フォードVSフェラーリ/世界最速決定戦

ノンフィクション「フォードVSフェラーリ 伝説のル・マン」
映画「フォードVSフェラーリ」

<命がけの職業>
 1950年代から60年代にかけて、世界で最も危険な職業は「カーレーサー」か「宇宙飛行士」でした。1994年のアイルトン・セナの死はレース界だけでなく世界を騒がせましたが、当時、すでにカーレースにおける事故死は珍しくなっていました。しかし、20世紀中頃のカーレースの世界では、レース中の死亡事故はごく普通に起きていました。その事故件数は今では考えられないほどでした。映画「男と女」の主人公がカーレーサーで、恋人が彼がレーサーであることに耐えきれず別れようとするのも、当時の危険度を知れば当然と思えてきます。
 それでもなお、カーレーサーは当時憧れの職業の一つで、女性にもてる職業でもありました。なぜ、当時の若者たちは命をかけてまでレースに挑んだのか?今では理解困難かもしれません。お金のためだけではなかったはずです。
 思えば、20世紀は、夢と野望のために多くの男たちが命をかけて何かに挑んでいた時代だったのかもしれません。それはもう一つの危険な職業「宇宙飛行士」も同様でしたし、エベレストに挑む者、深海に挑む者、オリンピックで記録に挑む者、南極や北極など未踏の地に挑む者、戦場でシャッターを切り続けたモノなど様々な挑戦者で溢れていた時代だったのかもしれません。
 そんな挑戦者たちの中でも、20世紀を最も象徴する職業の一つがカーレーサーであり、その頂点が長い歴史を持つ24時間耐久レース「ル・マン」に挑んだ男たちでした。なぜなら「自動車」こそ20世紀を象徴するモノであり、カーレースはそこから誕生したスポーツだからです。そして、その「ル・マン」が最も熱かった時代を背景に、二つのチーム(企業)「フェラーリ」と「フォード」の闘いを描いたノンフィクションの名作があります。(2019年それは映画化されました)
 1990年代にF1がブームだった頃、僕はベネトン(シューマッハを擁するF1チームを持っていました)の商品を扱っていたこともあり、鈴鹿まで日本グランプリを見に行くほど、カーレースが好きだったことがあります。(正直、自分自身は運転はあまり好きではなく嫁さんにまかせっきりなのですが・・・)ということで、そのノンフィクション作品を読んでみました。

<レースの危険>
 先ずは、当時のカーレースがいかに危険なスポーツだったのか?というところから。

 ある試算では、レースによる死亡率は毎年25%という結果が出た。シーズンをスタートしたグランプリ・ドライバーのうち、4人にひとりがシーズンが終わるまでに死ぬという試算だ。
 例えば1956年につくられたフェラーリのセカンドチーム、スクアドラ・プリマベーラ(春のチーム)は7名のドライバーを擁していましたが、そのうち1名はすぐに引退し、残りの6目は全員が高速走行中の事故で命を落とすことになりました。

 1961年9月10日、F1の歴史に残る事故が起きました。
 ディノ・フォーミュラ1で優勝争いをしていたフェラーリのフォン・トリップスがジム・クラークが乗ったロータスと接触。その後コース外に飛び出し14名の観客を巻き添えに死亡してしまったのです。一度に15名の命が失われるという自動車レースの歴史に残る大惨事でした。さらに驚かされるのは、当時はそれだけの大事故が起こっても、レースは最後まで続けられ、その後のシリーズも予定通り開催されていたことです。今なら、少なくとも事故原因が明らかになるまでレースは開催されないはずです。この調子で、当時は年に何度も死亡事故が起きていたのです。
 それでもカーレースの危険性について、さすがにマスコミも問題視するようになってきました。ABC放送「ワイド・ワールド・オブ・スポーツ」のジム・マッケイはある番組でこう語っています。
「世界中のサーキットで命を落とした大勢のドライバーたちのことを語らずして、我々はこの10年間の自動車レースを正確に報道することはできません。皆さんが今テレビ画面でご覧になっているのは、レースで命を落とした多くのドライバーの中でも、特に有名なドライバーたちの名前です。自動車レースがどれほど真剣なスポーツかということかもしれません。どのスポーツでも、誤算にはペナルティがつきものです。しかし、レースのペナルティは、フリースローでも15ヤードでもなく、命を失う可能性です。これをスポーツと呼ぶか、冒険と呼ぶか、無謀な行為と呼ぶかは、皆さんの個人的な見解によるのでしょう」

