- フランコ&T.P.O.K.ジャズ Franco Et Le T.P.O.K.Jazz -

<アフリカNo.1ポップ、リンガラ>
 アフリカン・ポップスと一口にいっても、広大なアフリカ大陸には数え切れないほどいろいろな音楽があります。有名なところでは、北アフリカのライや西アフリカ、ナイジェリアのジュジュフジ、それにフェラ・クティーアフリカン・ビートハイライフパームワイン・ミュージック、カメルーンのマコッサは、マヌ・ディバンゴが作り上げたサウンドで、セネガルのユッスー・ンドゥールは自らのサウンドをンバラと呼んでいました。南アフリカには合唱音楽ムブーベムバカンガ(ズールー・ジャイブ)などパワフルでリズミカルなサウンドがあります。
 しかし、アフリカという地域は国単位ではなく本来は部族単位で文化や言語が存在するだけに、そこで共通の音楽というものが生まれることは非常に困難だと言えます。
 そんな中でも、20世紀後半最も広い範囲で聴かれていた音楽は何か?それをあえてあげるとするとリンガラ・ポップ(またの名はザイーレアン・ルンバ)ということになるでしょう。
 ザイール(旧ベルギー領コンゴ)を中心として、東はケニア、西は象牙海岸など中央アフリカ全域において、国境や部族の枠を越えて指示されているだけでも、リンガラ・ポップはアフリカNo.1の人気サウンドと言えるでしょう。(実のところ、もっと広範囲で聴かれているサウンドがあります、それはジャマイカ生まれのレゲエです。ボブ・マーリーの人気はどのアフリカのアーティストよりも広範囲に広がっているはずです)
 そして、このリンガラ・ポップの基礎を築くとともに60年代から80年代までの30年間、常にそのトップの座に君臨し続けた偉大なミュージシャン、それがフランコことロカンガ・ラジョ・ペネ・ルアンボ・マキアディでした。

<ザイールとリンガラ語>
 リンガラ・ポップという言い方は、どうやら日本独自のもののようです。そのサウンドがリンガラ語というザイールの共通言語で歌われていたことから、その名がつけられました。しかし、その勢いがアフリカ全土に広がるに連れ、リンガラ語以外でも歌われるようになって行きました。(パパ・ウェンバは他の言語を用いることが多かった)
 しかし、このリンガラ語とザイールの歴史について語ることなしに、ゴージャスかつダンサブルなリンガラ・ポップの魅力を語ることはできないでしょう。

<ザイールという国>
 アフリカの中央に位置する広大な国、ザイールは1960年にベルギーから独立しました。この国は、バントゥー語系の200もの部族からなる他民族国家で、公用語はフランス語以外にリンガラ語、スワヒリ語、チルバ語、コンゴ語の4つがあります。しかし、国の人口の1割を越える300万人とも言われる人口を抱えるアフリカ最大の都市、キンシャサが政治や経済だけでなく音楽産業の中心地であったこともあり、しだいにこの街の言語であったリンガラ語がポップスにおける共通言語的存在になって行きました。
 さらに民族間での紛争が絶えないアフリカにおいては、言語、文化による国家の精神的な統一は統治者にとって願ってもないことです。そして、そのために部族と関わりのないリンガラ語は最適の言語でした。あとは、その言語を国全体に広めるにはどうすればよいのか?なんと言っても、音楽こそその最高の普及手段だったのです。その意味でもフランコが果たした役割は大きく、1989年にエイズによって彼がこの世を去ったとき、モブツ大統領は国民に対し4日間に渡り喪に服するよう命じたほどでした。彼は文句なしにザイールが生んだ最大のヒーローと言ってよいのです。

<フランコ、キンシャサへ>
 フランコは1938年7月6日、キンシャサから80キロ北東にあるソナ・バタという小さな村で鉄道員の長男として生まれました。キンシャサへの一極集中が進む中、彼の家族もまた1940年、キンシャサへと移住し、彼はサッカーと音楽に熱中する少年時代を向かえました。しかし、彼が10歳の時、父親が急死、母親は子供たちを養うために揚げ菓子を売って生活費を稼ぎました。そこで、長男だったフランコも母親の商売を助けるためギターを弾いて客寄せをし始め、彼は家族を養って行くという目的でミュージシャンという仕事を選ぶことになったのです。

