- フランツ・カフカ  Franz Kafka -

<なぜカフカは「変身」したかったのか?>
 フランツ・カフカは、なぜ「変身」を書いたのか?もしくは、なぜ彼は「変身」したかったのか?
それは、もしかすると彼が「変身」したくてもできない人生を歩まざるをえなかったからかもしれません。
「変身」したくなるほど、人生に不満をもっていただけのことなのかもしれません。
 人間のもつ変身願望は、太古の昔からあったようです。しかし、願わずして「変身」してしまうという不条理なドラマはカフカの「変身」までなかったかもしれません。
 それは、スーパーマンや仮面ライダーのように英雄になるための変身ではなく、厳しい現実から逃れるための変身でした。
 もしかすると、こうした逃避のための「変身」は20世紀の人類が望んだ最大の願望だったのかもしれません。

 でも、この作品が、21世紀になった今も世界中の人々に読まれ様々な解釈をされ続けているのはなぜでしょうか?
 「面白い」から?「感動するから」?「勉強になるから」?「スリル満点だから」?「わけがわからないから」?・・・たぶん、それは最後の「わけがわからないから」なのでしょう。
 「変身」だけでなく、カフカの作品はどれも、時代が変わり、社会が変わっても、未だに「わけがわからない」ままです。ただし、彼の小説には、「わけ」を知りたくなる魅力が確かにあります。なぜ?誰もがその「わけ」を知りたくなるのか?それはもしかすると、彼の小説が「理解」されることを徹底的にこばんでいるせいかもしれません。淡々と書き連ねられた出来事の積み重ねは、読者が読み進みたくなるように書かれているわけではなく、逆に読者を突き放しているかのようです。この「渇いた文章」こそが、その後も長く読み続けられることになった最大の要因だと僕は思います。
 それはハードボイルド小説であり、不条理小説であり、近未来SF小説であり、社会批判小説であり、家族愛の喪失を描いた悲劇の物語でもある分類不能の小説なのです。

<フランツ・カフカ>
 フランツ・カフカは、1883年7月3日ボヘミア(現在のチェコ)の古都プラハに生まれました。両親はユダヤ系のチェコ人で商売を営んでおり、彼はその家の長男でした。まわりの多くがチェコ語を話す社会でしたが、彼の父親は彼をユダヤ人中心のドイツ語教育を行なう小学校に入学させます。それはドイツ語が当時の支配階級の主流言語であり、進学、就職など将来の生活にも役立つという考えからでした。その後当然彼は大学進学のためのギムナジウムに進級し、そこで哲学や文学に興味をもつ少年となってゆきました。
 プラハ大学に入学した彼は当初、哲学を専攻します。しかし、父親に就職の役に立たない無駄な学問だと言われて化学に変更。しかし、もともと理系が苦手だった彼は、この分野が好きになれず法学に変更、なんとか無事に卒業にこぎつけます。それでも、この時期、彼は後に彼の作品を世に出すために大きな働きをする人物マックス・ブロートと知り合い、文学の世界に足を踏み入れています。
 卒業後、なんとか親戚のコネでイタリア系の保険会社に就職した彼はサラリーマンとして働き始めますが、きつい労働についてゆけず、すぐに退社。マックス・ブロートの父親のコネにより、労働者災害保険局で公務員として働き始めました。この職場は午前中で仕事を終えることのできることができたため、彼は仕事の後の時間を執筆に使うことで文筆活動を行なうことができるようになりました。この後、彼は結核によって職場を去るまで公務員と作家という二束のわらじを履き続けることができたわけです。
 彼は、幸いなことに作家として売れる作品を書かなくて生活できることになりました。病のために仕事を失ってからも、彼には十分な恩給がついたため、彼は生涯生活にこまることはありませんでした。しかし、死ぬまで売れる作品を書くことができなかった彼には、公務員を辞めるという選択肢もなかったことは事実のようです。
 さらに彼の人生はけっしてドラマがなかったというわけでもありません。大人になった彼は、フェリーチェ・バウアーら何人かの女性たちと恋愛ドラマを展開。作家として生きる自由のために結婚をあきらめた彼は、「芸術と家庭」どちらを選ぶかという葛藤や小さな頃から彼を支配し続けていた父親からの独立に悩むなど、多くの悩みを抱えていたようです。こうした、心の悩みがストレスとして彼の身体を蝕み、肺結核を発症、仕事をやめて療養生活に専念することになります。

