
- フランク・ザッパ Frank Zappa (前編)-
<無限なるザッパ世界へ>
このサイトの開設当初から、いつかは書かねばと思いつつ、なかなか手がつけられなかったロック界の超大物、フランク・ザッパ。あまりに膨大なアルバムの数々をすべて聴くことは不可能に近く、ビデオ、DVD、本などのソフトもとんでもない数にのぼります。まともに立ち向かえば、一生かかってしまうかもしれません。
1993年の彼の死によって、その偉業は無限ではなくなりましたが、生前彼はこう言っていました。
「アメリカのオーディエンスについて、俺がどんなにシニカルな目で見てるか、教えてやるよ・・・もし彼らが俺たちに追いつきつつあるのなら、そりゃこっちが速度を緩めているからにすぎん」
彼にとって、僕の書く文章など、土曜の朝の路上のゲロ程度の価値しかないかもしれませんが、彼が立ち止まった今こそわずかでも彼の世界に迫ってみたいと思います。
そんなわけで、ここに書かれているのは、フランク・ザッパという巨大な山脈のほんのすそ野に過ぎないということをお忘れなきようお願いします。
考えてみると、このサイト自体「20世紀のポピュラー音楽」とそれが生まれた「20世紀という時代」について、コツコツと迫り続けるサグラダ・ファミリア 聖家族教会のようなものなのですが・・・。
<ザッパ・ファミリー>
フランク・ヴィンセント・ザッパ Frank Vincent
Zappa が生まれたのは、1940年12月21日のことです。場所はアメリカの東海岸メリーランド州のボルチモアでした。1950年頃、一家はカリフォルニアに移住し、その後ずっと彼はカリフォルニアの田舎町で青春時代を過ごしました。彼らの両親は、母親がフランス系シシリア人、父親がギリシャ・アラブ系のシシリア人でした。アルバム「シーク・ヤ・ブティー」のジャケットでザッパが着ていたアラブの衣装が妙に似合っていたのは、この両親の血のせいだったのです。(ただし、ザッパ一家はイスラム教ではなくカトリック教徒でした)
さらに彼の血の濃さは、その仕事ぶりからもうかがえます。ある時は歴史学者、またある時は気象学者、それに冶金学者、データ処理係、床屋、高校の数学教師、ギャンブル必勝本の作者など、数多くの職業をこなした人物が彼の父親でした。天才ザッパの血は、この父から受け継いだのでしょう。
彼が子供時代におもちゃとして、火薬を作って爆発させていたというのもそんな父親の影響だったようです。そして彼は火薬をギターに持ち替えて、独自の爆裂サウンドを展開して行くことになるわけです。
<ザッパ少年のお気に入り>
彼が少年時代にひかれていた音楽は、当時(50年代)のロックン・ロールで、その後R&Bやブルースにひかれてゆきます。しかし彼の音楽にとって、50年代ロックン・ロールの影響はかなり強く、そのおかげでポップさと前衛的な面と上手くバランスがとれた聞き易い音楽になっているような気がします。
ジョニー・ギター・ワトソン(後に「やつらか俺たちか」などのアルバムで共演することになります)、クラレンス・ゲイトマウス・ブラウン、ライトニン・スリム、マディー・ウォーターズ、ハウリン・ウルフなどが、彼のお気に入りミュージシャンでした。しかし、彼が10代の頃、最も聴きまくったレコードは、実はロックでもブルースでもありませんでした。
そのうちの一枚は、前衛音楽界の奇才エドガー・ヴァレーズ Edgard Vareseのアルバム「The Complete Works
of Edgard Varese Vol.1」、そして、もう一枚はクラシックの世界でも最も新しい部類に属するストラヴィンスキーの「春の祭典」でした。
彼はこの二枚を聴きまくり、高校、大学時代にはクラシックの和声や作曲について学んでいます。もしこの頃、クラシックをいっしょに演奏できる仲間がいれば、彼はロック・バンドではなくクラシックのアンサンブルを結成していたかもしれません。後に彼が「イエロー・シャーク」などクラシックのアンサンブルによる作品を生み出す原点はここにあったわけです。
<街唯一のR&Bバンド>
高校に入ると彼はドラムをたたき始め、仲間たちとブラック・アウトというバンドを結成します。このバンドは、黒人3人、メキシコ系2人、それに白人1人にアラブ系?のザッパ本人という他民族バンドで、彼らはその街近郊で唯一の本格的R&Bバンドでした。(ちなみに、この頃彼はキャプテン・ビーフ・ハートことドン・ヴァン・ブリートとも知り合っています。二人はお互いのレコードコレクションを聴かせあう友達でした)
高校卒業後、彼はギタリストに転向。1963年ザ・ソウル・ジャイアンツというバンドに参加します。いつしか、彼はそのバンドの中心メンバーとなり、1964年バンド名を変えて再スタートします。この時たまたまその日が母の日だったため、彼らは「マザーズ」と名乗ることにしました。
<初代マザーズ>
最初のマザーズのメンバーは、フランク・ザッパ(Gui.,Vo)、レイ・コリンズ(Vo)、ロイ・エストラダ(Bass,Vo)、ジミー・カールブラック(Dr.)で、その後ギタリストとしてさらにエリオット・イングバーグが参加しました。
