新たな帝国主義国家の誕生

リアル・アメリカ史

- 1900年~1919年 -
<現在のアメリカの原点となった時代>
 アメリカはかつて帝国主義や植民地支配、海外派兵とは縁遠い国でした。なぜなら、アメリカ建国の歴史はイギリスの植民地支配からの独立戦争から始まっているからです。さらには、アメリカが目指していたのは、農業中心、独立自営農民(ヨーマン)のための国でした。ということは、工業製品を輸出するのではなく、植民地支配をするのでもない「自立した農業国」として国家体制をスタートさせていたわけです。トマス・ジェファーソンが、港町ニューヨークから内陸の街ワシントンへと首都を移したのも、独立農民たちの国であることを重視してのものでした。
 ところが、アメリカは19世紀末の大不況を契機に帝国主義的政策へと舵を切り直し始めます。政治家たちも農民のためではなく大資本を操るニューヨークの企業家たちのための政策を打ち出すようになって行きます。こうしてアメリカの政治は、ウォール街のための政治へ、海外からの富の収奪の方向へと変わることになり、さらには世界最大の格差社会を生み出すことになります。

「西洋が世界の勝利者になったのは、西洋の思想、価値観、宗教が優れていたからではなく、むしろ組織的な暴力をふるうことに優れていたからである。西洋人はこの事実をよく忘れるが、西洋以外の人々はけっして忘れない」
サミュエル・ハンチントン(政治学者)

 アメリカが帝国なのかそうでないのかがわかりにくいのは、その支配力と行動は帝国特有のものでありながら、従来の帝国とは装いが異なるからである。植民地支配を特徴とするヨーロッパの帝国とは明らかに違う道を行っている。植民地主義的な企てを試みることもあるにはあったが、それはたいてい海外への経済進出に付随しており、一部から「門戸開放」帝国と呼ばれる形を取ってきた。つまり、実際の人民や領土を治めるよりも、市場を支配するなどして経済を統治することのほうに関心がある。それでいて、経済的利益や民間投資が脅かされそうになるとたびたび軍事力に物を言わせ、その国をアメリカは別のやり方で支配を進めていて、それを政治学者のチャールマーズ・ジョンソンはいみじくも「軍事基地帝国」と呼んだ。昔の植民地に代わるものが軍事基地というわけである。

<労働運動の時代>
 南北戦争終了後、アメリカは急速に都市化が進みます。そのため、各地の都市には大量の労働者が集まり、その中から労働運動が盛り上がりを見せて行きます。農業社会から工業社会へと移り変わる中で格差社会が誕生しつつありました。
 1877年、アメリカ各地の鉄道労働者がストライキを実施します。その後、そこに他の様々な職種の労働者も加わり、シカゴやセントルイスなどでは都市活動が停止するほどのゼネストに発展してゆきます。それに対し、当時の大統領ラザフォード・B・ヘイズは連邦軍を派遣。100人以上の労働者が殺される事件となりました。しかし、労働運動の勢いは止まらず、1885年鉄道王ジェイ・グールドに対するストライキは新たな労働組合「労働騎士団」の活躍もあって大成功となります。その勢いで、「労働騎士団」の組合員数は1886年には70万人を越えます。
「ヘイマーケット事件」
 1886年5月4日、シカゴのヘイマーケット広場で開かれた労働者の集会で暴動が起き、7名の警官が死亡してしまいます。これに対し、各州の政府は無政府主義者によるテロ行為と批判を強め、労働運動への徹底的な弾圧を開始します。その影響で、事件との関りがなかったはずの非暴力組織「労働騎士団」も徹底的に弾圧を受けることになりました。
 それでも、ウォール街に対する反発は根強く、1892年に結成された社会主義政党の人民党は、その受け皿となって躍進することになりました。党の基本綱領にはこう書かれていました。
「一握りの人間に莫大な富を築いてやるために、何百万人もの苦役の果実が堂々と盗み取られている。しかも、果実を手にした者たちは共和国の精神をないがしろにし、自由を危うくしている。政府による不公平という同じ子宮から、ふたつの大きな階級が生み出されてしまった。浮浪者と百万長者である」

 1892年、人民党は大統領選挙で擁立した候補者が9%近い票を獲得。中西部の5つの州で勝利をおさめました。さらに同じ頃、社会主義に基ずく理想世界を描いた近未来小説「かえりみれば」(1888年発表)は、100万部を越える大ベストセラーとなりました。
 しかし、ここまで盛り上がった労働運動に盛り上がりも、突然終焉を迎えることになります。

