- フランク・シナトラ Frank Sinatra -
<ザ・ヴォイス>
「ザ・ヴォイス」と呼ばれたアメリカのシンガー&エンターテナー、フランク・シナトラ。
名曲「マイ・ウェイ」があまりにも有名なため、ラスベガスなどのステージで朗々と歌い上げる古臭い歌手のイメージが強いかもしれません。
しかし、若い頃の彼はスウィング・ジャズのビッグバンドをバックに従えた都会派ポップシンガーであり、ものすごい数の女性ファンがいるアイドル・シンガーでした。
映画「地上より永遠に」ではアカデミー賞助演男優賞を受賞していますが、その役を得るためにマフィアを使ってプロデューサーに圧力をかけたという黒い噂があったのも事実。映画「ゴッドファーザー」にはそのエピソードが使われました。ただし、そうしたスキャンダルがなければ、彼はアメリカでもっと大きな存在になっていたかもしれません。
それでもなお、彼が「ザ・ヴォイス」と呼ばれる存在になりえたのは、その歌声が素晴らしかったからに他なりません。
映画「ダイ・ハード」のエンディングで流れる彼が歌うクリスマス・ソングの軽やかさ、お洒落さは、多くの人の印象に残っているはず。その歌声の伸びやかさ、都会的なセンスの良さは、やはり彼ならではのものだったのです。
シナトラの芸術とは、もちろん音楽である。その声は時が経つにつれてバイオリンから、豊かな中音、太く響く低温を奏でるビオラ、チェロ、といった楽器の音域にまで達した。
だがシナトラをシナトラたらしめているのは、それらが一体となってシナトラ・サウンドと呼ぶべきものを形成する。これは他に真似のできないものであった。シナトラが行き着いたのは前人未踏の領域であり、都会派アメリカ人の歌声と言ってよかった。
ヤングラスカルズ、ローラ・ニーロ、フォーシーズンズなど、初期のブルーアイドソウルの人気者には、イタリア系が多かったことは有名ですが、彼はその先駆だったのかもしれません。
「ザ・ヴォイス」と呼ばれた男フランク・シナトラの人生を振り返ります。
<イタリア系移民>
フランク・シナトラとその家族の歴史を振り返る前に、彼が所属していたイタリア系移民にとって、その運命を大きく変えることになった有名な事件から始めましょう。
1891年、ニューオーリンズで悪徳警官デヴィッド・ヘネシーが殺害される事件が起きました。この事件の犯人としてイタリア人移民グループが逮捕され、19人が有罪、11人が殺人罪で裁判となりました。新聞は彼らをシシリー人犯罪組織「ブラック・ハンド」と呼ばれる「マフィア」の一味と報道。「マフィア」という呼称が世に知られるきっかけとなりました。ところが裁判で11人全員が無罪となります。当然、マフィアによる陪審員の買収・脅迫が疑われることになりました。その結果、多くの群衆が監獄を襲撃し、全員をリンチした後、銃などで殺害するという事件に発展します。この事件により、「イタリア系移民=マフィア」という偏見がアメリカ全体に広がることになりました。その影響は、一般のイタリア移民が銀行からの融資を断られるなどの事態を発生させました。そして、そうした差別的な扱いで困ったイタリア系移民たちを助けるために自助組織が誕生。その顔役となったのが「ゴッドファーザー」と呼ばれる存在でした。
「パワーつまり力には、その根源となるものがいくつも存在する。まず最初に挙げられるのはファミリーの力。シシリーでは三親等、四親等、五親等までもがファミリーである。さらには傍系親族、義理の兄弟姉妹、義理の親戚、名付け父、名付け母、結婚式の介添え、居候、食い詰め者、召使、家来。こういった連中を助けなければならない、どんな時でも、必要とあらば」
ルイジ・パルチーニ
後にフランク・シナトラもまたこの役目を果たす存在となります。
<シナトラ・ファミリー>
フランク・シナトラ Frank Sinatraの祖父ジョン・シナトラはマフィアの故郷シシリー出身の移民です。アメリカ到着後、ニューヨークの工場街だったホーボーケンに住みながら工場で働いていました。
母親のドリーは北イタリアのジェノア出身で父親がリトグラフ職人、母親は助産婦という硬い家柄でした。そんなドリーが夫に選んだのが、前述のジョンの息子マーチン・オブライエンの名前でボクシング選手だったマーチン・シナトラでした。当時、活躍していた有名ボクサーの多くがアイルランド系だったので彼も、それを真似ていましたが、自身の出自であるイタリアへの嫌悪感情から彼はオブライエンの名を普段も使っていたのかもしれません。