 当時の名ドライバーの一人フィル・ヒルは、フォン・トリップスが事故死したレースで優勝者となったドライバーでもあります。レース後、彼はインタビューでこう話していました。
「最後は誰もが死ぬんだ。フォン・トリップスは、いきなり、苦しむことなく、好きなことをしながら死んだのだから良かったんじゃないか?トリップスはレースができないならば死を選んだと思うよ。そうは思わないか?」
 しかし、その考えを彼はその後変えざるをえなくなって行きます。あまりに危険な状況が続いたために彼は、所属するフェラーリを去ることにしたのです。チームを去った時の気持ちを後に彼はこう説明しています。そこからは、彼の複雑な心境を読み取ることができます。

「わたしは、危険な仕事に巻き込まれてしまったただの若者だった。ひたすら続けるしかなかった。それがどんなものかを知りたければ、ベトナムか他の戦争に行った人に、死に向き合いながらどうやって生き続けることができたのかを訊ねればいい。彼らと、情熱に駆られたレーシング・ドライバーとは大きく異なると思うだろう。後者は好きな時に辞められるのだから。しかし、もし、そう思うならば、あなたは情熱に駆られるということを本当には理解していない」
フィル・ヒル

 1973年、スコットランドのグランプリスターであるジャッキー・スチュワートが、その名声の頂点でレースを引退し、安全運動を推進し始めます。彼の活動のおかげで、救急医療やサーキットの設備が改善されることになりました。
 後に、なぜ絶頂期にレースを辞めたのかと訊かれた彼はこう語っています。
「わたしは友人たちが死ぬのを見たし、自分の妻が苦しんでいる様子も見た。息子のポールが、いつダディは死ぬの?と訊ねる声を聞いた。そして、彼が神経性のチック障害に苦しむのを見た。自分が家に戻れる保証はなかった」
 スチュワートの活動のおかげでもあり、今日ではサーキットでの死亡事故はほとんど発生していない。21世紀の今、F1カーのコックピットは小さな要塞のように頑丈に守られていて、たとえ車が大破しても運転席部分だけは残るようになっていて、火災が起きてもそう簡単には焼け死ぬことはないほどドライバーも守られています。
 しかし、1950年代から60年代にかけてはまだドライバーは、運転席の中で何の保護もないむき出しの状態だったのです。そんな中でレースは行われていたのですから、命がいくつあっても足りないのは当然でした。
 フォードとフェラーリのバトルは、そんな中で行われました。

<フォードVSフェラーリ>
 アメリカを代表する企業であるフォード自動車とヨーロッパを代表するスポーツカー・メーカーのフェラーリ。この二つの企業とそのトップの個性の違いは、そのままアメリカ文化とヨーロッパ文化の違いでもあります。
 1960年代、世界を頂点を極めていたフェラーリに対し、アメリカから挑戦状を叩きつけたのがフォードでした。二つの企業の闘いは、企業間の営業戦略でもあり、アメリカとヨーロッパという異なる文化圏の戦争であり、二つの企業を率いる人物の個性のぶつかり合いでもありました。
 そこでまずは二つの企業を代表するフォードとフェラーリ、二つの企業のトップについて知りたいと思います。

<エンツォ・フェラーリ>
 フェラーリを当時率いていたのは、その創業者でもあり、技術者のトップでもあるイタリア人のエンツォ・フェラーリ Enzo Ferrari です。フェラーリのすべては彼の才能に支えられていました。彼こそ、レース界最大のカリスマでした。
 1898年2月18日イタリア、モデナ生まれの彼について、この本ではこう書かれています。

 文章で彼を表現しようとするジャーナリストたちにとって、エンツォ・フェラーリは摩訶不思議な人物だった。レースに行くことを拒否しながらレーシングカーを作り続け、エレベーターも恐がるくせに、完璧な最先端マシンの製作に取り組む男。
 人は彼を「マラネロのマジシャン」と呼んだ。「スピードに魅入られた世捨て人」とも。
 しかし、彼が生まれ育ったモデナの人々は、何も不思議には感じていなかった。グランデ広場のカフェには、彼と同じような洋服を着た、同じような風貌の男が大勢いた。彼はごく普通のモデナの男に過ぎなかった。