<新帝国主義時代の始まり>
 1893年5月5日、アメリカで金融恐慌が起き、そこから5年に及ぶ大不況時代が始まります。この間、400万人以上の労働者が職を失い、失業率は20%を越えました。この状況は、労働運動の盛り上がりにストップをかけただけでなく、それまで植民地政策を否定し、孤立主義を貫いてきたアメリカの政策を転換させることになります。こしてうアメリカによる海外への経済進出による新たな市場の開拓が始まります。そのために1890年ごろから、アメリカは海軍の近代化を進め、その軍事力により1898年にはハワイを併合。ハワイを軍事基地、経済拠点として太平洋、アジアへの進出を本格化させます。

<米西戦争とフィリピン支配の始まり>
 1898年4月25日、アメリカは目の前に位置する島国キューバを植民地支配国による圧制から解放するためと称し、その支配者スペインに宣戦を布告します。そして5月1日にフィリピンのマニラ湾でアメリカ海軍はスペイン艦隊との戦闘を開始。3か月でその戦闘に勝利したアメリカは、その賠償としてスペインから、プエルトリコ、グアム、フィリピンを獲得します。そして植民地からの解放が目的だったはずが、自分たちの植民地を増やし始めます。
 こうした政府の動きに対し、かつてのアメリカ独立戦争時の精神を重視する人々からは反発の声が上がります。アメリカ国内で、アンドリュー・カーネギー、マーク・トウェインらの知識人を中心にアメリカ反帝国主義連盟が結成されますが、彼らの意見が届くことはありませんでした。
 1899年1月23日、スペインからの独立を目指して抵抗を続けていたフィリピンは、スペインのアメリカに対する敗北を機にエミリオ・アギナルドを大統領としてフィリピン共和国を設立します。ところがアメリカ軍は、2月4日にフィリピン人によって22名の兵士が殺害される事件が起きたのをきっかけとしてフィリピンへの報復攻撃を開始します。この時アメリカは、自分たちの言いなりにならない新大統領を政権の座から降ろしたかったため、攻撃を始めたことが後に明らかになります。
 1901年11月、フィラデルフィア・レンジャー紙の特派員はマニラから戦争の模様を下記のように伝えています。
「今フィリピンで起きていることが、戦争のふりをした血の流れない茶番劇だと思ったら大間違いだ。アメリカ兵の仕打ちには容赦がない。男も女も子供も、囚人も捕虜も、反乱分子の活動家も容疑者も、10歳以上の者は根絶やしにするつもりで殺している。フィリピン人はどのみち犬も同然で・・・ごみ溜めに棄てるに限るという考えが蔓延しているからだ。・・・」
 3年半続いた戦争にアメリカ軍はのべ12万6000人の兵士を送り、うち4374人が死亡。それに対し、フィリピンではゲリラ2万人、市民20万人が犠牲になりました。こうして、20世紀の初めにアメリカ帝国の世界進出第一弾が実行され、見事に成功したのでした。
 「20世紀」は「アメリカの世紀」であると同時に「戦争の世紀」と言われますが、アメリカによるフィリピン征服はまさにその象徴といえます。

 1901年9月、ニューヨーク州バッファローで開催されていたパン=アメリカン博覧会の会場でマッキンリー大統領が28歳の無政府主義者レオン・チョルゴッシュに射殺されます。それはアメリカ政府によるフィリピンでの暴虐に怒っての犯行でしたが、その結果、より暴力的な帝国主義者セオドア・ルーズベルトが大統領の座につくという皮肉な結果となります。

<パナマ運河の収奪>
 大統領になったルーズベルトは、現在のパナマに運河を建設し、その権利を自国のものにしようと考え、そのための土地買収をコロンビアに提案します。しかし、みすみす巨額の利益を失うことを知ったコロンビア政府はそれを当然拒否します。そこでアメリカは、その地域で親米派グループに独立のための叛乱を起こさせます。そしてアメリカ海軍を支援に駆け付けさせると、すぐに独立を承認し、アメリカの実質的支配下に置くことに成功します。そして、そこに1914年に完成したパナマ運河の権利を獲得。こうしてアメリカは、太平洋と大西洋を結ぶ最短ルートを支配下に収めたのでした。