真面目な両親は、ボクサーとして優秀でもなかったマーチンとの将来を心配して、結婚に反対。1931年に二人は駆け落ちをして、ジャージーシティの市役所で結婚します。マーチンは生活のためにボクサーをやめて働き出し、1915年12月12日二人の間に長男フランク・シナトラが誕生しました。この時、彼の出産は難産となり、母親のドリーはその後、出産は不可能と言われることになり、彼は当時としては珍しく一人っ子として育てられることになりました。母親のドリーは、祖母にフランクを預けて働き、さらに夜には政治活動にも関わっていたため、彼は孤独な少年時代を送ることになります。そんな中、彼の家庭、そして彼の運命をも変えることになる事件が起きます。
シナトラの一生は、この孤独感を如何に癒すかに費やされたと言ってよい。数度にわたる結婚や、数限りないロマンスもこのためであるし、深酒もそうだ。過剰とも言うべき友達付き合いの深さも同様であり、怒りや激情といった感情を露わにすることもそう。
だが結局彼を救ったのは音楽だった。
音楽だけが死ぬまで彼の救いとなった。
<禁酒法>
1920年1月16日、アメリカ全土で禁酒法の施行が始まりました。
その当時、飲酒できる店はニューヨークに1万5千軒ありましたが、禁酒法によってヤミ酒場が逆に急増し、なんと3万2千軒に達しました。(そうした非合法の酒場は「スピーク・イージー」と呼ばれていました)
そのうちの一軒をフランクの母ドリーが始めます。表向きはパスタやサンドイッチの店ですが、店名は「マーティ・オブライエン」。アイリッシュ・パブ風の店名は、酒を飲める店であることを暗示していました。さらにドリーが政治に関わっていたことで、警察にコネがあり、安心して商売ができていたようです。
<歌手生活の始り>
若きフランク・シナトラに音楽的に重要な影響を与え続けたのはスイング・ミュージックであった。彼は17歳でニューヨークに出て、小さなクラブで細々と歌い始めます。両親は猛反対しますが、その決心の固さを知った母ドリーは、彼に65ドルでマイクロフォン付きのアンプをプレゼント。その後、マイクは彼の重要な武器になります。
「最初の頃、自分の楽器は声かなと思ったがそうではなかった」
私にかつてこう言ったことがある。
「マイクロフォンだったんだ」
シナトラは歌の内容や歌詞に合わせて、スタンドに固定されていたマイクをスタンドごと引き付けたり遠ざけたり寝かせたりすることで音量などの調節を行いました。
1935年、彼が参加したコーラスグループ、ホーボーケン・フォーはラジオ番組のコンテストで一等になり、その番組の司会者メイジャー・ボウズとツアーに出ます。(週給は4人で75ドル)彼らはカリフォルニアまでの長いツアーで多くのことを学びますが、そのままグループは解散。彼は昼間働き、夜は歌を歌う生活を一人で続けます。
そんな彼の歌声を気に入ったのがトランぺッターのハリー・ジェームズでした。彼は当時、ベニー・グッドマンのバンドにいましたが独立の準備を始めていて、ヴォーカリストを探していました。
1939年にナンシーと結婚していた彼はハリーに週給75ドルで雇われ、妻を連れてツアーに参加することになりました。7月13日、彼はハリー・ジェームスのバンドと共に初のレコード録音を体験します。「From
The Bottom Of My Heart」「Melancholy Mood」
この年、彼は当時ベニー・グッドマンと並ぶ人気バンドリーダー&トロンボーン奏者、トミー・ドーシーに引き抜かれました。この移籍により、彼の週給は125ドルにアップします。
1940年2月1日、彼はトミー・ドーシーのバンドとの録音を行います。「The Sky Fell Down」「Do Romantic」
シナトラは、トミー・ドーシーから多くのことを学ぶことができました。例えば、バンドによるショーを長い一つの曲・物語のように構成するステージ・スタイル。そして、彼のトロンボーン演奏から彼は自分のヴォーカル・スタイルを学んだと語っています。
