました。ちなみに、大会直後、政府はどさくさにまぎれて統制していた食糧価格を大幅に上げたといいます。
 2011年、30年続いたホズニ・ムバラクの独裁体制が終わりました。彼を追い落とした反体制運動の中心となったのは、国を離れ欧米などで勉強したり、暮らしたりした後にユーターンしてきた若い世代「チーター世代」でした。彼らはネットを使い、新しいビジネスを展開し、民族的差別意識をもたない層と言われます。21世紀のアフリカが経済的に発展しているのは、彼ら「チーター世代」の台頭によるものでもあります。
「俺たちの社会における機能不全を、サッカーはあらわしているんだ」
「サッカーにあまりにも夢中になってしまうために、人々は現実を忘れてしまう。社会的、経済的問題から目をそむけてしまうんだ」

アハマド・ハッサン(プレミア・リーグのウィガンなどで活躍した唯一のエジプト人選手)
<代表チーム「The Pharaohs(ファラオたち)」の成績>(2011年)
ワールドカップ出場2回、アフリカ・ネーションズ・カップ22回(1957年、1959年、1986年、1998年、2006年、2008年、2010年7回優勝)、FIFAランク 29位
<エジプトという国>(2011年)
1922年イギリスから独立。公用語はアラビア語。
宗教は、イスラム教84.4%、キリスト教15.1%・・・
<ソマリア>「崩壊した国に残った唯一のもの」
5つの氏族からなる国はそれぞれが民兵組織を作り対立し、混乱が続いています。(ダロド、ディル、ハウィエ、イザーク、ラハンウェイン)
「友を愛しすぎてはいけない。明日には敵になるかもしれないから。敵を憎みすぎてはいけない。明日には友になるかもしれないから」(ソマリアのことわざ)
 混乱の中、1991年以降ソマリアは飢饉に見舞われ危機的状況に追い込まれました。そんな中、アイディード将軍が軍事政権を設立しようとします。しかし、国際社会はそれを認めず、アメリカの特殊部隊がブラックホークでアイディード将軍を襲撃しようとして失敗。混乱の中、ソマリアは見捨てられ、クリントン政権、国連ともに支援活動を停止します。
 2005年、1998年にナイロビとダルエスサラームで起きたアメリカ大使館爆破事件の容疑者がソマリアに潜伏しているとして、ブッシュ政権のアメリカが再び部隊を送り込み、アルカイダも含めた内戦が始まります。そこへアメリカから暗黙の了解を得たエチオピア軍がソマリアに侵攻。イスラム原理主義のイスラム法廷連合を追放し新政権を樹立します。
「二十年間に及ぶ内乱をかいくぐって残った数少ないものの一つが、サッカーである。戦争が途切れることなく続く環境で、サッカーをするのは簡単ではなかったが、ソマリアサッカー協会はなんとかリーグをまとめ、安全であるかぎり試合を行ってきた。」
 代表チームの半分は海外から呼び寄せた選手。メンバーが練習場所に集まるのも命がけで、同じメンバーが再び集まれる可能性は低いといえます。
 1980年代には、10チームあったプロリーグ(セリエA)も崩壊状態。それでもなお、サッカーを続けてきた選手たちにエールを送りたいと思います。
<代表チーム「The Ocean Stars(大洋の星たち)」の成績>(2011年)
ワールドカップ、アフリカ・ネーションズ・カップともに出場なし、FIFAランク 102位
<ソマリアという国>(2011年)
1960年イタリアから独立。公用語はソマリ語。
宗教は、イスラム教98.3%、キリスト教1.4%・・・
<ケニア>「アフリカ・サッカー界を象徴する国」
 ケニアはある意味アフリカサッカーの現状を象徴しています。42の部族からなる国民は大統領が変わることで出身部族が優遇されることを思い知らされます。
 1963年の独立時、初代大統領ジョモ・ケニヤッタは自分の出身部族キクユ族に土地や政府の要職を分け与えました。1978年の2代目大統領ダニエル・アラップ・モイはカレンジン族を優遇。2002年の3代目キクユ族のムワイ・キバキは部族優先を止めると宣言。しかし、ルオ族のライラ・オディンガは首相の座を約束されていたが約束を反故にされました。