<ニカラグア>
 1910年、反アメリカ的な政権だったニカラグアで起きた政治的混乱の中、スメドリー・バトラーが指揮するアメリカ海兵隊が軍事介入し、親米の政権を発足させます。その後、反米的なグループによる叛乱が始まると、海兵隊が中心となり2000人を虐殺。その後も、ニカラグアに多額の資金を投入していた投資銀行ブラウン・ブラザース商会を守るために、進駐を続けます。
 それに対し、1927年アウグスト・サンディーノがゲリラ部隊を率いて、抵抗運動を開始。それに対して再びアメリカは軍隊を投入。独裁者となるアナスタシア・ソモサの政権を誕生させ、サンディーノを逮捕、処刑します。こうして、サンディーノの後継者となる「サンディニスタ」による革命が成功するまで、40年以上に渡りソモサ一族による独裁が続くことになります。

<スメドリー・バトラー少将>
 この時期、米西戦争(1898年)から第一次世界大戦まで、アメリカ軍による海外での戦争を指揮し続けた軍人スメドリー・バトラ―は、自著「戦争はあこぎな商売」で、こう書いています。
「私は33年と4か月、この国の最高の機動力を誇る海兵隊の一員として多忙な軍務に明け暮れた。少尉から少将まで、すべての階級を勤め上げた。そしてその期間のほとんどを、大企業やウォール街、それに銀行家のための高級ボディガードとして働いた。早い話がごろつきと同じ。資本主義のためのギャングである。
 1914年にはアメリカ石油業界の利権を守るため、メキシコの、とくにタンピコの安全確保に手を貸した。ハイチとキューバをまともな場所に変えて、ナショナル・シティ銀行が収益を上げられるようにしてやった。ウォール街の利益のために、中米の共和国を半ダースばかり略奪する片棒を担いだ。ごろつきの仕事はまだ終わらない。1909年にはアメリカ砂糖業界の利権のために、ドミニカ共和国に光をもたらした。中国では、スタンダード・オイル社が思うままにふるまえるよう取り計らった。・・・


 この間の私は裏稼業の連中よろしく、実に美味しいあこぎな商売をやっていた。今にして思えばアル・カポネにだってコツの二、三は教えてやれただろう。あの男はせいぜい三つの地区で稼いだだけだが、私は三つの大陸を相手にやってのけたのだから。」

 1912年、大統領選挙で二人の元大統領セオドア・ルーズベルト、ウィリアム・ハワード・タフトを破ったのは、ニュージャージー州知事のウッドロー・ウィルソンでした。彼は、1907年、プリンストン大学の総長だった当時、こう語っていました。
「門戸を閉ざしている国々は、その扉を叩き壊してでも開国させねばならない・・・。資本家たちによって獲得された利権は、それに反感を抱く国々の主権がその過程で蹂躙されようとも、わが国の使節によって保護されねばならない」
 こうして、人種差別主義者であり、社会主義嫌いのアメリカ第一主義の大統領が誕生。彼によって、それまでのモンロー主義を守って植民地主義を否定していたアメリカが新しいスタイルの帝国主義国家としての道を歩み出すことになります。
「わが国の通商の十全な発展と、正義による外国市場の征服以上に、私が関心を抱いていることはありません」
 アメリカは他国を軍事力によって強引に植民地化するのではなく、正式な通商を通して交流を行いながら、豊かにしてあげようとしていたわけです。彼の示したアメリカの外交方針は、その後21世紀まで基本的に続くことになります。もちろんそれは表向きの看板で、「自由な外国市場の開放」のためにアメリカは様々な形で軍事力を用いることになりますが・・・。
 1914年、ウィルソン大統領はさっそくメキシコに対し正義の征服戦争を始めます。4月14日、ボートでタンピコに向かっていたアメリカ海軍の兵士が許可なく戦闘海域に侵入したとして逮捕されます。その後、兵士は釈放されメキシコ側はアメリカ海軍のヘンリー・メイヨー大将に謝罪します。しかし、アメリカ側はその謝罪を受け入れず、ベラクルスに軍隊を上陸させ150人以上を殺害。7か月にわたりベラクルスの街を占領し、政権のトップにあったウェルタ将軍を引きずり下ろします。そして親米のカランサ将軍を代わりにすえると、メキシコを支配下に収めるようになります。