「ドーシーは類まれなる呼吸コントロールの方法を身に付けていた。長い詩的なメロディ・ラインを持続させるためのゆったりした息の出し方はシナトラに大きなヒントを与え、今も多くの歌手にといって重大な意味を持つものである。だがシナトラに出来てドーシーに出来ないことがあった。言葉を駆使することだ。クリームのように滑らかな母音と、切れの良い子音。それを彼は都会人にしか出来ないスタイルで行った。・・・」
1942年1月、トミー・ドーシーのバンドと行った録音「Night and Day」「The Night We Cold It A Day」「歌こそは君」は、彼にとってその後重要なレパートリーとなりました。しかし、この時点での彼のヒット曲はあくまでもトミー・ドーシーバンドの曲でした。それでも、彼の歌手としての評価は確実に上がっていて、1941年5月発表のビルボード誌で彼は男性歌手の第一位に選ばれました。
1942年秋、ついに彼はバンドから独立。トミー・ドーシーのバンドからアレンジャーのアクセル・ストーダルを引き抜きます。
イタリア系アメリカ人の間でのこの時点で彼の人気は、ニューヨーク市長フィオレ・ラ・ガーディア、56試合連続安打のメジャーリーガー、ジョー・ディマジオに匹敵するほどになっていました。
戦時中、男たちが戦地に行っていたことから多くの女性が銃後の仕事につきました。そして、活躍の場を得た女性たちが自分たちが得た収入をつぎ込む先に選んだのが、イケメンのシティー・ボーイ歌手フランク・シナトラだったようです。
<フレッド・アステアとビング・クロスビー>
彼が目標にしたアーティストは、当時、アメリカナンバー1のスターだったビング・クロスビーとフレッド・アステアでした。シナトラは二人についてこう語っています。
「・・・アステアが踊り、ビングが歌うと、それはまるで自分がやっているように思い込んでしまうのさ。映画館から出て来た連中が、自分も同じように出来ると思って通りで踊っているのを見たことがあるだろう。
恋人に、自分だって立派に歌えると思って歌って聴かせる連中も、同じ。ビングとアステア、実にもう大したもんだ。大恐慌の時代、二人は歌い続け、踊り続けた。クソ不景気の時代さ。
ビングが歌うと、それはいつもデュエットになる。もう一人が加わるから。それは自分さ。聴いてる自分が一緒に歌っているんだ」
フランク・シナトラ
彼が目指したのは、上記二人のようなエンターテナーでしたが、時代はスイング・ジャズの黄金期。当然、彼はジャズ・シンガーに近い存在で売り出すことになります。
シナトラは、言うまでもないがジャズ・シンガーではない。
だが彼のアプローチはジャズメンのそれと似ている。・・・
長きにわたりこれを行ったのがルイ・アームストロングであり、マイルス・デイヴィスだった。・・・彼らはアメリカのスタンダードとされるこういって歌の意味と内容をよく理解していた。
その上で、より”音楽的”なものに、ちゃんとしたものに、そしてより個人的な世界に引き付けて、歌を作り替えた。結果としてはそれはブルースと呼ばれるものに近づくことになる。・・・
シナトラが行ったのも、全くそれと同じ。・・・
<人気凋落とスキャンダル>
1945年、第二次世界大戦が終わり、戦地にいた兵士と共に人気スターや選手たちが帰国し始めるとシナトラは大きな壁にぶつかることになります。耳が悪かったため、徴兵試験に3度不合格となり兵士になれなかったシナトラは、戦地から戻った兵士たちからのバッシングを受け、大衆の人気を失うことになり、彼の人気を支えていた働く女性たちも家庭へと戻ってしまいました。
音楽界ではスイング・ジャズの時代が終わり、ジャズは小編成のコンボ・スタイルへと変わります。そうなると歌手の居場所はなくなります。
そこで彼は新たな活躍の場を求めて、ハリウッドに本格参戦します。しかし、イケメン歌手のイメージで作られた作品は興行的にも質的にも評価されず、イライラがつのります。
1947年4月8日、彼は普段から敵意を持っていたハリウッドでハースト系新聞にコラムを書いていたリー・モーティマーを殴る事件を起こし逮捕されてしまいます。それまでもマスコミへの対応が悪いことで、記者たちの間で評判が悪かった彼は、この事件によってマスコミ全体を敵にまわすことになりました。