 フェラーリが生まれ育ったモデナという土地についてはこう書かれています。

「地域特有の能力というものが存在し、それが独特の産業を形成している。このような傾向は、時として例外的な重要性を持つことがある。わたしが生まれ、自分の会社を設立したモデナには、レーシングカーに対するある種の精神病が存在する」
 モデナの道路や脇の小道には、馬車を作る店や鋳造所が林立していた。世界で最も多くの逸話を持つレーシングカーを作るマセラッティ本社も、モデナのチロ・メノッティ通りにある。有名なウェバーのキャブレターは近くのボローニャで作られており、ここにはオートバイ・メーカーであるドゥカッティもある。モデナから数マイル離れたサンターガタ・ボロネーゼでは、有名なトラクター・メーカーであるフェルッチオ・ランボルギーニが驚異的な第一号の車を発表しようとしていた。しかし、この地域で台頭するエンジニアリングの天才たちの中でも、最も代表的だったのがエンツォ・フェラーリだ。


 彼の未来志向と過剰なまでの自信については、こんなインタビューがあります。
 今まで作ってきたクルマの中で、どれがお気に入りですか?と聞かれた彼はこう答えています。
「これから作る車だ」
 
次に今まで上げてきた勝利の中で最も意味のあるものはどのレースですか?と聞かれるとこう答えています。
「これから成し遂げる勝利」


 プライベート・ライフは?と聞かれて彼はこう答えています。
「ない。人生は短い。ひとつのことに秀でた人間になりたければ、急いで取り組む必要がある。フェラーリは、偉大な絵画や彫刻などと同じような傑作とは言えないかもしれない。しかし、それはフェラーリのアイデアを実際の形にした、数多くの男たちの人生の証だ」

 宗教を信じますか?の質問にはこう答えています。
「宗教を信じるよりも、問題や矛盾を抱えながら生きる方がいい。真実を見つめるには勇気がいる。しかし、真実を見つめることができなければ、完全な男ではない。『まあいいさ、次へいこう』なんてことを言う奴は愚か者だ。自問自答しない人間には2種類ある。良心がない人間、もしくは、信心深い人間だ。わたしにとっての宗教は行動だ。夜、高速道路を走っている時に星を見ると、この巨大なメカニズムを作り上げた無限の力が存在するに違いないと感じる。しかし、それは形のない存在だ。学校で教わるようなものではない。そして、その力が存在するとしても、それが必ずしも善だとは限らないと思う。悪でもあるかもしれない」

 そんな怖いものなしのエンツォ・フェラーリですが、彼は心に大きな重荷を抱えていました。彼の息子、ディノ・フェラーリは筋ジストロフィーに冒され、1956年6月30日25歳の若さでこの世を去っていたのです。その日、彼は二度とレースはしないと引退宣言をしました。しかし、彼からレースをとっても何も残らないことは明らかで、再び彼はカーレースの世界に戻ります。そして、フェラーリの快進撃が始まることになります。

 自分のクルマの出場するレースを観にいかなくなって久しいが、それは官能的もしくは性的とも言えるある種の愛情をクルマに対して無意識に抱いていることが大きな理由かもしれない。クルマのことを考えることや、その誕生や死を見守るのは耐え難いのだ。なぜなら、たとえ勝利があったとしても、レースには常に死がつきまとうからだ。
エンツォ・フェラーリ

 当時、世界ナンバー1のスポーツカーメーカーだったフェラーリは、世界各地の車好きのセレブを顧客に抱えていました。
 デュポン家、ダレス家、ニューヨーク市長のネルソン・ロックフェラー、ジェームズ・スチュアート、ウィリアム・ホールデン、スティーブ・マックィーン、ジョン・フランケンハイマー、ピーター・セラ―ズ、ロベルト・ロッセリーニ・・・
 特にヨーロッパ文化に憧れの気持ちをもつアメリカ人のセレブ男性にとって、フェラーリを所有することは最高のステイタス・シンボルだったのです。

