- フリクション Friction -

<パンクに燃える年>
 1977年、ロック界では大いなる変革が起きようとしていました。
「トーキング・ヘッズ・デビュー Talking Heads:77」トーキング・ヘッズ
「勝手にしやがれ!Never Mind The Bullocks」セックス・ピストルズ
「In The City」 ザ・ジャム
「白い暴動 The Clash」 クラッシュ
「My Aim Is True」 エルヴィス・コステロ
「L.A.M.F.」 ジョニー・サンダース&ザ・ハートブレーカーズ
「地獄に堕ちた野郎ども Damned Damned Damned」 ザ・ダムド
「Marquee Moon」 テレヴィジョン
「Blank Generation」 リチャード・ヘル&ザ・ボイドイズ
 上記のアルバムはすべて1977年の作品、そしてそれぞれのアーティストたちにとってのデビュー・アルバムでもあります。この年は、ニューヨーク・パンク、ロンドン・パンクの勢いがいよいよピークを迎えようとしていた時期であり、その後に続くニューウェーブのヒーローたちの多くがこの時期に活動を開始しました。

<パンクに燃える街>
 そんなロック史における激動の年、1977年に日本からニューヨークへ、パンクのエネルギーに憧れて旅立った男がいました。後にフリクションを結成することになるレック(ベース&ヴォーカル)です。彼はなんのあてもなくニューヨークの街に降り立ち、そこで誘われるままティーン・エイジ・ジーザスというバンドに参加します。翌年、ブライアン・イーノのプロデュースにより発売されるニューヨーク・パンクの歴史的アルバム「ノー・ニューヨーク No New York」(1978年)にも登場するこのバンドで彼はベースを担当。

<パンクに燃えた男たち>
 ニューヨークで渦巻いていたパンクの熱気に感激したレックは、3/3というバンドでいっしょに活動していた友人のチコ・ヒゲを手紙で呼び寄せ、1年間ニューヨークで活動した後、東京へと帰ります。それはアーティストとして最高の時でしたが、彼はその興奮を日本に持ち帰ることを決意します。
 ところが、パンクの熱気に包まれたニューヨークの街から日本に戻ったレックは、まったく盛り上がっていない音楽シーンとのギャップに戸惑い、一事は精神的にダウンしかけました。しかし、その時ニューヨークで一緒に活動していたヒゲと再会し再びやる気を取り戻します。さっそく、もうひとりギタリストとしてラピスを加え、バンドを結成、活動を始めます。バンド名はニューヨーク・パンクの代表的バンド、テレビジョンのファースト・アルバムに収められていた曲のタイトルから「フリクション」と名付けられました。「フリクション」=「摩擦、軋轢」というバンド名は、まさにこのバンドの音楽性、イメージを表現するのにピッタリでした。
 1978年4月彼らは初のライブを行います。30分ほどの短い時間であっという間に駆け抜ける彼らの演奏は観客の度肝を抜き、「生のパンク」の衝撃がついに日本にも上陸することになりました。その後、同じ年の11月にラピスが脱退すると、ツネマツ・マサトシ(恒松正敏)がギタリストとして参加します。

<東京ロッカーズ>
 このメンバーでフリクションは新宿ロフトで開催されたイベント・ライブ「Tokyo Rockers '79」に出演します。このイベントは東京のアンダーグラウンド・シーンで活躍し始めていたニュー・ウェーブのバンドたちを一同に集めて開催された企画で、フリクションの他にS-KEN、リザード、ミラーズ、ミスター・カイトの4バンドが出演。この時の録音がアルバム「東京Rockers」として発売されると東京ロッカーズは一躍時代の最先端として注目を集めることになります。そして、それらがバンドの中でも最も熱い支持を得たのがフリクションでした。