1947年2月、彼はキューバのハバナに行き、ホテル・ナシオナーレのナイトクラブで特別なショーを行いました。ところが、その会場にいた観客は彼も驚くような顔ぶれでした。それは、アメリカを代表するマフィアの幹部たちだったのです。ラッキー・ルチアーノ、フランク・コステロ、マイヤー・ランスキー、カルロス・マルセロ、ジョー・アドニス・・・そうそうたる顔ぶれのギャングたちが揃っていました。そこまで大がかりなパーティーがマスコミに漏れないわけがありません。彼とマフィアとの癒着が大スキャンダルとして暴露されてしまうことになりました。出席者の詳細までは知らなかったとはいえ、そもそも彼自身もそうした裏社会と関りがあっただけに、その批判は防ぎようがありませんでした。
彼と女優エヴァ・ガードナーとの不倫はこの頃から始り、シナトラはナンシーと離婚しエヴァと再婚します。これでさらに彼の評判は、女性たちの間でも堕ちてしまいました。彼の評価は下がる一方でしたが、逆に女優としてのエヴァの人気はさらに高まり、シナトラはそのおまけ的存在になってしまいます。彼とエヴァの関係もまた危険な状態が続くことになります。
<人気復活>
1952年、彼は巨匠フレッド・ジンネマンの大作映画「地上より永遠に」のオーディションを受けます。この時、同時にオーディションを受けた俳優たちの中に名優イーライ・ウォラックがいて、当初は彼が選ばれる予定だったようです。ところが、イーライ・ウォラックは、映画の撮影と同じ時期に公演予定だったテネシー・ウィリアムズの舞台に出演する方を選択。シナトラは棚ぼたで出演するチャンスを掴んだのでした。映画「ゴッドファーザー」で描かれたベッドに馬の首を入れてプロデューサーを脅迫するシーンが本当かどうかはわかりません。とはいえ、その映画での演技でシナトラがアカデミー助演男優賞を受賞したのは、それなりに彼の演技力のたまものだったと考えるべきでしょう。
彼の主な映画出演作品は、「錨をあげて」(1945年)、「踊る大紐育」(1949年)、「三人の狙撃者」(1954年)、「ヤング・アット・ハート」(1955年)、「黄金の腕」(1955年)、「上流社会」(1956年)、「夜の豹」(1957年)、「走り来る人々」(1958年)、「影なき狙撃者」(1962年)、「刑事」(1968年)・・・
音楽面でも大きな変化がありました。キャピトル・レコードに移籍した彼は、そこでその後長く続くことになる名コンビ、ネルソン・リドルと出会います。それ以前に、ナット・キング・コールの名曲「モナ・リザ」「トゥ・ヤング」の編曲していた彼は、キャピトルに移籍してきたばかりでした。シナトラと彼のコンビは黄金時代を築くことになります。
シナトラが自分でアルバムに収録したい曲を選び、それをどう料理したいかをリドルに説明。するとリドルはシナトラの示したイメージを譜面化することで作品が出来て行きました。そんなリドルの編曲の才能について、マイルス・デイヴィスはこう語っています。
「(アート)テイタムやフランク・シナトラはその数少ない例だ。ネルソン・リドルがシナトラのために書いたアレンジを聴くとそれはわかる。リドルはシナトラに必要にして充分な見せ場を用意している。決してマゴつかせることはない。
チャーリー・ミンガスがシナトラのアレンジをしたらどうなる。ま、ミンガスならやりおおせたかもしれない。いいものを持っているからな。
だけどだ、リドルについて言うなら、アレンジは非常に軽いもので、伴奏されているのを忘れてしまうほどなんだ」
マイルス・デイヴィス(1958年)
「リドルのスタイルの中心にあるのは軽さ、である。たとえ十本のブラスが朗々と響こうと、ストリングス・セクションがスタジオを埋め尽くそうと、リドルの手にかかると軽い感じの響きになる。・・・」
フリードウォルド(共同作業者)
1953年秋、彼はエヴァ・ガードナーと離婚。やっと復活したところで、再び彼は孤独を選択してしまったのでした。
この後、彼は有名な「マイ・ウェイ」のヒットなどにより、エンターテナーとして長く活躍。
しかし、1995年頃、アルツハイマーとわかり、表舞台から消えて家族と余生を送った後、1998年8月14日にこの世を去りました。
「俺は夜の中でしか生きられない」
フランク・シナトラ
<参考>
「ザ・ヴォイス フランク・シナトラの人生」 1998年
Why Sinatra Matters
(著)ピート・ハミル Pete Hamill
(訳)馬場啓一
日之出出版
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