<フォード社>
 1960年代にフォード社を率いていたのは、フォードの創設者ヘンリー・フォードの孫、ヘンリー2世でした。彼の存在はフォード社にとってだけでなく、アメリカにとって祖父以上に重要な存在になっていました。終戦後アメリカがその経済力で世界のトップに立ったのも、フォード社の牽引があったからでした。祖父が発明家として天賦の才を持っていたのに対し、その孫は企業家としての才能を武器に世界を制覇していたのです。ところが、そんなヘンリー2世もまた、ヨーロッパに憧れるアメリカ人セレブの典型でした。
 ヘンリー2世の父エドセルは、彼が幼少の頃からヨーロッパの魅力について話して聞かせていました。彼にとって、ヨーロッパは芸術とはロマンスと夢の都でした。死にいたるまでのエドセルの苦しみの日々を忘れさせてくれたのはヨーロッパだったのです。
 エドセルは旧世界の美意識や優美な自動車を愛した人物でした。家族のために建てたグロスポイントの邸宅も、ヨーロッパへのオマージュのような家でした。・・・
 そんな父と同じようにヘンリー2世もまたヨーロッパに魅了されていました。しかし、彼が夢中になったのは、ヨーロッパの自動車や芸術ではありませんでした。なんと、それはひとりのヨーロッパ女性だったのです。彼女の名はクリスティーナ・ヴェットーレ・オースティンと言いました。
 しかし、企業家としての彼は、憧れのヨーロッパを征服するために戦いを始めようとしていました。

 ヘンリー2世は流動的な世界を思い描いていた。自動車産業に、もはや国境はなかった。高級車ジャガーから安価なフォルクスワーゲンまで、外国製自動車が、アメリカ市場におけるフォードのシェアを脅かしていた。
 そして、ヨーロッパではアメリカの自動車メーカーが、空前の市場争いを展開していた。クライスラー社にもGMも海外市場に巨額投資していた。・・・
 ヨーロッパでもアメリカと同じぐらいフォード・モーター・カンパニーが利益を上げる日は遠くないと彼は考えた。アメリカ以上かもしれなかった。
 しかし、そのためには、あるメッセージを発信する必要があった。
 フォードの車は世界一であると。


<フォードのレース進出>
 自動車とレースの関係は、どんなスポーツよりも結びつきが深いといえます。そのため、自動車が誕生して以降、様々な交通事故により多くの死傷者が出ていましたが、それが社会問題化されるのは、1950年代以降のことでした。この時代に自動車は若者にまで普及し、公道でのスピード競争が行われることで、多くの死者がでるようになり、初めて自動車業界は社会的な批判の対象となり出します。その批判の急先鋒に立っていたのが、その後社会活動家、政治家として世界的に有名な存在となるラルフ・ネーダーでした。

「半世紀以上にわたって、自動車は死、怪我、そして何百万人の人々に計り知れない悲しみと喪失感を与えてきた。この大勢の人々の苦しみは、メディアのような勢いで4年前から急速に増え続けている。これは、思いも寄らない新手の、自動車による破壊行為によってもたらされたものだ」
ラルフ・ネーダー

 こうして、逆風にさらされ自動車業界は営業方針の転換を迫られることになります。

 当時、ストックカー・レースはデトロイトには無関係であるはずだった。自動車メーカーのレースへの出資に対する禁止令があったからだ。1950年代後半のアメリカの自動車メーカーは、広告を通して、一般のドライバーに公道でスピードを出すことに奨励していると非難されていた。・・・
 スピードの戦いと市場争いの関係を、アメリカ政府は快く思わなかった。1957年、アメリカ連邦議会は自動車製造者協会に、「安全に関する決議」の作成を要求した。この規約により、デトロイトの自動車メーカーは「エンジンサイズ、トルク、馬力、もしくは、スピードを連想させる競技会での加速能力あるいは性能」を宣伝しないことに合意した。


 要するに、自動車会社は、ドライバーにとって危険な「スピード」を競うのではなく、「安全性」や「経済性」を競いなさい、ということです。当初、フォードはその決め事に従いましたが、ライバル会社のシボレーとポンティアックは、上手く正体を隠しながら資金を投入し、国内のストックカ―・レースNASCARシリーズで52戦中41戦で優勝。そのおかげで急激に売り上げを伸ばすことに成功していました。(この間、両社を傘下とするGMはそのシェアを49%から61.6%に増やしています)
 そうなると、フォードも負けるわけには行きませんでした。

<フォードのヨーロッパ挑戦>
 当時、ヨーロッパで行われていたF1やル・マンでフェラーリは圧倒的に勝利をおさめていました。その状況にフォードが挑むことは初めから困難なことは明らかでした。もしかすると、巨額の資金をかけたものの敗北する可能性もありました。
 それでもなおフォードがヨーロッパに挑んだのはなぜだったのでしょうか?