 2007年の総選挙ではオディンガがキバキに圧勝すると予想されました。しかし、キバキ支持者が投票用紙を盗み出し、結果発表を不能にして勝利宣言を発表。すぐに暴動が起きることになりました。国連のアナン事務総長の介入により、キバキ大統領、オディンガ首相で政権が発足。しかし、内乱の危機は続いていました。
「ケニアのサッカー界は、この地の政界以上に力がモノを言うし、魑魅魍魎の世界で問題が山積みしている」
ギシンガ・ンジョ・ロゲ
 ケニアにおいてサッカーは金のなる木として、政治家たちに利用されていて、1970年代にサッカー協会の会長だったケネス・マティバはその後大統領候補にまで地位を上げています。当然、サッカー界の腐敗は協会ぐるみのひどさだったため、FIFAは新たにフットボール・ケニア協会(FKL)を設立しますが、それもまたすぐに同様の状態に陥りました。それに対し、地元の実業家ボブ・ムンローは1987年マサレ・スポーツ・クラブ(MYSA)を立ち上げます。この団体はその後ケニア最大の社会事業団体に発展。トップ・チームの「マサレ・ユナイテッド」もトップリーグ入り。さらにそのチームを中心に八百長を排除した新たなリーグ運営会社を設立し、16チームからなるリーグを立ち上げました。
「政治が腐敗していることも誰もが知っていました。サッカー界の腐敗を正して浄化できると証明できれば、政治も浄化できると証明されるんです」
ジョン・ギソンゴ(亡命した政治家でリーグの支援者)
 マサレ・ユナイテッドの監督だったフランシス・キマンジ監督時代、ケニア代表はFIFAランク70位代にまで浮上。(70位以内だと英国での労働許可が得られる)しかし、その後再び低迷状態が続いています。
<代表チーム「The Harambee Stars(協力スターズ)」の成績>(2011年)
ワールドカップ出場なし、アフリカ・ネーションズ・カップ5回(1972年、1988年、1990年、2004年)、FIFAランク 135位
<ケニアという国>(2011年)
1963年イギリスから独立。スワヒリ語(国語)と公用語の英語。
宗教は、キリスト教88.5%、イスラム教7.0%・・・
<コンゴ民主共和国>「独裁政権下のサッカー強豪国」
 現在のコンゴ民主共和国(ザイール共和国は1971年にコンゴ共和国から国名を変更しました)1960年にベルギーから独立した時の、初代首相はパトリス・ルムンバでしたが、宗主国だったベルギーは、南東部の鉱物資源目当てに軍隊による併合を計画します。ルムンバは国連に協力を求めますが支援を得られず、ソ連に援助を要請します。しかし、このままだとソ連の元で共産化しまうことを恐れたアメリカは、軍の参謀長だったジョゼフ・デジレ・モブツを傀儡にしてCIAは1965年に独裁政権を設立します。モブツは国名をザイール共和国に改名します。彼はその後32年に渡り支配を続けながら私腹を肥やし続けることになります。
 そのモブツ政権下の1974年、ザイール代表チームはワールドカップ西ドイツ大会に出場しました。アフリカから唯一の出場チームでしたが、一次リーグでスコットランドに0−2に敗れ、2戦目のユーゴスラビアに0−9という大敗を喫します。3戦目の相手はブラジル。0−3でリードされていた後半の終わり頃、ブラジルはゴール近くでフリーキックを得ます。キッカーはリベリーノ。すると、何を思ったかザイールのディフェンダーがリベリーノが蹴ろうとしていたボールを先に蹴ってしまったのです!アフリカ人はサッカーのルールも知らないのか?そう言われるのも当然ですが、実はその裏には理由がありました。ユーゴスラビア戦での屈辱的大敗を知ったモブツ大統領が、チームにブラジル戦で4点差以上で負ければ国に帰ることは許さない、そんな恐ろしい命令をしたというのです。なるほど、珍事が起きた時、ザイールは0−3で負けていたのです。命がけでボールを蹴りだした気持ちがわからないでもありません。結局、0−3の敗戦で済んだので彼らは無事に帰国できたのでしょう。