<第一次世界大戦>
 1914年6月28日、第一次世界大戦が始まります。アメリカは当初、この戦争に中立の立場を取りますが、ヨーロッパで起きた悲惨な戦争の状況はしだいにアメリカにも伝わります。(国民のほとんどは連合国側を支持していました)
 アメリカの社会改革主義者ジョン・ヘインズ・ホームズ牧師はこの戦争についてこう語っています。
「突然、一瞬のうちに、300年分の進歩が坩堝のなかに投げ込まれた。文明は終焉し、蛮行の世となった」
 科学が進歩し生活が豊かになった20世紀を生きる中で、楽観論が大勢をしめ、理想の未来が来ると信じていた人々にとって、それは衝撃的な事件でした。そして、そんな野蛮な戦争にアメリカが参加することもあり得ないと考えられていました。
 労働運動の指導者、ユージン・デプスはこう語っています。
「資本家たちに自分で戦わせ、自分たちの死体を積み重ねさせよ。そうすればやがて、地球上で二度と戦争が起こることはなくなるだろう」

 当時は現代のアメリカ以上に客観的な見方ができるアメリカ人が多かったことから、アメリカは参戦しないまま終わっていた可能性も十分にありました。
 1917年1月22日、アメリカ大統領ウィルソンは、上院議会で演説を行い、そこで平和と未来に関する壮大なビジョンを語りました。彼は、民族自決、海洋の自由、そして複雑な同盟関係のない開かれた世界という、アメリカ的な原理に基づいた「勝利なき平和」を呼びかけました。この演説は大きな拍手を受けることになりました。さすがは自由の国アメリカです!
 ところが、ウィルソンは結局、軍事介入を迫るウォール街からの圧力により宣戦布告を決意します。そして、介入への反対派にこう語り理解を求めました。
「戦争に参加している国の首長としてなら、アメリカ合衆国大統領は平和交渉のテーブルに着くことができますが、中立国の代表に留まる限り、せいぜい『ドアの隙間から大声で叫ぶ』しかできないでしょう」
 要するに、今参戦しないと美味しいところは、みんな他国に持っていかれちゃいますよ、だから最後に兵隊を送って権利を得ておきましょう!ということです。もちろん、この論理は一般大衆には何の関係もないので政府による義勇兵募集に志願してきたのは最初の6週間で100万人の募集に対してわずか7万3千人にとどまりました。そのため、議会は徴兵制を導入することになります。このままでは、国民の理解を得られないと考えた政府は、デンバーの新聞記者ジョージ・クリールをトップとする公的なプロパガンダ組織、広報委員会(CPI)を設置します。CPIはさっそく7万5千人のボランティアにより、全米中の商店街、教会、映画館などでスピーチによる宣伝活動を開始します。彼らは「4分間の男 4 Minute Men」と呼ばれることになり大きな注目を集めることになりました。彼らは単に参戦を支持するスピーチを行うだけでなく、反戦思想を語る者を批判し、彼らの名前を法務省に報告するよう呼びかけました。
 こうした動きに影響されたように全米の新聞社もしだいに軍事介入を支持し始めます。さらにマスコミの一部は、ロシア革命の指導者レーニンやトロツキーはドイツの支持のもとで動いているというデマまで流し、ドイツとソ連を一緒くたにして悪役に仕立て上げようとしました。9・11後にイスラム国家を一緒くたにして悪役に仕立てたとの同じやり方です。こうして、あの9・11同時多発テロ事件後の状況がこうして作り出されました。そして、このやり方はその後アメリカで継続、発展して行くことになります。

「戦争期間中は、人間と手段の動員だけでは不十分で、人々の意見の動員も必要だということが認識されるようになった。人の意見を支配する力は、生活と資産を支配する力と同様、政府の手に渡った。なぜなら、自由な意見が許されることのほうが、それを支配する力が濫用されることよりも大きな危険となったからだ。まとに政府による意見の管理は、大規模近代戦争の、回避不可能で必然的な結果なのである。唯一の問題は、政府はプロパガンダをどの程度密かに実施し、どの程度公然と実施しようとすべきか、である。」
ハロルド・ラスウェル「宣伝技術と欧州大戦」(1927年)より

「ありのままの真実を告げても少しもアピールしないだろう。善かれと思うなら、人々をだますことが必要なのかもしれない。医者や、牧師までもがこのことを認識しており、実行している。平均的知性は驚くほど低い。理性よりも、無意識の衝動や本能によって導くほうがはるかに効果的だ」
米国広告代理店協会会長ジョン・ベンソン(1927年)