「サッカーの大きな大会に行くとする。たとえ、そこに10万人の観客がいたとしても、サッカーボールなど買いたいと思っている人はいない。しかし、自動車レースへ行けば、そこにいる全員が客になる可能性がある」
ジャック・パッシーノ(フォード・レーシング・エグゼクティブ)

 ル・マンに勝利して、まずヨーロッパにおけるフォードの知名度を上げる。これはヨーロッパにおいてフォード車の販売台数を増やす近道と思われました。そして、ここからが重要なのですが、アメリカ人には極度のヨーロッパ志向があります。というか、ヨーロッパへのコンプレックスというべきでしょうか。フォードにとっては、そこが狙いでした。もしヨーロッパで人気が出れば、そのことはアメリカ人の心をくすぐり、彼らもフォード車に殺到するはずだからです。

 フェラーリ王朝打倒を目指すフォードのヨーロッパ遠征は、ノルマンディー上陸作戦以来の大規模なアメリカのヨーロッパに対する侵攻だった。

 ある信頼できる情報筋によると、ヘンリー2世が1965年の1回のル・マンのために遣った金額は、フェラーリの評判を強化しただけと言われました。
 サーキットにおけるフォードのヨーロッパ侵略計画は、ジョンソン大統領のベトナム戦争にたとえられた。(まさに泥沼にはまった状態でした)目的は悪くなかったにせよ、勝てない戦争から抜け出せなくなったのです。楽にそこから抜け出せる方法はありませんでした。そんな中、フォードは勝負を賭けた「ル・マン」に挑もうとしていたわけです。そこで勝利をおさめることは、世界一のスピードを証明するだけでなく、世界一の耐久性を証明し、総合力として世界一のメーカーであることを証明することでした。

 1965年の夏の終わり、ヘンリー2世は各部署のトップに1枚のカードを送りました。彼らは、初めてそのカードを見たときの衝撃を忘れられないといいます。
 カードにはル・マンのステッカーが貼られ、短いメッセージが添えられていました。
「勝ったほうが身のためだ」
ヘンリー・フォード2世

<ジョン・サーティーズ>
 フォードとフェラーリの最終決戦でその主役となったのが、イギリス人ドライバーのジョン・サーティーズでした。彼はイギリス人でありながら、フェラーリのドライバーとして最高の仕事をしていました。彼の存在なくして、フォードVSフェラーリの名勝負は生まれなかったはずです。そんな彼はそれまでのドライバーとは決定的に違う経歴をもつ異色のドライバーでもありました。

 わたしのレース人生のハイライトは、すべての始まりとなったあの瞬間だ。17歳だった。ウェールズの比較的無名のレースで、自分でほとんど組み上げたバイクの一部として感じたあのバイブレーションは一生忘れない。バイクは流れるように走り、わたしは飛んでいた。あの日、わたしの未来が誕生した。

 バイク・レーサーとしてスピードを体に感じることを身につけていた彼の心は常にイタリアにありました。彼は1963年シーズンを待たずにフェラーリに加入したのですが、残念ながら彼を好まない人もいました。4輪の経験が浅い彼のスピードに、多くの人々のプライドが傷つけられたことも原因でした。おまけに、他のフェラーリのドライバーとは異なり、彼は裕福な家庭の出ではありませんでした。彼は貴族階級でもなく、資産家の息子でもありませんでした。一人の冷たい青い瞳の気性の荒い肝の据わった労働階級の青年だったのです。そんな怒れる若者はレース界の新人類だったと言えます。その点では、同じたたき上げのエンツォと気があったとも言え、彼の登場は貴族階級のスポーツだったカーレースの時代を変えることになりました。