 しかし、この事件の後、モブツ政権のもとでザイール代表はワールドカップに出場できていません。帰国できないかもしれないんじゃ、ワールドカップ出場のモチベーションも下がるはずです。その上、1994年の「ルワンダの悲劇」をきっかけとした中央アフリカの混乱によりモブツ政権が崩壊してからは、チーム力はさらに低下。アフリカ最強の地位は遥か昔のことになっています。
<代表チーム「The Simbas ライオンたち」の成績>(2011年)
ワールドカップは1968年、1974年2回出場(予選リーグ敗退)、アフリカ・ネーションズ・カップ1965年から15回出場 FIFAランク 133位
<コンゴという国>(2011年)
1960年フランスから独立。公用語はフランス語。
キリスト教90.8%・・・
<ジンバブエ>「最悪のインフレがもたらしたサッカー界の崩壊」
 1980年にジンバブエ共和国として、白人、黒人の融和政策を進めるロバート・ムガベ政権が成立します。しだいに独裁政権下していったムガベ政権は、2000年に白人大農園主から土地を強制収用し、その土地を大統領の仲間内である「ジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線」の関係者たちに任せます。しかし、そのほとんどは素人には使い切れずに荒廃することになります。そのため、豊かな農業国だったジンバブエは最大の輸出産品を失います。そのために、ジンバブエ・ドルは一気に暴落します。2007年には、200USドルがビニール袋2つの4億ジンバブエ・ドルになっていました。
 そんな愚かな政治家ムガベの甥っ子、レオ・ムガベが1993年から2003年まで会長を務めていたのが、ジンバブエ・サッカー協会でした。彼は汚職により起訴されたのですが、それでも代表チームはこの頃、力をつけていて2004年には初めてアフリカ・ネーションズ・カップに出場しています。FIFAランクも40位にまで上昇していました。しかし、ジンバブエを襲ったハイパー・インフレにより、優れた選手は早くに海外に移籍し、海外からそうした優秀な選手を呼び寄せることもできなくなります。一気に代表チームのFIFAランクも下降、120位にまで落ちてしまいました。もともと英国領だったために、多くの国民はプレミア・リーグのファンになってしまい、国内リーグの人気もなくなってしまいました。まさに負のスパイラルです。(2011年のFIFAランクは74位)
<ジンバブエという国>(2011年)
1965年白人支配の国、ローデシアとしてイギリスから独立。1980年にジンバブエとして独立。公用語はアラビア語。
黒人52%、アラブ系黒人39%・・・宗教はイスラム教70.3%、キリスト教16.7%・・・
<南アフリカ>「人種融合でアフリカ初のワールドカップを実現」
 多人種構成チームでの参加をこばみ白人のみのチームで参加していた南アフリカ代表は、1957年以降アフリカ・ネーションズ・カップへの出場を禁止されます。しかし、その後、1990年に釈放されたネルソン・マンデラが総選挙後に初の黒人大統領になると、1995年にはあの映画「インビクタス」で有名なラグビー・ワールドカップでの優勝を果たします。それはまさに人種融合が実現させた奇跡でした。
 しかし、ラグビーの優勝チームは実質的には白人のチーム(黒人選手は一人)でした。そのため、多くの南アフリカ国民にとっては、1996年アフリカ・ネーションズ・カップにおけるサッカー代表の初優勝の方が喜びは大きかったはずです。サッカー代表の場合は、逆にそのほとんどは黒人選手だったからです。(チームの中心選手モシェウは、黒人居住区ソウェトの出身でした)
 意外なことに、ワールドカップでは南アフリカ代表の白人チーム出場は長く容認され、白人のみのチームで1952年参加が認められていました。しかし、1966年のワールドカップ予選に白人のみのチームで参加したことで批判され、その後白人のみと黒人のみのチームで交互に参加すると言い出したことでFIFAもついに南アフリカ・サッカー協会を除名することになりました。1970年代後半にやっと代表チームは人種融合となります。
 しかし、経済的に白人優位の社会でもあるため、多くのサッカー・チームはラグビー用スタジアムを借りて試合を行っています。(ワールドカップのために作られたスタジアムも今後ラグビー用に改装されるかもしれないそうです)