<O.K.ジャズの結成>
 1950年、彼は12歳でワタムWatamというバンドにギタリストとして参加。1953年には、ギリシャ人のパパ・ディミトリゥというレコード会社の社長が彼のギターに惚れ込み、初めてのレコード録音が実現しました。そして、彼は少しずつミュージシャンとしてその名を知られるようになって行きましたが、ひとつ大きな問題がありました。それはベルギーの植民地として搾取され続けていた貧しい国ザイールには、ほしくても楽器が存在せず、どのバンドも楽器を入手することが非常に困難だったということです。
 そんなとき、バーを経営するオマール・カシャマ Omar Kashamaという人物が毎週末バーで演奏することを条件に彼のバンドに楽器を貸してくれることになりました。この時のバンド編成は、ギター二人とベース、ドラムス、コンガ、そしてサックスとフルートに一人、ヴォーカルが一人の7名でした。こうして、Omar Kashama略してO.K.ジャズという名のバンドが結成されたわけです。(後にO.K.は、オーケストラ・キンシャサの意味を持つようになり、その頭にはTout Puissant(全能の)という言葉がつき、T.P.O.K.Jazzというバンド名が完成しました)

<リンガラ・ポップとは?>
 当時、フランコが演奏していた音楽はどんなものだったのでしょうか?それはリンガラ・ポップの別名がザイーレアン・ルンバと呼ぶことからも明らかなように、キューバ音楽のルンバやチャチャチャなどのコピー音楽とも言えるものでした。時代は1950年代、世界中のダンス・ミュージックの人気No.1は文句なしにキューバ音楽だったのです。しかし、キューバのルンバとアフリカのルンバはかなり違っていました。特にキューバ音楽と大きく違うのは、高価で持ち運びが困難なピアノがアフリカでは入手困難だったため、その代わりにギターが軽やかで美しいメロディーを奏でるようになり、それが独特のサウンドを生み出す元になったことです。このギターの独特の奏法を発展させたのが「ギターの魔術師」と呼ばれていたフランコでした。(ちなみに、もうひとりのギター・ヒーロー、ドクトゥール・ニコは「ギターの神様」と呼ばれ、彼の所属するグラン・カレのアフリカン・ジャズは、フランコのT.P.O.K.Jazzにとって強力なライバル・バンドでした)

<フランコの時代>
 1960年、ついにザイールはベルギーから独立を宣言します。しかし、ご多分にもれず、この国でも独立とともに内乱が勃発。国土が戦乱に巻き込まれて行くなか、バンドのメンバーがひとり、ふたりと去って行くことになりました。そのうえ、独立を祝う歌"Independence Cha-Cha"を歌ったライバルのアフリカン・ジャズにT.P.O.K.のヴォーカリスト、ロンゴンバが引き抜かれてしまいます。しかたなくフランコは自らヴォーカルも担当するようになりますが、彼の低く太い声は、軽やかなギターの音色と絶妙にマッチしバンドの新しい魅力となりました。
 そして、バンドにはこの後、新たな歌い手が次々と加わり、しだいにその音の厚みが増して行きます。(この頃のバンドのメンバーは30人を越えていたそうです!)こうして、彼のもとからはしだいに優秀な人材が育って行くようになり、T.P.O.K.は一流ミュージシャンの養成所的役割をもつようになって行きました。彼はザイールのポップス界における最高の存在になったのです。
 代表作は数多い。なにせ100枚以上のアルバムを発表しているのです。1987年に録音された「ライブ・イン・オランダ」やバンド結成20年記念アルバム「20周年記念 20eme Anniversaire」(1976年)は、日本版も出ている特に有名な作品です。

<カリスマ・ヒーローの功罪>
 しかし、あまりに偉大な存在となってしまった彼のおかげで、ザイールのポップスは60年代から80年代にかけて、彼主導のまま変化しませんでした。このことは、時代とともに変化すべきポップスにとって、良いことではなかったのかもしれません。
 80年代に登場したニュー・ヒーロー、パパ・ウェンバがリンガラ語以外の言葉で歌ったり、ザイールではなくフランスなど海外を拠点に活躍していたのは、そのアンチテーゼだったのかもしれません。国の指導者といいフランコのような人物といい、第三世界においてはどうしてもカリスマ的なワンマン的指導者が権力を一手に握ってしまう傾向があるようです。その最大の原因は教育の遅れと情報の独占にあると僕は思うのですが、そう考えると最近の日本における教育レベルの低下とマスコミ、テレビ番組の幼稚化は、再び独裁者を生み出す状況を生み出しつつあるように思えます。小泉さんがそうなるとは思いませんが、その後が問題でしょう。
 フランコといえば、かつてのスペインの独裁者フランコ将軍のイメージが強いせいか、なんだか話しが独裁政権へとそれてしまいましたが、けっして、ザイールのフランコは独裁者でありませんでしたので、ご注意を。

<締めのお言葉>
「私があらゆる形の権威に対して反抗の姿勢をとってきたことに対する罰として、運命は私を一人の権威者にしてしまった」
 アインシュタイン

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