<ル・マン24時間耐久レース>
 そもそも「ル・マン」とはいったいどんなレースなのでしょうか?
 1922年、ふたりのフランス人が、究極の自動車レースを開催するという大胆なアイデアを思いつきました。
 その一人であるシャルル・ファローは、優れたエンジニアであると同時に、モーター・ジャーナリストの先駆けでもありました。もう一人のジョルジュ・ディランはフランスの西部自動車クラブを運営する人物でした。そんな彼らは、ある時、自動車のすべての側面を試すための24時間のコンテストを開催することを思いついたのでした。
 スピードを争うだけのレースと違い、耐久レースは、クルマの弱点をさらけ出します。ヘッドライトを点けて夜間レースを戦わなければならないとなれば、出場者は、遅れていた電気システムの開発を余儀なくされます。このレースに勝てるクルマは、ただ速いというだけではなく、燃料効率と耐久効率に優れた、総合的に理に適った設計のクルマということになるのです。
 ファローとデュランは、このレースをル・マン郊外で開催することに決めました。男たちが命を懸けてクルマと自分の限界に挑戦する場所「ル・マン」は、その後、カーレースの聖地となります。
 全長約13.45Kmのコースを24時間、二人のドライバーが交代しながら走り、より長い距離を走ったチームが優勝となります。
 クラスは2つあり、グランツーリングカーGTは、一般に販売されている乗用車による部門。もうひとつはレースのためのプロトタイプによる部門です。
 こうして、1923年、第一回のル・マン24時間耐久レースが開催されました。

 グランプリには、各地のレースについて回る、年齢も性別も異なる何百人もの熱狂的なファンがいる。彼らにとってサーキットは神殿であり、クルマやドライバーがその崇拝の対象だ。ドライバーたちは、彼らの瞳に映るロマンチックな自分の姿を見る。そこには、畏怖とあからさまな憧憬がある。狭いマシンに乗り込んでエンジンを何度も吹かす。緊張感。目はスターターの旗だけを見つめている。観客が興奮に息を呑む -
 その瞬間、ドライバーは自分がかなったように感じる。なぜ、危険など恐れるだろうか。

ロバート・デイリー「The Cruel Sport」(映画「グランプリ」の原作となった作品より)

<パワーとアイデアの戦い方>
 当時、最強のクルマだったフェラーリに、パワーだけが取り柄のフォードは勝てるのか?
 もちろんフォードは勝機があると考えていました。「ル・マン」は、「より長く走ること」が勝利の条件ですが、そのためにパワーとスピード、耐久力の最適条件を見つける必要がありました。確かにフェラーリは優れたクルマですが、フォードにはそれ以外の面で戦う方法がありました。

・・・フォードの7リッター・エンジンに比べると、フェラーリの4リッター・エンジンはかなり小さかった。
「4リッターでも充分だ。この大きさのエンジンは全体的なバランスとしてもちょうど良いことを我々は経験から知っている」と、フェラーリは言った。
「エンジンの容量を大きくすると燃料消費率も大きくなり、ホイールにかかる重量も大きくなる。動かす重さが増えるということは、特にブレーキング時の負担が大きくなるということだ。このようなことから多くの問題が引き起こされる。それは、スピードが数キロ程度上がっても補えないものだ」
 このV12エンジンはラストベンチで420馬力を絞り出した。一方、フォード427V8エンジンは1966年のダイナモ・メーターのテストで486馬力を発生させている。
 しかし、フェラーリのクルマの方がずっと軽かった。コースでは、フォードの方がトップ・スピードを上回る。しかし、フェラーリの方がしなやかで機敏な動きをする。燃料補給のピット・ストップで無駄にする時間も少ないし、コーナーリング・スピードもフォードを上回る。
 これは、パワーの戦いであると同時に、考え方の勝負でもあった。

<勝利の方法>
 ル・マンの開催前、フォードは勝利を確信しつつありました。そして、その勝利の筋書きを描き始めます。

 フォードの男たちが会議室から出ていく頃には、ひとつの計画が動き始めていた。彼らは、筋書きをさらに複雑にすることを決めた。フォードのル・マン・チームをふたつに分けるのだ。
 ひとつはキャロル・シェルビーが担当し、もうひとつは、フォードでNASCARのストックカー・レースでチャンピオンに輝いたホールマン・ムーディー・チームが担当する。・・・・・シェルビーのチームは、曲がりくねったコースを走るヨーロッパ・スタイルのスポーツカーを専門とした。ホールマン・ムーディーは市販車のフォードを改造してクルマで、高速ストレートと左コーナーのみのオーバル・コースでレースを戦っていた。