 大学での研究や発言も自由を失い「反戦」を主張することで多くの教授たちが職を失うことになりました。前述の政治家ユージン・デプスは、それでも政府への批判を姿勢を貫きます。
「歴史を通して、戦争というものは、征服と掠奪を目的に行われてきた。・・・戦争とは、つまるところそういうものだ。常に支配階級が戦争を宣言し、実際の戦闘は常に被支配階級が行ってきた」

 こうした発言などにより、彼は政府の標的となり、様々な罪で訴えられ、裁判で懲役10年の刑を言い渡されます。しかし、彼はそれに対し、こう陳述します。
「裁判官、数年前私は、自分は生きている者すべてと絆で結ばれていることに気づき、自分は地上で最も卑しい者に等しく卑しいのだと肝に銘じました。そのとき私は、こう述べました。下層階級が存在する限り、私はその一員だ。犯罪分子がいる限り、私はそのひとりだ。牢屋にいる人間がひとりでもいる限り、私はそのひとりだ。牢屋にいる人間がひとりでもいる限り、私は自由ではないと。そして今も同じことを断言します。」

<ロシア革命に対して>
 1917年11月7日、ウラジミール・レーニンとレオン・トロツキーが率いるボリシェビキ党がロシアの政権を掌握し、世界を驚かせました。レーニンは世界中の労働者との共闘によって、共産主義革命を拡大させる構想を発表します。それに対し、アメリカの指導者ウィルソンは、1918年1月8日「14か条の平和原則」を発表し、自由主義諸国の理想を語りました。それは、帝国主義を否定し、民族自決、軍備の縮小、海洋の自由、貿易の自由、国際的平和機関の設立を宣言する内容でした。征服と領土拡大の時代は終わったとする彼の宣言は第三世界の人々を感動させました。それは、当時のソ連が理想に掲げていた「世界革命」の目指すところと大差なかったかもしれません。
 しかし、アメリカ大統領のこの宣言はすぐに絵空事だったことが明らかになります。(オバマ大統領の核兵器廃絶の宣言と同じようなものです)ロシア革命後、反革命勢力がロシア国内で反乱を開始すると、アメリカは他の列強国に遅れをとるまいと、15000人の兵士を送り込んだのです。それはロシアを占領するのではなく、日本などの近隣の国にロシアが進出することを恐れたためでした。当然、そうした政府の判断に批判の声が高まりました。
「14か条のパロディーであり、民主主義、民族自決、統治される者の同意を踏みにじる犯罪行為である」
ロバート・ラフォレット

 理想論としては、アメリカ建国時代の自由と民主主義、民族自決を標ぼうしながらも、アメリカの外交は確実に新たな帝国主義システムの時代へと向かいつつありました。

<パリ講和会議>
 1919年1月12日、第一次世界大戦を終わらせるため、27カ国の代表がパリに集まり、パリ講和会議でヴェルサイユ条約が締結されます。アメリカはヨーロパ諸国に巨額の戦費を貸し付け、多くの兵士を送り込むことで多大な貢献を果たすことなりました。当然、多くの植民地が連合国によって「14か条の平和原則」が実現することを期待しました。
 しかし、アメリカ以外の国は、アジアやアフリカのドイツの植民地を分割して植民地としての統治を継続。名目上、「植民地」という言い方から「委任統治領」という言い方に変えたものの、実質的な違いはありませんでした。アメリカも、それを追認し、身からもアルメニアの委任統治国となります。
 この会議に、当時フランス領だったベトナムから参加したホー・チ・ミンは、独立の承認を求める嘆願書を持ち込みますが、取り上げられることもなく無視されます。彼は、ヨーロッパ諸国に民主主義的な方法で独立を承認させることに限界を感じ、武力闘争を覚悟。ここからベトナム戦争が始まったともいえます。
 それでも、「14か条の平和原則」の中でも重要な項目だった国際的な平和組織の設立については、「国際連盟」が誕生しますが、そこにアメリカは参加しませんでした。(まるでTPPをさんざん進めておきながら、最後になって参加しなかったのにそっくりです)理想は高くアイデアは豊富でありながら、それを現実化できないのが「アメリカン・ウェイ」ってやつかもしれません。

<参考>
「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史 2つの世界大戦と原爆投下(1)」
 2012年
The Untold History of the United States
(著)オリバー・ストーン Oliver Stone、ピーター・カズニック Peter Kuznick
(訳)大田直子、鍛原多恵子、梶山あゆみ、高橋璃子、吉田三知世
早川書房

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