 1998年にワールドカップ・フランス大会に初出場した代表チームは地元フランスに0−3で負けたものの、デンマークとは1−1で引き分け、サウジアラビアと2−2で引き分け、もうすこしで予選リーグを突破できるまでの力をつけていました。経済的にも豊かなこともあり、いよいよ南アフリカはワールドカップ開催地に立候補します。2006年の開催地は、惜しくも一票差で逃しますが、2010年の開催地競争ではライバルのエジプト、リビア、モロッコを圧倒して開催地に決まりました。(FIFAは経済発展が進むアフリカを次なる金のなる木と考えていたともいえますが・・・)
 ただし、代表チームが当時活躍していたもののその後その強化を怠ったことで、当初の勢いが失われていたことにサッカー協会は気づいていませんでした。2010年の本大会には地元チームとして予選免除で出場したものの実力不足は明らかで、大会史上初めて開催国が予選リーグで敗退するという不名誉な記録を残すことになりました。宗主国であるイギリスのプレミアリーグの人気もあり、優れた若者の多くが早くから英国に渡ること。ほとんどのトップ・チームが、選手育成のためのユース・チームをもたないことなど、代表のレベルアップには多くの障害があるようです。
 とはいえ、他のアフリカの代表チームに比べれば、環境、経済など様々な面で恵まれているだけに将来再び強くなるでしょう。
<代表チーム「Bafana Bafana (少年たち)」の成績>(2011年)
アフリカ・ネーションズ・カップは7回出場し1996年に優勝、ワールドカップは1998年、2002年、2010年3回出場で予選リーグ敗退 FIFAランク 49位
<南アフリカという国>(2011年)
1910年イギリスより独立。1991年アパルトヘイト法廃止。ズールー語、コサ語、英語・・・11の公用語。
黒人79.6%、白人9.1%、混血8.9%・・・宗教はキリスト教79.8%、イスラム教1.5%、ヒンドゥー教1.2%・・・
<スーダン>「The Desert Hawks 砂漠の鷹たち」(2011年)
ワールドカップは出場0回、アフリカ・ネーションズ・カップは7回出場し、1970年優勝 FIFAランク 102位
<チャド>「Sao 聖人たち」(2011年)
ワールドカップ、アフリカ・ネーションズ・カップともに出場0回 FIFAランク 152位
<ルワンダ>「The Waspsスズメバチ」(2011年)
ワールドカップは出場0回、アフリカ・ネーションズ・カップは2004年のみ出場 FIFAランク 112位



アジア
<韓国>「最強最高のライバルよ永遠なれ!」
 日本にとって最強最高のライバル韓国は、日本より早くプレースタイルを確立することで常にリードを保ってきました。アジア人としては大柄でガッチリとした体格と強靭なスタミナ。そして、日本や中国によって支配され続けてきた厳しい歴史が与えた忍耐力と負け時魂。フィジカルと精神力の強さは常に日本を上回り、日本はそれに対しスピードと組織力で対抗しながら独自のサッカー・スタイルを築いてきたといえます。その点では韓国あってこその日本であり、韓国にとっても日本の存在は大きかったはずです。
 もともと韓国でのサッカー人気は日本同様野球よりも低く、日韓共催のワールドカップが成功していなければ、韓国でのサッカー人気は一気に下火になっていた可能性が高かったともいわれています。政治的、文化的なライバルである日本に勝てるスポーツは野球よりもサッカーだからこそ、韓国でのサッカー人気は高いともいえるのです。ただし、日本には強い韓国も、日韓ワールドカップ以降は世界レベルでの活躍がみられません。サッカー界を征するプレー・スタイルが、スペイン(バルセロナ)のポゼッション・サッカーとなりつつある中、韓国のフィジカル重視のサッカーは過去のものとなりつつあるのかもしれません。