 追い込まれていたフェラーリのトップ・ドライバーだったサーティースは、フォードに勝つための自分なりの作戦を描いていました。
「フォードを打ち負かすいはウサギとカメを演じるしかない」と、サーティースは言った。
「このクルマはマシンとしては優れている。99%まで走らせることができる設計だ。問題は、フォードのレーサーたちだ。彼らは本物のレーサーだ。しかし、1台だけを100%まで走らせることによって、運が良ければ勝てる。旗が振り下ろされた瞬間が勝負だ。全力で走るんだ!他のクルマはもう少し安全に走る。フォードのドライバーたちが釣られないはずはない。奴らもレースに加わってくるはずだ。奴らは自制心を失う。そうすればレースに勝てる!」
 それが彼の計画だった。1台のフェラーリがスタートで飛び出し、フォードのドライバーたちが序盤にスピードを出し過ぎてクルマを壊すよう仕掛けるのだ。フォードの壊れやすさを彼らは散々見てきた。

 こうしてジョン・サーティーズは自らこの飛び出し役を演じるつもりだったのですが、チームは彼を2番手にします。それはメイン出資のフィアットのお偉いさんの甥ルビコ・スカルフィオッティをトップドライバーに立てるという忖度による選択でした!なんとサーティースは怒り、チームを去ってしまいます。この時点で「ル・マン」の勝負はついていたと、多くの専門家は考えていたかもしれません。ところが、勝利の女神は驚きの選択をすることになります。

<意外な結末>
 1966年6月18日、ついに「ル・マン」が始まりましたが、その結果は誰も予想できないものでした。ゴール・シーンは感動的なものでした。なんとフォードの3台が横並びでゴールインしたのです。トップを走っていたケン・マイルズはそのためにスローダウンし、トップの座を分かち合いました。マイルズは怒りながらもその指示に従ったのでした。それはチームが選んだ選択でしたが、驚いたことに順位は2台の優勝とはなりませんでした。

 クルマが姿を現した。接近して走る3台が、ゆっくりとチェッカー・フラッグへと向かっていた。マイルズとマクラーレンの1号車と2号車のシェルビー・アメリカンのフォードが横並びになり、そのすぐ後ろをディック・ハッチャーソンが運転する黒い縁取りのゴールドのホールマン・ムーディー・フォードの5号車が3位で追っていた。・・・
 マイルズもマクラーレンも、ルール上はマクラーレンがレースの優勝者となることについては知らされていなかった。・・・
 なんと、マクラーレンの方がスタート位置が後ろだったため、同着ならマクラーレンの方が少しだけ長く走ったことになったのでした!
 フォード・チームは2台同時にゴールインさせる演出を考えていたのですが、結果的に彼は2位にされてしまったのです。
 ケン・マイルズはこの年、デイトナ、セブリンですでに2勝していて、ル・マンで3冠となるはずでした。そして、この年、彼はル・マンをのがしただけではなく、永遠にル・マンに挑戦するチャンスをも失います。
 ル・マンから2か月後の8月17日、彼は故郷アメリカのカリフォルニア、リバーサイドでフォードの新しいレーシングカーの試乗中、原因不明の事故により命を落としてしまいました。(享年47歳)

<フォード時代終焉の始まり>
 ヘンリー2世はル・マンに向かう直前、記者にこう語ったそうです。
「もうフェラーリを買収しようとも思わない。今、我々が最も恐れているのは日本だ」

 翌1967年、フェラーリを去ったジョン・サーティースはF1に挑戦し、イタリアGPで見事優勝します。そして、この時彼が乗っていたレーシング・カーは、フェラーリでもフォードでもない日本製の「ホンダ」でした!

ノンフィクション「フォードVSフェラーリ 伝説のル・マン」 2009年
黄金の’60年代 - 自動車王たちの覇権争奪
Go Like Hell Ford,Ferrari and Their Battle for Speed and Glory at Le Mans
(著)A・J・ベイム A.J.Baime
(訳)赤井邦彦、松島三恵子
祥伝社

映画「フォードVSフェラーリ」 2019年
(監)ジェームス・マンゴールド
(脚)ジェズ・バターワース、ジョン=ヘンリー・バターワース、ジェイソン・ケラー
(原)A・J・ベイム
(撮)フェドン・パパマイケル
(音)マルコ・ベルトラミ
(出)マット・デイモン、クリスチャン・ベール、カトリーナ・バルフ、ジョン・バーンサル
 映画版では、ケン・マイルズの壮絶な走りにフォーカスし、「企業間戦争」よりも「走り」に集中しているようです。
 まだ未見なので楽しみです!

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