1965年、マザーズの演奏をクラブ「ウイスキー・ア・ゴーゴー」で見たMGMのプロデューサー、トム・ウイルソンは彼らの素質を見抜き、ほとんど無名に近かったにも関わらずレコーディングの契約を結びました。トム・ウイルソンは、この頃ボブ・ディランのアルバムをプロデュースするなど、時代の先端をいっており、MGMから異例の待遇を与えられていました。そんな人物に気に入られたおかげで、海の物とも山の物ともつかないバンドだったにも関わらずマザーズは、好きなように作って良いという異例の条件でレコーディングのチャンスを与えられたわけです。
<「フリーク・アウト!」誕生>
1966年発表の「フリーク・アウト! Freak Out」は、コラージュ的手法やパンクの元祖とも言える破壊的な曲、脱メロディーで前衛的な音楽性など、当時のロックのフォーマットからはみ出すまったく新しい音楽でした。しかし、その斬新さと脱ポップな曲ゆえにラジオでのオンエアはほとんどなく、レコード会社もそのプロモーションをしなかったので、ほとんどヒットする要素はありませんでした。 ところが、彼らの徹底したライブ活動と西海岸を中心とするカリスマ的な人気、さらには新しい何かを求める時代の空気が彼らに追い風となり、いつの間にかアルバムは17万枚を越える売上を記録してしまいました。
勢いに乗る彼らは、6ヶ月間連続で週6日1日2回のライブを行うなど、もの凄い勢いでライブをこなしながら、次々とアルバムを発表して行きます。
「Absolutely Free」(1967年)「We're
Only In It For The Money」(1968年)
「Lumpy Gravy」、「Crusing With Ruben And
The Jets」(1968年)
「Uncle Meat」、「Burnt Weenie Sandwich」(1969年)
このハイ・ペースは、「天才は多作家である」という常識の典型ですが、本当に凄いのは彼がこのペースをほとんど死ぬまで保ち続けたことです。(1966年から彼が亡くなった1994年までの間に、50枚以上のアルバムが発表されています)
<マザーズ解散>
1969年、マザーズ・オブ・インヴェンションはベスト・アルバムを発表してあっさりと解散してしまいました。やはり天才は、同じ事の繰り返しを嫌ったのでしょう。当時の解散直前のメンバーには、ロウエル・ジョージとロイ・エストラダがおり、彼らはその後LAでリトル・フィートを結成することになります。
そして、この年ザッパは高校時代からの友人キャプテン・ビーフハートのアルバム「トラウト・マスク・レプリカ」をプロデュースしています。このアルバムは、その後時代を越えてロックの歴史に残る名盤の一つに数えられることになります。
<新たなる挑戦とアクシデント>
1970年、アルバム「Hot Rats」を発表すると同時に彼はホット・ラッツ・バンドを結成します。さらに名指揮者ズービン・メータ率いるLA交響楽団との共演ライブも実現させます。まだプログレッシブ・ロックという名前などなかった時代に、彼はその先駆けとしての活動を始めていたわけです。
1971年、フィルモア・イーストでジョン・レノン&オノ・ヨーコと共演。同じような前衛的指向をもつヨーコとザッパの組み合わせは、ライブ・アルバムとしても記録されています。
同じ年、スイスのモントルーで行われたジャズ・フェスティバルでの演奏中、火事が起き、彼らの機材ほとんどが焼けてしまうという事件もありました。この時の火事を、湖の対岸から見ていたディープ・パープルのメンバーが作った曲が、後にハード・ロックの歴史的名曲となる「スモーク・オン・ザ・ウォーター」です。
さらにこの火事の6日後ザッパはロンドンで行われたコンサートのステージから転落。左足を骨折し入院してしまいました。しかし、フランク・ザッパという男はそんな入院生活ですら、新しい音楽を生み出すためのきっかけにしてしまうほどのエネルギーを持っていました。自宅療養生活期間中、彼はスタジオ・ワークがもつ新たな可能性に気がつきます。これがきっかけで、彼はツアー以外の時をほとんど自宅のスタジオで過ごすようになります。
こうして、ザッパのサウンドは、ライブでのダイレクトでインプロビゼーションを重視するサウンドとスタジオで生み出される凝った音づくり、二つの方向性を合わせ持つことになっていったのです。
<ザッパの70年代>
その後も、ザッパは衰えることなくアルバムを発表し続けます。
「いたち野郎 Weasels Ripped My Fresh」(1970年)
「チャンガの復讐 Chunga's Revenge」(1970年)
「フィルモア・ライブ’71 Fillmore East
- June 1971」(1971年)
「Zoo Motels」(1971年)
「ワカ・ジャワカ Waka-Jawaka」(1972年)
「Just Another Band From LA」(1972年)
「グランド・ワズー The Grand Wazoo」(1972年)
1973年、彼は新生マザーズを結成します。
「Overnight Sensation」(1973年)
「アポストロフィー Apostrophe」(1974年)
「10年目のマザーズ=ロキシー・ライブ Roxy
And Elsewhere」(1974年)
1975年、マザーズに旧友キャプテン・ビーフ・ハートも参加。
「One Sides Fits All」(1975年)
「Bongo Fury」(1975年)
「Zoot Allures」(1976年)
1976年、当時人気絶頂だったグランド・ファンク・レイルロードのアルバム「熱い激突 Good Singing,Good Playing」をプロデュース。(ただし、このアルバムの評判は今ひとつだった)