 しかし、ロンドン・オリンピックでは再び日本は韓国に完全にやられてしまいました。スタイルの古い新しいの違いは、個々の選手のモチベイションと体力の差に比べれば所詮微々たるもののようです。どんなに優れた戦術をもち、能力の高い選手をそろえても勝てる保障はまったくないからこそ、サッカーは面白いのです。韓国代表チームは、精神的なタフさに関しては、常に相手チームに対して上を行く。そのアドバンテージによって、彼らは試合を有利に進めることが可能になるのです。これこそが彼らのプレースタイルだともいえそうです。
 もうひとつ忘れてはならないこと。それは、日韓共催のワールドカップによって、どれだけ日韓の大衆レベルでの友好関係が劇的に改善されたかということです。その効果は100年後、歴史の教科書にそのことが載っていることでしょう。我々日本人は、韓国という永遠のライバルが隣に居てくれることに感謝しなければなりません。
<中国>「なぜ中国サッカーは強くなれないのか?」
 世界最強のメダル獲得国、中国。以前から、今後、民主化が進む中国は経済的な豊かさも得てサッカー大国になるだろう。そういわれ続けてきました。しかし、中国はオリンピック世代も、フル代表もいまだに結果を残せずにいます。プロ化も進み、多くの人口を抱える国がなぜ強くなれないのでしょう?
 他のスポーツと異なり役割分担が明確ではなく、試合中も個々の選手が自ら判断をしなければならないサッカーという競技は、すべての選択を議会もしくは上層部の判断にゆだねる共産主義の体制と根本的に相容れないのかもしれません。チームのメンバーがお互いに信頼し合い、時には個を犠牲にして戦う必要のあるサッカーは、そのだけとれば、共産主義思想と共通する気がしますが、・・・。現在の中国はそうした毛沢東的な共産主義からは遥かに離れたところにいます。貧富の差を容認し、弱肉強食を容認する民主主義?を導入した利益第一主義の国といえば、アメリカもまたサッカーが弱い国です。成功すれば一攫千金のスポーツでありながら、サッカーは「アメリカン・ドリーム」とは相容れない存在なのかもしれません。
 中国では、プロ選手の選抜を国が中央集権的に数値管理に基づいて行っているそうです。限られた選手が全国から集められ英才教育によって育てられるのは、他のスポーツと同様です。ただし、それではサッカー人口を増やすことにはならず、サッカーファンも増えません。
 中国人にとっての日中サッカー対決が、サッカーの試合ではなく日本にヤジを飛ばすためのパフォーマンスの場になってしまうのも当然のことです。そこにはサッカーファンではない人々がいるのですから。
 とはいえ、中国のワールドカップ出場は2002年が初めてのこと。まだまだ中国のサッカー史は始まったばかりです。最近では、海外の有名選手が中国のプロ・チームに移籍するなど、サッカー熱は高まりつつあります。本当の歴史はここから始まるのかもしれません。
 もともと中国北部の朝鮮系の人々はサッカー好きで、背の高さやパワー重視の韓国的なサッカー・スタイルを得意にしています。それに対し、イギリス系サッカー直系の香港や上海のサッカーは、体格的に小柄な人が多いこともあり、パスサッカーが中心。それなりのスタイルを持っていますが、民族的にも多様で国土も広い中国では統一したサッカー・スタイルというものが持ちづらいのがネックになっているのかもしれません。組織としての連動性が重要な意味をもつサッカーにおいては、参加する人口が多いことは決して有利には働かないのかもしれません。国内に様々な民族問題を抱える国が、国民全体に愛される統一チームもつことは根本的に不可能なのですから。
<オーストラリア>「最後の一枚に鍛えられてきたオージー・サッカー」
 今や日本にとってアジアにおける最大のライバルとなったオーストラリア。実はオーストラリアがワールドカップのアジア地区予選に賛歌するようになったのは、ごく最近のことです。(2006年ドイツ大会)それまでオーストラリアはワールドカップ予選にオセアニア地域から参加、アジアのチームとは別の枠で戦っていました。しかし、その戦いは意外に厳しいもので、代表チームは日本の「ドーハの悲劇」に匹敵する悲劇を何度も体験してきました。