<フリクション・デビューへ>
 1980年、フリクションはデビュー・アルバムの録音を行います。プロデューサーは当時YMOのメンバーとして世界的な注目を集めていた坂本龍一とフリクションのメンバー自身。僕は彼らのそのデビュー盤「軋轢」を聴いた時、日本人のバンドには思えませんでした。(実はそれは、録音がこもっていて聞き取りにくく、歌詞も聞き取れないせいでもあったのですが、・・・)その重さとスピード感は完全に日本のロックの枠を飛び越えていたように思います。
 しかし、「軋轢」はけっして彼らにとって満足のゆくできではありませんでした。なんとなく音がこもったような録音は、彼がライブで発散していた巨大なエネルギーを伝えるにはあまりに不十分でした。実際、スタジオ盤の「軋轢」のスピード感は当時の彼らのライブに比べるとスローモーションに過ぎなかったと言われています。(90年代になって、やっと当時のライブ録音がアルバム化されました。この頃のライブを見ておきたかった!)
 しかし、それでもなお「軋轢」は凄いアルバムでした。「軋轢」の凄さは、同じ時期に発表されたイギリス、アメリカのパンク、ニューウェーブのバンドたちの名作と遜色がなかったことからもわかります。
「Entertainment!」 Gang of Four(1979年)
「Specials」 ザ・スペシャルズ The Spacials(1979年)
「20 Jazz Funk Greats」 Throbbing Gristle(1979年)
「Pretenders」 プリテンダーズ Pretenders(1979年)
「Y」 The Pop Group(1979年)
「One Step Beyond」 マッドネス Madness(1979年)
「Broken Engrish」 Marianne Faithful(1979年)
「Killing Joke」 Killing Joke(1980年)
「The Return of the Drutti Column」 Drutti Column(1980年)
「Unbehagen」 Nina Hagen Band(1980年)
「Signing Off」 UB40(1980年)
「Too Much Pressure」 ザ・セレクターThe Selector(1980年)
「哀愁のマンデイ」 The Boomtown Rats(1979年)
「Cut」 The Slits(1980年)
 けっして売れ筋の作品ばかりではなく、どちらかというと前衛的な作品が多いのですが、未だに多くのアーティストたちに影響を与え続けているものばかりです。

<フリクションの変遷>
 「軋轢」によってフリクションの名はいっきに全国区となります。しかし、全国各地をツアーでまわりながら、彼らはニューヨークでのライブで感じた反応と異なる予定調和的な観客の反応に違和感を感じるようになります。結局、年末にはツネマツ・マサトシがバンドから抜け、フリクションは新しいスタイルへと変わることになります。
 レック、ヒゲと女性ヴォーカリストでギタリストのノンの3人
 レック、ヒゲと女性ギタリスト兼キーボード担当の茂木恵美子の3人
 レック、ヒゲと女性ギタリスト、マキの3人
 レック、茂木恵美子とキーボード&パーカッション担当のシュルツ・ハルナの3人
 メンバーが変わり続ける彼らのサウンドは、当時デニス・ヴォーベルによって確立されたダブやPILのアルバム「フラワーズ・オブ・ロマンス」の影響を受けながら変化し続けました。しかし、そのライブは年に数回程度しか行われず、しだいにその存在感は薄れて行きました。
 アルバムも1982年に「SKIN DEEP」を発売してからは、1988年のニューヨーク録音による作品「Replicant Walk」まで空白となり、その間にシュルツ・ハルナ、茂木恵美子、ヒゲが脱退。代わってギターのヒゴ・ヒロシ、キーボードのセリガノ、ドラムスの佐藤稔が参加。さらには1989年にはラピスが復活するなどメンバーはかわり続けます。
 1994年ラピスに代わり、イマイ・アキノブがギタリストとして参加。翌1995年には久々のアルバム「ZONE TRIPPER」を発表。荒削りなスピード感はなくなったのもの、重量感のあるパワフルなサウンドは「軋轢」以上で、フリクションがまったく古くなっていないことを証明してみせました。

<パンク発祥の地にて>
 パンク発祥の地、ニューヨークに渡り、映画「タクシー・ドライバー」でしか知らなかったという危険な街のアンダーグラウンドに潜入したのが1977年のこと。パンクの聖地でもあるライブ・ハウス、CBGBで「お前のサングラス、格好いいじゃないか!」と声をかけられたのがきっかけでティーン・エイジ・ジーザスに参加。気がつくと熱気にあふれたニューヨークのパンク・シーンのど真ん中に立ち「ノー・ニューヨーク」と呼ばれることになる新たなシーンの先駆けとなり、突っ走っていた男、それがレックでした。
 しかし、最高の聴衆と最高の仲間たちと過ごした一年が過ぎ、日本に戻った彼は音楽シーンだけでなく日本とアメリカの本質的な文化の違いに改めて愕然とします。一時は精神的に壊れかけたという彼はバンド活動を再開することで救われたのでした。こうしてフリクション(摩擦もしくは軋轢)が誕生したのです。
 アメリカでの活動と日本での活動のギャップ
 自分がやりたい音楽と聴衆に受け入れられる音楽とのギャップ
 エネルギーにあふれたNYの街と飼い慣らされた東京の街とのギャップ
 彼の頭の中でギリギリと軋み続けたこうしたギャップからくるエネルギーこそが、「フリクション・サウンド」の原点であり、その違和感がある限りフリクションの活動が停止することはないでしょう。再び、フリクションが軋んだ音を発するのはいつか?

<締めのお言葉>
「ニューヨークはきつかった。あそこじゃ人が団結することがない。全部が別々の陣営なんだ。分派というか。ラテン・コミュニティーの中ですらそうだし、黒人の中ですらそうなのさ。今のニューヨークは生き残りの街だ。世界一ヒップで、世界一悲しい街。他のどんな場所や状況よりも、わたしはニューヨークのことを悲しく思う。・・・」

ビル・グレアム-ロックを創った男-」より

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