「Baby Snakes」(1977年)
「Zappa In New York」(1978年)
「Stadio Tan」(1978年)以下3枚はワーナーが無断リリース
「Sleep Dirt」(1979年)
「Orchestra Favorites」(1979年)
「シーク・ヤブーティー Shiek Yerbouti」(1979年)
「ジョーのガレージ Joe's Garage Act T&U」(1979年)
ザッパ・レコードを設立して、第一弾アルバムとして発表した二枚組アルバム「シーク・ヤブーティー」は、全米アルバム・チャートの21位まで上昇。内容的にも売上的にも、彼にとっての代表作になりました。ポップなロック・アルバムとして最も入りやすいのは、この時期の作品かもしれません。
<ザッパの80年代>
「ティンゼル・タウンの暴動 Tinsel Town Rebellion」(1981年)
「You are what you is」(1981年)
「Ship Arriving to late to save drowing witch」(1982年)
「Sut Up 'N Play Yer Guitar」(1982年なんと二枚組のギター・インスト・アルバム)
「The Man From Utopia」(1983年)
「The London Symphony Orchestra」(1983年)
「奴らか?俺たちか? Them Or Us」(1984年)
「Francesco Zappa」(1984年)
「The Perfect Stranger」(1984年)
「Thing Fish」(1985年)
「Does Humor Belong In Music ?」(1986年)
「Meets The Mithers Of Prevention」(1986年)
「Jazz from Hell」(1986年)
「Guitar」(1987年)
「Broadway The Hard Way」(1988年)
このアルバムは大規模なワールド・ツアーのライブ・アルバムでしたが、この頃すでにザッパは自分がガンであることを知っていたようです。そのため、この後オリジナル・アルバムは発表されず、同じライブ・ツアーで録音されたアルバム「The
Best Band You Heard In Your Life」(1991年)、「Make
A Jazz Noise Here」(1992年)を発表。
「Playground Psychotics」(1992年、70年代のライブ録音集)
「Ahead Of Their Time」(1993年、初期マザーズのライブ録音集)
<ザッパ最後の闘い>
闘病生活のもと、ザッパはロックとの決別を宣言。彼の楽しみのひとつだったスタジオ・ワークに没頭し、過去に行った膨大な録音を整理、加工することで新しい音楽を生み出すことに専念し始めます。
さらに元々現代音楽やクラシックが好きだった彼は、しだいにオーケストラを用いた新しい音楽の創造に向かい始めます。それはザッパ最後の闘いでした。この完成型に近いのが1993年発表の遺作「イエロー・シャーク Yellow Shark」です。このアルバムは、26人の優れたメンバーによるオーケストラ、アンサンブル・モデルンが主役となりザッパはその裏方に回ったかたちでしたが、その音楽は確かにザッパの集大成とも言えるものでした。こうして彼は死の直前になって、ついに学生時代からの夢を実現することができたのです。
1993年12月4日、フランク・ザッパはこの世を去りました。もう彼が新しい作品を発表することはありません。しかし、虎が死して皮を残すように、ザッパは死して無数の録音を残しました。生前に発表されなかった未発表録音も、今後発表されて行くでしょう。そのうえ、彼はすでに生前50枚を越える大いなる遺産をこの世に残しているのです。それだけでも、彼の存在はロック史に高くそびえ立つ巨峰であると同時に広大なすそ野をもつ巨大な山脈と呼ぶに値するでしょう。
しかし、彼が残したのは音楽の遺産だけではありません。彼は音楽以外にも驚くべき遺産を残しているのです。それについては、後編でどうぞ!
「・・・音楽産業に内在する経済構造を指摘し、ロック神話の自己解体を目指すという点で、ザッパは1960年代後半にあってまさに独自の存在であった。もし彼に匹敵する者がいたとすれば、それはハリウッドの映画支配を拒否して孤軍奮闘していた、映画監督のジャン=リュック・ゴダールくらいではないだろうか。・・・」
「ザッパは20世紀音楽の最大の攪乱者の一人であった。彼は大いなる罵倒家であり、攻撃的な道化であるとともに、みずから懲罰される道化を買って出もした。ありとあらゆる音楽を自作に取り込むとともに、その位階秩序の解体を目指した。日増しに制度化され、美学的権威と化していくロックン・ロールに対して、彼が尽きせぬ切り崩しの作業を怠らなかったことは、まさに記憶されるべきだろう。ザッパという固有名詞がZから始まっていることは、偶然ではない。彼は常に物語のなかで、終わりの始まりを演じているのだ。」
四方田犬彦(著)「音楽のアマチュア」より
後編「ザッパ、その大いなる遺産」へ
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