 1974年にオーストラリアは一度ワールドカップ本大会に出場しtれいますが、その後、予選大会のルールが何度か変更になり、オセアニア代表は南米やヨーロッパのチームと最後の出場枠を決める大陸間プレーオフを戦わなければならなくなります。それまでは、アジアのチームと最後の枠を争っていたのが、それで急に厳しくなりました。
 例えば、1994年のアメリカ大会の場合、最後の本大会出場枠を争うことになったのは、なんとアルゼンチンでした。アルゼンチンにとってもその試合は大一番だったので、この試合のために薬物使用で出場停止になっていたマラドーナをあえて出場させるという強行手段を用いてきました。結局、オーストラリアはアルゼンチン相手に大健闘するも二試合合計で1点差の惜敗に終わりました。
 2002年の日韓大会の時にも南米の強豪ウルグアイに敗れて本大会出場を逃したオーストラリアは、1974年以来最後の切符一枚に手が届かずにいました。ドイツ大会以降、アジア予選に参加することになったオーストラリアは、それまでの苦難の歴史が嘘のように本大会出場の常連国になろうとしています。
 ただし、オーストラリアにも弱点はあります。オーストラリアにはイングランド直系のサッカーと同時にラグビーも伝わっていて、その親戚的な競技であるオージー・ラグビーとともに人気スポーツとして定着していてサッカーはそれほど人気のあるスポーツとはいえないのです。さらにオーストラリアで特徴的なのは、プロ・チームの多くが自分たちが移民して来た国によって分かれているため、地域とのつながりが薄いことです。そのために、国内リーグが地域ごとに育たないという弊害があるのです。
 そうした現状から、多くの一流選手は若くしてヨーロッパのチームに移籍したり、そのままその国の選手になるため帰化する場合も多いのです。(イタリアのエースストライカーとして活躍したビエリもそうでした)
 海外で活躍する選手が多いことから、代表チームとしての練習機会も少ないのも問題です。キューウェル、ビドゥカ、ケネディなど、不動のメンバーがいた時期を過ぎ、オーストラリアは新たなチーム作りを迫られていますが、そのために使える実質的な時間は少ないのです。
 こうしたオーストラリアの状況は、今後ヨーロッパ組が増え続けるであろう日本にも当てはまるだけに、他人事ではありません。ただし、今後オーストラリアのサッカー人気が高まると、小野選手のようにオーストラリアに移籍する選手も増えるでしょう。そうやってお互いに交流を深めながらアジア全体のレベルが上がることで、将来アジアから優勝国が出ることになるような気がします。 
<日本>「日本サッカー失われた70年と怒涛の20年」
 日本サッカーの歴史は1993年のJリーグ発足からと思われがちですが、もちろんそうではありません。もし、太平洋戦争がなければ、日本サッカーの歴史はまったく違うものになっていたはずです。
 日本サッカー協会の設立は1921年。アジアでは、フィリピン、ホンコン、タイ、イランに次いで古いことになります。国際試合も、それより以前に行っていて、アジアでは早くから実力をつけた国のひとつでした。
<失われた1940年代>
 1936年のベルリン・オリンピックでは、当時世界でもベスト5に入る実力をもっていたスウェーデンを破るという快挙を成し遂げ、日本サッカーは世界に衝撃を与えました。その勢いで日本は2年後、1938年のワールドカップ・フランス大会にエントリーします。当時、アジアからエントリーしていたのは、現在のインドネシア(当時のオランダ領東インド)だけだったので、予選突破の可能性は大いにありました。ところが、1937年日中戦争が始まり、日本は出場を辞退することになります。もし、戦争がなければ日本ははるか昔にワールドカップ出場を果たし、その歴史は大きく変わっていたかもしれません。しかし、現実の日本はサッカーどころではない状況となり、1940年代を失っただけでなく、戦前に活躍した選手たちも引退してしまい、その栄光の歴史はプッツリと途切れてしまいました。こうして、日本サッカー史はその歯車をスタート地点にまで巻き戻されてしまいました。
<1950年代>