<ナチス・ドイツの暗い影>
 当時カフカが住んでいたチェコの1920年代はけっして平穏無事な時代ではありませんでした。長くオーストリア=ハンガリー帝国の属国だったチェコが、チェコ・スロバキア共和国として独立したのが1918年のこと。初代大統領のトマス=マサリクのもとでしばしチェコは素晴らしい時代を迎え、カフカの生きていた時代はちょうどその時期にあたっていました。しかし、その幸福な時代もそう長くは続かず、1930年代には終わりを向かえることになります。
 その最大の原因となるドイツのナチ党が第一回の党大会を開催したのが1920年のことでした。1919年にドイツは第一次世界大戦に破れ、その後多額の賠償金のおかげで経済が崩壊。そのために異常なインフレとなり国民は生活に苦しんでいました。その不満は経済的に恵まれていたユダヤ人たちへと向かい、それがナチ党成長の原動力となります。こうして、ナチスが政権を獲得したドイツはチェコを占領し、ユダヤ人の大量虐殺を行なうことになります。
 彼はナチスがその勢力を拡大する様子を、当時我が身をもって体感しています。
 1922年、肺病が悪化した彼は仕事をやめ、1923年から1924年にかけてベルリンで生活。ナチスがその勢力を伸ばし、その危険がユダヤ人に及びつつあることを彼は痛いほど感じていたはずです。その後、彼は一時期は結核が回復し職場復帰するものの、当時大流行していたスペイン風邪にかかり再び体調が悪化、再度は咽頭結核にかかり会話もできなくなり1924年、41歳という若さでこの世を去りました。

<幻の小説>
 彼は生前、小説「変身」を1916年に発表しているものの、当時はまったく話題にならず、後に有名になる彼の長篇小説「審判」「城」「アメリカ」は、どれも未発表のままでした。それは生前発表された彼の作品がどれも評価されずにいたからでしたが、それ以前に作者自身が自分の作品のできに不満をもっていたからでした。彼は遺言で、自分の死後、短篇以外の作品はすべて燃やすよう指示していたといいます。もし、彼の小説の価値に気付かずに遺言どおり、作品を焼却処分にしていたらカフカの名は誰も知ることはなかったかもしれません。彼の作家仲間、マックス・ブロートが彼の作品を救い出し、世に出したことはそれだけに大きな価値があったといえるでしょう。彼のおかげで、「審判」が1925年、「城」が1926年に発表されることになりました。(ただし、彼は自分の手でカフカの作品に一部手を入れていたことが後に明らかになり、その後修正版も出ています)
 しかし、そうはいっても彼の作品が評価されるには、その後長い時間を必要としました。1930年代、ヒトラーが政権を獲得するとドイツを中心とする国々ではユダヤ人への差別が本格化します。そのため、ユダヤ人作家の書籍はすべて書店や図書館から取り除かれることになります。当然ユダヤ人であるカフカの作品もその対象となります。そのままだと、彼の作品は発禁されたまま世の中から消えてしまったかもしれません。ところが、そんな彼の作品がフランスの地で注目を集めることになります。

<カフカ・ブームの始まり>
 カフカ・ブームの始まりは、1920年代フランスで活躍したシュルレアリスムの作家たちが彼の作品に注目したことでした。
 シュルレアリスムの中心人物であるアンドレ・ブルトンは、1924年に発表した「シュルレアリスム宣言」の中でこう語っています。

「私の意図は、一部のひとびとのあいだにはびこっている不思議への嫌悪と、彼らが不思議の上にあびせようとしている嘲笑とを糾弾することだったのである。きっぱりいいきろう、不思議は常に美しい、どのような不思議も美しい、それどころか不思議のほかに美しいものはない」

 シュルレアリスムの作家たちにとって、カフカの作品はまさにぴったりの作品だったといえます。当然彼らは、不条理で悪夢のようなドラマ展開をもつカフカの「変身」を高く評価。フランスを中心にカフカのブームが起きることになりました。
 彼が「城」で描いた巨大でありながら無意味な部署ばかりの官僚機構の世界。「審判」で描いた不条理この上ない裁判所の不気味さ。これらは、1950年代以降に世界的な反体制運動を巻き起こすことになる学生たちの思想にも大きな影響を与えることになります。さらに、彼の作品群はその後、文学としてではなく思想として再評価されることにもなり、時代ごとに構造主義によって分析されたり、ポストモダニズムによって分析されるなど、様々な分野において読まれ続けることになりました。
 そして、今でもなお、彼の作品は謎のまま、次なるブームが巻き起こる時を待ち続けているのです。

<追記>2012年4月
 僕は、カフカの書いていることというのは、悪夢の叙述だと思うんですよ。彼の住んでいた世界では、現実の生活と悪夢が結びついていたと思うんです、ある意味では、あの時代にプラハに住む非常に多感なユダヤ人青年ということで、ある種の特別な状況に置かれます。・・・
「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」村上春樹インタビュー集より

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