 1950年代の日本はアジアでも最弱レベルの国に転落していました。復活のきっかけは東京オリンピックでした。ドイツからやって来たクラマーのもとで再び世界レベルへとチーム力をアップさせ、スタートラインに立ちます。こうして迎えた次のオリンピック、メキシコ大会で日本代表は、釜本、杉山らの活躍で銅メダルを獲得します。こうして日本にサッカー・ブームが到来します。しかし、この結果が逆に日本サッカー史の歯車をまたもや逆戻りさせてしまいます。日本はワールドカップ本大会に出場すらしていなかったにもかかわらず、銅メダルの獲得により、世界レベルに追いついたと大いなる勘違いをしてしまったのです。
<1960年代から>
 1960年代の日本はそれまでの実業団中心のサッカー体制を継続。この体制がその後20年続くことになります。しかし、実業団のサッカーとは、サラリーマン選手による国内だけを見据えた自己満足的なサッカー界を生み出すことになります。成績を残せなくても、サラリーマンとしての生活を保障された選手たちは、危険を犯してまで海外のプロ・チームと契約することを望まず、国内で満足。海外との交流がなくなったサッカー界は、4年に一度のワールドカップ予選以外に海外チームとの真剣勝負をすることもなくなり、どんどん世界のサッカーから立ち遅れてゆくことになりました。この時、もし釜本がバイエルンミュンヘンに移籍していれば、もう少し海外のサッカーに目が向けられることになっていましたが、釜本自身もそれほど海外移籍を望んでいなかったようなので、結果は残せなかったかもしれません。やはり、日本の世界進出はまだまだ時期尚早だったのかもしれません。その後、日本サッカーは、Jリーグ発足まで長くワールドカップとは無縁の存在であり続けることになります。
<1990年代>
 メキシコ・オリンピックは、それを見て育った子供たちに大きな影響を与えました。彼らは次なる世代を生み出すための基礎を築いたともいえます。その世代から登場した木村や水沼らの選手たちは着実に日本サッカーのレベルを上げていましたが、日韓戦のような大一番ではモチベーションの差が出てしまい結果を残すことはできませんでした。
 そんな中、日本経済のバブル期の遺産ともいえるJリーグの誕生によって育ったプロ意識とオランダからやって来たハンス・オフト監督がもたらした世界と戦うための「メンタリティー」や「戦術」が、日本代表のレベルを高め、いよいよワールドカップの扉が開きかけます。しかし、ここで日本がそのまま本大会に出場していたら、日本のサッカー界はもしかすると再び停滞することになったかもしれません。あの時、、もし都並が出場できていたら、彼なら30秒の残りロスタイムをうまく時間稼ぎして終わらせていたかもしれません。でも「ドーハの悲劇」は、今思えば日本にとって「悪夢」であると同時に歴史的なターニングポイントとなりました。日本サッカー界は永遠に忘れられない記憶を得ることで大きく成長することができたのです。
<21世紀>
 1993年から2012年までの19年間に日本は「ドーハの悲劇」、「ジョホールバルの歓喜」、日韓ワールドカップ開催と予選リーグ突破、南アフリカ大会での地元外での予選リーグ突破を果たすなど、様々な歴史を積み上げました。その歴史の濃さは、21世紀に入って次々に海外に移籍した選手の数と活躍からも明らかです。そして彼らが体験したこともみな、日本サッカー界の歴史に書き加えられることになります。当然、彼らを応援してきたサッカーファンもまた成長してきました。それが日本全体のサッカー文化をレベルアップさせています。
 「ドーハの悲劇」を語り継ぐことは、「ヒロシマの悲劇」を語り継ぐことで核廃絶を訴えるように、サッカー文化の停滞を抑止する意義があるはずです。こうして築かれるサッカー文化がヨーロッパのサッカー文化に追いついた時、いよいよ日本サッカーはワールドカップの優勝を狙う位置にたどり着いたといえるのでしょう。
(「なでしこ」がいち早くワールドカップを制覇し、世界に追いつくことができたのは、女子サッカーの歴史自体が浅かったことから、男子同様に濃い時代を生き延びたことで一気に世界の女子サッカー文化に追いつくことができたからと考えられます)

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